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《内容概略》
1 判官一行、安宅に着く
義経一行は山伏の姿に変装すると、奥州を目指して北陸道を下り、加賀の国安宅松に程なく着かせ給う。
有名な歌枕である安宅の松の傍で子供たちに出会った一行は、平泉への道順を尋ねた。
すると子供たちは快く道順を教えるものの、道の途中では、地元豪族の富樫介が義経一行を探して山伏を捕えて詮議し、次々と処刑していると忠告する。
この子供たちの案内で松原に入ってみると、子供たちの言うとおり、百ほどにもなる山伏の首があった。
2 山伏禁制の難所、富樫城
恐れを知らぬ弁慶も、自分に間違えられて殺された山伏の首を見ると膝を震わせた。しかし、これによって富樫が自分の顔を知らないことに気づいた弁慶は、単身で富樫の城に向かう。
富樫の城で弁慶は、出羽の羽黒山に向かう途中の熊野の山伏であると名乗るが、怪しまれてたちまち捕えられてしまう。
弁慶は人違いであると訴えるが、富樫に、弁慶の人相を書いた屏風を見せつけられてなかなか言い逃れができない。
3 勧進帳を読む
そこで弁慶は、自分の身元を東大寺の勧進聖であると偽り、勧進帳を読み上げることにする。
ところか、笈の中にあらかじめ巻物を入れておくことをしなかったので、万事休すと思われ、弁慶は思わず八幡菩薩に向かって祈った。
するとその願いが通じたのか、どこからともなく笈の中に従来の巻物が現れ出た。弁慶はこれを手に取ると、声高らかに読み上げた。
ありもしない勧進帳を読み上げ人々を煙にまく。その時の弁慶の有様は、人間業とは思えないものであった。
(別記)《勧進帳本文》
1 東大寺伽藍の起こり
うやまって申す。勧進の沙門、請件(こくだん)の知識の状(結縁の為の寄進を願う状)にいわく、和州山階 (大和国興福寺) の里、東大寺の勧進の事、ことに十方檀那の助成(各方面の信者の援助)をこうむらんと欲す。
右の旨趣如何(何故か)というに、かの伽藍の(東大寺伽藍の起こり)濫觴(らんしょう)は、聖武天皇の后、光明皇后と申は、大職冠(藤原鎌足)の御娘、生身(仏菩薩が衆生済度のためこの世に生れ出た)の観音なり。
しかるに有漏(煩悩から離れられない一生であの世に去って行かれた)の生涯は、歩みを他界にかくる。釈尊また双林の煙と上り給う。
しかるに御門、后の御別れに堪えずして、雲上に曇(宮中が涙にくれているので)あれば月卿(公家)光を失へり。
かの追善(死者の冥福を祈る供養)のために、一宇の伽藍を建立し給う。
今の大仏殿これなり。
御堂の高さは二十丈、本尊の御丈十六丈、遠く異朝を尋ねるに大唐四十八ケの大伽藍に勝れ、天竺祇園精舎(インドの僧院)にも越えまして、我朝に並びなし。
2 東大寺度重なる災難に遭う
されば、荘厳(仏像を飾る天蓋)七宝をちりばめ、光耀(キラキラと輝く)鸞鏡を磨き、御堂の内に珠玉を飾り、瑠璃(るり)の壁、硨磲(しやこ)の垂木、瑪瑙(めのう)の行桁、玻璃(はり)の柱、本尊は金銅廬舎那仏、並に四天(持国天、広目天、増長天、多聞天)は黄金を延べ(金で覆い)、十一重の瓔洛(やうらく)虚空無我の風に乱れ(仏の装身具が風にはためく)、花上苑(漢武帝が長安に作った名苑)の玉の幡、かかる無双の大伽藍に雷火降って火失す(934年西塔が雷火で焼失)。破滅の時に相違わず。
ここに深草の御門の形像(仏・菩薩の再誕と思われる仁明天皇)、五時の刻に合力(五期に区切って援助)し、ことごとく磨き給う。
これは、これ王法の繁昌也。王法の繁昌は天下の吉慶たり。
目出度かりける折節に、東大寺、興福寺、両寺の間に衆徒喧嘩を出し、互いに破滅の火を放つ。
実に魔縁(人を惑わし妨害する悪魔)の所為をなし、煙庭に飛で落、雷火雲を走れば、仏像跡を削り、五智(釈迦の五種の教えを書いた経典)の箱焼け、八教の軸も灰となす(焼失した)。
ここに、女体の御門の形像(仏・菩薩の再誕と思われる孝謙天皇)、勧進の力を励ますとはいえども、三代(聖武、仁明、孝謙)御願いも、半作なり(御願いにより建立された大仏殿も半分成就である)。
目出度かりける折節に、ここに平家の大相国(平清盛)、悪逆の下知に従って、本三位中将重衡(平清盛五男、南都攻めの大将)、左衛門友方(夜戦で在家に火をかける)、民部重能(平家の忠臣)、都合その勢三千余騎、治承四年十二月廿八日に南都へ馳せ向かう(源平の争乱)。
南都の衆徒防ぎ戦うとはいえども法末世につき、かたじけなくも、二階の惣門(南大門)、手害の門(転害門)に放火をせしむ。
かの猛火満ち満ちて堂搭、僧房、神社、仏神嫌い(区別) なく、一宇も残らず焼き払いおわんぬ。
煙有頂天に上がり、雲と成て争ければ、十六丈の廬舎那仏の御首落ちて塚のごとし。
御身は沸いて山のごとし。
金人世界の荘厳を写(仏の世界の配置)し奉る東金堂、西金堂、刹那が内に焼き払い終ぬ。
悲しきかなや恩愛別離の生死の小車(輪廻)、彼を見是を見るに何時をか期すべきぞ。
御眼、鹿と成て、春日山に飛び入り給う。
比丘(びく)も比丘尼、道俗、男女の嫌い(区別)なく、大仏殿の名残を悲しみ、焔の中へ飛び入、飛び入り、焼け死する者は数知らず。
阿難付属(伝来)の霊智の(霊妙な)袈裟、灰燼と成て地に踏まる。
強呉滅び荊棘たり(焼け跡空し)、姑蘇たへぬ露、瀼々たり。
3 僧重源による再建勧進
たまたま残り留る者、師匠兄弟の門に立寄り、しばらく羽を休める。
ここに俊乗房 (重源) 聖、せんせい房、春日大明神の御示現をこうぶり、勧進帳を額(ひたい)に当て、恐れ怖れ、法皇の御方(後白河法皇)へ訴状を上らるる。
法皇、権実(援助)を運ばせ給い、肥後、肥前、筑後、筑前、豊前、豊後、日向、大隅、薩摩、九国を寄せらるる。
女院の御方(妹皇嘉門院か?)より、伊予、讃岐、阿波、土佐、四国を寄せられたり。
四国、九国より鍛冶千人、番匠(大工)千人、杣千人、三千人、春日山へ分け入て、材木を取て、淀、木津河へ下す事おびただし。
かの大物小物を如何にとして地形の面に引着べきと(建設現場に運び入れようかと)、嘆き悲しむ。
渇仰の(仏を信じる)涙、肝に銘じ、三宝の恵により、大国よりも、智者(仏の化身)の牛が来て、一日一夜に引き着けて、牛大国へ帰りけり。
日本人喜んで、地形の面(現場)、御堂の高さは廿丈本尊の御丈十六丈、高(台)は八丈、多門、持国、増長、広目、百余膳の文机、鈴、独鈷、花皿、本のごとくに鋳奉る。
さりとはいえど御堂の供養、仏の供養、鐘の供養、三供養をまだ延べず(三供養をまだ取り行っていない)。
この供養を延べんため、六十六人のさても小聖、六十六カ国へ、おのおの廻て勧むる所の勧進なり。
一紙半銭入たらんず輩、今生にては、安穏快楽の徳をこうぶり、来世にては、弘誓の船(生死の苦海から彼岸に衆生を救う仏の誓い)に竿をさし、千葉(せんよう)の蓮華にたわぶれんず事(極楽浄土に往生するであろう事)疑いあるべからず。
南無帰命稽(仏にすがり礼拝)。
《参考》
東大寺「南大門」は、
応和二年(962)大風で倒れ、修理復興
治承四年(1180)12月28日平重衡の焼き討ちにより被害を被るが、焼亡せずに荒廃し、修理される。
正治元年(1199)6月に上棟した。俊乗房重源はこの門の復興のため工事を始める。