【幸若舞曲一覧(リンク先)】
《内容概略》
常葉御前が十七歳のときに平治の乱が起き、源義朝が討死、三人の幼児を連れて大和へ落ち延びる途中、雪の伏見で道に迷い山中の老夫婦に助けられこの庵で滞在中。
美しい上臈がいると聞いた里の五人の下女たちが、一目見たいと酒を持参し訪ねてきた。常葉は「男の心変わりで親もとに下る途中」と嘘の身の上話をした。(「伏見常葉」)
この境遇を知った五人の下女は常盤に同情した。
お酒を持ってまいりましたが、肴がなくては曲もなし(酒だけでは面白さがない)。
歌を歌い、舞を舞って上臈様(常葉)を慰めましょう
都の人は心が月や花に似せて歌を詠み舞いを舞われるが、我らは、夜中に床に就き早朝の鳥の鳴き声と共に寝室を出て、毎日の暮らしを立てる仕事にたずさわるという生活なれば、歌も舞も知らぬなり、しかし、我らが身に付けたこと、五月になれば田へ降りて、農夫に囃され拍子を揃えて歌う田植え歌があるので歌いましょうか。
この家の翁も、そうだそうだ、生まれ育った故郷の事を喜びである風情のない女房たちの田歌で良い、それぞれ一つづつ申せ、申せと言うので、皆が拍子を合わせて田歌を歌うのかと思いきや、五人はそれぞれの国が違い、一人は出雲、一人は播磨、一人は丹後、一人は和泉、今一人は遠江の者であった。
翁の仰せだ、それ歌え、やれ歌えと、やいのやいのと言い争う。中でも、
出雲の国の女房は年少し、おとなしく見えるが、問答は無益、我から歌い始めるから次々と詠い続けよと言うより早く、づんど立って時季外れの田植え歌を歌い始めた。
「田植えよや田植えよ、早乙女五月の農を早むるは勧農の鳥ほととぎす、やまがら、こがら、しじゅうから、この鳥だにもさ渡れば五月の農は盛んなり」
しどろもどろに歌い、舞を一手舞い納めさらに一声を挙げ
「めでたや有難や天照大神、熊野の権現、鹿島、香取、諏訪、熱田、住吉、賀茂の上下、祇園精舎の梅の宮(八坂神社)、八幡大菩薩(石清水)総じて神の御数は九万八千七社とぞ、聞こえける。高天原に神ぞ、まします。神の父神の母伊弉諾イザナミの尊也、わらわが古郷、出雲の国に立ち給ふ、須佐之男命、されば神の御為に総政所この度歩みを運ぶ輩(ともがら)、誰か利生を受けざらん、この利生を受け取って只今のお座敷の上臈に参らせん、あらめでたや」と歌った。次を見れば、
播磨の国の女房づんど立って歌う
「播磨なる高砂や、高砂や、尾上の松は高からで下に住むは何やらん富と幸い、ざっと請取って只今の上臈にこれを添えて参らせんあらめでたや」
と申して盃を取りお酌に参る。次を見れば、
丹後の国の女房が歌う。
「丹後の国には久しき(長寿)人を尋ぬるに浦島の明神七百歳を保ち給ふ、億効成相(成相観音寺)、天の橋立、久世戸の文殊の知恵と才覚をざっと受け取って、只今の上臈の若君様に参らせん、あらめでたや」と歌う。次を見れば、
和泉の国の女房、年は十八ぐらい顔に紅葉散らして歌いかね、うつ伏しているので、歌い終わった女どもが何をしているかと袂を取って引っ張ると、長柄の銚子をかざして柄杓取って担げ座敷を二三度廻って歌う。
「めでたやな、わらわが故郷和泉の国の者なれば其の名によそへて泉が湧いて候ぞ」
そこてせ、残りの女ども皆が拍子を打揃えた。
「や御前、我御前、祖忽なる事を申しぞ、いずくのほどに湧いたぞ、あう、ここのほどに湧いて候、長柄の銚子に、しろがねの柄杓にて汲むとも取るとも、よも尽きじ、かかるめでたき泉をば、誰にか参らせん、参らせん、あう、そよ、まこと忘れたり、只今のお座敷の上臈に参らせん、あらめでたや」と歌った。その次を見れば、
遠江の国の浜名の橋詰の者、名所なればいかに面白かろうと心を澄まし目を澄ましたところ、この女は舞を舞わずに、座敷下の板敷に行くので、皆が歌わずにどこへ逃げるかと責めれば、さもあらず、この女着物の褄を高々と差し挟み、袂より襷を出してさっと掛け、所々破れた古笠を持ち調子よく歌った。
「遠江なる、遠江なる、浜名の橋の下なるは、鯉か鮒か鮠(はや)の子か、いかに汝らが驪竜めく共(玉持つ黒竜なりとも)、臥龍めくとも、しや取ってうち上げて、只今のお座敷の肴に参らせん、あらめでたや」
と、曲に合わせて狂いけり。
座敷中の人々は滑稽な歌と舞いに一同が大笑いしたほどおもしろいものであった。
跳ねるばかりに舞い納めの座敷となった。
若君の御果報、末繁昌と聞こえけり。
《参考》
天正十年(1582年)五月十五日「信長公記」に、織田信長は、徳川家康の甲州平定の功績として駿河・遠江国を与えている。この時徳川家康は返礼の為に、穴山梅雪を伴って安土城を訪問しております。信長は家康接待の為の御馳走世話役を明智光秀に命じています。
また、五月十九日、信長公は、安土城下の惣見寺で、幸若太夫に舞を舞わせてご覧になられました。次の日は「四座(大和四座は結崎(ゆうざき)観世座・外山(とび)宝生座・円満(えま)井(い)金春座・坂戸(さかと)金剛座)の能では珍しくない。丹波猿楽の梅若太夫に能を演じさせ、家康公がこのたび召し連れて参った人々に見せ申して、道中の辛苦を慰め申すように」というご意向でありました。
安土御山の惣見寺にては、信長公主催による家康に対する饗応の宴で、幸若舞が行われております。
この日、お桟敷には、近衛(前久)殿・織田信長公・徳川家康公・穴山梅雪・長安・長雲・夕庵と、松井有閑(信長に幸若舞を指導した元清洲の町人)らが入りました。また、舞台と桟敷との中間の土間であるお芝居には、お小姓衆・お馬回り・お年寄衆、それに家康公のご家臣衆が座りました。幸若太夫のはじめの舞は「大織冠」、二番は「田歌」でありました。
舞の出来が非常によかったので、信長公のご機嫌はたいへんよろしかった。「お能は翌日に演じさせよう」とおっしゃっていたが、まだ日が高いうちに舞が終わったので、その日梅若太夫が能を演じ申した。
しかし、その時の能は不出来であまりにも見苦しかったので、信長公は梅若太夫をひどくお叱りになりました。大変なお腹立ちであったわけです。そこで幸若太夫のいる楽屋へ家臣の菅屋九右衛門・長谷川竹の二人を使者に立てました。
この時の幸若太夫に対する使者の口上は、かたじけなくも「上意の趣き、能の後に、(武仕舞として格式上の)幸若舞を仕ることは、まことに本式とは言えないのでありますが、殿が御所望しておりますので今一番舞を所望する」というものでありました。武士舞である幸若舞は、猿楽と言われた仮面舞である能に比べると、当時、格式が格段に上であったようであります。
江戸後期の大名松浦静山の書いた「甲子夜話」によると、江戸城内における年頭(正月)の将軍拝謁御礼席の着座位置は、幸若太夫のほうが、観世太夫よりも二間も上席にあったとの記載があります。また、徳川幕臣の名簿である武鑑の中には、幸若太夫が観世太夫の上席に名を連ねております。
安土城内では、幸若太夫の二度目の舞「和田酒盛」という曲が舞われ、これも非常に出来がよく舞われていました。信長公のご機嫌もなおり、蘭丸がお使いになって、幸若太夫を御前に召し出され、ご褒美として太夫へ黄金十枚を下されました。これは、当人の名誉であることは言うまでもなく外聞もまことにすばらしく、ありがたく頂戴申し上げたことであります。
次に梅若太夫に対しては、能の出来の悪かったことを「けしからん」とお思いになったが、黄金の出し惜しみのようにとられては世間の評判もいかがかとお考え直しになって、右の趣をよくさとされて、その後、梅若太夫にも金子十枚を下された。過分なお取り扱いでかたじけないことであったと記録されています。
この時の能は散々の不首尾で、信長は大いに腹を立て折檻に及んだだけでなく、明智光秀に対しても接待の仕方が悪いと打ち砕くほどの屈辱を与えております。
これ等が、光秀のそれまでに抱いていた怨念に火をつけ、やがて本能寺の変へと成って行くのであります。