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徳川家康と幸若舞
今回は、大坂府堺市内で徳川家康が幸若舞を鑑賞した時の話について紹介します。
《「本能寺の変」の前夜に堺で舞われた幸若舞》
1582年5月15日(信長公記) 徳川家康は武田家を滅ぼした恩賞として信長から駿河一国を与えられたことで、武田家を裏切った殊勲者穴山梅雪を連れて安土城御礼訪問をしている。この時の徳川家康に対し5月19日安土城での宴会で幸若舞を鑑賞させるなどの接待をした織田信長の「このたびは、京都・大坂・奈良・堺をごゆっくり見学なさるがよい」との御上意があり、案内者として長谷川竹(秀一)と西尾吉次が添えられました。(信長公記)
◎ 5月21日安土城から徳川家康一行(本多忠勝・酒井忠次・井伊直政・榊原康政・石川数正・服部正成・穴山梅雪ら重臣・小姓の34人)と織田信長の嫡男信忠が上洛(京に入る)。
◎ 5月27日信忠が安土城の森乱丸あてに「我々は堺見物をやめて一両日に (信長の) ご上洛(京に入る)とのことでここでお待ち申します。尚、家康は大坂・堺へ下ります。」と手紙で伝える。
◎ 5月28日家康は大阪に入り、織田信澄・丹羽長秀の接待を受ける。堺の千利休は弟子少庵に対して「信忠殿が堺へ来れなくなったので堺衆は力を落とし茶湯も無駄になり返す返すも残念である、信長は明日上洛(京に入る)する」と伝えている(その後、織田信忠は本能寺の変の時に二条御新造で明智軍に攻められ自害してしまう)。
◎ 5月29日家康一行が船で海路をとって大坂から堺の湊に入ります。
長崎と並んで日本屈指の大貿易都市の堺では、室町期以来、町の世話役たちの合議によって市政が行われていたが、織田信長が上洛(永禄11年(1568年))した時に堺の商人に二万貫の矢銭を支払うよう要求しました。
矢銭とは将兵の乱妨狼藉を逃れるため、寺社などが大名に支払うもので、矢銭を受け取った大名は乱妨禁止の制札を出した。
堺の商人は周辺の防備を固めて抵抗しようとしたが、遂に信長に矢銭二万貫を支払い、松井友閑を堺代官(1575年-1586年)に迎えました。信長はここに代官を置き経済利潤を吸い上げ有史以来初めて堺を支配した人物となります。
堺の代官として派遣されている松井友閑とは、宮内卿法印(正四位下)の官位を当時授かっており、信長主催の茶会では茶頭を務めたほどの人物で、1575年(天正3年)には織田信長の側近として堺の代官に、信長死後も豊臣秀吉から堺の代官に1586年(天正14年)まで任用されています。
「信長公記」の記事には、武田信玄の前で尾張清州の僧天択が織田信長に幸若舞「人間五十年」を初めて指導したのは松井友閑であると紹介しています。(信長公記)
松井友閑は祐筆(秘書)から累進した信長の信頼厚い優秀な吏僚で、正四位下宮内卿法印という家康よりも高い官位を持ち茶道に明るくまた人当たりが柔らかい人物であったので特に見込まれ堺の代官と言う重要な役割を与えられ、また信長側近として堺と私邸のある安土城を頻繁に往復しながら機内一帯の政務を掌握していました。この時友閑は家康一行の為に堺を中心に集結中だった四国征伐軍をわざわざ町から移動させるほどの気の配りようで、家康たちを下にも置かずに持て成しました。友閑は堺土産として家康に欧州や東南アジアの珍品を贈りました。
また、松井友閑が堺商人たちに事前に次々と持ち回りで家康一行を接待せよということを命じていたとおり、津田宗及らが順番に接待役を務めました。今井宗久は家康から服を贈られ、お礼に6月3日に私宅茶会への案内をします(今井宗久茶湯日記書抜)。
晩は、家康一行はこの日の宿泊所となる松井友閑の代官屋敷で歓待されました。紀州の鷺森(さぎのもり)御坊にいる本願寺顕如・如春夫妻からも贈り物が届けられ、振る舞いの座敷で家康に披露されました。本願寺顕如は、織田信長との敵対関係で、武田,浅井,朝倉各氏などの同盟者と連絡をとり,毛利氏の援助を受けて10年の戦(石山合戦)を継続していましたが,天正8(1580)年に天皇の仲介により和睦,紀伊国(和歌山県)鷺森に退去していました。
堺は京と並んで富商、豪商が多く茶の湯の中心地であり接待の多い場所であり、信長に仕えている茶人だけでも津田宗及、今井宗久、千宋易(利休)、長谷川宗仁、山上宋二らがおり、他にも町衆で有力な者たちが家康との親交を持ちたがり、すでにびっしり予定が組まれてしまっていました。鉄砲火薬を扱う商人で茶人の薬屋宗久こと今井宗久と、中国貿易に従事する堺の豪商で茶人の天王寺屋宗及こと津田宗及と、信長の家臣で茶人の松井友閑の三人が、徳川家康の接待に当たりました。
(この年の5月は、29日が末日)
◎ 6月1日(本能寺の変前日)「朝は宗久にて茶湯朝会、昼は宗牛(天王寺屋宗及)にて同断、晩は宮内法印(松井友閑)にて茶湯。其後宴会が開かれ幸若太夫に舞を舞わせた」とあります。
朝はまず今井宗久の屋敷で「茶湯朝会」が行われ、家康・穴山梅雪と長谷川秀一が参加している。
昼は天王寺屋宗久(津田宗久)邸で茶湯がありました。家康・梅雪・長谷川秀一が招かれました。茶湯を振る舞った後宴会になり、その半ばで家康が宗久の接待への謝礼の為、宗久の息子である隼人に糟毛(かすけ)の馬を贈りました。
夜は前夜に続いて友閑邸で茶湯が行われ、その後で宴会があり幸若舞を鑑賞する。この場に長谷川秀一と信忠より案内役として付けられた杉原家次も同席しました。その夜家康一行は堺市中の寺院に宿泊しています。(宇野主水日記)
徳川家康の宿泊寺は堺の妙国寺と思われます。この「妙国寺」のソテツは古くから堺の名木の一つとして知られています。先に、織田信長がこの木を安土城に移植したところ、毎夜「堺へ帰ろう」と泣いたため、ソテツに霊があるのであろうと妙國寺に返したという伝説をもっています。
◎ 6月2日未明、明智の一軍が京に侵入。信長宿所である本能寺を包囲。この変で織田信長が自刃します。その朝、毛利討伐出陣前の信長への挨拶の為家康一行が本能寺に向け堺を出発、枚方の手前まで来たときかねてより入魂(じっこん)であった京の豪商で織田家の呉服の御用商人であった茶屋四郎次郎の早馬にて一報を受け信長自害の事を知らされます。案内役の長谷川秀一は土地勘に乏しい一行の案内を買って出て、河内国から山城国、近江国を経て伊賀国へと抜ける道取りを説明した。伊賀越えで京を脱出し、秀一は安全圏の尾張熱田まで家康一行に同行して逃げ、窮地を脱しました。