八島(屋島軍)

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《内容概略》
1 丸山の麓の家の風情
 さるほどに、判官(義経)山伏姿にまねて、平泉を目指して奥州に下っていくが、七十五日で佐藤信夫の里(福島市)に辿り着いた。
 判官が武蔵坊に言う「東から出て照らしていた太陽は西の山の端にかかった。どこでもよいから家の構えが良い家を見つけ宿取りを頼む」。
 丸山のふもとに、すっかり荒れ果ててはいるけど立派な屋敷(丸山城)を見つけた。
 荒廃して檜皮葺きの屋根の軒は腐ってボロボロでいたわしい。
 古は由緒ある人の住まいか、門はあるのに扉がなく、塀はあれども仕上げがなく、山伏達一行十三人は一夜の宿を借りるため覗いてみた。
 すると、庭から見える座敷には一張の琴に一面の琵琶が立て並べて置かれているが弾く人は居ない。
 屋敷は荒れはてても変わらない南庭の桜。
 西の持仏堂の周りには理想郷をまねて四季の風情。
 先ず、
 東は春に似て、梅や山桜の梢に花が咲き乱れ、鶸(ひわ)、小雀(こがら)、鶯(うぐいす)が梅の枝に羽を休め、音をだしかねている所に、けいけいほろろの雉子(きじ)の声、けいならばけいとはなくして、何ぞや後のほろろの声、いつも春かと見えにけり。
 南は夏に似て、池を掘らせ中に蓬莱等三つの島を築き、島から陸地へ反橋がかかり、橋の下には浦島太郎の釣舟と理想郷を往来する舟に見立てた空舟に五色の糸を繋がせいつも夏かと見えにけり。
 西は秋に似て、四方の梢の色づき、白菊絶えぬ風情。
 北は冬かとうち見え、山岳は峨々とそびえ、冬にもなれば炭を焼く炭窯の煙青くて細く立ち上るはいつも冬かと見えにけり。

2 尼公の山伏接待
 あら面白やと眺め、宿を頼むことを忘れていた。
 武蔵が宿取りの法螺貝を吹くが誰も居ないようであり立ち去ろうとする時、戸の開く音がした。
 そこには七十歳近い小袖姿の尼公が水晶の数珠を片手に御経を唱え立っていた。
 実は義経の郎党であった佐藤兄弟(次信・忠信)の母親であった。
 尼は一行の正体が義経たちであることを知らぬまま快く迎え入れ、徳利の口には蝶形の紙で飾った酒徳利の一揃えを女房たちに持たせ、尼公も出てきてやたらと酒を進めた。

3 尼公の語り
 もてなした酒席で亡き夫佐藤庄司の思い出話をする。
 我が先祖は、陸奥・出羽二カ国の秀衡の妹(清衡の子息清綱の娘で秀衡とは従姉妹)で庄司の後家、佐藤次信・忠信兄弟の母である。
 御大将判官がこの国に下りて佐藤元治と藤原秀衡を招集し十万余騎にて御上洛(平家追討)の御時、君は向かいに見える麓に陣を敷かれた折、夫の庄司は酒や食事を差し上げた。
 次信・忠信兄弟は君のお供をすると申しあげた。佐藤元治がこれを聞し召し「年取った両親を最後までみとって世話をせよ」と説得したが聞き入れなかった。
 次信・忠信兄弟は義経の郎党として西国へ赴く折、父親の佐藤庄司が白河の関まで見送り「弓取りは名こそ惜しく候へ、人は一代、名は末代、名に付いたらんその傷の末代までもよも失せず、どうせ殿のお供をするなら命を大切にし手柄をできるだけあげ、庄司の家の名をも上げて賜べ」と、はなむけの言葉を送った。
 その後、愛する子供たちを案じる余りついに病の床に伏してしまう。
 佐藤兄弟の嫁たちは、慰めんとそれぞれの夫の鎧を身に着け、それぞれ次信・忠信に成り代わりその雄姿を装って見せた。このようにして佐藤庄司は兄弟の名前を呼びながら亡くなっていった、と尼公は涙ながらに語った。

4 弁慶の八島軍語り
 これを聞いていた義経は、尼公が今までどういう素姓の人かと思っていたが、私の命の身代りとなって亡くなった兄弟の母親であったのかと分り心を動かされたが、兄弟を連れ帰る事も出来なかった面目もなく、昔の義経だと名乗ることも出来ず弁慶に命じて、佐藤兄弟の最後をよそながら見てきたように語らせることにした。
 元暦元年(1185)、頃は三月下旬、四国讃岐の八島の磯を通りし時、源平の合戦(屋島の戦い)の最中と見ゆる。
 沖の御座船より乗ったる大将と思しき人の肌には何をか召されけん、大口袴のももたちを紐に深く挟みあげ卯の花縅の鎧を召し梨子打烏帽子をおっかぶって、白綾たたんで鉢巻きにむずと締め、びょうどう作りの五人張りの強い弓と矢を手に持ち、船梁に立ち上がって名乗られたる。
 ただ今この許に進み出でたる兵はいかなる者と思うらん、桓武天皇の第三皇子九代の後胤門脇の二男能登の守教常、惣門の渚へ度々に通うといえど未だ東国の大将に見参せず、東国の大将に見参。
 また、源氏の陣よりも大将と思しき人の進み出でさせ給う。肌には何をか召されん、赤地の錦の直垂、緋縅の鎧、同じ毛の袖、五枚甲に鍬形打って竜頭据えたるを猪首に召され、腰には先祖伝来の太刀、二尺七寸の金作りの御佩刀腰に吊り下げ、二十四本の切斑の矢を矢筈が肩越しに見えるよう高く差し背負って、三人張りの弓の真中握り、丈が四尺七寸の真黒なる馬に金で縁どりされた鞍置かせ御身軽げに味方の中をしずしずと歩み出て、鐙を踏ん張り鞍笠に突つ立ち上がって名乗られける。
 ただ今この許に進み出でたる兵はいかなる者と思うらん、事もおろかや清和天皇に十代、源九郎義経、惣門の渚へ度々において向かうと言えど、未だ能登殿とやらんに見参せず、能登殿ならば珍しい対面。

5 継信、判官の身替りになる
 能登の守教経は矢を一筋奉らん狙いどころをうけたまわたいというと、源氏の御大将逃れがたく思い紅に日出したる扇を開き胸板にあてた。矢は義経に狙いを定めた。既に御命危うく見え差す所に、源氏の陣より伏縄目縅しの鎧を着て葦毛の馬に乗った武者一騎、君の矢面に駆けふさがって名乗る。
 ただ今陣頭に進み出でたる兵はいかなる者と思うらん、奥州の住人に佐藤の庄司が二人の子、兄の次信也、能登殿の大矢を真直中に受け止めて死んで閻魔の庁にて訴え(の証拠)にせん。
 能登殿が、なんと剛なる兵かな、一騎当千とはかかる者を言うらん、忠義の侍を教経の手に掛け射落としたとあれば負けるだろう戦いに勝てるということでもない、と言ってつがえていた矢をはずされた。
 ところが、教経の配下にいた童の菊王丸がこれに反対して意見を述べた。
 次信・忠信兄弟は剛の者、一ノ谷八島で敗れて退去する際、ここかしこで名乗りをあげており、先帝・女院の御座船をも恐れず錆びた矢を射かけてきた乱暴者にございます。彼らは異国の張良をしのぐほどの武士でございます、武運を守る神への御供えとして早く矢を放ってください。
 これを聞いた能登殿は納得し放った一矢が、次信の胸板に当たり血煙がぱっと立ち落馬した。

6 忠信に射られた菊王丸の死
 能登殿の童の菊王丸は、次信の首を取ろうと船より海に跳んで下りたが、兄の首を敵に渡すまいとした忠信は、この菊王丸の膝を見事に射抜いて阻止した。菊王丸は尻もちをついてどっと倒れる。
 忠信は兄の弔のために童の首とって仇討ちをしようと太刀を抜き振りかざして全力で菊王丸に近づいていった。
 これを見た能登殿は少しの間でも自分の陣内にいた下僕の首を渡しては弓矢の恥辱と、船から飛んで下り菊王の上帯を掴んで船の内へえいやつと投げ入れたところ船の船枻にしたたか投げつけられ、頭微塵に砕けて死んでしまった。

7 源平の駆合合戦
 源氏二百余騎矢種尽きれば打物の鞘をはづしわっと言って駆け合わせ、平家の追わるる時もあり、源氏の追わるる時もあり、追いつ捲きつつ駆けつ戻りつ夕刻になり、騎馬戦で正面からぶつかり合いの合戦に、源氏平家疲れつつ、互いにさっと引きだした。
 これを見た弁慶は平家方の軍兵ども憎し汚しと前に進み、長刀で三十六騎をきり伏せ大勢に手を負わせ、東西へばっと追い散らし長刀肩に打ち担げて味方の陣に引きたりける。
 平家の軍兵ども船より上がりし時は七百余騎と見えたが二百騎ばかり討たれ沖へまばらに引いていく。源氏二百余騎も八十三騎討たれ瓜生山(牟礼高松のなかなる野山)に陣取つたり。

8 忠信、瀕死の兄と再会
 夜に静まりければ、判官は武蔵を召され、奥州の忠信を呼ぶように指示された。
 義経に手負いの兄の所在を尋ねられ、忠信は昼の軍場となった付近を探しだした。
 戦乱の時なれば手負い死人の伏したるは算木を乱したように散らばっている。
 手負いどもの声耳に触れて哀れなり、州崎に寄せる波の音、浜千鳥の友呼ぶ声我を問うかと思しくて心細さは勝りけり。
 あら無残や、浜に引き上げられた船の辺りに下人の男に看病せられていた次信を見つけ出す。
 傷の具合を尋ねると、我が身の事は何とも言わず、味方の損害はいかほどか大将は御無事かおまえも傷はないかと心配する。
 忠信はあまりの嬉しさに州崎の堂より戸板を取り寄せ牟礼高松に上がりければ東の山の端に月ほのぼのと出でにけり。

9 継信の最期
 判官御座を寄せて次信の頭をお膝の上にかき乗せ思い置くことあれば只今申せ明日になれば奥州に使いを出そうと仰せける。
 瀕死の次信は人々に別れを告げ年老いた父母に対し、親よりも子が先に死ぬ雪見窓から見える雪の重みで折れた竹のように物事は逆になってしまったが形見に遺髪を母に送るよう言い、さらに弟の忠信の行く末を弁慶に託して死んでいった。惜しむべし朝の露と消えにけり、上下万民をおしなべて哀れと問わぬ人ぞなき。

10 義経、愛馬を供養に手向ける
 これを深く悲しんだ義経は次信を手圧く供養し、さらには次信が生前欲しがっていた義経大将の愛馬大夫黒(鵯越を行なった名馬という)を手向けた。義経は次信の望み通り与えていなかったことを深く悔いた。すると突然その馬が死んだので、人々は次信が冥途まで乗って行ったのだと感じたという。

11 忠信の事と義経の名乗り
 義経軍は、明くる日、志度の浦(讃岐国)に陣取った。
 熊野の別当湛増一千余騎の勢(水軍)にて味方に参られ、源氏の御勢一千余騎になり給い、驕る平家を事故なく平らげ、三種の神器事故なく都に返し給いけり。
 弟の忠信の方は、西国をさして(都を落ちて)大物浦を船出した義経主従が遭難して吉野山中に逃げ籠った時にお供しており、大衆達の心変わりの有し時、忠信は義経の身代わりとなり、大将着用の長めの大鎧をつけ、たった一人で嶺に残り、判官殿と名乗って吉野山の法師とさんざんに合戦した。
 こうして見事、義経一行を逃がした忠信はそののち都で自害(潜伏先を襲撃され、奮戦するも多勢に無勢で自害)して果てたという。
 弁慶は兄弟の最後を語ると、兄弟の形見の品を取り出して尼に奉った。
 尼公はその品々を顔や胸に押し当てて泣き焦がれた。
 これを目にして耐えられなくなった義経は、とうとう自分の正体を明かした。
 尼公は、子供の事はさておき三代相恩の君を拝み申こそ嘆きの中の喜びと喜ぶ事限りなし。
 やがて平泉への使者が立てられ、平泉の藤原秀衡が喜んで嫡子西城戸(国衡)、二男泰衡を先として三千余騎の勢にて義経一行をお迎えにきた。
 そして、平泉に入った義経を衣川高館と申す所に新築の御所を立て、柳の御所と申して、秋田、酒田、津軽、合浦、外の浦からの食膳を毎日設けて饗応し、大切にお世話申し上げた。
 かの秀衡が心中をば、貴賤上下おしなべ、感ぜぬ人はなかりけり。
 
(注) 幸若舞「八島」は、幸若舞の始祖である桃井幸若丸が最初に節づけをしたものとされ、幸若舞の原点となった音曲で由緒ある内容を持っている。
 桃井直詮(幸若丸)の肖像画の中に、「曾(かつ)て貴人の御殿にて、名誉を発し尊卑ともに袖を連ねあるいは牛車馳せて、語り舞う源平合戦の精妙さを見に集まった。だがそれが白山の神の助があって初めて生まれた舞の技であることを誰が知ろうや」との賛令文がある。


「幸若舞の歴史」


「幸若舞(年表)と徳川家康・織田信長」

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桃井直常(太平記の武将)1307-1367