【幸若舞曲一覧(リンク先)】
1 幸若舞は、悪星を踏み破って吉を呼び込む舞であると思われる。
舞の中で足を踏み鳴らす行為は陰陽道の道教思想の呪術行為である返閇と言われるもので。大地を踏みしめ地霊を鎮め邪霊を退散させ祓い祝う舞であることから、幸若太夫家は時代時代の権力者に求められ仕えてきたのである。
2 徳川幕府に仕えた幸若三家以外にも江戸時代初頭には多くの大名たちが、幸若一族の太夫を召抱て知行や扶持を与えている。
越前の幸若太夫家一族では、多い時代で10数家の幸若太夫家が存在していた。
一族の長老である幸若庄兵衛正利(1548-1626)は、隠居後に幸若一族の若童たちを集めて一人前の幸若太夫に仕上げるために朝昼晩の三回に分けて幸若舞を指南している。(幸若家の記録)
幸若庄太夫長明(1641-1707)が書いた「幸若系図之事」からみると、徳川将軍家以外にも各大名が幸若太夫を召抱えていたようである。
特に有名なのは徳川幕府に直接仕えた幸若弥次郎家、幸若八郎九郎家、幸若小八郎家、幸若五郎右衛門家等であるが、それら以外でも
◎ 幸若伊右衛門(-1637幸若六代教信)・幸若彦右衛門宗信(幸若六代正信の子)が越前藩主松平忠直・忠昌に仕えている。
◎ 幸若庄太夫が備中松山藩主水谷勝隆に仕えている。
◎ 幸若小兵衛正信(幸若六代)とその子幸若庄左衛門長氏(幸若七代)が紀州藩主徳川頼宣に仕えている。
◎ 幸若九郎左衛門(-1672幸若八代)・幸若六兵衛(八郎九郎義門の孫)が水戸藩に150石で仕えている(寛文九年(1669)の寛文規式帳)、越前町天王寺の実相寺には同坂田家の墓がある。
◎ 幸若庄兵衛家は駿河徳川氏駿府藩藩主 (1624-1632)徳川忠長に仕えた。
◎ 幸若九左衛門とその子幸若小四郎が加賀藩主前田利常に仕えている。(山本吉左右氏「17世紀の越前幸若家」)
また、加賀藩の文書に、第二代藩主前田利常に仕えた幸若九左衛門・幸若小四郎の父子の記事がある。
◎ 藤田安勝記の微妙公夜話では、「(第二代藩主前田)利常が毎宵その寝室に入るとき、幸若九左衛門・幸若小四郎の父子は次室の縁側に於いて一曲を奏し退出するを常とせしが、その曲目に就いては、古市孫三郎等夜詰の間に之を利常に問ひ、利常も亦時に自らこれを謡ひしことあり」
◎ 山本基庸の夜話録には、「夜詰終り幸若幸若小(九)左衛門も退出したる後寝室に召されたることありといえる」。
◎ 毛利詮益の拾纂名言記には、「夜詰終りて何れも退出したる後、利常の就寝するまでの間に幸若九左衛門舞曲を奏するを常としたりしが、万治元年(1658)10月11日例の如く幸若九左衛門がその勤務を了して家に帰りたる後、候が急に病を発して薨じたることを述べたり」。
是に因りて観れば、前田利常はその一生を通じて幸若の愛好者たりしなり。と記している。
さらに、島原藩の文書には、大名松平忠利公(島原藩深溝松平家初代)は、 寛永4年(1627)に大坂守衛を命ぜられ在勤する。その間、畿内の芸能者と接客し閑日なし。長谷川宗甫(連歌)狩野采女(絵画)池坊徳斎(生花)観世伊兵衛(能楽)幸若喜之助(舞)《 幸若小八郎六代安信の二男安清》らと交わる。大坂を去るとき、諸人みな別れを惜しむと、記録されている。
3 服部幸造著「幸若太夫の来歴」の中では幸若太夫や幸若一族以外の他の舞太夫でも、次のようなことが書かれている。
戦国時代の武将が舞々・舞太夫を側近くに置いていたことはよく知られている。
たとえば小田原北条氏との関係で、舞々天十郎太夫は民間宗教者達を支配下に置くことを認められ、「北条氏のもとに来客の節は天十郎だけが座の者一人を召し連れて接客にあたるべし」という規定があり、北条氏が首実検の用意に来客の顔を覚えさせていたのではとか、実質的にも精神的にも新興都市に入ってくるケガレと都市内から生じる穢れを清め、祓い祝うことが必要になり舞々太夫に託されたのではないか。
また、他にいくつかの例を見てみると、
◎1575年備中国守護三村元親が毛利・小早川両氏との戦いで滅亡していくとき戦いに敗れた主家・主君を見捨ててゆく一族や家来たちが多くいる中、最後まで主君に従い主君の命を受けて「舞の弥助」が敵側に連絡に出かけ殺されている。
◎1573年近江小谷城の浅井長政は織田信長に滅ぼされた折、長政の父下野守久政の自害時に介錯したのは舞の鶴松太夫であった。
◎1583年北ノ庄城に籠った柴田勝家は自害する時籠城する者たちに廻文を送っているが、その時舞々の若太夫が勝家に殉じている。
◎越前の朝倉義景は一乗谷に火を放ち大野まで逃げて一族の者の裏切りに遭い自害することとなるが、その時に幸若八郎九郎家の者も死んだというのである。すなわち、1698年に、幸若八郎九郎直良太夫が徳川幕府若年寄りに提出した由緒書きの中に「私先祖茂於城中三男父子共に打死仕候」とある。
主家の滅亡に際して殉じて死んでいく舞々太夫の話が色々と出てくる。このように舞太夫は主君の側近くに仕え最期を共にすることをも辞さないという点で武士に等しい忠義心がみられるわけである。