景清(要約版)

【幸若舞曲一覧(リンク先)】
《内容概略》
1 東大寺供養の警備陣
 今度、頼朝の御代を召されし由来(征夷大将軍の院宣を受けたこと)を詳しく尋ねるに、御舎弟九郎御曹司(義経)の御心猛く渡らせ給う由来なりとぞ聞えける。
 (平家滅亡からまもなく、源頼朝は源平合戦で焼け落ちた南都東大寺を再建。それに伴う落慶法要が行われた。)
 建久元(1190)年に頼朝初上洛してから二度目(建久六年1198)の御上洛をされ、(後鳥羽天皇、)源頼朝らが奈良東大寺の落慶供養を展べられ、恒例により秩父殿(畠山重忠)が大将軍本陣前の先陣を勤められたと聞く。
 さる間、頼朝が畠山重忠と、その家来の本田次郎親経を召され、この度も畠山重忠が先陣を賜わった。
 都のみに限らず五畿内(大和・山城・河内・和泉・摂津)の者どもが僧侶も俗人も含めて大勢群がると聞く。
 段取りを命ぜられた本田親経は、童二十人に赤地に錦の直垂を着せ、組糸で丸巻にされた鞘の太刀を担がせ右手脇を通らせ、また、白地の直垂を着た者二十人に烏帽子折を着せ、白がらの長刀を担がせ左手脇を通す事となった。
 秩父殿(畠山重忠)の御勢は七千余騎、鎌倉殿の御勢は十万余騎が、平安の京を立たれ南都(奈良)へと急いだ。
 東大寺の四つの門(南大門、西大門、中門、転害門)の警護は、結城、長沼、小山、宇都宮信房の方々で固めた。
 特に転害門は重要であるため、畠山重忠配下の将兵で、四天王や武将保昌(藤原道長に仕えた武略の勇士)にひけを取らない兵五百余騎にて固めた。
 今、南都の供養は真最中と聞く。

2 景清、頼朝を狙う
 その中に、とりわけ物の哀れと申すか、平家の残党・悪七兵衛景清こそ、世の中に貧ほどつらい事はなく、親しき中は遠ざかり、疎き人には卑しまれ、貧者の家に生まれるほどつらい事はないものである。
 この悪七兵衛景清は、頼朝が南都の大仏供養に訪れるとのうわさで知って、亡き主君(清盛三男の平宗盛)のために頼朝を暗殺することを決意し、尾張の熱田を出て上洛していた。
 景清は、京の清水坂の傍らに、契りを交わした仲の遊女阿古王が住んでいたので、南都の様子をくわしく聞き、喜んで南都へ出発する様がこれまた面白い。
 萌黄匂の腹巻・草摺長めの鎧を着て、夏用の衣を上に着て、上帯をしっかりと締めて、長絹の袈裟で頬被りし、主君より頂いた痣丸(備前助平の太刀)を十文字に差し、藍色革鼻緒付の漆塗の高下駄を爪先立って履き、抜けば玉散るばかりなる反身の薙刀四尺八寸あるものを右の脇に抱え込んで、秩父殿(畠山重忠)の固める転害門を通ろうとした。
 秩父殿配下の本田次郎親経が荒々しく問いただすと、小声で怪しい者ではない東大寺傍らに住まいする名は筒井淨妙明俊である通して下され。
 幕の内でこれを聞いた秩父殿が、北陸なまりで話すのはおかしい、通すな、抵抗すれば切れと命令した。
 正体のばれた景清は、履いた高下駄を脱ぎ捨て、三百余騎の真ん中で長刀振り回し、並はずれて強い兵三十騎ほどを一気に切殺し四方へ追い散らし、霧のように姿をくらませ春日山へと逃げ入った。
 明日には頼朝が般若寺に入ると聞いたので、山伏姿に変装した。
 柿色の鈴懸(法衣)、濃紺の染布の頭巾、笈を肩に打ちかけ、猪の目の彫刻の入った大まさかりを担いで吉野大峰山で修業する山伏達二十人を伴って般若寺前で待ち伏せした。
 畠山重忠は、おびただしい山伏の面々を見て、陸奥の松島、岩島、平泉、あすかけ、岩屋、外の浜、大峰行場を巡る山伏と思うが、しかし、前から九番目、後から十二番目に何とも背の馬鹿でかい上品な僧を真の山伏と思うなよ、あれこそ昨日転害門にての無精ひげ面、本田親経に追い詰めからめ取って君にお見せ申せと指示した。
 本田親経の勢五百余騎が太刀長刀の鞘をはずし、お止まりあれと言えば、景清背中に駆けたる笈を投げ捨て刀を脱いで五百余騎を討破り、またしても霧のように逃げ京へ上った。
 この様は、漢の劉邦の武将にも似ていた。

3 変装した信救をまねる
 ここに一つのたとえがある。高倉宮(後白河天皇第三皇子)三井寺へ行き南都への牒状を託す。
 僧侶一同で評議して返牒を信救(覚明)に書かせる。この中で平清盛を無駄な存在であると書いて送った。
 その咎で信救(覚明)への討手、平家の難波次郎経遠、瀬尾太郎兼康の一千余騎が南都に攻め上ってきた。
 南都の僧侶一同は評議して心変りをした。これに裏切られた西乗坊(信救)は、乞食に変装し真黒な漆を買い躰全体に塗り漆かぶれの顔で蓑裏返しに着て破れ笠を首にかけ乞食姿で京に向け南都を出る。しかし、般若坂の辺りで平家の討手に行き違うが気付く者はいなかった。
 危険な場所を脱出し鳴海潟(名古屋市)に下り、医師を求めて療治し、平癒し熊野に越え新宮の十郎行家(源為義の十男義盛)に付き西乗坊と名乗った後、信濃に下り木曽殿(兄が木曽義仲の家臣)に付いた時には名を変え木曽の大夫覚明と名乗った。
 もし漆の知恵がなければ、西乗坊の命は危ぶまれていただろう。
 景清も、それを真似して漆を買って顔をかぶれさせ、それは耐えがたい痛さであったが主君の為と思って蓑裏返しに着て破れ笠を首にかけ乞食姿に変装して清水坂に潜伏した。

4 景清を重忠見破る
 清水坂の傍らには百四五十人の乞食が居たが、その中に混じりこんで「施しあれ」と言っていた所に、畠山と遭遇し、あの声は平家の侍大将悪七兵衛景清であると見つかってしまう。またもやこれと戦ったのち、舅の熱田大宮司を頼って尾張へと下った。

5 お尋ね者景清の妻阿古王
 頼朝は梶原景時に、景清の首に懸賞をかけるよう命じた。
 京の白河の辻に建てられた触書を見た阿古王は、景清を裏切り懸賞を得ることが得策と考え、六波羅の頼朝に対面し、景清が毎月十八日に清水寺参詣すると密告して砂金三十両を手に入れた。
 そのことを知らない景清は、清水寺参詣のため京に戻り阿古王を訪ねた。
 阿古王は、景清に酒を飲ませ寝込んだすきに六波羅に知らせる。
 頼朝の軍勢が押し寄せ、目覚めた景清は阿古王の裏切りに気づき、阿古王との間にできた二人の幼児を裏切り者の子として不遇な将来を考え涙ながらに殺してしまう。

6 景清、大宮司を頼み熱田へ
 そして再び敵の包囲を突破し、熱田へと逃げ伸びたのである。
 さらに、このことを密告する欲深き阿古王に腹を立てた頼朝は、都内を引き回し稲瀬が淵に柴漬けにして処刑した。
 頼朝は梶原景時に命じ、景清の舅熱田大宮司を捕える。
 大宮司は処刑を覚悟して信濃や奥州に逃げるよう書状を出すが、景清は大宮司を助けるために六波羅に向かう。
 蹴鞠中の頼朝の前に現れた景清は、大宮司の身代わりになるつもりで抵抗せず捕縛される。
 大宮司は解放され国へ帰られる。

7 観音の霊力で籠破り
 景清は頑強な牢に閉じ込められ七十五日が過ぎたころ、牢の側を無頼の若者三人が通り話す声が聞こえる。
 いたわしい事よ、牢の中の者は誰か、あれこそ平家の侍大将の悪七兵衛景清が入っている牢である、平家の御代の御時は神通力を持って仏神の化身とまで言われていた、かの景清と申す者は、主家を失った今は神通力も役に立たなくなったのか、源氏の勝る兵にやすやすと生け捕られ牢に籠められているという。
 武士という者は、その豪勇ぶりが噂で聞くのと目で実際見るのとでは随分と違うものであるよとどっと笑って通る。
 牢の内で聞いていた景清は、言われることは道理なり、景清ほどの兵が僅かの牢に籠ってうき名を流す無念さよ、されば牢を破ってとも思うが、とがなき大宮司に再び憂き目を見せ申さんもいたわしいし、何心なく並び居たる牢の番人たちを打ち殺さんも無残なり、どうしたらよいものかとも思ったが、それも余りにも穏やか過ぎる、いやいや牢を破って末代の物語にならねばと思い。
 億の力を出したが牢はびくともしない。
 もとより観音を信じたりければと名号を唱えた。
 「南無や、千手千眼観世音、生々世々希有者、一文名号滅重罪、無上仏果得成就」
と三辺唱え右足をエイと引いた。
 誠に観音の救い不思議の方便にて、一尺三寸の大釘が切れて、縄は切れ、身を細めて牢の格子から抜け出し、にこりと笑った姿は人間業ではなかった。
 牢を出たお礼参りに清水の観音前で、
 「南無や、大慈大悲の観音、ヨモギ草(有難い衆生救済の誓い)」、さしもかしこき誓いの末、深く心に祈念しなお頼み有、どうか景清を地獄に落とさないでください」
と祈り、これより四国西国へと落ち行こうとも思ったが、このことで舅大宮司に危害を感じた景清は再び牢に戻った。

8 観音、景清の身替りとなる
 頼朝の命で梶原景季により、景清は六条河原で処刑された。
 偶然、清水寺参詣から六波羅へ戻った畠山重忠は、まだ牢の中に景清が居るのを見て、頼朝になぜ景清を処刑しないのかと尋ねた。
 そこで処刑された景清の首実検を再度してみると、それは千手観音の首であり五種の智慧の働きを表す宝冠から金色の光を放っており、皆が礼拝をした。

9 頼朝、生仏景清と対面
 景清の身代わりであることを深く感じた頼朝は、景清に郎党として仕えるよう言うが、主君の敵としての恨む気持ちは消えません。
 畠山重忠の小刀を借り、二度と頼朝を狙えないようにするためと、自分の両目をえぐったので、感心した頼朝は景清に日向宮崎の所領を与えた。

10 観音の利生を受け宮崎下向
 景清は日向国に向かう途上に清水寺に立ち寄り、三百三十三巻の観音経を読んで、三千三百三十三回の礼拝をした。
 すると内陣より金色の光輝いて、景清の頭を半時ばかり照らされた。
 こうして再び観音の御加護があり景清の両目が元通りに開いた。
 観音に深く帰依した景清は八十三歳で往生を遂げた。
 かの景清が心中、貴賤上下おしなべ、感ぜぬ人はなかりけり。

《参考》
 源平の争乱により、東大寺は、治承四年(1180)12月28日の平重衡による南都焼き討ちで大仏殿はもとより、寺内堂塔伽藍の大半が焼失した。
 復興には後白河法皇や後鳥羽上皇、源頼朝をはじめ、多くの人々が力を合わせて取り組んだ。
 俊乗坊重源が勧進帳を作り大仏の修理と大仏殿の再興を計ることに活躍。
 元暦元年(1184)源頼朝は、大仏鋳造にあたって鍍金(メッキ料として)砂金千両を寄進。
 元暦二年(1185)3月7日源頼朝は、重源に米一万石、絹千疋、を送り再建を助ける。
 文治元年(1185)8月28日に大仏(銅造盧舎那仏坐像)開眼供養、大仏鋳造にあたったのは宋人陳和卿でした。
 文治二年(1186)重源は、大仏殿造営のため周防国を東大寺造営料国として授けられるが、当時の周防の国(山口県)は、源平合戦の影響で疲弊し、労働力も不足していました。
 頼朝は、材木を切りだす人夫、造営料米について、地頭に命令書などを出すなど重源に出来る限りの援助をした。
 建久元年(1190)には大仏殿が完成。
 建久6年(1195) 3月12日に落慶法要が盛大に営まれた、後鳥羽天皇は公卿等を連れて行幸する、源頼朝もこれに従う。
 正治元年(1199)6月東大寺南大門上棟、重源は南大門の復興の工事を始める。
 建仁3年(1203)には再建事業が完成し、後白河上皇や源頼朝の列席の元、東大寺総供養が行われ、鎌倉時代の東大寺大仏殿として見事に復興を果たします。


「幸若舞の歴史」


「幸若舞(年表)と徳川家康・織田信長」

幸若舞曲(幸若太夫が舞い語った物語の内容)一覧を下記(舞本写真をクリック)のリンク先で紹介中!
幸若舞曲本 - 小.jpg 越前幸若舞
桃井直常(太平記の武将)1307-1367