【幸若舞曲一覧(リンク先)】
徳川家康(徳川幕府)に仕えた幸若太夫は、一番の幸若弥次郎、弐番の幸若八郎九郎、三番の幸若小八郎が、一番二番三番代わる代わる交代で江戸城での任務に就いている。それぞれの幸若太夫が大抵寅卯辰の年代わりの4月に越前から江戸に行き翌年の5月に越前に帰国している。
越前の幸若太夫家の一族には多い時には10数家の幸若太夫家があり、徳川幕府以外の地方の大名家でも幸若舞が行われていた。
山本吉左右氏が書いた「17世紀の越前幸若家」からみると、徳川将軍家以外では幸若九左衛門・幸若小四郎が加賀藩主前田利常に仕えてる。幸若伊右衛門・幸若彦右衛門宗信が越前松平忠直・忠昌に仕えている。幸若庄太夫が備中松山藩主水谷勝隆に仕えている。幸若小兵衛正信・幸若庄左衛門長氏が紀州徳川頼宣に仕えている。幸若九郎左衛門・幸若六兵衛が水戸藩に仕えているようである。
ここで加賀藩の文書に見てみると、《藤田安勝記の微妙公夜話では、「第二代藩主前田利常が毎宵その寝室に入るとき、幸若九左衛門・幸若小四郎の父子は次室の縁側に於いて一曲を奏し退出するを常とせしが、その曲目に就いては、古市孫三郎等夜詰の間に之を利常に問ひ、利常も亦時に自らこれを謡ひしことあり」と記し、また山本基庸の夜話録には、「夜詰終り幸若幸若小(九)左衛門も退出したる後寝室に召されたることありといえる」。毛利詮益の拾纂名言記には、「夜詰終りて何れも退出したる後、利常の就寝するまでの間に幸若九左衛門舞曲を奏するを常としたりしが、万治元年(1658)10月11日例の如く幸若九左衛門がその勤務を了して家に帰りたる後、候が急に病を発して薨じたることを述べたり」。是に因りて観れば、前田利長はその一生を通じて幸若の愛好者たりしなり。》と書かれてある。