高館(要約版)

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《内容概略》
 高館は、衣川の高館で悲壮な最期を遂げた義経と最後まで従い主君に殉じた郎党たちの姿を描いた物語である。
 幸若舞「清重」中で、伊勢三郎と駿河次郎が義経の命を受けて頼朝打倒の同志を募る廻文を廻したが、駿河次郎が召し捕られた。
 この廻文が、頼朝の手に渡り、怒った頼朝が奥州攻めを決意する。

1 義経追討軍の勢揃
 さる程に、鎌倉殿(源頼朝)は、梶原景時を呼んで「義経の謀反疑うところなし、急ぎ義経を退治し、世を治めん」との仰せにて、長崎四郎(藤原秀衡の家臣)に三百余騎を下され、義経追討軍への参加を促し泰衡(藤原秀衡の子息)の館に合流し、照井太郎を書記役に参加人名表を作らせる。
 まず (藤原秀衡の)惣領の泰衡、次に西城戸太郎国衡(秀衡の長男)、四郎元吉(秀衡の四男)、樋爪五郎、玉造まくら殿、御兄弟その外の人々れつそ弥七、木原源五、雲井小太郎、あつせ行部、中島、松島、玉造、小島ら名のある武将七百騎、その他都合、軍勢七千三百余騎が、文治五年閏四月二十七日、今日はお日柄が良くない明日辰の刻に向かうべしと定め、すでに平泉周辺の太田、山口、中村の地区に陣取って待機していた。

2 熊野の鈴木高館下着
 これを受けて衣川高館の御所には最後まで主君に殉じようと決めた九人の郎党たちが馳せ参じていた。中でも特に紀州熊野の(名門)住人、鈴木三郎重家は、妻を捨ててわざわざ熊野から駆け付けたのだった。
 鈴木重家は女房に別れを告げて熊野育ちから山伏姿に様を変え、紀州藤代(和歌山県海南市)を立ち都から大津に出て、船に乗り海津の浦(滋賀県マキノ町)に上がり北國道の難所を下り、破れ堂、寺、岩の洞、荒廃した神社を宿とし七十五日目に奥州衣川高館の御所に着いた。
 紀州藤代で聞いていた時は、日直宿直らの兵が御内に満ち満ち門外に馬の止め所もないほどの人の出入りが多いと聞き及んでいたのに、何と寂しい事よと不思議に思い、門の唐居敷に腰掛け傘を目深にかぶり旅衣装姿にて高館の中の様子を窺っていた。

3 義経主従の最後の宴席
 そこでは丁度、義経が郎党たちと別れの酒宴を催すところであった。
 誰もが最後まで立派に戦おうと誓いあっていた。
武蔵坊弁慶、片岡、亀井六郎重清(弓の名手)、吉武、源八広綱らの前に君もお出ましになり、女房たちのお酌にて三献の酒の儀式を済ませると互いに入り乱れて思い思いに盃を交わし舞い歌い飲むほどに、亀井が飲んだ盃を武蔵殿に差し立って、「蓬莱山には千年経る、松の枝には鶴巣くう、巌が方に亀遊ぶ」と扇の拍子で舞の型のしほり、三頭、鴨の入れ首、シギの羽返しと祝言の舞を立ち舞った。

4 鈴木亀井兄弟の再会
 その時、門外に目をやれば、太刀を脇にはさみ編み笠目深くかぶった男が唐居敷に腰掛け亀井六郎重清の舞を聞いている。
 すると門の男が大声で「入ってもよろしいか」、武蔵この声を聞いて「あれは敵の内情を見聞するための偽の使い」と袴の綾を高く取って長刀を持ち飛び出そうとしたので、亀井が「この声に聞き覚えがある」と武蔵を止めて見てみると、亀井六郎重清の実の兄の鈴木三郎重家と気づき驚く。
 亀井は兄の姿を見ると、死ぬとわかっている戦いであるからこのまま黙って帰るよう鈴木を説得する。しかし、鈴木の決意は固かった。

5 判官、鈴木に対面
 義経は鈴木に対面すると歓迎し、義経もまた鈴木に、生きて帰るよう説得するが、鈴木の覚悟は揺るがない。弁慶は感激して涙を流す。
 そこで義経は最後まで戦えるよう鈴木に具足を与える。
 この鎧は佐藤禅門が子供のために具足二領縅したもので、兄次信は小桜、弟忠信は卯の花縅にこしらえている。
 佐藤兄弟の二人は残念にも討死したが、佐藤の館で母尼公から、小桜縅を義経に、卯の花縅を弁慶にと戴いたもの、もしもの用心にと義経が持っていたこの鎧を貴方に取らせた。 
 弁慶も涙を流し、これほど忠義の臣下がそろっていると申すに、佐藤次信は八島の合戦で君判官の身替りとなって討死、忠信は吉野で判官を無事逃すため判官を名乗って吉野法師と合戦し都で糟屋有季に襲われ自害し、判官の回文を持って諸国を巡る途中に駿河次郎清重は鎌倉の帰途片瀬川で梶原景季に追跡され討死、同じく伊勢三郎義盛も京で討死、今また鈴木が鎧を受け取り感激することのゆゆしさよ。
 かほど良き郎党を持たれた我が君の現生の運命の情けなさは、せめて大国四五か国を賜わって知行されることがなかったのは残念である。

6 熊野権現と由来の腹巻
 鈴木は義経から鎧を拝領したので、一族に代々伝わっている鎧の方は、弟の亀井に与えたが、それは天竺からの摩羯陀国の王が、王子と共に飛車に乗って我が国までやってきた時、王を守護していた兵士たちが身に着けていた鎧で、熊野権現に深く関わっている宝物であった。
 鈴木はこの由来を亀井に語って聞かせ、明日の戦いに備えた。

7 弁慶、鈴木兄弟の奮戦
 さて一夜が明けると鎌倉の軍勢は高館を取り囲んで鬨の声を上げていた。そしてついに攻め寄せてきたので、郎党たちはこれを迎え撃った。
 鎌倉方の照井高直と弁慶が互いに名乗りを上げる。
 鈴木・亀井の兄弟は次々と鎌倉方の馬上の敵を弓矢で射落とし奮戦し、これを見た敵の軍勢は引き退くほどであった。
 この鈴木兄弟の活躍を見た弁慶も出陣して敵を追い散らしたりして敵の花崎某を長刀で正面からま真っ二つに拝み打ちにて切り殺した。
 鈴木兄弟は奮戦したがかなわずとうとう力尽き兄弟刺し違えて自害することとなる。残る弁慶はさらに熊手で逃げる敵を追い捕まえるなどの激しい戦いであった。

8 阿修羅の弁慶
 弁慶は、鈴木・亀井の討死を義経に報告すると、再び敵陣の中に戻って行った。
 しかし、弁慶に父を討たれた若者の放った矢が当たって、ついに手傷を負ってしまう。その時弁慶は落馬したが、死んだふりをして敵を引き付け、にわかに起き上がると油断したところの敵を討ち取った。

9 弁慶と判官今生の別れ
 しかしそのときすでに弁慶は瀕死の状態で、義経の元へ戻ると、最後に若君(義経の子)を抱いて、自分が産湯を用意したことや、長命を祈った事などを思い出して涙する。
 若君はそんな弁慶の傷を触って抱きついて泣くので、人々はあまりの痛ましさに泣き伏した。
 そして義経は瀕死の弁慶と別れに二世 (この世とあの世) の盃を酌み交わした後、
 義経が、
 「後の世も又後の世も巡り会え染む紫の雲の上まで」
 (後世でもまたその後の世でも必ず巡り合おう、天人が乗って来る紫雲の上まで行っても)
と詠い、
 弁慶も、
 「六道の衢(ちまた)の末に待つぞ君遅れ先立つ習いありとも」
 (冥途の分れ道の所で君をお待ちしています、旅立ちに前後があったとしても)
と和歌を交わし来世を契り、義経は自害の覚悟を固めた。
 弁慶も義経に自害するよう言われたにも関わらず、薙刀にすがって再び敵の矢面へと討って出ていく。
 義経が「うらやましやな武蔵は、生をたがえずたちまちに、あら人神となりたるぞや」と賛美する。

10 弁慶の立往生
 弁慶は最期の力を振り絞って敵を斬り伏せていったが、ついに衣川の流れの中に立って薙刀にすがりつくと、軍兵、これを見て「あら恐ろしや。」と我先にと逃げだした。
 衣川の向う岸辺でうろうろする兵士十七・八騎切り伏せ、こちら端へ帰ろうとしたとき次第に性根乱れれば、西向きに立って薙刀真砂に揺り立て光明真言を唱えながら、生年三十八にして衣川の立往生を惜しまぬ者はなかりけり。
 しかしこれを見ていた敵兵たちは、弁慶が死んだとは思わず、「あら恐ろしや又弁慶が人を切らん謀よ。近こう寄っては叶うまじ。遠矢で射よ」と言うままに指し取り引き詰め、散々に矢を射掛け続けた。
 武蔵坊弁慶に当たるその矢は蘆を束ねて槇の板戸を突く風情。元より死したる弁慶にて、その身ちょっとも痛まず。
 誰もが恐れて近づくことができない中、沼楯というものがそっと近づいて、弓の先で突いてみると、弁慶の身体は大木が倒れるように川の中に倒れた。
 しかし沼楯は弁慶の薙刀がキラリと閃くのを見て、生きていると勘違いして驚いて馬の上から川の中に落ちてしまい、浮き沈みして流れ溺れて死んでしまったのだが、貴賤上下おしなべて、憎まぬ者はなかりけり。


「幸若舞の歴史」


「幸若舞(年表)と徳川家康・織田信長」

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