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《内容概略》
1 時宗、祐経に止めを刺す
建久四年五月廿八日の夜半ばかりの事なるに、曽我兄弟はついに親の仇工藤祐経を討ち終え積年の恨みを晴らすことができた。
小柴の陰で暫く息をひそめていたが、兄助成が本望を遂げたのでここで腹を切ろうと言うと、弟時宗は、どうせのことなら頼朝は祖父伊藤の敵なれば、頼朝の寝所に乱れ入り一刀恨み申し名を後代に残すべきと答える。
ところで親の敵の工藤祐経に止めは差したのかと聞かれた時宗は、あれほど入念に殺したのだから何の問題もないと答えるが、それがそうでもなく、夜が明けて有りし処へ立ち帰り松明を照らし時宗は腰の刀を抜くと小耳の根元から差し込み止めを刺した。
2 曽我兄弟の十番切
豪雨が降りしきる中、覚悟を固めた曾我兄弟はこれを人々に披露し我を討てと名乗りを上げる。
ただ今頼朝の仮屋の御前にて親の仇祐経を討って出でる兵(つわもの)をいかなる者と思うらん。
伊藤の孫で河津の二人の子、十郎と時宗ここにあり。当君の御内に弓取りはおらんか、切合いして討ち留め、名を後代に残したいやつはおらぬか。
これを聞き集まってきた。十人の武士が曽我兄弟に切りかかってきた。
一番、大楽の兵馬の允と名乗って、珍しや我々の目の前での狼藉はさせないと切って出てきたが、助成が弓手の腕首を斬り落とした。
二番、愛甲の三郎と名乗りでて五郎と渡り合うが頬先切られて引き下がる。
三番、御所方の黒弥五と名乗って十郎助成と渡り合い肩先切られて引き下がる。
四番、茂木殿は五郎と渡り合い膝頭を切り裂かれ御内に引かれ下がる。
五番、伊勢の国の住人吉田三郎師重が十郎と渡り合い両膝払い切られ引き下がる。
六番、吉川と名乗り五郎と渡り合い高股を切られて引き下がる。
七番、品川と名乗り十郎と渡り合い馬手の小脇を切られて幕の内に引きさがる。
八番、甲斐の国の住人に市川の別当太郎忠澄が、夜討ちと言わんにどれほどのものかと言うと、五郎時宗は、汝は音に聞こえた碓氷峠なんぞで盗みなどしかできないのでは晴れの切合いは初めてであろうお手並み拝見とて持って開いてちょうど打つと細首が宙に打ち落とされ朝の露にと消えにけり。
九番、筑紫武者臼杵の七郎師重が十郎と渡り合うが額の真ん中を切られ引き下がる。
十番、新田四郎忠綱が物の区別や状況が暗くてわからないので松明を出せと叫ぶので、十郎助成は、かほどに多き人中で松明好みをする奴に手並みのほどを見せんと入れ違えて切り結ぶ。
3 十郎、忠綱に討たれる
しのぎを削りつばを割り切っ先よりも火焔をだし追いかけたり払いのけたり戦っていたが、十郎の太刀を受けはづし手負いを受けるとこれまでなりさらばと幕の内に引き下がって行ったが、十郎は追いかけ切り結ぶがついに十郎は討たれてしまう。
灯りがふやされ勇める兵がこの火の光に力を得てさんざんに切ったりけり。その夜五郎が手に掛け五十一人に手負いをおわせ、すぐ死んだのは一人別当太郎のみである。どうあっても今夜限りで打ち死にするつもりなれば人を殺傷するのはいたずらに罪となるだけ。
名字を名乗りて出るのは十人と記されるが、兄弟が手掛けて闇に紛れて向かってくる敵を手当たり次第に討つこと数知れず。
4 時宗、生捕られる
五郎時宗は兄の末期の言葉に励まされ、傷だらけになりながらも、覚悟して御所へと討ち入った。
それを知った頼朝は自ら討って出ようとしたが制止され、女装した五郎丸という者か待ち伏せした。その姿に油断した五郎時宗は生け捕りにされてしまう。
5 頼朝に尋問
頼朝に尋問を受けた五郎時宗は、狩場での敵討ちの所存と頼朝を狙った理由、今まで頼朝に認められず不遇の身であったことや、頼朝の郎党たちが役立づである事などを挙げ、頼朝への恨み、また後世に名を残そうとしたことなどを述べた。
頼朝は、臆せず語る五郎時宗の態度に感心する。そこへ曽我兄弟に討たれた工藤祐経の嫡子犬坊が現れ、扇で五郎時宗の顔をたたいたが、五郎時宗は立派な態度で黙って叩かれていた。
その場に兄十郎祐成の首が届けられると、それまで態度を崩さなかった五郎時宗が涙を流し白砂に泣き伏したのだった。
6 時宗、刑場に引かれる
やがて鷹が岡の刑場に引き出された五郎時宗は、集まってきた群衆に仏法を説いた。幼い頃から箱根山で仏道修行に励んでいた五郎時宗の説法は素晴らしく、人々は皆感じ入った。
そこへ、畠山重忠・和田義盛・北条時政ら従者達が五郎時宗の助命を嘆願訴訟したので、頼朝から助命決定の恩赦ばかりか本領安堵の御教書までもが刑場に届けられた。
7 時宗の最期
さる程に時宗、将軍の御意を記した御教書を頂き、涙を流しつつ、あら有難たや同じくはこの御状を兄助成諸共に拝むとだにも思いなば、いかがは嬉しかるべきに、惣領の助成今は憂き世にいなければ宗時一人命を長らへ惣領を継ぐとも生きたるしるし有るまじ兄に殉ずるのでただただ切らせ給え
五郎時宗は頼朝の深い慈愛に感謝しつつも、積年の恨みを抱いていた頼朝の傘下に入り、安堵と生きながらえるのを潔しとせず、凄惨な最期を遂げた兄に殉ずるべく、これを辞退し穀然と処刑を望み、仇を討った時に使った太刀にて斬首されていった。
見る人目を驚かし、聞く者もこれを感じ君も哀れと思し召し「かほど剛なるつわもの、昔も今も末代もためし少なき次第、荒人神に斎へ」とて富士の裾野に社を建て、兄の宮、弟の宮と申し斎わせ給う。
今当代に至るまで親の敵を討つ人は、この社にて祈ればたちまち叶い給いけり。