徳川家康と幸若舞


「幸若舞の歴史」
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1 はじめに
前回の会報26号(2014年) では、「人間五十年」という題名で織田信長出陣の舞は幸若舞であるという話を書かせていただきました。
2 徳川家康と幸若舞
 今回は、徳川家康を中心に見た幸若舞について紹介します。
《徳川家の歴史記録の中で、幸若舞の太夫の事が初めて出てくるのは…》
○ 1560年桶狭間の戦の後、岡崎城の徳川家康(19歳)は織田信長と同盟します。その後三河一帯を治めた家康は、1570年に遠江の浜松城を拠点と変えます。
○ 1572年の武田信玄との三方ケ原の戦いでは徳川家康(31歳)が大敗します。 
○ 1575年織田・徳川連合軍3万8千人で武田軍に長篠の戦では勝利します。
○ 1578年徳川家康に変わり嫡男信康が、岡崎城主になった頃の三河岡崎にいた徳川家臣松平家忠の「家忠日記」本のこの年5月6日の項には、「岡崎城へ越前幸若太夫越候(こしそうろう)」とあります。これが幸若太夫と徳川家の初めての歴史記録となります。
《幸若舞「満仲」と家康が嫡男信康(岡崎三郎君)を思う涙の逸話》1579
 織田信長は、徳川家康の嫡男に嫁がした徳姫からの文で、徳川家と武田家の通謀を理由に家康に対し妻子(築山殿・徳川信康)の処刑を命じました。この時、徳川家老酒井忠次は、安土城に呼び出され、織田信長から「嫌疑十二条」を示されたにもかかわらず弁明することなく、その内の十条を素直に認めます。家康は、しかたなく二股城主大久保忠世に対し嫡男信康(岡崎三郎君)の監視を命じ幽閉させます。1579年(天正七年)岡崎三郎君こと家康嫡男の信康は、自らの無実を大久保忠世に改めて強く主張しましたが、結局、服部正成の介錯にて21歳の若さで自刃しました。
 歴史書「常山紀談」本の「岡崎三郎君の御事」の中には、徳川家康が幸若舞「満仲」を鑑賞した折の逸話が記録されています。幸若舞「満仲」の曲の内容は、源満仲の子で寺一番の悪童であった美女丸が、忠臣藤原仲光の子幸寿丸の身代により一念発起し、やがては円覚という高僧になっていくという大変劇的な物語の曲となっています。
 家康が幸若太夫の舞「満仲」の曲を家臣たちと共に熱心に鑑賞中の事です。音曲の中では、源満仲が自分の息子である美女丸の殺害を家臣である藤原仲光に命じました。
 命じられた藤原仲光は主君の心境を察して我が子幸寿丸の首を斬り落とします。そしてその首を主君の子美女丸の身代りとして、主君源満仲に差し出します。この場面に音曲が差し掛りました。その時、涙を流しながら幸若舞を鑑賞していた徳川家康は、後ろで同席鑑賞中の酒井忠次と大久保忠世の方に振り返り「おお、二人ともあれを見よ。あれをどう思うぞ」と舞っている幸若太夫の方を指さして言われました。家康のこの言葉に、酒井と大久保の両人は身を震わせて顔を上げられなかったということです。また、後年(関東に入った時に)、酒井忠次(隠居)の嫡男酒井家次は下総・臼井三万七千石しか与えられなかった、井伊直政十二万石、本多忠勝と榊原康政の十万石に比べ少ない事を、酒井忠次が機会をとらえて所領に対する不満を訴え出た折にも、徳川家康は「そちも、子はいとおしく思うのか」ときつい嫌味を交わしたということです。
◎ 天正8年(1580年)閏3月13日自至十一日於下御霊幸若八郎九郎(六代義重)舞之相談月読写了。曽我十番切、次切終。閏三月十五日舞之跡、於下御霊勧進能。(兼見卿記)。織田信長が、天皇に即位させようとしていた誠仁親王が住まいしていた、二条御所で働いていた京都吉田神社の神主吉田兼見の日記からである。


《家康の戦場、高天神城で舞われた幸若舞と首実験》1581
  天正9年(1581年)三月二十一日 織田信長と同盟を結んでいる徳川家康は、武田軍より属城である高天神城を奪い返すために、軍勢に城を取り囲ませております。敵の城中には兵糧も尽きてしまい。いよいよ明日は落城という日の出来事が歴史記録(徳川実紀、常山紀談、東照宮御実紀附録)の中に残っております。家康の元に、城内より、城敵将の武田軍栗田刑部の使いが手紙を持ってきたのであります。「幸若太夫が、御陣中にお供してきていると聞きました。今では城兵の命も今日明日。哀れ願わくば、これを今生の思い出にいたしたく、幸若太夫の舞を一曲所望賜りたいのでございます。」と書かれていました。
 家康は、この願い入れに対し、「望みどうりに、してやればよい。この様な時には幸若舞の中でも、あわれなる曲を」と、幸若太夫に舞を命じております。さっそく敵の城将栗田刑部の丞は、城の櫓に上り、他の城兵全員も塀際に集ってきました。敵の将兵と、それらを取り囲む徳川方の兵らが見守る前で、幸若太夫が出て来ると城の塀近くに寄って行き、幸若舞「高館」が語り舞われました。幸若舞とは、武仕舞を舞いながら、昔の戦物語などを謡い語っていくわけである。この時の舞物語「高館」とは、藤原泰衡の軍勢を迎え討つて、源義経、弁慶らがことごとくに討ち死にしていくという壮絶極まりない様子を語っていく舞曲であります。
 皆の兵らはすすり泣き声が聞こえる中、自らも感涙を流し耳を傾け、幸若太夫の語り舞に聞き入ったのであります。幸若舞「高館」が終了すると、城の中から茜の羽織を着た若武者、敵将の小姓である時田鶴千代が馬に乗って出てきました。そして、紙、織物、指添え等を取り揃えて幸若太夫に渡し、礼を述べたのであります。
 翌朝、城門を開け城兵が打って出たが、皆、体力的にも弱り、結局逆に徳川軍が城内に攻め入り激しい戦いがくりひろげられた。730人の城将が討ち取られ死者で堀が埋まったと言われている。この時に時田鶴千代の首も取られましたが余りにも美しいので「女の首だろ」と人々は疑いました。徳川家康はこれを聞いて「目を開いてみよ。殺されるとき女ならば恐怖で目を背けるので白眼になっているはずだ。」と言いました。そこで開いて見ると黒眼があり、さらに幸若太夫に顔を確認してもらい時田の首だと確定されました (「常山記談」栗田刑部幸若の舞所望の事「附記」時田が首実験の事) 。
 この年の春、幸若八郎九郎浜松城へ出仕御礼以後度々御用(類例略要集の幸若御礼参上の条)
◎ 天正九(1581)年春、幸若太夫は、徳川家康から浜松城に度々呼び出され、家康の面前にて御用されております(類例略要集)。また、同年6月2日幸若小八郎(吉信)宛て「柴田勝家判物」(朝日町誌)
◎ 1582年2月甲斐に侵攻した徳川勢の案内役として武田一族衆筆頭の穴山梅雪がなり、裏切られた武田勝頼は天目山の戦いで自害します。


《織田信長の安土城での幸若舞と能との競演》1582
  天正十年(1582年)五月十五日「信長公記」に、織田信長は、徳川家康の甲州平定の功績として駿河・遠江国を与えている。この時徳川家康は返礼の為に、穴山梅雪を伴って安土城を訪問しております。信長は家康接待の為の御馳走世話役を明智光秀に命じています。また、五月十九日、信長公は、安土城下の惣見寺で、幸若太夫に舞を舞わせてご覧になられました。次の日は「四座(大和四座は結崎(ゆうざき)観世座・外山(とび)宝生座・円満(えま)井(い)金春座・坂戸(さかと)金剛座)の能では珍しくない。丹波猿楽の梅若太夫に能を演じさせ、家康公がこのたび召し連れて参った人々に見せ申して、道中の辛苦を慰め申すように」というご意向でありました。安土御山の惣見寺にては、信長公主催による家康に対する饗応の宴で、幸若舞が行われております。
 この日、お桟敷には、近衛(前久)殿・織田信長公・徳川家康公・穴山梅雪・長安・長雲・夕庵と、松井有閑(信長に幸若舞を指導した元清洲の町人)らが入りました。また、舞台と桟敷との中間の土間であるお芝居には、お小姓衆・お馬回り・お年寄衆、それに家康公のご家臣衆が座りました。幸若太夫のはじめの舞は「大織冠」二番は「田歌」でありました。舞の出来が非常によかったので、信長公のご機嫌はたいへんよろしかった。「お能は翌日に演じさせよう」とおっしゃっていたが、まだ日が高いうちに舞が終わったので、その日梅若太夫が能を演じ申した。しかし、その時の能は不出来であまりにも見苦しかったので、信長公は梅若太夫をひどくお叱りになりました。大変なお腹立ちであったわけです。そこで幸若太夫のいる楽屋へ家臣の菅屋九右衛門・長谷川竹の二人を使者に立てました。
 この時の幸若太夫に対する使者の口上は、かたじけなくも「上意の趣き、能の後に、(武仕舞として格式上の)幸若舞を仕ることは、まことに本式とは言えないのでありますが、殿が御所望しておりますので今一番舞を所望する」というものでありました。武士舞である幸若舞は、猿楽と言われた仮面舞である能に比べると、当時、格式が格段に上であったようであります。
 江戸後期の大名松浦静山の書いた「甲子夜話」によると、江戸城内における年頭(正月)の将軍拝謁御礼席の着座位置は、幸若太夫のほうが、観世太夫よりも二間も上席にあったとの記載があります。また、徳川幕臣の名簿である武鑑の中には、幸若太夫が観世太夫の上席に名を連ねております。
 安土城内では、幸若太夫の二度目の舞「和田酒盛」という曲が舞われ、これも非常に出来がよく舞われていました。信長公のご機嫌もなおり、蘭丸がお使いになって、幸若太夫を御前に召し出され、ご褒美として太夫へ黄金十枚を下されました。これは、当人の名誉であることは言うまでもなく外聞もまことにすばらしく、ありがたく頂戴申し上げたことであります。次に梅若太夫に対しては、能の出来の悪かったことを「けしからん」とお思いになったが、黄金の出し惜しみのようにとられては世間の評判もいかがかとお考え直しになって、右の趣をよくさとされて、その後、梅若太夫にも金子十枚を下された。過分なお取り扱いでかたじけないことであった。と記録されています。この時の能は散々の不首尾で、信長は大いに腹を立て折檻に及んだだけでなく、明智光秀に対しても接待の仕方が悪いと打ち砕くほどの屈辱を与えております。
 これ等が、光秀のそれまでに抱いていた怨念に火をつけ、やがて本能寺の変へと成って行くのであります。


《本能寺の変前夜、家康接待に堺で舞われた幸若舞》1582
  1582年5月15日(信長公記) 徳川家康は武田家を滅ぼした恩賞として信長から駿河一国を与えられたことで、武田家を裏切った殊勲者穴山梅雪を連れて安土城御礼訪問をしている。この時の徳川家康に対し5月19日安土城での宴会で幸若舞を鑑賞させるなどの接待をした織田信長の「このたびは、京都・大坂・奈良・堺をごゆっくり見学なさるがよい」との御上意があり、案内者として長谷川竹(秀一)と西尾吉次が添えられました。(信長公記)
◎ 5月21日安土城から徳川家康一行(本多忠勝・酒井忠次・井伊直政・榊原康政・石川数正・服部正成・穴山梅雪ら重臣・小姓の34人)と織田信長の嫡男信忠が上洛(京に入る)。
◎ 5月27日織田信忠が安土城の森乱丸あてに「我々は堺見物をやめて一両日に (信長の) ご上洛(京に入る)とのことでここでお待ち申します。尚、家康は大坂・堺へ下ります。」と手紙で伝える。
◎ 5月28日家康は大阪に入り、織田信澄・丹羽長秀の接待を受ける。堺の千利休は弟子少庵に対して「信忠殿が堺へ来れなくなったので堺衆は力を落とし茶湯も無駄になり返す返すも残念である、信長は明日上洛(京に入る)する」と伝えている。
◎ 5月29日家康一行が船で海路をとって大坂から堺の湊に入ります。
 長崎と並んで日本屈指の大貿易都市の堺では、室町期以来、町の世話役たちの合議によって市政が行われていたが、織田信長が上洛(永禄11年(1568年))した時に堺の商人に二万貫の矢銭を支払うよう要求しました。
 矢銭とは将兵の乱妨狼藉を逃れるため、寺社などが大名に支払うもので、矢銭を受け取った大名は乱妨禁止の制札を出した。
 堺の商人は周辺の防備を固めて抵抗しようとしたが、遂に信長に矢銭二万貫を支払い、松井友閑を堺代官(1575年-1586年)に迎えました。信長はここに代官を置き経済利潤を吸い上げ有史以来初めて堺を支配した人物となります。
 堺の代官として派遣されている松井友閑とは、宮内卿法印(正四位下)の官位を当時授かっており、信長主催の茶会では茶頭を務めたほどの人物で、1575年(天正3年)には織田信長の側近として堺の代官に、信長死後も豊臣秀吉から堺の代官に1586年(天正14年)まで任用されています。
 「信長公記」の記事には、武田信玄の前で尾張清州の僧天択が織田信長に幸若舞「人間五十年」を初めて指導したのは松井友閑であると紹介しています。(信長公記)
 松井友閑は祐筆(秘書)から累進した信長の信頼厚い優秀な吏僚で、正四位下宮内卿法印という家康よりも高い官位を持ち茶道に明るくまた人当たりが柔らかい人物であったので特に見込まれ堺の代官と言う重要な役割を与えられ、また信長側近として堺と私邸のある安土城を頻繁に往復しながら機内一帯の政務を掌握していました。この時友閑は家康一行の為に堺を中心に集結中だった四国征伐軍をわざわざ町から移動させるほどの気の配りようで、家康たちを下にも置かずに持て成しました。友閑は堺土産として家康に欧州や東南アジアの珍品を贈りました。
 また、松井友閑が堺商人たちに事前に次々と持ち回りで家康一行を接待せよということを命じていたとおり、津田宗及らが順番に接待役を務めました。今井宗久は家康から服を贈られ、お礼に6月3日に私宅茶会への案内をします(今井宗久茶湯日記書抜)。
 晩は、家康一行はこの日の宿泊所となる松井友閑の代官屋敷で歓待されました。紀州の鷺森(さぎのもり)御坊にいる本願寺顕如・如春夫妻からも贈り物が届けられ、振る舞いの座敷で家康に披露されました。本願寺顕如は、織田信長との敵対関係で、武田,浅井,朝倉各氏などの同盟者と連絡をとり,毛利氏の援助を受けて10年の戦(石山合戦)を継続していましたが,天正8(1580)年に天皇の仲介により和睦,紀伊国(和歌山県)鷺森に退去していました。
 堺は京と並んで富商、豪商が多く茶の湯の中心地であり接待の多い場所であり、信長に仕えている茶人だけでも津田宗及、今井宗久、千宋易(利休)、長谷川宗仁、山上宋二らがおり、他にも町衆で有力な者たちが家康との親交を持ちたがり、すでにびっしり予定が組まれてしまっていました。鉄砲火薬を扱う商人で茶人の薬屋宗久こと今井宗久と、中国貿易に従事する堺の豪商で茶人の天王寺屋宗及こと津田宗及と、信長の家臣で茶人の松井友閑の三人が、徳川家康の接待に当たりました。
(この年の5月は、29日が末日)
◎ 6月1日(本能寺の変前日)「朝は宗久にて茶湯朝会、昼は宗牛(天王寺屋宗及)にて同断、晩は宮内法印(松井友閑)にて茶湯。其後宴会が開かれ幸若太夫に舞を舞わせた」とあります。「宗及他会記」「宇野主水日記」
 朝はまず今井宗久の屋敷で「茶湯朝会」が行われ、家康・穴山梅雪と長谷川秀一が参加している。
昼は天王寺屋宗久(津田宗久)邸で茶湯がありました。家康・梅雪・長谷川秀一が招かれました。茶湯を振る舞った後宴会になり、その半ばで家康が宗久の接待への謝礼の為、宗久の息子である隼人に糟毛(かすけ)の馬を贈りました。
 夜は前夜に続いて友閑邸で茶湯が行われ、そのあと宴会があり幸若舞を鑑賞する。この場に長谷川秀一と信忠より案内役として付けられた杉原家次も同席しました。その夜家康一行は堺市中の寺院に宿泊しています。(宇野主水日記) 
 徳川家康の宿泊寺は堺の妙国寺と思われます。この「妙国寺」のソテツは古くから堺の名木の一つとして知られています。先に、織田信長がこの木を安土城に移植したところ、毎夜「堺へ帰ろう」と泣いたため、ソテツに霊があるのであろうと妙國寺に返したという伝説をもっています。
◎ 6月2日未明、明智の一軍が京に侵入。信長宿所である本能寺を包囲。この変で織田信長が自刃します。その朝、毛利討伐出陣前の信長への挨拶の為家康一行が本能寺に向け堺を出発、枚方の手前まで来たときかねてより入魂(じっこん)であった京の豪商で織田家の呉服の御用商人であった茶屋四郎次郎の早馬にて一報を受け信長自害の事を知らされます。案内役の長谷川秀一は土地勘に乏しい一行の案内を買って出て、河内国から山城国、近江国を経て伊賀国へと抜ける道取りを説明した。伊賀越えで京を脱出し、秀一は安全圏の尾張熱田まで家康一行に同行して逃げ、窮地を脱しました。
◎ 1583年(天正十一年)4月賤ヶ岳の戦で羽柴秀吉に敗れた柴田勝家とお市の方が自害した 越前(福井市)北ノ庄城には、丹羽長秀が入りました。織田信長により幸若太夫に認められた越前の幸若在所(天正二年幸若領知行領地の「織田信長朱印状」)は、翌5月27日付の「丹羽長秀諸役免許状」により守護不入地と確認されました(福井県朝日町史)
◎ 1583年(天正11年)8月8日幸若領として「丹羽越前守長秀知行宛行状」から三百石。(朝日町誌)。さらに同年8月21日「幸若小八郎大夫(吉信)へ丹羽長秀知行宛行状」(朝日町誌)。
◎ 1585年徳川家康(44歳)は駿府に築城し、翌年駿府城に入城します。
◎ 1585年(天正13年)6月11日「幸若八郎九郎へ丹羽長秀(長重)知行宛行状」(朝日町誌)。
◎ 毛谷村六助実記(国立国会図書館)幸若太夫舞の事では、「…天正十三年 (1585年)越前の幸若太夫芸州(広島県)にくだり吉田の郡山八幡宮の神前に於いて八月九日より七日の間□めの□幸若の舞曲興行せられける…」とある。
◎ 1588年(天正16年) 毛利輝元公の上洛日記「天正日記」7月27日「巳刻に森勘八殿へ御招請・・舞有之大織冠一番幸若小八郎(五代吉信)に御太刀一振り布五百疋同座の衆へ千疋宛被遣候。8月14日「午末刻に近江中納言殿へ茶湯に御出候舞有之幸若ノ太夫へ御太刀折紙被遣候」。8月25日末刻幸若八郎九郎弟子参候て舞一のし申し候。


《豊臣秀吉の小田原征伐で舞われた幸若舞》1590
  1590年豊臣秀吉は小田原征伐に自ら出陣し途中秀吉の軍勢が駿府の城に入り、徳川家康の接待を受けます。この関東攻めで長期戦を覚悟していた秀吉は、小田原西郊外に築いた城に側室の淀君を呼び、本阿弥光悦、千利休、幸若太夫を招き、戦いの合間に遊興を催しました。この年、徳川家康は、豊臣秀吉により駿府から関東への国替えを命ぜられました。
◎ 1592年山科言經の日記「言經日記」本では、3月5日の項に「江戸大納言殿(徳川家康)罷向了…夕食後幸若三人参り舞う。その舞は新曲夜討曽我等が舞われ戌の刻(午後八時ごろ)に幸若太夫が帰った
」と記録されている。

《豊臣秀吉、幸若大夫に手柄話の作曲を命じる》1594
 豊臣秀吉は自分の手柄話を題材に作曲するよう、幸若大夫(小八郎五代吉信)家と能の金春流に命じた。金春流は五曲(「明智退治」「吉野詣」など)、幸若家は三曲(「三木」「本能寺」「金配」)創作している。
 秀吉公は、幸若八郎九郎の音曲については「一かいもある梅の古木所々に花咲き言葉妙なる風情也」と褒め、また、幸若小八郎の音曲については「大木の柳庭中へ、しだれ少しも閊える処なく縦横自在の妙曲也」と褒め、名人小八郎(六代安信)も天下に名声を上げた・・先に述べた四十番の音曲の外「三木」「本能寺「金配」の三曲を関白秀吉公の命によって名人小八郎吉音(小八郎五代吉信)は、忠右衛門と同弥助の三人で相談し、節を付けた。 (幸若家文書)
 「三木」は、天正八年(1580)の別所長治との戦いを題材にした物語である。「本能寺」は天正十年(1582)の本能寺の変を扱ったもので、曲名を「本応寺」とする舞の本も伝わっている。(古典研究会一九七三・笹野一九四三)。
 「金配」は秀吉が金五千枚・銀三万枚を諸侯に配ったと言う(「太閤記卷七」や「言経卿記天正十七年九月十四日条」)の記述を題材とする物語と考えられるが現存しない。
 秀吉の金配りは「御湯殿の上の日記」等の諸史料によれば天正十七年(1589)五月二十日のことで、聚楽第の前、中二町の間に金銀を敷き並べ目も眩めく中で六宮智仁親王・織田信雄以下の人々に三十七万五千余両の金銀を配ったといういかにも秀吉らしい話である。
 これら三曲の成立年代について、須田悦生氏は文禄三年(1594)に比定している(須田一九八七)。幸若小八郎吉音とは、小八郎家五代吉信のことで名人呉竹と呼ばれた。
◎ 1594年(文禄三年) 10月大29日、江戸亜相(家康)へ冷同道罷向対顔了、碁・将棋有之、見物了、舞之太夫高(幸)若一、以上五人来了、舞二番(イフキヲロシカマタリ)等有之、聞了、次夕食有之、相伴衆三十四人有之、酉下刻ニ帰宅了(言経卿記)
 この年これ以外にも11月1日にも幸若舞を鑑賞していた旨がかかれている。(言経卿記)
◎ 1595年(文禄四年)9月15日豊臣秀吉から幸若領として三百石を賜る。「豊臣秀吉朱印状」

《貴族山科言経(ときつね)『言経卿記』の幸若舞》1597
  1597年 (慶長二年)正月十五日次黄門(秀忠)へ罷向了、内府(家康)へ御出也云々、次内府へ罷向了、対顔了、カウ若舞有之、半ニ罷向、胎内探也、次常ノ座敷ニテ暫雑談了、次薪ノ間ニテ鶴ノ料理、内府自身之拵也、相伴衆、内府・同黄門・予・冷泉・冨田左近将監(知信)其外大勢有之、
 (次に秀忠の所に行った。家康の所に行ったと言われた。次に家康の所に行った。会った。幸若舞をしていた。舞は半分進んだところだった。胎内探であった。次の常の間で暫く色々話した。次に薪の間で鶴の料理が出た。家康が自ら用意した。鶴の料理を共にしたのは、家康・秀忠・私(言経)・冷泉為満・冨田知信、その他大勢である)
 貴族の山科言経(やましなときつね)が残した『言経卿記』には徳川家康のことがよく書かれている。家康は、秀吉没後に天皇から勅許をもぎとられた言経に公卿の地位、所領を取り戻してやっている。言経は、家康の所によく通い、家康と「雑談」をした。そのため、『言経卿記』には政治や戦とは関係ない、徳川家康の日常の姿が度々垣間見える。家康は好きな「幸若舞」を何度も楽しんでおり、正月で客人も多く来ているから、張り切って鶴の料理でもてなしている。
 十五日、山科言経は冷泉為満とともに伏見へ向かう。家康はここでまた幸若舞を見ている。能は付き合いで演じたり見たりしているが、自分で楽しんで鑑賞するのは幸若舞の方だったようである。


《藤堂高虎邸武器を持って防御に当たる幸若太夫》
  1598年7月28日太閤検地で越前の幸若領地の内、小八郎領地加増し345石の「豊臣秀吉朱印状」を発給(朝日町誌)。同8月豊臣秀吉は朝鮮征伐策の途中で亡くなります。
 徳川家康は、豊臣政権の「五大老」の一人として大坂あるいは、秀吉の遺言により伏見に居ることが多く、江戸城の秀忠に関東の支配を任せていました。幸若八郎九郎、幸若小八郎、幸若弥次郎の三人の太夫は、徳川家康に随行して山城国伏見に滞在していました。豊臣家臣団は、国内で行政に当たった文治派の石田三成等と、朝鮮出兵で奮闘しなから冷遇された武断派の藤堂高虎等に分裂し、藤堂高虎は徳川家康に接近します。
 1599年3月徳川家康(58歳)が病気の前田利家を大坂邸に見舞う為に出向いた際、石田三成等が徳川家康を襲撃するとの噂があり、徳川家康は信頼する藤堂高虎に万事を任せることにしました。この噂を聞きつけた幸若太夫三人は直ちに武器を手に取り家康がかくまわれた藤堂高虎の館に駆けつけ防御に当たります。これを見ていた同輩の全阿弥が事実をつぶさに家康に告げたところ家康は大いに喜んだと幸若桃井家の記録にあります。藤堂高虎邸は厳重に警護され、それを知った石田三成等は襲撃を諦めました。


《関ヶ原の戦の年の幸若舞》1600年
 1600年の関ヶ原の戦いが済んでの事です。徳川家康は、関ヶ原の戦いで秀忠が遅参した折に嫡男信康(岡崎三郎君)の死を痛く悲しんだことを思い出し、「信康が生きていればこんな思いをしなくて済んだものを」と周辺に漏らしました(東照宮実記)。関ヶ原の戦が起こった9月15日は奇しくも信康の21年目の命日でした。
 九月十八日に家康が近江にまで来ていると聞いていたからか、廿日に大津城に着いた家康の所に冷泉為満と山科言緒が出向いている。そして、廿四日には秀忠が伏見へ来る。家康は大坂へ向かった。『言経卿記』
 十一月大、十三日、癸丑、天晴、巳刻ニ冷同道大坂西ノマル内府(家康)ヘ罷向了、予饅頭一包、折ニ入レ、冷ハ蜜柑等進上了、種々雑談共有之、申下刻ニ帰宅了、内府御内村越茂介(直吉)ヘ生鯛二ツ遣了、近江國稲垂村知行分事折帋所望、則到来了、
 十四日、甲寅、天晴、内府(家康)ヘ冷同道罷向了、雑談了、次幸若九人同被罷向了、舞有之、安宅景清十番切等有之、次奥之座敷ニテ種々雑談了、草子共・手本共等御見せ有之・次夕食相伴了、戊(戌)下刻ニ帰宅了、『言経卿記』
 (翌月の十三日に大坂に向かい、言経は饅頭、為満は蜜柑を家康に進上している。言経はその日のうちに京に帰ったが、為満は翌日も家康の所に行って幸若舞を見ている。こうも続くということは、家康の「幸若舞好き」はよほどと思われる。
◎ 1601年9月29日幸若小八郎太夫には345石の「結城秀康黒印状」が交付されています。結城秀康は、徳川家康の二男で子供の時に秀吉に人質に出され関ヶ原の後、越前(福井市)北ノ庄の67万石の城主になります。


《家康徳川幕府を開いた時の幸若舞》1603年
  1603年(慶長八年)に徳川家康(62歳)は征夷大将軍となり徳川幕府を開きます。 
家康の参内のために三月も山科言経は忙しい。参内が終わった後、家康は二条城で能を上演させている。『言経卿記』
 参内の後の能はこの後、恒例化していくこととなる。秀吉もよく能を楽しんでいたが、参内の後に上演させていたのだろう。関ケ原の後までは家康が楽しむのは幸若舞の方であった。宮中でも度々能が上演されているように、この当時、能を催す事は支配者としての義務というか、ステイタスと化している。家康の好みが変わったのではなく、征夷大将軍という立場が変わってしまったが故の能の上演固定化であろう。

1605年幸若太夫幕府音曲役となる・女院(天皇の母新上東門院)の御所で幸若舞

◎ 慶長十年1605年幸若太夫は徳川家康に召し出され「幕府音曲役」を仰せつけられる(角川日本地名大辞典、越前編)。この年、徳川家康は将軍(征夷大将軍)の座を息子秀忠にゆずる。1607年駿府城が完成、伏見より移り隠居、駿府での大御所政治の始まりです。
◎ 慶長十年1605年10月2日芸能好きで有名な女院(後陽成天皇の生母、勧修寺家出身晴子、新上東門院(1553-1620年))より、明日こうわか舞参候間可参候由廻文有之(言経卿記)。10月4日女院の御所にて舞あり、香(幸)若が子、兄弟十四歳と十歳と奇妙(めずらしい)也、露払いと後祝言、夢大庭が合る事あり、中は八島鞍馬出勧進帳腰越・土佐正尊(堀川夜討)以上巳刻初末に果、少納言局にて各食あり(時慶卿記)。女院へ舞各々参了予早出了(言経卿記)。女院参、香(幸)若太夫舞有之、入夜退出(慶長日件録)。
 1608年幸若弥次郎太夫は徳川幕府から部屋住まいにて江戸城に召し出されます(朝日町史)。

《幸若太夫の従者が越前への逃亡事件を起こす》1610
  1610年頃幸若八郎九郎太夫である義門と義正の親子は、駿府の徳川家康の元に施行し大御所の御意に入って長勤となりました。幸若八郎九郎太夫が越前から召し連れた槍持ちの甚助や、若党または下人の与兵衛・太兵衛・彦衛門の四人が、余りの長勤に耐えられず、家族の待つ越前に逃げ帰ってしまうという事件が起きました。 
 これを聞いた家康は本多上野介に命じ、越前城主の結城秀康の家臣本多伊豆守ら三人を召し取りの為、派遣しました。越前に逃走した四人全員が捕まりましたが、幸若太夫は家康へ彼らの助命を乞い、子々孫々に至るまで彼らへの永代の証文をとり彼らを譜代(永代下僕(奉公))としています。
 江戸時代には、将軍に御目見えできるのは、大名か三百石以上の旗本となっており、戦の折や登城する時には馬に乗り槍持ちをお供に付けなければなりません。幸若太夫の三家もそれぞれが、徳川幕府から三百石の直参御本丸旗本同格若年寄御支配という身分を得て越前に幸若領(幕府直轄地)一千百九十石を得ていました。
◎ 1611年「駿府記」本12月12日の項に、駿府の大御所の元に「今夜幸若弥次郎太夫召し出され舞曲有り」とあります。

《毛利輝元が家臣の子を舞の修行者として越前に派遣》1612
 慶長十七年(1612) 毛利輝元(1553-1625)・秀就は、幸若舞の相伝を受けさせるため、御伽衆である奈良松友喜の子の善吉と善三郎の二人を越前の幸若大夫小八郎家に出張を命じ、修行させている。
 毛利家の修行者二人は、数年間にわたり幸若舞を習った後、帰国している。
教示した幸若小八郎大夫は、毛利家家臣の奈良松家に「幸」の一字を免許し、幸坂家を名乗ることを許している。この時に持ち帰られた幸若舞教本が、山口県の毛利博物館に保存されている。これが「毛利家本」といわれるもので、近世初頭、名人を称せられた幸若小八郎大夫六代安信自署の証本を含むものである。
 毛利家本の成立の背景には、毛利元就以来、吉就にいたる六代百数十年にわたる舞曲愛好の伝統があったからであり、山口県に持ち帰られた幸若舞曲本のうち十七冊が完全な姿で今に伝えられていることは、まさに貴重な存在である。(「幸若舞曲毛利家本の成立」庵逧巌)

◎ 1613年「駿府記」本5月6日の項に、「幸若八郎九郎を御前にお召しになり、家康公を始め廣橋大納言、西園寺同中将、松本・滋野井少納言等の所望により祝一口、および大織冠入鹿等を舞う。」とあります。


《家康と幸若舞「堀河夜討」三人の法師武者との逸話1614
 1614年「駿府記」本には、4月朔日「幸若の舞曲有り」。同年6月朔日「早朝幸若太夫による舞曲を観賞」。同年9月15日「幸若小八郎太夫が江戸参府に従う。於いて御前で烏帽子折を舞う。」とあります。また、同年10月10日「幸若舞御覧ぜられ。その徒に銀時服下されて。帰国のいとま給う」(徳川実紀)。
  1614年10月11日家康は軍勢を率いて駿府を出発。11月徳川家と豊臣家との戦である「大坂冬の陣」の始まりです。
 これは徳川家康(73歳)が1614年大坂城攻めした時の出来事です。将兵の疲れを心配した家康は、大坂までの行軍の途中「全員に具足を付けさせるな」と命じ、将兵らの行軍が大坂に近づいたところで全員に具足の着用を命じました。
 この時、陣中に供していた金地院崇伝ら二人の僧と、丸坊主頭の儒学者林羅山までもが人並みに鎧を着て徳川家康の前に現れました。
 どう考えても戦闘に参加しないこの坊主頭の方々が、命令を守り人並みに甲冑を着込んだ姿に、家康は周りの者達に、苦笑いしながらこんな言葉をかけた「我が陣にも三人の法師武者があるわい」 
 これは幸若舞「堀川夜討」(源頼朝が京の義經を謀殺しようと土佐坊正尊を派遣した事件)の一節、「我らが手に三人の法師武者がある」から取ったもので、この言葉に家康の陣の者たち、大いに笑いに包まれたということが「徳川実記」の中に記録されています。


1615年江戸幕府二代将軍徳川秀忠と幸若舞》
 「台徳院殿御実記」卷三九の元和元(1615)年7月5日の条に、「二条にて(中略)幸若舞御覧じ給ふ。烏帽子折和田酒盛俊覚」と、幸若大夫が将軍の京都上洛に際して随従し幸若舞を上演したことがわかる。
 また、「徳川実記」では、元和二(1616)年の記事として正月三が日の儀式の次第と用いられた御殿について詳細に記録されている。
  ○ 元旦 ○大広間
   将軍(下段間)出御。次の間との間の襖を老中が開く。
  次の間には譜代大小名・諸番頭・近習・三千石以上の
  外様・法印と法眼の医師、扈従(こしょう)人等、拝謁。
   将軍、上段に着座。盃。
   松平和泉守家乗、松平主殿頭忠利、松平伊豆守信吉
  を始め初太夫法印と法眼の医師等迄、御流・時服頂戴。
   板縁で幸若・観世等、御流頂戴。
   将軍、入御。
 さらに、幸若庄兵衛家八代長明の「長明書留」では、「秀吉公が居られた御時世の頃は小八郎吉音(五代吉信)が「名人」の号を頂き天下にその名を発せられましたが・(中略)・将軍秀忠公は安信(小八郎六代)の音曲を特段愛好し、自らも御稽古あそばされ「幸若小八郎の音曲は天下の音曲技を並べても右に出るものはないであろう」と仰せにより「二代名人」号を頂いた時分は脇連れとして甥の少兵衛正信のほか弥助の子で喜之助三信との三人で勤めていました。」と書き残されている。

1616年徳川家康は75歳でこの世を去る。》
  幸若太夫家(弥次郎家・八郎九郎家・小八郎家等)は幕府音曲役として、家康の死後も徳川代々の将軍に仕え、江戸初期の大奥でお江の方(二代将軍秀忠の妻)が幸若舞を鑑賞(寛永2年1625年1月9日)等、徳川幕臣として庶民の前に出ることなく、格式を重んじすぎために徳川幕府崩壊とともに幕臣を解かれ、織田信長が舞った越前(福井県)の幸若舞は完全に消滅し、現在では幻の舞(芸能)となってしまいました。


「幸若舞の歴史」


「幸若舞[年表]と徳川家康、織田信長等」

幸若舞曲(幸若太夫が舞い語った物語の内容)一覧を下記(舞本写真をクリック)のリンク先で紹介中!
幸若舞曲本 - 小.jpg 越前幸若舞
桃井直常(太平記の武将)1307-1367

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