入鹿(全文版)

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1 鎌足常陸で誕生 
 そもそも藤原鎌足の先祖をくわしく尋ねるに、天津児屋根(あまつこやね)の命に三十六代の御末、父は御食子(みけこ)の卿と申して、天下に隠れぬ臣下たり。
(天津児屋根の命は、藤原氏の祖神で、天岩戸では鹿占いで吉凶を占い祝詞を奏した神で、始め河内国一ノ宮枚岡神社に祀られていたが、のち春日神社に鹿島、香取の神々と共に合祀された)
 しかるに、御食子(みけこ)の卿は、君の御覚えめでたくし、天下の政事をわがままにし給えば、世間の人がうらやみ、ねたみ、人は偏屈にして、いかにもして君との御仲が次第に浅く、うとくなるように企み、讒言(ざんげん)する者が、悪逆を奏上したが、帝、御用いなかりしかど。
 実には又一味の諸公卿を流罪にしても、それをなだめる事ができないと、判断したのか、咎(とが)も無かりき御食子(みけこ)の卿に、勘当するという勅命の文書を授けて、遥かなりける東路や、常陸の国を流罪地として流された。
 思いをば雁山(中国の山)の夕べの雲にかけながら、涙を遠島の道より末(すえ)に先立てて(前途が遠く困難であることを詠った、大江朝綱の送別の詩から引用し)、見も習わざる東路や、常陸の国に下り、宮の辺りに庵(いおり)して、明かし暮らさせ給いければ、辺りの里人がこれを見参らせ、鹿島の宮(鹿島神宮)に住めばとて、四郎(序列四番の)禰宜と呼ぶようになった。
 いつしか早く落ちぶれ農夫田者に交わり、平地農、山地農、川沢農の三農作業の時を得、一本の鋤(すき)を担いで寸の田を返し、一枝の桑の葉を取り、絹を織り裕福とは言えないが、月日の移り変わるのも知らずに御暮らしになった。
 かくて、過ぎ行き給いしに、一人の娘と出会って若君(中臣鎌足、後の藤原鎌足)をもうけ、有りしに変わる御住居にても、清く大事に養育なされた。

2 狐、霊験を授ける
 既にその年もうち過ぎ、夏暮れゆけば、水無月(六月)も中の五日の暑き日に、田の草取りに出で給う、いたわしや、若君をこの田の畦道に連れ出し、青葉の柴を折かざしその上に、泣かずにい寝よと乳を含め、夫婦ともに百草を取る手に付けて、苗の葉の栄えん事を喜びて、終日(ひめもす)取って暮される。
 かかりける所に、いづくからとも知らずに、一匹の不思議な狐が鎌を口にくわえて現れ、若君の枕元に一振りの鎌を置いて、掻き消すようにいなくなった、父母急ぎ立ち寄り鎌を取りて見給えば、氷手の内に輝くような鎌であり、もしも宝になるやとて、若君にこの鎌を添えてぞ育てらる。 
 撫で可愛がり大事に育て学問を鍛えての時を得、はや十六歳になり給う、鎌足は、橘の京(舒明天皇)の御時に、農夫田者の業なれば、内裏の庭掃除に指名され、泣く泣く京に上りしに、内裏の庭の小草を清めていた。
 行事の弁(催し物担当の責任者)が御覧じて、多くの雑役者の中に、いどけなき童を見つけ、見た目はやつれ果てていても、ただ者ではないと覚えたり、金骨(偉大な人物)の相の有り、金骨の相とは大臣の相の事なり、田舎に今は帰してはならないと思った。
 宮中に留まり帝を守護せよとの命令で、文章生(大学寮の学生)に任じられ、才能が認められ右京の太夫(司法行政長官職)に上り詰め、宮中清涼殿への出入りも許され、出世を遂げ給う、果報の程のゆゆしさよ。

3 蘇我入鹿誅伐の謀計
 かかりける処に、権力者で蘇我入鹿の大臣という大悪行の臣下あり、君の御位を奪い取って、我王にならんと企くらん、この事、天下の大事とて、(飛鳥、川原板蓋宮の)東山の奥に、藤の多く這いかかりたる大木の元にて評議が秘密裏にうまく開かれた。
 かの蘇我入鹿大臣をば、右京の太夫(鎌足)に仰せ付け、討たるべき、との天子の御言葉となった、右京の太夫(鎌足)は勅命なれば背くことも出来ず、納得承知申し帰り、幼児の時、狐に与えられた一つの鎌を持って狙い窺(うかがい)い給えども。
 彼の蘇我入鹿大臣は、三年の事をかねて知り、剣を手に持ち鉾を持ち、宮中の出仕にも警護の者を前後に着け、あまりにも用心深く近づくことも出来ない状態だった。
 鎌足心に思し召す、人をだましての計略は、その人と親しい関係にならなくてはできないと思い、器量の良い女を尋ね養女に迎え入れ、大切に世話したところ、美人の噂が世間に知れ渡って、都の誰もが直ぐ知って、結婚できる身分の者もそうでない者も、望みをかけぬ人は無し。
 ある時、鎌足は蘇我入鹿大臣に手紙を書いた、この世に生まれてきた証拠に子を持ったが、すっかり運が尽きてしまったのか、子は男子でなく、つまらない娘である、年頃で所望する人は多くいるが、承諾できるような身分の人はおりません、醜い女と思われましょうが、貴方様の所に置いて頂くなら面目も立ちまする、と書き送り給いける。
 蘇我入鹿大臣は、何事も慎重であったが、女にはたやすく心を許してしまい、多年望みの折しも、お許し下さったのは喜びとて、やがて輿入させ大事にされた、やがて若君を授かれば、家門の繁昌時を得、これに勝る喜びはないと活気づいていた。
 鎌足思し召す、今はもう打ち解けた仲になったので、謀り寄せて討つ時が来たと思し召し、風邪を引き日がたつにつれ、助かる見込みもないと、重症を装っていると、宮中からは上下皆見舞いに来るが、蘇我入鹿大臣だけは訪ねられさせ給わず。
 待ちかねた鎌足は、蘇我入鹿大臣へ御文を遣わされ、すでに余命わずかとなり、娘との深い縁の親子の最後の対面がしたい、入鹿大臣も北の方も来られたいと書かれたり。

4 竜王と還王の物語
 手紙を見た蘇我入鹿大臣は、大いに驚き給い、牛車を出せ牛飼いよ、急がせ給え御前とて、何のためらいもなく出立したが、車の中にて考えを返して、途中で牛飼いこの車を止めよ、北の方だけ行かせよ、自分は行かないと言い出した。
 それは何故かと言えば、昔、異国のたとえがある、皆面々も聞き給え、語って聞かせ申すべし。
 竜吟国の竜王と、還国の還王とが国の境で争いて、数度の戦い隙もなし、還国は多勢、これに対して無勢の竜国であったが。
 竜国の味方には吟尊と吟落の二人の猛き強者あり、二人が、竜のように超人的に天を駆け、浮雲を走る事は平路を伝うがごとし、大地を通ったり、盤石を穿(うが)つ事は薄氷を通すがごとし、海の上にて馬を乗り、猛火の中に身を隠し、自由自在に駆けまわれば、還国の兵が数限りなく討たれけり。
 既に早、還王の命危なくなってきた頃、還王は賢い人にて、見目良き女を尋ね養女に迎え馬頭女と名付けて、吟尊を婿に取る、吟尊は猛々しい兵なれども、女性には直ぐにくつろぎ還国に渡ってしまった、弟の吟落も兄がこうなった以上、仕方なく兄弟で還国へ行ってしまった。
 打ち解けた還王は、兄弟に対し、姫君は、私の本当の娘である、汝らは親子同然、よって竜王を討ち取ってってくれ、もし竜国を攻め滅ぼしてくれたなら貴方方に竜国を差し上げようと親しげに宣えば。
 兄弟は、のがれ難く思い、やがて竜国へ忍び帰って、好機があったらと竜王を狙っていた、竜王これを知って、汝らが世辞を言うのは、心に企みがあるからである、私が討たれないよう注意していれば、汝らがどんなに狙っていても討たれはしない。
 しかし、日頃私に仕えて何度となく異民族を亡ぼし、ここまで統治できたのも汝らの長年の功績である、日頃の忠心に我が命をやっても良い。
 されど五体(頭、頸、胸、手、足)揃わない者は、仏が受け入れてくれない、我が崩御の亡体を少しも乱すことなく、金山に廟を築き籠め奉ってくれと言って自ら胸の間から竜王の魂である青蛇を取出し、三巻に押し曲げとぐろにして吟尊に渡した。
 御最後の綸言に、我が命は惜しくはないが、汝らは他国の計略を知らない事は気の毒である、必ず後悔する事になると言ってたちまち崩御なり給う、兄弟は、王の遺言通りに金山に廟を築き御体を埋め、還国に帰国し、還王に対し、竜王の魂の蛇を渡した。(舞楽「還城楽(げんじょうらく)」は蛇を得て喜ぶ姿の舞いがある)
 還王は特別に思し召され、吟尊と吟落の二人に頼んだ仕事は、ここまでであるとの宣旨にて、雲霞の如くの官軍で、兄弟を取り巻いて、無残な有様。
 竜王が生きていた時こそ、吟尊と吟落の弓矢も凄く何もしなくても諸侯を抑えていたものが、竜王崩御のその後は、竜のように飛行し雨雲をお越し稲妻を放つ超人的な威力も薄れて。
 謀(はかりごと)も巡らず、剣も飛ばず、いわんや鉾を投げる事もなく、危うい所であったが、なを兵法の恩恵により、多くの中を討ち破り、竜国指して逃げて行く、後を官軍が追いかける、なすすべもなく竜王の廟の前に参り、如何せんと悲しんでいると、廟の内から声がして。
 私が臨終のときに言った言葉を思い出したか、助けてやるから、私の体を廟から掘り起し、青黄赤白の四色に彩色された獅子に乗せて、一つの鉾を与えよ、防いでやろうとの宣旨あり、廟は大きく振動し、塚は二つに割れにけり。
 不思議には思ったものの、竜王の骨を拾い接いでいく程に、どうして無いのだろう、下あごの骨が足らざれば、左の膝のかわらを取って下あごの骨にさして接いだ、さて肉は朽ち失せて取り繕(つくろ)う事は出来ないが。
 これを、青黄赤白の四色に彩色された獅子に押し乗せて鉾を与えれば、拍子に合わせて動きだし、正面から立ち向かう敵はない、還国の兵が数限りなく討たれけり。
 しかし、日も暮れかかれば、死者の骨をつなぎ合せた亡骸なので、日が沈めばバラバラに離れてしまうのはかなわないと思い、高い岡に上がって、入り日に対し、しばし止まれと招けば、実に日光も哀れんで、山の端に懸る日が、また巳の刻(午前十時)の位置まで戻り帰る、敵は、これを見て、怒り怨みも静まり合戦を止めて逃げかえって行った。
 この事は、後の世まで伝える由緒ある事跡として、舞楽に作り置かれたり、舞楽「陵王」に用いられる、入日を返す舞の手は、此の御代より始まれり。
 陵王の秘曲、舞楽曲名「羅陵王」で、舞い人が竜頭を戴き、吊り顎の面をつけ金色の桴(ちば)を持つ舞はこの御事なり。
 舞楽の曲名「抜頭の舞」と申すは、左舞(林邑楽)の走り舞で舞人が髪を振り乱した面をつけ黒漆の桴(ちば)を持つは、養女の姫の事なり。
 武将の吟尊と吟落は、舞楽「落蹲(らくそん)」、「納蘇利(あつそり)」で右舞(高麗楽)の走りで吊り顎面に緑色の帔(たれきぬ)を被り、銀色の桴(ちば)を持つ舞はこの御事なり。
 舞い人が一人舞いの時は「落尊(らくそん)」と称し、二人舞の時は、「納蘇利(あつそり)」と称す舞である。
 舞楽の曲名「還城楽(げんじょうらく)」は、左方(唐楽)の走り舞で、舞人は赤い桴(ちば)を持ち、吊り顎面と帔(たれきぬ)を被り、作り物の木蛇を捕えて舞う。
 この時、娘を使って謀計を巡らせた、竜吟国の竜王と、還国の還王の故事を思い出した蘇我入鹿大臣は、我も女に契り鎌足に謀(たばか)られ、明日後悔の有らん時、以前に犯した過失を後悔してもどうにもならない、今日は行かないでおこう、明日は又日柄が良くないと、打解け給う事もなく、今度も鎌足の謀計に感付いてしまい、ついに鎌足のもとへ行くことはなかった。

5 鎌足盲者の学び
 しかたなく鎌足は春日大社に参籠して申す、一人の悪人を殺して多数の者を生かすと言う教理にて、殺すは咎(とが)にて候えども、かの蘇我入鹿大臣は、天下を軽くするのみならず、国を費やす逆徒たり。
 しかるにかの蘇我入鹿大臣をやすやすと討たせ給うものならば、奈良の都のその内に興福寺の金堂とて、丈六の釈迦の像を作り、法華経、大般若経、最勝王経などの優れた経典を祈り、国家を護国すべしと大願を起こし。
 すると微睡中、夢とも非ず現ともなく、葵の榊の葉一房、直衣の袖に落ちかかる、また、辺りを御覧あれば、榊の細枝一つあり、そも此の杖と申すは、どういう事情があるか、およそ杖には、洋の東西を問わず、宗教的に神聖視された呪術的意味合いが込められていて、種類も多く複雑な象徴体系があるのだが。
 仏の杖は、仏の悟りを求める偉大な人(菩薩)摩訶薩杖、衆生が煩悩に捕われて暗黒の生活を続ける無明長夜の闇の憂き迷いを知る杖なり。
 菩薩の杖は、功徳の高きを表せり錫杖、
 煩悩から解放されて自由になる欣求(ごんぐ)解脱の竹杖、
 清涼殿鬼の間の南壁に描かれた勇者、白駝(はくた)王のしゅはん杖、
 禅宗門の僧の持つ長い柱杖こそ、深き心の有るなるに。
 神からを授けられた、今の榊の細杖は盲人の冥闇杖と言い、盲人の突く杖なり、照る日月は明らかにしませど、虚空常夜の如くなれば、杖に引かれて辿り行く、そういうわけで名付けて冥闇杖と申すなり。
 鎌足は、この細枝が盲人を装うべし、敵に心許されて討てという神託だと気づいて、やがて下向の道よりも此の杖を突きつつ、この間の病気に目を病み潰したりとて辿り歩き給いけり。
 蘇我入鹿大臣、この由御覧じて、私を騙す計略をどのように巡らしておられるのだろうか、恐ろしやとて用心する。
皆、人の申しけるは、かの鎌足と申すは、常陸の国四郎禰宜の子にて田夫野人の者なるが宮中へ召しい出され、宮中に入って摂関大臣の位を汚した罪により、位負けして盲目に成りたる者ぞと言いければ、蘇我入鹿大臣も実にもと思し召し、ちと、くつろぐ様子あり。
 頃は霜月(陰暦十一月)下旬なるに、鎌足、蘇我入鹿大臣を招き、囲炉裏(いろり)に火を置かせ、蘇我入鹿大臣と鎌足、御手を暖め給いしに、鎌足の若君のまだいどけなくましますを乳母が抱き参らせて、辺りを通り申す時、むずからせ給へば、何とてこの子は泣かするぞ、これへこれへと仰せければ、そうなく御手に参らするとて、どうしたものか盛り燃える火の中へ取り落とし給う。
 蘇我入鹿大臣この由御覧じて、本当か嘘をついているのか見極めるのはここだ、どうして見落として良い物かとさし退いて見給う、鎌足いとど悟って有らざる方に手を上げて、悶え焦がれ給う間に、遂に空しくなり給う。
 甲斐無き死骸を取り上げて御膝の上に参らする、鎌足抱き取り給い、ここはいずくぞ面(おもて)顔、頭はいづく前、後ろ、足手を探しまわしつつ、是はどうしたことだ大変だ、辺りに人はおわせぬか、など取り上げてたび給わる。
 自分は未だ悟りの境地に達せず、救われていないが先ず先に他人を救おうと誓う事、自未(び)得度先度、他は菩薩の行にあらずや、哀れ片輪のその中に盲人は殊に恨めしや、しかも一人息子なのでこのように体の不自由なつらい自分の方が先に死んで、死後を弔ってもらおうと思っていたのに。
 眼前猛火の中に入るを助けぬ事の無慚さよ、生きて甲斐無き憂き身をも殺してたべや人々と、天に仰ぎ地に伏して激しく涙し給いければ、見る人も聞く人も袖を絞らぬ人ぞ無き。
 蘇我入鹿大臣この由御覧じて、あらいたわしや、誠に盲目になっていたのだと確信する、されば我が身偽り有る者が、人の誠を疑えり、今後は疑いの心を止め、親しむべしと思し召し、はや打解けさせ給いけり。

6 蘇我入鹿誅伐
 鎌足、今こそ最高の好機だと思し召し、時期が整った御用意あれと、内裏へ奏聞申される、帝叡覧ましまして、かねてより御企みの事なれば、異国より使者が参内して賀意を表す文書を奉る、諸卿と詮議する会を開くべき事由がある、諸卿残らず参内あれと勅使を立たせ給う。
 諸卿残らず参内あり、鎌足ばかり不参なり、例え盲目なりとも大事の詮議ある間、参内なくて叶うまじと、重ねて勅使立ちければ、鎌足の臣も参内ある。
 いつもよりも法衣をきちんと整えて、幼児の時狐の与えたる一つの釜を脇に挟んで持ち、小さい八葉蓮華の紋の付いた立派な車に召され、平安京の外郭の陽明門に車を止め、下僕に手を引かれ、御前近く成りければ、それより介錯役申す者もなし、笏(しゃく)持って、鎌足、内裏正殿紫宸殿の階段を探り探りよじ登り、御床の簀子(すのこ)に笏取り直し畏(かしこ)まり、御前を後ろに成し申し、有らざる方へ伏し拝む。
 事情を知ったる人々は、ここが勝負の決め所とはらはらと肝を消す、事情を知らない人々は、かっては立派な臣下であったのにと嘆く人も有りにけり。
 帝叡覧ましまして、あれは如何に鎌足、元の座に着座せよとの宣旨なり、諸卿たちも残らず、元の座に着座なされよと申さるる。
 御声付けて鎌足、探り探りよじ上り、既に蘇我入鹿大臣の座近くなる、蘇我入鹿大臣、片膝を押し立てて、礼を尽くそうと鎌足の御手を取って押し上げ給いけり、既に早、御座敷では、身の毛を立てて怖じ怖れ、早騒がしく成りしかば。
 相手に気付かれては良くないと思し召し、三年の間塞いでいた両眼をくわっと見開き、左の直衣の下よりも件(くだん、例)の釜を取出し、打ち振り給うとみえしかば、蘇我入鹿大臣の御首は、水もたまらず落ちにける。
 首もなき骸(むくろ)が居たる所をづんと立ち上がり、鎌足押し除け左直衣の下よりも氷のような剣を抜き、帝の御座に走りかかって座布団に抱きつつ切ったり突いたり力の限りを尽くして北枕にぞ伏しにける。
 されども帝はかねてより、荒海磯の絵の描いてある障子の間に隠れさせ給えば、更に災難もましまさず全くご無事であった、蘇我入鹿大臣討たれてその後、国土も富み栄え民の竈(かまど)も豊かなり。

《参考》

◎ 歴史では、中臣鎌足と言えば、中大兄皇子と共に逆臣である曽我入鹿を討ち大化の改新を成し遂げた人物として有名ですが、本曲の脚色では中大兄皇子の登場はありません。

◎ 1594年(文禄三年) 10月大29日、江戸亜相(家康)へ冷同道罷向対顔了、碁・将棋有之、見物了、舞之太夫高(幸)若一、以上五人来了、舞二番(イフキヲロシ、カマタリ)等有之、聞了、次夕食有之、相伴衆三十四人有之、酉下刻ニ帰宅了(言経卿記)

◎ 1613年「駿府記」本5月6日の項に、「幸若八郎九郎を御前にお召しになり、家康公を始め廣橋大納言、西園寺同中将、松本・滋野井少納言等の所望により祝一口、および大織冠・入鹿等を舞う。」とあります。

「幸若舞の歴史」


「幸若舞(年表)と徳川家康・織田信長」

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桃井直常(太平記の武将)1307-1367