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《内容概略》
相模国の住人、和田吉盛は一門九十三騎を引き連れ,山下宿河原(神奈川県平塚市山下付近)の長者の宿にて遊女十八人選りすぐっての三昼夜に及ぶ酒宴を張っていた。
1 虎、和田の宴席に出ない
しかし和田が心を示す評判の遊女・虎御前を座敷に呼ぼうとするが、遊君虎御前は,和田吉盛の再三の招きにも応じていない。
和田吉盛は腹を立て、異国で知られなくとも、我国で武州の秩父(畠山重忠)、相州の吉盛が打ち寄って酒盛りする時は、遊君なれば呼ばれなくても顔を出し相手し、はやり歌の一つも歌い、指名せずとも参上すべきであるのに、これほど呼んでも出てこない虎御前はけしからんやつだ。
吉盛は三男の豪勇無双と名高い朝比奈三郎義秀に対し、虎御前を山下の宿から出してしまえと、𠮟り付けていた。
2 母の長者の説教
母の長者も虎御前に対し、権力者に従わないことは大変な事だと説得をする。
虎は、「あら情けなや賢臣は二君に仕えず、貞女両夫にまみえず」と、恋人の曾我十郎助成に操を立てて応じようとしない。
母は腹を立て、親が子を産むまでには、大海の底の針穴に糸を通すほど難しくして妊娠し、二百七十余日胎内に宿らせ、神仏に見はなされ極楽浄土に行くこともなく、たまたま人に生まれ出る時の苦しみは、生き牛の皮を剥ぎ、いばらの中へ追い入る堪えがたさで、冬は襖を重ね、夏の夜は風を招き寄せ育て、三歳までに飲む母乳は計算しても百八十石にもなり、白い骨は報じても報じがたき父の恩、肉は感謝しても謝しがたし母の恩、両親の恩の深い事。どうやってその恩に報いをするというのか、直ぐ出てきて和田の前で酌をとりなさい、さもなくば、見苦しく貧乏な十郎殿の宿通いは止めてもらいなさいと言った。
3 十郎、虎を説得
十郎助成は、両目に涙を浮かべ、心は高尚に人に優れて思えども、貧乏で上下着の整った衣服もないので肩身が狭く面目ない。
和田に比べて貧者の身である自分の立場を恥じ、世の中も人の事も恨むべきではない。虎の貞節を尽くす事に感激するが、仏の教えを引いて、さあ権勢を誇る和田吉盛の宴席に出るよう、さもなくば名残惜しく思うが助成は曽我に帰りましょうと虎を説得する。
こうして虎は十二単衣の絹の褄を取って、ようやく和田吉盛の座敷へと出た。
虎はこの時十七歳で海道二番の遊君であった。
4 和田、十郎を酒席に呼ぶ
虎御前が、和田殿をもて成せども盃の交代を嫌がるので、これを見た和田吉盛は近くに十郎助成がいると感づき、十郎助成のこともまた座敷に呼んだ。
挑戦ともとれる呼び出しに、十郎助成は折烏帽子を頭に乗せ夏野の草づくしの直垂を着、鎧縅に扇を差すと、大幕を掴んで揚げ座敷を見まわすが、助成の席の用意もない。
和田に恐れをなして大将席の両隣を広く開けている所に行き、和田と言うに三浦の大将、助成は伊藤の大将、いずれも名門豪族の嫡流の侍と言って臆せず吉盛右座にむんずと座った。
5 母、虎に思い差しを強要
かくて盃三献通った後、母の長者が納戸から蒔絵の盤に紅葉の土器持って出て、虎御前よこの盃一つ飲んで好ましく思う方へ盃を渡すようにと言う。
虎御前は、あらむずかしいことを言われる。
物のたとえに言うならば、玄宗皇帝には三千人の后在り、第一の后は虞師君(元献皇后)といい、次の后を楊貴妃と申す。どちらかを一番に備えることは、いずれかの恨みを買うであろう。
玄宗皇帝の前で楊貴妃と虞氏君が双六を打ち賽勝負で決めることになった。
楊貴妃の乞目は重三で、虞氏君の乞目は重四を選んだ時、賽(さいころ)は一方に偏らず二っづつの四個に割れて、楊貴妃の乞目重三と虞氏君の乞目重四のいずれもの目も出した。
これを見た帝は、何と優しい賽の目よ、汝は牛の角なのに、人の心を読んでさように振る舞うかと感心し官位を与えた。
賽の目に朱を注いで朱三、朱四と言うようになったのはこの代より始まったという。
虎御前も両方に差上げたいが、盃は一つのみ、二つに割れてほしいものよ。
6 和田と十郎の盃の争い
これを見て母御前は、さっさと決められないのなら、先の話とは逆に、思いを寄せられない殿方を選び盃を差上げよという。
虎御前は、母御前は狂いなされたか、この言葉がなければ年配で客人の和田へ差し出したものを、この言葉を聞いてから和田へ差したれば東海道の国々の不名誉者にさせてしまうので、何が何でもこの盃だけは和田には差し出されない。
そこで夫の十郎に盃を差し出そう、これを十郎助成が飲んだら、朝比奈か古郡左衛門保忠が十郎を座敷から追い出すだろう、その時に我は女なりとも、心は男になって、あら和田殿情けなしよ、愛する人に愛心を示さないのは、花を見ないで枝を折るようなもの、ここはひたすら許させ給えと、
さえぎるようにもてなし、朝比奈が脇に差した刀を奪って和田の心許に差し立てて、返さん刀で自害し、妻の十郎に腹切らせ、死出三途の大河を手に手を取って行くとただ一筋にと思いきった。
いかに御一門の方々、母から思う人に盃を差せと言う仰せなれど、他の人からの盃所望も無いでしようと十郎へ盃むんずと差し出した。
助成は、これを如何せんと思ったが、今飲まぬものなら臆病と思われてしまうと、あら珍しい御盃やと言って三杯酌んだ。
吉盛は顔色を変えて、やあ十郎、よくも吉盛を見下げて盃を取り飲んでくれたな、常識はずれ者よ、それ老いたるを持って敬うを父母の如し、若きを持って愛するを姉弟の如し、知るを持って人倫、知らぬは鬼畜木石、傍輩の懲らしめに早よ座敷から追い払えと怒った。
十郎助成は命も大事だが、退出するのも面白くないと、刀の柄に手をかけたので座は殺気立った。
助成の心中としては、
弟五郎時宗がいつも忠告してくれるのは、金持ちが宿場の遊女の所に通うのは人がうらやむが、貧しい身で宿場通いをすると必ず憎まれることとなる。
目上の者への下馬や、笠をかぶったままでいる無礼をとがめられたりして、助成が討たれたら、時宗一人残ってでも親や御身の仇を何としても討つと言ってくれている。
しかし、宿通いたけは止めてほしいというのを聞かず、朝比奈か古郡の手にかかって討たれることは必定、死は露塵ほども惜しくはないが、年来の親の敵を討たずして生涯を失うことはできない。
朝比奈の三郎が座敷を出て行けと言うならば、素直に出て行ってしまおうかとも思う。
7 五郎、兄の危機にかけつける
そのころ十郎助成の弟である五郎時宗は、古井という場所で、矢じりを磨いていたが、あまりの眠たさに碁盤を引き寄せ枕にして、のんびりと午睡にふけっていた。
するとその枕元に兄の十郎助成が立ち、どうした時宗、それ張良(前漢の功臣で太公望の兵法秘術書を黄石公より、授けられている)の四十二ケ所の兵法巻物を学だと言えど、酔っていれば何にも劣れり、千日してきた用心も深く眠れば一夜で無になる。そのように真昼間から豊かに臥すものか、さあ早よ起きよと、四五度起こされる夢見て、かっぱと起き上がり、下女を呼んで十郎殿はと問えば、宵より大磯の方に出かけているという。
五郎は兄の身に危険が迫っていることを察する。
五郎時宗はすぐに具足を身に着けて馬を蹴ると、山下の河原長者の宿を目指した。
宿に着き目立たぬよう裏門から入り、下女に此の館で何事も無かったかと問えば、ありました、宵より和田一門九十三騎来て酒盛りしている座敷に十郎殿も虎御前も出て盃の口論の最中。
時宗これを聞いて、その杯は和田へ差したるかそれとも十郎へ差したるか
下女が、虎御前が優しくましまして十郎殿に差させ賜わり候ぞ
時宗が、さてその杯を臆して取って飲まざりけるか
とんでもない、盃を取りましたと聞いて、時宗からからとうち笑い、日本六十六ケ国に大豪のつわものまた二人といない、兄助成りであるよ、賢人なる女も世に多いと言えど虎にましたる賢女は世にいない、虎なればこそ差したり、十郎なればこそあれほど多くの敵の中で臆せず取って飲んだりと一人感心して褒めたたえた。
8 五郎と朝比奈の力比べ
さてその頃、怒り狂った和田吉盛が、朝比奈義秀に向かって十郎助成を追い出すよう命じていた。
しかし朝比奈は、五郎時宗がこちらに向かう予感を感じ、なんとか殺気立った場を治める為に舞を披露した。
今頃、東海道ではやりの白拍子の硯破りという題をはったと上げ舞い始めた
「よしや、あししとて、切り捨てられし呉竹も、本に一夜はある物を、
よしや、あししとて、つき捨てられし庭草も、本忍とてあるものを」
(良いとか悪いとか言って切り捨てられた呉竹にも節(よ)があるように私にも夜があるものを、
良いとか悪いとか言って突いて捨てられた庭草の忍び草にも偲ぶ思いの種はあるものを)
吉盛も、歌の題にことよせて怒りを治めて下さるだろうし、十郎殿も虎御前も気になされないでください、すべてこの朝比奈義秀に免じて許して下さるがよい。と半時踏んで舞わられた。
人々はこれを見てようやく収まったが、その時、座敷の外から金物の音がした。具足を身に着けた五郎時宗が宿にやってきていた。
朝比奈は五郎時宗をなだめて座敷でのもてなしをしようとするが、警戒した五郎時宗は応じようとはしない。
そこで朝比奈は力ずくで五郎時宗を座敷に引き入れようとするが、朝比奈も五郎時宗も名高い大力の持ち主であったため互いに踏ん張ると、五郎時宗の鎧の草刷りが引きちぎれてしまった。
9 和田に対面した五郎の意地
このことを知った和田吉盛は五郎を座敷に呼び入れた。
吉盛は、どうした五郎殿、御身は幼少より箱根に上り別当(行実に師事)に学問し、その後伊豆に下り北条を烏帽子親に頼み助五郎時宗と名乗ると聞いているが、見参するのはこれが初めてである、よって引手物を与えると萌黄匂の腹巻(鎧)に太刀を取り添えた。
五郎時宗は、しばし待てよ、明日になれば坂東海道十五ケ国の人々が伝え聞いて、あら無残曽我兄弟は貧さの余り引手物に目がくらみ、虎御前を和田に奪われたとなるのは後々のわざわいとなると思い、いかに吉盛、只今の引手物を賜わりたいが、後日三浦に参って給わります、その間あれにいる若者に預け申さんと太刀と鎧を掴んで下座へと投げた。
吉盛御覧じて、今のやり方は思慮の末の事か、それとも、その場限りの戯れか。
時宗は、金持ちの人に座興はあっても、貧乏人の私には座興などはありません。
すっかり座は興ざめしてしまい吉盛は立ち上がり、宿に馬を引き寄せると一党を引き連れて宿を出て行こうとした。
その中で、和田殿は大将であるので、縁側に馬を引き寄せ乗ろうとした。
これを見た時宗は、以前兄助成に屈辱を味あわせた時の仕返しにと、いかに和田殿、此の館は和田殿の建物でもなく、十郎殿の建物でもなく、時宗の建物でもない。
坂東八カ国、海道は七カ国、十五ヶ国の人々の道筋での酒盛りのために建てられたものである。
館に直接馬を付けて乗るのは礼儀をわきまえないことであり和田殿下りてくだされ、下りれないなら諏訪八幡も御知見あれ、時宗が只今下ろしましょう。
吉盛は、命がけの者に関わり合って、ここで騒ぎを起こし若い者を討たれてはかなわないと思い、そこで、年寄は目が見えず、日暮れならば鐙の位置を確かめるためと言い訳し、一党を率いて十間坂まで逃げるように引き上げて行った。
十郎助成と五郎時宗の兄弟は、彼らが報復のために夜討ちを仕掛けてくるのではないかと用心し、宿の守りを固めた。
夜回り、辻固め、用心厳しかりけれど、一門の中なれば寄する事こそなかりけれ。
この人々の心中をば貴賤上下押し並べ、感ぜぬ人はなかりけり。