鞍馬出

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1 鞍馬寺での夢見
 さても六波羅の御所には牛若殿の悪行の身に余ると聞し召し (日々武芸に励む牛若の行動は問題視され始め) 、御一門さし集まって御評定はとりとり也。
 彼のもの労いたし(世話をしていたわってやりたい気持にかられる)者ならば当家のゆゆしき大事たるべし、打ち捨てるか、忍びて流すか、何とぞ評定ある。
 母の常盤は聞し召し、あるにあられぬ(生きていこうとしても生きていられない)御身にて、忍びて文をあそばし、牛若殿に出し給う。
 牛若文を御覧じて、かように母の御手より文を給り、どこの国の誰を頼みて下るべしとも目覚めさせるや。
 しょせん、寺を追放されては行き場のない牛若は、御本尊以外に頼るところも他になく、叩(こう)頭(ひざまづいて両手を地につけ,頭を地につける礼)にお参りし、夜ととも祈誓を申されたり。
 仰ぐ毘沙門と申すは、四天王(持国天、増長天、広目天、毘沙門天こと多聞天)の中の第一(リーダー)に、八天童(八部鬼衆という鬼集団)の尊者たり、仏法護持のために、弓箭(武士)を守り給うなり。
 牛若が一期の本望は、身のために起こす謀反ならず、父母孝養(親に孝行を尽くす)のそのために平家を討たんと思い立ち、兵法稽古のたしなみなり。
 多聞天(毘沙門)の十種の福(無塵、衆人愛敬、智慧、長命、眷属衆多、勝軍、田畠能成、蚕養如意、善識、仏果大菩提)をば、父母孝養せんものに与えんと言える誓いなり、本性今に違わずは、牛若にこそお与えになければならないと、深く祈誓を申す。
 すると、うち微睡(まどろみ)たる御夢に、白いうさぎと鼠とが袂に入ると御覧じて、うち驚き思し召す
 うさぎは東の物、鼠は北の生物なり、東北の隅をば丑寅とこそ名付けたれ、伊舎那天と申すは此の方におわします。
 故に名付けつつ多聞天と申すなり、毘沙門天の住処をば、へいしらまなやしやうとて、よねのふる都なり。
 なるほど牛若は丑寅の方に立ち越えて世に出よとの示現 (夢の中で奥州に下るよう告げられる) かや、あら不思議やな、北と東の間には誰やの人の頼みて下るべし共覚えずと(しかし、誰を頼りに下るかは分らない)、まだいどけ無き御心に、つくづくと案じ給いけり。

2 金売り吉次との出会い
 既に夜が明け、まだ早朝の事なるに道者四五人入堂する
 (鞍馬寺に参詣にやってきた)尊者と思しき男の有徳(徳を備えている)の人と思しくて、御鉢に金をまき入れ、数珠さらさらと押し揉んで、千五百里の道の間を安穏に守り給えと深く祈誓を申さるる。
 その後、格子の内よりも五十ばかりなる僧が出て、御道者はいずくの人ぞ、熊野参りか便宜(好都合)ざうか。
 いや、便宜(好都合)ながら熊野参りにて候ぞ、側に居た法師がこれを聞き、御辺(おまえ)は未だ知らないのか、この人こそ都に隠れもなき三条の金商人の吉次殿よと言いければ、会うざること有り珍しや。
 奥州からは何時頃(京へ)お上りぞ、去年の冬罷り上りて候か。
 余間ようよう打解げば、この間に罷り下り候べし、さもあれ音に承る、藤原秀衡殿と申すは如何程の分限(財力)の人ぞ。
 藤原秀衡殿と申すは奥州五十四郡の総ずい、ふくし、白川の関よりも、東は残る所ましまさず、さいちゅう国民相従い勢いを持つことはその数を知らず、日本半国より、なを大きな分限(財力)とこそ承れ。
 さて、その人は奥州の住人か、いや都の人と承るが、ある年、源氏の御大将八幡太郎義家殿と申せしが奥州へ下らせ給い、安倍貞任(さだとう)、安倍宗任(むねとう)、やすとうを平らげ御上洛の御時、奥州の守護代をかの藤原基衡(もとひら)に下し給う。
 奥州五十四郡の国人は、皆太平に思いつく、恐きを和らげ弱きを撫で、民を憐れみ、政(まつりごと)こわうに任せて執り行う、国の靡き従う事は草木の風に靡くが如くなり。
 かくて奥州を治めつつ、藤原秀衡(藤原基衡の子)殿の代々は、吹雪も声を止め、立つ波も岸を洗わず、良き大将と承る。
 藤原秀衡殿と申すは、俗称良き人にて国をもよく治め給う、七珍(金、銀、瑠璃、シャコ、瑪瑙、玻璃、珊瑚の七種)万宝(多くの種類の宝物)飽き満ちて、ただ長者の位と申すなり。
 牛若殿は聞し召し、これは他門の他薦(他人が推薦)や、藤原秀衡は先祖の下人、頼み下る者ならば、情けなくば世もあらじ、吉次を頼み道連れして下ろうと思し召し、吉次と深く約束を召され、鞍馬寺内の東光坊にお帰りあり。

3 牛若、鞍馬寺を出る
 常の所に御入りあって旅の支度をし給うに、涙も更にこらえきれない、いつも御身を離されぬ金作りの御帯刀、先祖伝来の腰の物(刀)これぞ忍びて持たれる。
 召し使われしわらわ(童)の藍摺(あいずり)の直垂に、御身の召されたる精好(せいごう)織の大口袴を召し替えさせ給い、御ぐし唐輪に高く上げ、七歳の御年より住み慣れさせ給いける東光坊を只一人、小夜に紛れて出で給う。
 さすがに御寺の御名残、傍(かたわら)の児達こじ同宿の名残とも、あいねん深き人を惜し、未来を掛けて契りし者、今も知らせてあるならば前後を守護し行くえけれども、人目を忍ぶ旅なれば、ただ一人ぞ御出である。
 心ざしこそ哀れなれ、師匠に名残の惜しければ記念の為ぞと思し召し一首の歌をぞ残されたる。
  「思いきや、身を奥山に住居して此のみ(この身、木の実)一つになりゆかんとは」
かように詠じ給い、庭の銘木名石どもをいつの世にかは立ち帰り、また見んずらんあじけなや道理、もの言わねば我出ぬるをよも告げじ、梅、鶏舌(良い香)を含むとも、なぜ暁を知らせぬぞ。
 さて本坊を立ち出でて地主権現伏し拝み、閼伽井(あかい)の水もさへ曇り、影さえ宿す月もなし、七つに曲がる鞍馬坂、夜更けて物憂き道野辺を貴船の神の社こそ、勝たのもしき聞こえけれ、名残りぞ惜しきいちはらの立止まりてみぞろ池、ちはやふるらん上賀茂の道を糺の森過ぎて夜はほのぼのと白川や吉次に今も粟田口、早松(待つ)坂に牛若殿程なく着きせ給いけり。

4 神原与一の馬の泥蹴上
 待つ吉次は見えずして(約束の場所で落ち合う予定であったが、まだ吉次は来ておらず) 、美濃の国の住人(平家の武士)関原与一、大番(都警護)を請け於いて夜を日に次いで上りしが、その夜は大津に泊り松坂の辺りにて牛若殿に参り合う。
 牛若殿は御覧じて源氏のものへの(晴れの)門出に、(運悪く)平家の郎等に出合うところは無念なり。
いかさま(いかにも)貴奴に見合い、都に披露せさせては、良くないと思し召し、扇をかざし、あみ笠を目深に傾け、素知らぬ体で通り過ぎようとした。
 関原与一の馬と申すは、明け六歳の野取りの駒、物を見ては切れやすし、宵に降ったる雨水の道に溜まりて有けるを、そぞろに蹴上蹴る程に、牛若殿の直垂は、ただ絞るばかりに濡れにけり。
 牛若殿は御覧じて、駒の足立しどろなリ、悪しくも行き合い蹴るやとて、そなた(そちら)も見ず逃げ給う、関原与一、楽に誇って憎る心の幼気(いたいけ)さに、手綱も取らで蹴駆けたり。
 牛若殿は御覧じて、然るべくは御馬を静かに打たせ給えよ、我らかようなる童こそ、蹴上の水をばいとわずとも、都方の弓取りの、咎むる方も候べし。
 手綱に余らばその馬を捨てお通り候へ、あったら(もったいないことに)馬を捨てふより、やあ、降りて引けとの御諚(仰せ)なり。
 関原与一、無念の(残念な)言葉を聞き、子程の者にあてられ(注意され)て、返事をせぬものならば、京田舎の物笑いと成るべし、また知らぬ体にて通り過ぎたらば済んだものを、運の極めの悲しさは、あれほどの童、当つれは路次(みちすがら)の狼藉、あてねば時の恥辱と、太刀の峰にて打ち臥して、おいはらへと下知する。

5 牛若、天狗の舞剣で打ち負かす
 承るとて若党三人、中間(ちゅうげん、召使)六人、以上九人の者どもが、太刀長刀の鞘はずし、声ばかりにて脅さんと、俺は俺はとぞ脅しける。
 牛若殿は御覧じて、おのれらの有様は、稲荷祭か祇園会か、賀茂の祭りの物まね具足に風を靡かせんとや、恐ろしゅうもないぞとて、からからとぞ笑いける。
 関原与一この由聞くよりも、憎いやつの言葉かな、具足汚しに斬りばしすな、太刀の峰にて打ち臥して、追い払えと下知をする、承り候とて、真ん中へと取籠める。
 牛若殿御覧じて、鞍馬山の僧正が崖にて習わせ給いし天狗の法、出会う所と思し召し、御帯刀するりと抜いて、眉間に差しかざし、大勢の中に割って入って、向かってくる者を、おがみ切り、馬手(右)へ回るは車切り、左へ請けて左太刀、寄せて返すは細波切り、木ずえをもむは嵐切り、天狗倒しの笑い切り。
 ここはと思う秘事の手をば、残されずこそば使われけれ、牛若殿の御帯刀、閃(ひらめ)くと見えしかば、手の裏未だ返さぬ間に、六人死んで三人は痛手負うてぞ平伏しける。
 関原与一この由見るよりも、あれ程の童(わらべ)、たとえば十四か十五かに如何程も余らじ、手並み見せんと言うままに、駒駆け寄せてちょうと打つ。
 牛若殿御覧じて、貴奴は日本一の馬鹿者にて有けるや、直ぐに切って捨てては思い出のあらばこそ、なぶり切りに貴奴をして遊ぼうと思し召し、諸太刀になってぞ廻りける。
 関原与一これ由見るよりも、さればこそこのわっぱ逃げて行くや、どこまでも逃がさんとやあ、なげかけなげかけ斬りたりれり。
 牛若殿御覧じて、いつまで貴奴をなぶるべきと思し召し、左にきれて回違い、関原与一の馬のさんず(尻)を開き打ちにちょうど打つ、馬は打たれて跳ねければ、くらだまに取られて真っ逆さまにどうと落ちる。
 起きん起きんとする処を走りかかって峰打ちに、ちょうちょうとぞ打たりける、少しくぼんだ所にて、雨水に濡れにけり。
 牛若殿御覧じて、ああ威厳も候はず、児と女には御免そうかや、馬より降るる極めて礼儀正しさよ。
 お供の者はいずくに有ぞや、あの馬引いて関原与一殿を乗せ申せ、それそれと有りしかど、返事する者なかりけり。
 牛若殿、馬を引き寄せ、ここに召され候て、お帰り候へや関原与一殿と有りしかば、関原与一余りの恥ずかしさに馬も下人も振り捨てて山科寺のかたはらに、深く忍んで至りけり。
 それよりも、牛若殿、奥州へ下らせ給いて、天下を治め給ひけり。

《参考》

◎ 1174年、源義経が鞍馬寺を出て奥州へと向かう途中、日ノ岡峠の清水(現在の蹴上)で、平家の武者関原与一と9人の従者が馬に乗って通りかかり、彼の馬が水溜りの水を蹴り上げけ、義経の衣服を汚したこのエピソードが京都市東山の地名「蹴上」の由来となりました。

◎ 慶長十年1605年10月2日芸能好きで有名な女院(後陽成天皇の生母、勧修寺家出身晴子、新上東門院(1553-1620年))より、明日こうわか舞参候間可参候由廻文有之(言経卿記より)。
 10月4日女院の御所にて舞あり、香(幸)若が子、兄弟十四歳と十歳と奇妙(めずらしい)也、露払いと後祝言、夢大庭が合る事あり、中は八島・鞍馬出・勧進帳・腰越・土佐正尊(堀川夜討)以上巳刻初末に果、少納言局にて各食あり(時慶卿記)。女院へ舞各々参了予早出了(言経卿記より)。
 女院参、香(幸)若太夫舞有之、入夜退出(慶長日件録より)。

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「幸若舞(年表)と徳川家康・織田信長」

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桃井直常(太平記の武将)1307-1367