信田 (しだ.信太)

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《内容概略》
 信田、志田とも書く。幸若舞の作品。平将門の孫信田小太郎(しだのこたろう)の話。
 平将門は乱を起し下野の国を占拠、平新皇と自称したが、藤原秀郷らに討たれた
 平将門の子・小次郎将国は「相馬」を称した。将国は父・将門が討たれたとき、家臣に我が子・文国を託して常陸国信太郡(茨城県土浦市)に逃れさせ、文国は長じて信田小次郎を称した。

1 相馬の御台、婿の小山に肩入れ
 すでに承平は七年にて改元し、天慶九年に変わる天暦十年の事(平将門の承平天慶の乱)で、相馬殿(将門の子)の姫君を小山太郎行重(藤原秀郷流の豪族)に嫁に取らせられる。
 小山の太郎行重は姫君(千手姫)を迎え喜んで、舅(相馬殿)の死者の霊魂供養を行い、山河の殺生を禁断し、ある時は布施をし、またある時は経を書き、心を籠めて供養した。
 信田にいる (夫の相馬殿と死別した)御台所はこれを伝え聞いて、小山太郎行重は荒男かと思っていたら情けのある人で親の事を思う世に稀なることで、ましてや見知らぬ舅をかように深く弔うとは頼もしい心がけである。
 ある時、御台所、将門以来の重臣の浮島太夫を呼んで仰せけるは、相馬殿の末期の時の覚えは忘れられん、あれほど多くの所領があるのに姫に一所も譲らなかった、(常陸国の)信太の庄半分を小山太郎に与えてやれば信田にとっての後援者となる頼りがいのあるやつだと相談する。

2 小山、信田殿の全所領を横領
 重臣の浮島太夫はしばらく黙って答えようとしなかったが、しばらくして、亡き殿が悪い御処置などを言い残しておかけるでしようか。
 武家では姫はついには他人となるもの、婿は姓を異にするもので近い関係ではない。
 格別にお思いになるのなら折々の引出物に宝をば尽くさせ給ふとも、所領におきては一所も譲らせ給うべからず、人には貧欲虚妄(欲しい物は騙してでも手に入れる)とて欲心内に含めば親しき中も疎(うと)うなり候。
 よそよそしい他人行儀の御対応が、逆に子々孫々までの喜ばしい関係を保つこととなるでしようと、すげなく反対した。
 御台所は、重臣浮島太夫の反対を押して、娘婿の小山行重を信頼してしまい、亡き夫の所領を分け与えて、一人息子の信田殿の後見人にしようとした。
 御台の御意も薄くなった浮島父子六人は思い切って信太(茨城県つくば市)の河内に引き籠り隠居してしまった。
 御台所は、信田は未だ幼稚なのに、大事な地券(所領の証書)と丸かし(代々伝わる文書一揃)を小山太郎に預けてしまう。

3 御台と信田を追放
 重臣の浮島太夫が隠居すると、小山太郎は所領や地券全てを押領し挙句の果て、信田殿母子を追放してしまった。
 しかたなく、信田殿母子は甲斐の国の板垣を尋ねたが、家は荒れ果て行方知らず。
 母子の後を追ってきた相馬先祖の家人猿島兵衛、村岡五郎、岡部弥次郎、田神左衛門ら十一人と合流し喜び合った。
 従う幾人かの郎党の勧めもあり訴訟のため上洛しようとする。
 これを知った小山太郎は鹿島神宮の神主を脅して調伏を強要する。
 呪いを受けた御台所が重病にかかり、近江の国の番場の宿(滋賀県米原町)あたりで亡くなってしまった。
 ここまで従ってきた十一人の郎党たちも、運は尽きたとみて皆去ってしまい、信田殿は天涯孤独の身となってしまう。

4 浮島大夫と小山太郎の合戦
 信田殿は諦めて小山太郎を頼るが、門前払いされたので父の御墓の所に行くと、偶然に隠居していた重臣の浮島大夫に出会って助けられる。
 これを知った小山太郎は、執事の横須賀を大将とした軍勢を浮島大夫の所へおくるが一の木戸攻めで大勢討たれ引き返してきた。
 さらに小山太郎が舎弟三郎行光三千余騎で戦うがまたもや大勢討たれ引き返してきた。
 さては小山自らが出陣することとなり、常陸、下総両国の全軍で攻撃する。
 浮島太夫は妻子とともに迎え撃ち戦う。

5 浮島妻の奮闘
 特に浮島太夫の妻の弥陀夜叉女は、生年五十六歳白髪交じりの髪を唐輪に上げ紅の袴の下に膝鎧に脛当し萌黄匂鎧を着て黄楊の棒を持ち「いかにや、小山の人々、我をば誰と思うらん陽成院(清和天皇第一皇子)より三代(源満仲の嫡男)なり、渡辺党の大将軍、弥陀の源次が娘に弥陀夜叉女とは自らなり、我と思うらん人々駆けよ、手並み見せん」とて、源頼光の家臣渡辺党の血を引く剛の者で、自ら敵陣に駆け入り奮戦する。
 櫓の上で、これを見た浮島太夫、「子供らが剛なるは道理、母の心が剛なれば」と、信田殿に「こちらへ御出あれ、女戦を御覧ぜられ給へ、例少なき事ども、将門は御眼に二つの瞳があって関八州の王となったが、君にも弓手の御眼に瞳が二つましませば王位までこそおはせずとも、必ず坂東八カ国の主とならせられる、必ず二十五で御代に立たせられる、さらば」と櫓から飛び出して行った。

6 浮島夫婦の最期
 この戦いも夜日七日、討たれるものは数知れず、浮島大夫の子供も五人と申せども、ここかしこに押し隔たり、一人も残らず討たれたり。
 ついに大軍の前に力尽き、夫婦互いに刀を抜き持って、刺し違えて死んだるを、惜しまぬ者はなかりけり。
 これを見た信田殿は、生きていても仕方がないと腹を切ろうとしたが生け捕りされてしまう。
 これを聞いた信田殿の姉千手姫(小山の妻)は、信田殿が捕えられている小山太郎家臣の千原太夫の屋敷を訪ね、密かに持ち出した地券と丸すしを信田殿に手渡す。
 小山太郎は、家臣の千原大夫に対し、信田殿を湖に沈め殺すよう命じた。
 預かりの信田殿を湖に沈めたと嘘をつき逃がした千原大夫は、小山太郎からの七日七夜の拷問を受け死んでしまう。

7 信田殿、人買いに売られる
 逃げ出すことに成功した信田殿は、近江の大津に辿り着いたとき、人買に騙されて鳥羽、堺、四国、西国へと売られてゆき、後には北陸道の灘(海洋荒い地)、若狭の小浜、越前の敦賀、三国の湊、加賀の宮ノ越(金沢市)と諸国を転々と売られてゆく、下々の労働など知らぬ高貴の出自ゆえ、売られた先々で役に立たぬと疎んじられ、ついには放り出されて乞食となる。
 流れ流れて能登の小屋の湊、そこで盗人一味に間違われ、若者に殺されそうになるところを通りかかった女房に助けられる。
 女房宅で介抱されていた信田殿は、陸奥国の外ヶ浜の塩商人に引き取られ塩焼きを手伝うようになる。
 陸奥国の外ノ浜塩路の領主である庄司殿が、浜出して夜もすがら月を眺めて遊ばれしが、塩焼きしていた信田殿を見て、「ここで塩焼く童の目の内に気高さよ、物腰の上品さは尋常ではない」と只者ではないと気づき、「我この年になるまで子を持たず我が子にせん」と自分の養子にする。
 
8 国司の前で名乗り世に出る 
 陸奥の国司が多賀の国府(宮城県)に来たとき、信田は老齢領主庄司殿の名代として国府へ赴いた。
 国司は、領主本人がやってこないことに怒り出し、上を軽んずるのであれば塩路の本領ことごとく召し上げるとの御諚。
 これを聞いた信田殿は、我が身の素性を名乗ろうと思った、しかし国司が小山太郎の内縁の人ならばと迷っていたが、今名乗らねば養子の父母の恥、退席させられるのも残念と、身に付けていた我が身を証する系図を取出し、正直に自分の素性を説明する。
 系図には「桓武平氏の第三皇子より六代の後胤、平将門の御孫、相馬の実子、信田小太郎」と書かれており、五十四郡が其の内にこれ以上の家柄はいないと高貴な血筋を知った国司は、信田殿に陸奥国を預け国司代理の目付とした。
 国司は、信田殿と小山太郎の所領問題を解決するため、都へと向かった。
 さるほどに信田殿、昨日までは塩を焼き憂き身を焦がし給ひしが、今日はいつしか引かへて、五十四郡の主となり国を平らげ給ひけり。

9 姉、尼姿で信田殿を探す
 その頃、小山太郎は大事な地券がない事に気づき、犯人として信田殿の姉である妻を家から追放する。
 追い出された信田殿の姉は乳母を伴い、信田殿が身を入れた内海に沈まんと浜路にいってみると、信田殿を逃がして殺された千原太夫の後家に出会い、弟信田殿が生きていることを知った。
 信田殿の姉は喜んで、乳母と一緒に出家して比丘尼となって弟を探すため都に上って行った。
 三十五日かかって、常陸から京の都に着くと清水観音に参り、そして天王寺、住吉、根来、粉河、熊野の那智大社に参った。
 それから四国、淡路島、筑紫、長門の国府、赤間ヶ関、芦屋の山鹿、博多の津、志賀の島、名護屋、瀬戸、平戸の大島、松浦、弥勒寺、静の里、くわんぎ、五島島、伊王が島、壱岐の本居、日向の国に土佐ノ島、紀伊の里に淡島、豊後、豊前、肥後の国に聞こえたる踊山水神社を越え、阿蘇の岳、筑前の国に生の里、周防の国、播磨の国、堺の松、兵庫、志賀、愛知、駿河、待つ宵の月の雲間を伊豆の国、信太にはいつか奥州まで三年三月がその間、「信田の小太郎なにがし」と問へど答える者はなし。
 その年の文月(七月) 多賀の国府に着く、十四日盂蘭盆にて上下万人押し並べて慈悲を施す日になっていたので信田殿も父母供養のために辻々に札を立て僧侶等に施しを与えた。
 信田殿が両親の供養をしている所に、諸国を巡る尼を見かけて持仏堂に招き入れる。

10 信田殿、小山に報復
 念仏を唱える尼の声に聞き覚えがあり、廻国比丘尼は回向の鐘打ち鳴らし「父相馬殿、母御台、信田殿成仏得脱成り給え、信田殿未だ憂き世にあるならば、この経典の功徳の力により信田の小太郎に今一度会わせ給え、南無三宝、南無三宝」と回向の声を挙げる。
 これを聞いた信田殿は間の障子をさっと開け姉千手の姫と巡り会う。
 姉と再会して力を得た信田殿は、軍勢を集め小山太郎に報復することを決める。
 奥州五十四郡の中からよかりける兵三千余騎選んだ。
 この事に気づいた小山太郎は陸奥を飛び出し、都へと逃げた。
 都に行っていた国司は信田の安堵を申し給わって国に下る道で偶然に小山太郎と遭遇する。
 国司は小山太郎を捕まえ陸奥国で信田殿に引き渡し、小山太郎の首は刎ねられ復讐は果たされた。
 やがて信田殿は上洛し、帝に拝謁して坂東(関東)八か国を下された。
 信田殿は自分を売りとばした人買いを捕まえて処刑し、助けてくれた浮島太夫の孫三人には三千町を、千原太夫の妻子たち恩人を探し当てて所領を与えた。
 やがて御身は信田の河内に御所を立て御年廿五にて御代に立たせ給ひて、日番当番勤めさせ、栄華に栄え給ひける。
 姉御の比丘尼大方殿と申て(姉に母親と同じ待遇で)、いつきかしづき給ひし、末繁昌と聞こえけり。

《参考》
 主人公が人買いの手を転々として辛酸をなめ、将門の裔を示す系図の巻物で貴種の氏素姓が認められ復活する話である。説教「山椒大夫」との共通性が強い。

「幸若舞の歴史」


「幸若舞(年表)と徳川家康・織田信長」

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