大職冠(要約版)

【幸若舞曲一覧(リンク先)】
《内容概略》
【1 大職冠の言われと繁栄】
 それ我が朝と申すは、天津児屋根命(あまつこやねのみこと)の天の岩戸を押し開き、照る日の光もろともに、春日の宮と現れて、国家を守り給ふなり。さればにや、かすがを春の日と書く事は、夏の日は極熱す。秋の日は短く、冬の日は寒し。春の日はのどかにして、よく万物を成長す。四季にことさらすぐれ、明日 (明るく曇りのない日) なるによりつつ、春の日と書き奉りて、春日と名付けたり。
 かの宮の氏子は、藤原氏におはします。藤原のその中に、大織冠と申すは、鎌足の臣の御事なり。始めは、文章生(大学で紀伝道を学ぶ学生)にて御座ありしが、入鹿の臣を平らげ、大職冠になされさせ給ふ。
 そもこの官と申すは上代に例なし。さて末代にありがたき、目出度き官となりけり。これによってこの君をば不比等とも申す。いつも鎌を持ち給へば鎌足の臣とも申すなり。春日の宮に参籠有りてあまた願いを立てさせ給ふ。
 その中に興福寺の金堂を最初に建立あるべしとて、荘厳七宝をちりばめ硨金堂を建てさせ給ふ。
 [大織冠とは、大化改新での冠位、最高位階であり、これを授けられたただ一人の藤原鎌足の尊称となる。ここでの大職冠は鎌足、もしくは不比等(本作品では同一視されている)である。
 大織冠は、ある時、藤原氏の氏子である春日社に参篭し、興福寺金堂建立の願を立て、成就させる。「大職冠」の物語は、興福寺金堂建立の果報により、国中の民が大職冠になびかぬものなかった。という宝珠を巡る竜と人間との奪い合いと、藤原氏北家繁栄のものがたりである。] 
【2 大職冠の娘、唐帝の后となる】
 大職冠の二人の娘、長女光明子は聖武天皇の后(光明皇后)になり、次女「紅白女」は大変な美女であった。
 その噂は日本だけに留まらず、大唐七御門の総王、大宗皇帝にも聞こえ見ぬ恋にあこがれていた。重臣たちと詮議の結果、綸言として迎えとることを運賀という兵士に勅旨にたて、日本に送る。
 運賀は奈良に着き、親書を送るが、大職冠は異国の帝の臣下となるとして、一度辞退する。
 二度目の対面の結果、聖武天皇がこれを認め親書に印を押し、吉日を選び、船を整える。
 勅使に橘の朝臣、右大臣法眼をたて、后が乗船する龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の豪華さをはじめ、大船三百隻、侍女三百人、慰め舞をするため の稚児百人を乗せる。
 船が難波津に着くと、大職冠は異国に対する日本の威光を示すため、山海の珍菓を山積みし、五千人の人々をもてなした。大職冠の果報は素晴らしいもので あった。
 四月に出港した一行は、ほどなく明州の港につく。皇帝は迎えの一行を送る。
 后は貧困や病苦を逃れさせる力をもち、生存中、民衆のかまども豊かであった。
皇帝は后に親しみ国土は安穏であった。
 藤原鎌足は、自分の娘を唐の太宗に嫁がせたことで、太宗から返礼に釈迦の霊物を納めた玉が与えられる。万戸将軍がそれを守って日本へ送られてくることとなる。

【3 竜たちとの玉取り合戦のはじまり】
 后は、後代のしるしとしに興福寺の金堂にさまざまの宝物を施入することにした。釈迦仏建立の願を立て、赤栴檀で五寸の釈迦仏を作らせ、肉色の舎利を中心に納めた八寸四方の水晶塔「無碍宝珠」を興福寺の釈迦仏の眉間にはめる重宝とし、日本に送ることとする。
 宝物守護として、雲州の万戸将軍(運宗)が選ばれ、軍兵三百人と共に、日本に向かう。
 海底にすむ竜王たちは、玉が日本に渡ることを神通力で知り、自分たちの運命である五衰三熱を何とかするために、仏を奪おうと、波風を荒げるが、仏法守護 の夜叉たちにより、まったく効き目がなかった。
 竜王は力ずくで玉を奪うために、阿修羅の力を借りて奪い取ることとし差し向けた。その大将摩醯首羅(まけいしゅら)は、唐と日本との境、ちくらが沖に陣をとって、待ち構える。
 ちくらが沖にて両者は衝突、阿修羅軍は火炎の雨を降らし悪風を吹き飛ばせ、毒の矢を放って唐軍を苦しめた。
 これを見た万戸将軍(運宗)は、船底に入り仏力が込められた武装に身を固めた。
 そして、船の舳板に突っ立ち上がった。
 万戸将軍(運宗)は「我が大国の習いに百人の大将を百戸といい、千人の大将を千戸と言い、万人の大将を名付けてこれ将軍と言う。かいがいしくはなけれども、一万人の大将なれば万戸将軍運宗とはそれがしが事にて候」といい、
 万戸ゆらりとうち乗って部下三百人と共に馬に「浮き靴」を履かせる。浮き靴を履いた騎兵は海上を駆け、観音への祈誓をして、遂に勝利をする。

【4 竜女に謀られ、玉を奪われてしまう】
 敗戦を知った竜王たち、難陀竜王の案で、竜王の乙姫「こひさい女」をうつぼ舟に乗せて、美女で謀る作戦を実行、
 「是をば知らで、万戸、順風に帆を上げ、心に任せて吹かせ行くに、海漫、海漫としては、又波上ちちむたり。」
 船は流れ流れて讃岐国房崎の沖を通り過ぎ る。
 万戸将軍(運宗)一行がうつぼ舟が浮かんでいるのを見つける。不思議に思い取り上げ割ってみると美しい女が現れた。中から出てきた竜女「こひさい女」に不安を思った万戸は沈めてしまおうとするが、女は「契丹国の姫だが継母の讒言により流された」と言うので命を助け同船させてしまう。
 風がやみ船は動かなくなった。万戸はこの女を口説くが、女は「仏教の戒を保っているから」と拒絶する。万戸も仏説を引いて反論し「慈悲の心がなければ仏とはなれない」と説得する。長い論争の後、女はやっと万戸になびくことになるが釈迦の霊仏を一夜自分に預けることを条件とする。三日目に女は玉を奪って姿を消した。
 媚を売る竜女に、万戸はまんまと色仕掛けにだまされ、水晶の玉を奪われてしまう。

【5 命を賭した海女により、玉は奪い返される】
 大職冠から水晶の玉が失せていることを指摘された万戸将軍(運宗)は、事情を説明し、大職冠を現場である讃岐国房崎に同行する。大職冠は、房崎にて捜索するため三年の間海女の家に留まっていたが、この間、夫婦の契りを結び、若君が誕生する。
 身分の差を知った海女は、命に代えても玉を探し出すことを決意する。
 そして竜宮界に潜って、七日後浮かび上がってきた海女は、竜宮界の様子を詳述し、玉が厳重に守られていることを報告する。
 大職冠は竜たちを謀るために、竜宮の上の海上に船を浮かべ極楽浄土を模して舞台を作り、彼らの苦しみを抜く舞と管絃を実行し、その隙に海女が玉を奪う策を提示する。
 危険な計画に海女は自分の亡き後の子供の行く末を大職冠に頼む。
 大職冠は若君を房崎の大臣となのらせ、藤原氏の棟梁とすることを約束し、海女は安堵する。
 計画は実行され、三熱に苦しむ竜王をはじめ竜達が現れ、法令に臨み苦しみから逃れようと舞楽に見とれている間に、海女は竜宮に忍び込み玉を奪い返したが、これに気づいた警備の小竜に見つかってしまう。
 追い立てられ、刀を以って防戦するものの身を食いちぎられ絶命してしまう。
 これを見た大職冠も狐から貰った鎌で助けに行こうとするが、臣下に留められる。
 海女の胸の傷の中から玉が出てきた。海女は刀で胸を突いて自害し、その中に玉を隠していたのだった。これを知った大職冠をはじめ一行は嘆き悲しむ。

【6 玉、興福寺釈迦仏に安置 され、重宝となる】
 海女の体を引き上げてみれば、玉は乳房に隠されていた。
 やがてそれが興福寺の本尊の眉間に納められるという目出度い結末となる。
 善行と方便により取り戻された玉は興福寺の本尊の釈迦仏の眉間にはめられ、無価宝珠と名づけられ、三国一の重宝、竜王の惜しみ給ひし理とこそ聞こえけれ。

《参考》
 宝珠を巡る竜と人間との奪い合いと、藤原氏北家繁栄のものがたりである。


「幸若舞の歴史」


「幸若舞(年表)と徳川家康・織田信長」

幸若舞曲(幸若太夫が舞い語った物語の内容)一覧を下記(舞本写真をクリック)のリンク先で紹介中!
幸若舞曲本 - 小.jpg 越前幸若舞
桃井直常(太平記の武将)1307-1367