【幸若舞曲一覧(リンク先)】
1 常葉の名の由来
そもそも、常葉御前の先祖を詳しく尋ねるに、父は梅津(京都市)の源左衛門、母は梅津の対岸桂の宰相とて、九条院(近衛天皇の中宮藤原呈子)に宮使いしていた時、天下に女競べがあり、美女千人の中から百人を選び、百人の中から十人を選び、十人の中から三人選び出される。
一人は菖蒲の舞(御前)、一人は真菰の舞(御前)、今一人は、とつこの舞(御前)とぞ申しける。
かの菖蒲(あやめ)、真菰(まこも)と申せしは顔いつくしく飾り常に衣装を召し替ゆる、とつこの舞と申せしは更に化粧は無けれども、何時も変わらない姿であったので、名を常葉と付けよとて、とつこの舞を引き替えて常葉の舞とぞ付け給う。
その頃源義朝は、天下の守護とましまして家も栄え上位に立つ人もましまさず、よりより参内ありて所望申されたりけれども、帝はお聞き入れにならなくて、ある時源義朝紫宸殿の後ろの入口にて変化(妖怪)の物を切り留むる。
帝叡覧ましまして官職を与える事には意味がない、元より望みの事なれば、さらば常葉を取らせよとて、かたじけなくも常葉の舞の袂に御手を掛けさせ給いて、紫宸殿正面階段の段々石、雨落ちの所にて給わりけり。
2 常葉親子、大和へ落ちる
その頃、常盤は十七歳源義朝は三十三、ほんのちょっとした軽い気持ちで契りあって今三人の子を儲けたのに、源義朝は平治の乱で敗れ逃れる途中で長田忠致の裏切りにあい討たれて死別した嘆き、あらいたわしや常葉御前いずくへも一先ず落ちなければと思し召すが、待てしばし我が心、四条坊門堀河の辻子の乳母の宿所に置き申す母上をばさて如何せん、又三人の若共の齢を物に例えるに、出る日蕾む花なれや今後将来の栄える身と申すども八十余り給う母親にまさか目に留める事はあるまい、その儀にて有るならば、何処えでも一先ず落ちばやなんと思し召し。
兄今若の装束は、肌に絹織物の小袖の襟元を引き合わせ、あき地白直垂召す、次男乙若の装束は紅の二十重ね衣、腰に巻く帯ばかり。
御身は十二単衣、袴のそば高らかにさし挟み、二歳になる牛若を懐のあいに掻き抱き、市女笠にて顔隠し十筋編目の革裏なし履物さし履いて、五条辺りの黒土を初めて踏むぞ哀れなる。
頃は永暦元年正月十七日夜の事、清水参りと申して、この日は清水観音の縁日であり、月参りをする貴賤上下の人々の賑わいにうち紛れて、清水に参りつつ、左の格子に通夜申し数珠を揉み合わせ八ふんの頭を地に着けて、そもそも御山は坂上田村麻呂の御建立、大同二年に立てられ、山より音羽の滝が落ちれば、水上清き御寺として、さてこそ額にも清水寺とは打たれたり。
自らが十七より今まで参りの利生には、三人の若どもが行方、守りて賜び給へ南無大悲観世音と、垂れ下がる綱を振って鳴り物を打ち鳴らし、涙に咽び給へば、実に御本尊も御納受やましましけん、御簾も几帳もざざめいて坊舎も揺れるかと思えばいとど殊勝なり、 さる間、常葉御前、轟の御坊(磁心院)に移らせ給う。
聖涙を流し、それ九重に巻きつく藤は松から離れると色があせてしまうと言う、欲界の女は賢いと申せども、一人の夫におくれ頼りなしとは今こそ思い知られたれ、いたわしや源義朝の憂き世に御座の御時は、かりそめ振りの詣ででも、源氏の大将の北の方ともてはやされ、輿に乗って参詣に来ていたのに、いっぞの程に引替えて従者もない様子徒歩裸足なる御有様見参らせば更に涙もせきあえず、驚いた師僧はしばらく寺に身を隠すよう勧めたく候へども、六波羅近き所なれば、何処へでも一先ず落ちさせ給へと仰せけり。
常葉聞し召されて、さん候、自らが落ちうずる方は大和の方にて候、暇申してさらばとて轟の御坊(磁心院)を出でさせ給い、ここは敵の館の前、こなたへ来よや若共とて二人の若の手を引いて通る所はどこどこぞ、三十三間、今熊野、十二の橋、法性時。
明れば正月、今日は早十八日の事なるに、宇治は春雨降りけれど木幡の山(現桃山)は雪ぞ降る、くる君が稀に歩みに慣わせ給わねど、降る白雪を御手にて打ち払い打ち払い足に任せて、常葉御前、途中、雪道に迷ってしまう。
あらいたわしや若君達お声を上げさせ給い、何故我々に側使いや乳母は添っていないのか、さて又、母上に付添い人が居ないのか、寒い冷たいと藪の中に倒れ伏し泣き出す。
常葉この由御覧じて、聞き訳がないだらしない若共よ、さればにや汝らは源氏の大将たるべき身が、かく不覚に見えるが明明日になるならば六波羅方へ生捕られ、今若は大人しきとて六条河原で斬られるべし、次男乙若は刺し殺され、牛若未だ若なれば母諸共に生捕られ賀茂河か桂川に沈められなん、その時は冷たいとも申すまじ、寒いともどうして言えようかと教え聞かせ、これ以上泣くならば末の子牛若のみを連れて行くと言ってなだめた。
二人の君たち御覧じて、もう冷たいとも寒いとも申しませんとて御袂に縋り付き木幡の山に掛られる、いたわししともなかなか申すばかりはなかりけり。
3 雪の伏見で行き暮れる
さる間、常葉御前とある松の木陰に立ち寄らせ給いて、振る白雪を厭われしが向かいの谷を見給えば灯火ほのぼのと見える。
人住む所にて有ればこそ火が見えるのだと遥々下って見給えば、いやしい庵が候いける、扉をほとほとと叩き、是は都の者にて候がこの雪道に踏み迷いここまで参りて候一夜の宿を貸し給えとさも高声に宣えば。
中から御婆さんが立ち出でて戸を開け常盤の御姿をつくづくと見て内へ走りかえりて、のう御爺さん門の辺りで女の声で宿かせと申すに立ち出でて見れば、辺り辺に輝く程の上臈幼い子を数多連れ宿かせと申すが、罪を犯して訴えられたる人かも知れない、又はこの山に住む狐や狼が我々を食い物にせんが為か、そうでなければ、今夜は雪がひどく降っているのて雪女という者か、あら恐ろしいやと申す。
御爺聞いて、これは狐狼にては在らじ御婆さんは世も知らじ、いでいで語って聞かせん。
かたじけなくも後白河天皇と崇徳上皇の帝位を巡る争い保元の乱の御時、六条で判官源為義が、上皇方に付いて合戦に掛け負け比叡山延暦寺の御坊に深く忍びてましますを、正真正銘の御子源義朝討手を給わって延暦寺より探しだし、七条西の朱雀権現堂岡田と申す所にて父の御首を切り申す。
これ親を殺害した悪行の報い因果で、待賢門での源平の激戦に源義朝が敗れたのは道理なリ。
是によって六波羅より源義朝方の落人は、懐妊している女の胎内の子まで一人残らず殺せと言う事なれば、もしも源義朝方の落人にてや有りらんに、当座の宿を参らせて、助けた罪に問われて御爺はどんな目に合うかわからない、その女房に宿貸さずば今夜一夜の恨みたるべし、その恨み行く末までも残る事はあるまじ、こちらに来い婆さんとて、柴の網戸をはたと立て、木幡の里の事なれば皆暗黙を通すなり。
あらいたわしや常葉御前、先へと行けば道もなし後へ戻れば山路なり、辺りに人の有れば、彼方此方と借りも出来るものをこのままで居るわけにもいかず、この御爺の家陰に立ち寄らせ給い、辺りの雪を払いのけ御小袖を脱いでさっと敷き、若君たちを据え並べ、人の親の子を思う道程に哀れなる事世も有らじ。
市女笠を傍立てて風吹く方の垣となし寒風を防ぎ給いけり。
4 老夫婦のいたわり
さる間、常葉御前、暁方の事なるに、この世に存在する全ての物は一瞬も止まる事無く変化すると言う道理を、思し召し出されて、如何に若共ものを聞け、されば法華経の功徳は尊い、一の巻の題名に全ての仏国土に於いては教えは唯一であり、第二第三の教えはない、仏陀が手段として色々の教えが有る様に説くのを除いてはと説かれたり。
除くと言うのはひとつ、一乗の妙典である法華経なり、されば妙と書ける文字は、編には女作りには少(おさな)しと書けり、この理を聞く時は、只自らと若共は妙の一字にてあらずや、さあらん時は東西南北とそれぞれの中間方位に上下方を加えた十方位の諸仏も、などか憐れみなかるべき、
恨めしの憂き世やな南無阿弥陀仏、弥陀仏と十返唱え給いつつ又若達に寄り掛かり激しく涙を流された。
御爺この由聞くよりも、門の辺に女の声として尊き音の聞こえるは、宵に宿借り給う上臈の今だ帰りかねてましますぞ、のう身分が高かろうと低かろうと五障三従の女の身であることに変わりはないのではないかと申す。
御婆さんこの由聞くよりも、それもここに例えの候、谷の大木はいくら背が高くても峰に生えている小松に影を落とす事はない、宵に御爺の源義朝方の落人にてやあるらんと固く約束したその言葉がそら恐ろしくて、家の中に入れるとは申さん、御爺がかまわないとおっしゃるのなら婆さんはいやではないですよとて、
夫婦たち出で戸を開け、のうそなたは宵にみえた上臈ですか御身一人ならず幼い人数多連れいずくよりもいずかたへ御通りあるぞと問いければ。
常葉聞し召されて、うち恨みたる声音にて、さればこそよと山民よ、風に吹かれるとはらはらとこぼれ落ちて消える露のようにはかない身であるのに、さすがに消えないのは人の命にて未だ長らえて候ぞや。
いたわしの事やとて今若殿をば御爺が抱き乙若殿をば婆が守り客間に通し奉り、暖め申すに従って、裾の氷も溶けにけり、かくて御爺は間の障子の隙よりも、常葉の御姿をつくづく見参らせ。
のう如何に御婆さん、客間にまします上臈は世の常の人ではなかろうぞ、それを如何にと申すに、昔眉目よき人は漢武帝の后の李夫人、美しさが衣を通して輝き出たと言う衣通姫、六歌仙の一人小野小町の若い頃、仏の北方守護神である毘沙門天の妹に吉祥天女と申せしは唐天竺の仏にて我等如きの衆生等は、評判は知っていても実際この目で見たことはない。
この頃、眉目よき人は菖蒲御前、真菰御前、源義朝の御台所で評判名高い常葉御前とやらも、これにはいかで勝るべき、一首の歌を掛け参らせ御心の内そっと引き見て申させ給え
御婆さんこれ由聞くよりも、それは私が若盛りで都に有りし時こそ、月見花見と申して歌連歌をたしなみ候、この三十年が間、伏見の里に捨てられて、歌道の事をば、はったと忘れて候、御爺、昔を忘れさせ給わずば、一首の歌を掛け参らせて御心の内をちっと引き見申させ給え。
御爺大変喜んで、間の障子をほとほとと音ずれ一首はこうぞ聞こえける(常盤の正体を探るために)、
木幡(こはた)山、おろす嵐の烈しくて、宿りかねたる夜半の月かな
(平家方の探索の厳しさ木幡山から吹き降ろす峰の嵐が烈しくて、常葉親子は空に留まる事ができないでいる、夜半の月であるよ)と謎かけ歌を詠む。
そこで、常葉聞し召されて、あら恥ずかしや、姿こそ粗野で洗練されていない老人だけど、心の中は風流な都人と同じである、自らも下手な歌、詠まばやと思し召し。
木幡山裾野の嵐険しくて、伏見と聞けど寝られざりけり」
(木幡山の裾野の伏見の嵐は険しくて邪険で無慈悲を御爺を恨む、伏して月を見る所だと言うのに、自分たちは寝る所もない)
と謎を正しく解いて返歌した。
老夫婦が歌を詠み交わして、さては疑う所もなし常葉が源義朝方の落人なりと確信し、出でば人目も有ければ、こちらへどうぞと持仏堂を客間のようにこしらえ、常葉を請じ奉り歌を読み詩を作り。
今日も雪が降り候、今日も険しゅう候、天晴れて上臈の思し召されん所まで老夫婦が送りもうさん、今日も今日もと留むれば、主の情けにほだされて、伏見の里に常葉御前は、新玉の月を越し如月(旧暦二月)になるまでおわします。
5 常葉の身の上話
かくて御爺の辺りに人に召し使われる下女共が一つ所に集まって申しけるは、向かいの谷の御爺の元にこそ、正月の中頃より眉目美しき上臈の御宿を召され、今だ帰りかねてまします由を承れども、我も人も人に使われ参らせて、暇なき身にて候えば、参り拝みて申す事もなかった、今日は空晴れ日も良く候えば、主々に暇申しいざや参りて拝み申さん、もっともとて、物見高い里の五人の下女たちが、何かを持って参りましょう、時節柄の娯楽であるからとて面々に濁り酒を持参し訪ねてきて、酒の入ったものを滔々と据え並べ、常葉の御姿をつくづくと見とれてぞ居たりける。
常葉この由御覧じて、あら恐ろしと守るばや、このような下衆は必ず口が悪いので、嘘偽りで通そうと思し召し、のう如何に女房達、わらは慰めに来たり給うが嬉しきに面目なくば候えども、自らの故郷を語って聞かせん。
本国は大和の国、生まれ育ちは宇陀の郡の山里の者である。十四歳の春のころ、父母に叱られ都に上り五条辺りに小宿を取る。
高きも賤しきも女の習い心に任せぬ事とて、やがて殿御を儲け御覧の通り三人の若を儲けて候、子供も出来たという仲なのに、ところがこの男一条室町に別の妻が出来、三年通うといえど自ら更にねたまず。
例えてみれば、伊勢物語の中(23段「筒井つの」)に、大和の男が隣の河内の国高安という所に初めて妻を(女と)情交し、これも三年通えども、後に残った古い妻のねたみもないのは、自分以外に男がいるので羞恥しないのであろうと、逆に女をねたみ疑った。
ある夕暮れに、今から河内に行ってくる暇申してさらばとて、太刀押っ取り脇に挟み嘘をつき河内には行かず、自宅南面の花園に夜すがら隠れて妻女の様子を見ていると、ああ気の毒な事よ、何も知らない妻は持仏堂に参り、仏前に向かい香を盛り花を摘み、夜すがら琴を引き鳴らし恨み泣いてぞ居たりける、夜半ばかりにこの女、白い堤子(酒を温める器) に水を入れ、胸の間に置けば 、(羞恥の激しさで)湯に成りにける、捨てては水を替え、夜すがら胸を冷やしける、是は三年の間、妬みの心ざしで、色に出さねど焔と成りて煮えにけり、すでに暁の鐘聞く頃にも成りしかば、苦しげなる息をつき、是より河内の高安へは、(盗賊が出る事も有り)危険な竜田山越えと申して悪所の有ると聞くものをいつの日の何時にか、この山にて我が夫の死ぬことの悲しさや、と思い連ねてこの女一首の歌をぞ詠じける。
風吹けば沖つ白波竜田山、夜半(よわ)にや君が独り行くらん
(危険な竜田山を夜中にあなたは一人で越えているのでしょうか)
と、このように詠じたりければ、男この由聞くよりも、賢臣二君に仕えず、貞女両夫にまみえずと、今こそ思い知らされた、姿や様子の勝った女であっても、心の勝る女房の居ることも覚えずとて河内通いを止め、古き妻にぞ契りける。それを誰ぞと尋ねると(伊勢物語の主人公)在原業平との事である。
このような事を思っていると、自ら更に妬まぬを、周りの友達が我を訪れ言う様は、御方は未だ知らないでしょうが、一条の上臈(女)をこの家に入れ参らせ、御身をば大和の宇陀へ帰らそうとの謀の候、御方と添わん事どもも、今幾程か有るべき。
あら名残惜しやと言うままに袂にすがり泣く程に妬たまじものとは思えども、その時自ら腹が立ち恨めしや、切っても切れない男女の縁、神ならば男女縁結びの神、仏ならば愛染明王、煩悩を得脱して悟りの世界に居る釈迦大悲のたとえ涅槃の岸が変わっても、我等夫婦の契りは変わらないと深く頼みをかけ吊るに、男の心と飛鳥川の淵瀬は一夜に変わると伝えしも今こそ思い知られたれ、
たとえ私に対して愛情が無くなって夫婦の絆が尽き宇陀へ送り返すとしても、三人の若を先に立てて出るならば、子供への愛情に心が引かれ必ず呼び返すであろう、それを頼みに掛け、出て行くふりをしましたところ、情けも知らぬ子どもの親にて呼び返す事こそなかりけれ。
しかもそれは新玉月、一度出たる男の所へ二度帰らん恥ずかしさに、面目もなくは候えども、又親を頼み大和の宇陀に下りゆく途中、ここの雪道に踏み迷い、主人の情けにほだされて今ここに、こうして居ります。
貴方方も若ければ、少々ねたみ事あるとも男の元を軽はずみに出て後悔するなとの給いて、余りの事の悲しさに後悔していると涙ながらに語って聞かせた。
6 女房たちの田歌
老夫婦が承って、只今こそ上臈の生い立ちを詳しく承って候え、この境遇を知り常葉に同情した五人の女房達は、お酒を持ってまいりましたが、肴がなくては曲もなし(酒だけでは面白さがない)、歌を歌い、舞を舞って上臈様(常葉)を慰めましょう。
五人の女房承って、都の人は心が月や花に似せて歌を詠み舞いをも舞われるが、我ら共と申すは、夜中に床に就き、太陽が東から上ると長い夜の眠りから目覚めて、相手を恋求めるやもめの烏の鳴き声、こうぞと鳴いて告げ渡る、鳥と一緒に寝室を出て毎日の暮らしを立てる仕事にたずさわり、主人の御意に違わじとそれのみこそ嗜むという生活なれば、歌も舞も知らぬなり。
しかし、我らが身に付けたこと、五月になれば田へ下りて、農夫に囃されて面々に早苗押っ取り拍子を揃えて歌う、田植え歌を少しづつ覚えて候が、それをなりとも歌いましょうか。
この家の御爺も、そうだそうだ、生まれ育った故郷の事を喜びである風情のない女房たちの田歌で良い、それぞれ一つずつ申せ、申せと言うので、皆が拍子を合わせて田歌を同時に歌うのかと思いきや、五人はそれぞれの国が違い、一人は出雲、一人は播磨、一人は丹後、一人は和泉、今一人は遠江の国の者であった。
御爺の仰せだ、それ歌え、やれ歌えと、やいのやいのと言い争う、その中でも。
7 出雲の国の女房の歌
出雲の国の女房は年少し、おとなしく見えるが、問答は無益、我から歌い始めるから次々と詠い続けよと言うより早く、づんど立って季節外れの田植え歌を歌い始めた。
田植えよや田植えよ、早乙女五月の農を早むるは、勧農の鳥ほととぎす、やまがら、こがら、しじゅうから、この鳥だにもさ渡れば五月の農は盛んなり
しどろもどろに歌いなし、舞を一手舞い納め、さらに一声を挙げ
めでたや有難や天照大神、熊野の権現、鹿島、香取、諏訪、熱田、住吉、賀茂の上下、祇園精舎の梅の宮(八坂神社)、八幡大菩薩(石清水)総じて神の御数は、九万八千七社とぞ聞こえける、高天原に神ぞまします、神の父神の母伊弉諾イザナミの尊也、わらわが古郷、出雲の国に立ち給ふ、須佐之男命、されば神の御為に総政所(総元締め)この度歩みを運ぶ輩(ともがら)、誰か利生を受けざらん、この利生を受け取って只今のお座敷の上臈に参らせん、あらめでたや、と歌った、次を見れば、
8 播磨の国の女房の歌
播磨の国の女房づんど立って歌う
播磨なる高砂や、高砂や、尾上の松は高からで下に住むは何やらん、富と幸いざっと請取って只今の上臈にこれを添えて参らせんあらめでたや
と申して盃を取りお酌に参りけり。次を見れば、
9 丹後の国の女房の歌
丹後の国の女房が歌う。
丹後の国には久しき(長寿)人を尋ぬるに、浦島の明神七百歳を保ち給ふ、億劫成相(成相観音寺)、天の橋立、久世戸の文殊の知恵と才覚をざっと受け取って、只今の上臈の若君様に参らせん、あらめでたやと歌う、次を見れば。
10 和泉の国の女房の歌
和泉の国の女房、年は十八ぐらい顔に紅葉散らして歌いかね、うつ伏しているので、歌い終わった女どもがこの由見るよりも、貴方は人に歌わせておいて自分は何故に歌わないと言うのか歌え歌えと言うままに、袂を取って引っ張ると、それまでなさるに及びません詠わんと言うままに居たる所をづんと立ち、長柄の銚子をきつとかざして柄杓取ってうち担げ、座敷を二三度廻ってはつたと上げて歌う。
めでたやな、わらわが故郷和泉の国の者なれば、其の名によそへて泉が湧いて候ぞ。
残りの女ども皆が拍子を打揃えて。
や、御前、我御前、祖忽なる事を申しぞ、いずくのほどに湧いたぞ、あう、ここのほどに湧いて候、長柄の銚子に、しろがねの柄杓にて汲むとも取るとも、よも尽きじ、かかるめでたき泉をば、誰にか参らせん、参らせん、あう、そよ、まこと忘れたり、只今のお座敷の上臈に参らせん、あらめでたやと歌ったり、その次を見れば、
11 遠江の国の女房の歌
遠江の国の浜名の橋詰の者、名所の者なれば、いかに面白かろうと心を澄まし目を澄ましたところ、この女は舞を舞わずに、座敷下の板敷に行くので、皆が歌わずにどこへ逃げるかと責めれば、さもあらず、この女着物の褄を高々と差し挟み、袂より襷を出してさっと掛け、所々破れた古笠を持ち調子よく歌った。
遠江なる、遠江なる、浜名の橋の下なるは、鯉か鮒か鮠(はや)の子か、いかに汝らが驪竜めく共(玉持つ黒竜なりとも)、臥龍(伏している竜の様であろうと)めく共、取ってうち上げて、只今のお座敷の肴に参らせん、あらめでたや
と申して、曲に合わせて狂いけり。
座敷中の人々は滑稽な歌と舞いに一同が大笑いしたほどおもしろいものであった。
跳るばかりに舞い納め、座敷にとうど直りけり、若君の御果報、末繁昌と聞こえけり。