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《内容概略》
1 頼朝父とはぐれる
義朝の三男童名は文殊子元服し給ひてその名を兵衛佐頼朝、いまだ若にておはせしが待賢門の夜戦にかけ負けさせ給ひ
平治の乱に初陣した頼朝は、待賢門の夜戦で敗北した父義朝に従って東国をさし、落ちて行った。ところが途中、西坂本の先で暗い雪の夜、下がり松(京都左京区)の辺りで列に遅れ、吹雪の山に道を見失い、父・兄たちとはぐれてしまう。
御年十二歳、都に居た時は輿車かたまには馬に乗るのが普通であった身が、徒歩裸足での雪道で、源氏相伝の鎧産衣は小原の里(大原)に預け置いたが、源氏相伝の名刀髭切ばかりは命と共に持ち歩いた。
2 草野庄司の助け
夜も明け、追手もかかり氏素性もわからぬ雑兵の手にかかるぐらいなら、潔く自害せんと懐から法華経一巻取り出して心静かにしたところへ、京に向かう蓑笠姿の旅人二人が通りかかったので助けを求めた。
旅人は、北近江伊吹の裾に住む草野庄司と名乗り、我が子藤九郎が殿のお供で待賢門の夜戦で味方が敗れ行方知らずになり都に探しに行く途中なれば、今この人を助けていると我が子はどうなるかと通り過ぎようとした。
では、運命尽きたので死骸を埋めてほしいと腹を切ろうとすると、庄司は刀にすがり付いて、我が子と似た年頃、父母この事を伝え聞いて庄司は鬼畜かと思われると、蓑で巻き隠し十文字に縄で結んで供の男に背負わせ、京には向かわず、片田へと下った。
途中、落人狩りの横川(延暦寺)法師の大将大屋ら五十余人に止められるが、元旦用の食料品を坂本に運ぶ途中の者とやり過ごし、草野の里にてかくまわれた。
国内知れ渡っていることだが、左馬の頭義朝が尾張の長田で討たれ首は獄門になったと聞いた頼朝は、いかに庄司、我を誰と思わん、義朝三男、童名を文殊子、元服して頼朝なり、父は討たれ、首は獄門にかかったのであれば、都に上り父の首一目見て弔いたい、さらばと立ち去ろうとする。
庄司も女房も、さては、我が子九郎の主君でありましたか、我が子と離れ、君と別れれば、今後我らはどうすればよいのかと袂にすがり付いて泣いた。
頼朝は、源氏の宝刀髭切をここに置いていくから美濃の国青葉の長者へ送ってくれ、さらに岩切という名の八幡殿の刀を形見に庄司に取らすので、世に出たらこの刀をしるしに訪ねてきてくれと、我が身は脇差のみ差し編み笠にやつれはてた姿で屋敷を出て都に向かった。
3 頼朝、宗清に捕まる
さて、六波羅の御所では、戦の功労者への恩賞である領地を授けていた。
弥平兵衛宗清は、美濃の国垂井を賜わり、下る途中、今津河原を通る時に編み笠で顔を隠して通る怪しき者に出会い頼朝を発見する。
これは天からのご褒美と生け捕りし、美濃へは下らず六波羅へ引き返した。
平清盛喜んで、義朝は討たれ、悪源太(源義平、六条河原で処刑)、朝長(父義朝と青墓の宿で傷口が悪化し父の手で害された)は腹切り、頼朝は生捕られた。
今は誰も残って平家に敵となる者はいない、清盛の父平忠盛の命日なので仏事が済んでから頼朝を切ろう。それまでの間、宗清に頼朝を預ける事となる。
4 宗清夫婦の恩情
宗清夫婦は頼朝を憐れんで親身になって世話をするが、未だ幼稚な身なのに法華経を肌身離さず持って、念仏や読経して亡霊の菩提をとむらう姿に、夫婦は深い嘆きの種となってしまった。
頼朝は、最近音楽から遠ざかっていたので笛を貸すように頼んだ。
宗清は、頼朝に横笛を、女房に琴を渡し、我が身も琵琶を弾けば憂さも辛さも忘れてこれに慰められた。
明け方、斬首の使いの者が来て頼朝を連れだそうとする。
頼朝は、自分の死後の冥福を祈る仏事のため、卒塔婆を一本は父のため、一本は兄のため、今一本は我のためと三本刻みこみ、馬や車に踏まれない静かなところへ持って行ってくれと宗清に頼む。
宗清はそれを静かな場所に建てようと思い、池の禅尼の山荘のある中島に渡り三つ卒塔婆を立てる。
池殿とは平忠盛の未亡人で清盛の継母に当たる人物であった。
5 池殿、頼朝を救出
池殿がどなたの卒塔婆かと尋ねられ、今から斬られる頼朝の卒塔婆ですと答えると、卒塔婆に書かれた立派な筆跡を見て、人に書かせたのかと言われるので、自筆ですと答えた。
筆跡も年齢よりも大人びていて、文面も経文の大切な文句を入れ立派なものだった。
「我従無数劫来、積集諸大善根、一分不留我身、施与一方衆上」
これは、釈迦の大悲を讃えた経典悲華経の名文である。
文章に心を動かされて、これは助けてやらなくてはならないと、池殿はとるものも取りあえず宗清に供をさせ、牛車を走らせ頼朝斬首の刑場の六条河原に向かった。
池殿は牛飼いに鞭打たせて車の簾を打ち上げると、六条河原へ走りこませ、介錯人たちは驚きすぐに頼朝の首を切ろうとしたが、八幡菩薩の御加護があったのか、介錯人が河原の石に踏み違えて転び刀を拾い取ろうと、もたついている隙に、池殿は自分の車に頼朝を乗せて連れ去った。
このことはやがて清盛の耳に入る、早く切ってしまわなかったのが失敗、この度源義朝が待賢門から逃げる時、源氏の宝を嫡子悪源太にも譲らず、二男朝長にも譲らず、三男頼朝が末代の大将と見たか頼朝に譲ったと聞いている。
6 池殿と頼朝の親子の誓い
池殿の助命の願いを聞き入れる代わりにと、源氏の宝である産衣の鎧、七竜八竜と宝刀髭切の行方を聞き出すことを条件に、身柄を任せることにした。
頼朝はしぶしぶ、産衣は山科のしょうしんがもと、鬚切は美濃の国青墓の長者に預けたと答えた。
こうして源氏の宝は平家の者となったものの、小松の内府(平清盛の嫡男の重盛)が、愚かなる事、源氏の宝は源氏が持ってこその宝、平家が持つならば障害になる事があっても宝にはならない。と申し立てた。
源氏の宝は、皆、頼朝に返された。
頼朝を自宅に引き取った池禅尼は、清盛を差し置いて頼朝の流刑地を自ら決定し、伊豆流罪に決まった頼朝に、十六歳になった安達籐九郎盛長という家臣を付けてやった。
頼朝はこれに深く感謝し、血のつながらない母と出会ったと思い、親子の契りを交わして別れる。
それから二十一年の後、頼朝は挙兵し、ついに世は源氏のものとなった。
天下を治め給ふ事、八幡大菩薩の御誓ひとぞ聞えける。