木曽願書(全文版)

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 (源義朝の弟源義賢の子木曽義仲は、一族の争いで1155年父が殺害された後、源家再興を願う木曽の豪族中原兼遠に養育され、1180年四月後白河法皇の三男以仁王が各地の源氏に平家追討令を発したのを受け、中原兼遠の子の樋口兼光、今井兼平、巴御前らと旗揚げする。)
1 義仲、信濃を出て越中へ進撃
 ここに信濃の国の住人、木曽の冠者義仲は平家を攻めんそのために、五万余騎の大軍勢を率いて信濃の国を発し、越後の国に着き給い(横手河原の戦い)、やがて越中の国に入り給う、木曽義仲のたまいけるようは。
 平家は砺波山(となみやま倶利伽羅峠)を打越え、越中の広み(砺波平野)に出るならば、平家は大勢力(十万騎)であるから、恐らく正面から攻め合う合戦になるであろう、ただし、駆け合いの合戦では、軍勢の多少によって、勝敗が決まるとは限らない。
 いつも我が家のやり方なれば、(平家の大軍勢を砺波山・俱利伽羅峠に追い込むため)勢を七手に分かち、方々よりも向かうべし。
 まず、叔父の源十郎蔵人行家に一万余騎を相添え、搦め手(背後)へ廻し、志保(石川県志雄町)の手へこそ遣わされけれ。
 残り四万余騎をそれぞれに分かち、楯の六郎親忠(木曽四天王の一人)に七千余騎をあい従え、北黒坂(砺波山の東麓)へ向けられけり。
 信濃国の仁科と高梨、尾張国の山田次郎、これも七千余騎にて、南黒坂へ向けられけり。
 樋口次郎兼光(中原兼遠の子で木曽四天王の一人)は五千余騎にて、倶利伽羅峠にある堂(長楽寺)の後ろへ廻されけり。
 根井の小弥太行親(木曽四天王の一人)五千余騎は、松永(倶利伽羅峠の南方)のぐみの木林、柳原(小矢部市)に引き隠す。
 今井四郎兼平(中原兼遠の子で木曽四天王の一人)は六千余騎を相従へ、鷲の島(小矢部市)をうち渡り、日宮林(小矢部市)に陣を取る。
(各武将を配した)木曽義仲殿は、一万余騎で黒坂の北のはずれ、小矢部の渡りをして埴生(はにう)の森に陣を取る。
 木曽義仲殿の謀(はかりごと戦術)に、大将の旗を持つ騎馬武者に旗差を先に立てよとて、旗差しを先に立てられけり。
 五月十一日の巳の刻(午前十時ごろ)頃に、黒坂の峠へ駒を駆け上げ、白旗(源氏の旗印)三十流ばかり一度にぱっと打ち立てたり(平家を砺波山中に追い込む戦術に出た)。
 平家も加賀を打立って、砺波山に打ち上がり、源氏の勢を御覧じて、あら、おびただしの猛勢や(白旗の多く流れるのを見て義仲軍を大軍勢とみて慌てる)、ここは山も険阻にて、谷も深うして、背後へ軍勢をたやすく移動させることはできない。
 また、馬の馬草を与え水を飲ませるのにも、適当な場所であるから、先ず陣を取れやとて、大勢の平家軍は、さっと降り立って、山路に陣を取たりけり。

2 義仲、戦勝祈願の願書奉納
 木曽義仲は、石清水八幡宮の社領の埴生の森に陣を取り、四方をきっと見渡しければ、北の外れに当たりつつ、夏山や峰の緑の木の間より、朱の玉垣ほの見えて、屋根の千木先端斜めに、削ぎ落したる片削作りの社壇あり。
 前に鳥居ぞ立にける、里の人を召されて、あれに御立ちましますをば、何の宮か、いかなる神を崇(あが)め申すぞ、如何に如何にと問い給えば、八幡大菩薩と崇め奉る、当国の新八幡宮、埴生の八幡と申すなリ。
 木曽義仲は、源氏の守護神の神前に近付いたことを幸先よしと大変に喜び有りて、祐筆の大夫坊覚明を召され(この大夫坊覚明は、前に南都の興福寺の僧、西条坊信救と名乗り、兄が木曽義仲の家臣であったので、これを頼り木曽義仲の書記になっていた)。
 それがし、当国の新八幡宮の御宝前に近付き申す事、今度の合戦に疑いなく勝たんと存ず、一つには後代のため、又は当面の合戦勝利祈願のために、願書を一筆書いて捧(ささ)げんと思うは如何に。
 大夫坊覚明承って、この儀もっともしかるべき候とて、駒よりひらりと飛んで下り、背負う矢入箱、箙(えびら)の引出しより、小硯を取出し、畳んだ紙を開いて願書を書かんと仕る。
 大夫坊覚明のその日の装束は、黒みがかった紺色の直垂に、白、薄藍、紺の三色を縄を並べたような波状模様に染めた革にて威した伏縄目の鎧着て、鷲の黒羽ではいだ矢を負いて塗籠藤(ぬりごめどう)の弓を脇にはさんで、木曽殿の前にひざまづいて、その御前で願書をさらさらと書き始めると、それを見ていた人々は、大夫坊覚明の文武両道ぶりに感じ入った。
 この大夫坊覚明は、未だ南都(奈良)に有りし時、平清盛が南都の興福寺に牒状(回文)を廻しよこされた、僧侶ら評議して返牒(返事の手紙)を、興福寺で出家していた西条坊信救(大夫坊覚明)に書かせられけるに、平清盛の事を平氏のかす、ぬか、武士の塵、あくた(取るに足らぬ人物)と書いて、その名を挙げし書の名人なれば、いかでか書き損じるはずもない。

3 願書(本文)
 その願書に曰(いわ)く、
 帰命頂礼(仏の教えに帰依し頭を地に着け礼拝する)、八幡大菩薩(天皇の祖神応神天皇)は日域朝廷の本主、累世名君の曩祖(のうそ、先祖)たり、宝祚(天皇の位)を守らんがため、蒼生を利せんが(衆生を救う)ために、三身(仏の法身、報身、応身を具足し)の金容(金色の仏の尊い姿)を現し、三所(八幡宮の応神天皇、神功皇后、比咩大神)の権扉(社殿の扉)を押し開き(現れ)給えり。
 ここに、頃年(ここ数年)よりこのかた、平相国(平清盛)という者有て、四海(天下)を我がままにし、万民を悩乱せしむ、これ仏法の怨、王法の敵なり、木曽義仲いやしくも弓馬の家に生れ、わずかに箕裘(ききゅう)の塵を継ぐ(父祖伝来の業を受け継ぐ)。
 ひそかにかの暴悪を見るに、思量顧みるにあたわず(あれこれ考え迷っていることはできない)、運を天道に任せ、身を国家に投ぐ。
 試みに義兵を起こさんと発するきざみ(正義のために戦う軍兵を起こそうとする時)、凶徒退けんと、闘戦(する源平)両家が陣を取る(対峙している)。
 士卒をいまだ合わせずと言えど(兵士はまだ心を一つにして戦う勇気が出てこない)、一致の勇みを得て、今、心えつを守る(心恐れたる)処に、今一陣において旗をあげ、戦場にしてたちまち三所和光の社壇(八幡三所の仏が光を和らげ現れ出た神社)を拝す。
 機感(仏が衆生の心の働きを感じ取ってそれに対応する)の純熟、すでに明らかなり(木曽義仲の願いを神がかなえて下さることは明らかである)。
 凶徒誅戮(ちうりく、罪に有る者を殺す)疑いなしや。歓喜涙こぼれ、渇仰(かつごう、仏を心から仰ぎ慕う)肝(心)に染む。
 なかんずく曾祖父前の陸奥の守、源義家の朝臣、身を宗廟の氏族に帰服して(八幡大菩薩を源氏の氏神として帰依し石清水八幡宮の神前で元服して)、名を八幡太郎と号せしよりこの方、その門葉たる者帰敬せずという事なし(源義家の一門で八幡大菩薩に帰依しない者はいない)。
 義仲その後胤として、首を傾けて年久しく、今この大功を発す事は、たとえば嬰児の貝をもって巨海を量り(不可能なことをして)、蟷螂(とうろう、かまきり)が斧をいからかして降車に向かう (身の程わきまえずに大それた行為) がごとし。
 然りといえど、君のため、国のためにこれを起こす、身のため家のためにして、これを起こさず。
 志の至りし神し空に有(私の深い志は天の神が知って下さった)、頼もしきかなや、喜ばしきかなや。
 伏して願わくば、冥顕威(仏神が威光)を加え、霊神力を合わせ、勝事を一時に決し、怨を四方へ退き給え。
 しからばすなわち、丹祈冥慮に叶い、宝剣加護をなすべくは(真心込めた祈りが神の御心にかない軍神が加護を加えて下さるならば)、一つの瑞相(吉兆)を見せしめ給へ。
 寿永二年五月十一日、源の義仲敬(うやま)って白(まう)す。
と書たりし、かの大夫坊覚明(西条坊信救)が筆勢、誉めぬ人こそなかりけり。

《参考》
 祐筆の大夫坊覚明(西条坊信教)は、勧学院の進士で儒者、出家して最初に西乗房信教と名乗る。
 治承四年(1180)五月以仁王の南都牒状に対して、返牒の文面が原因で南都を出て、改名し木曽義仲の書記になったという。
 信濃の源氏が、以仁王の平家追討の令旨を報じて挙兵、1182年横田河原の戦いでは木曽義仲に付き従った巴御前は七人の平家方武将を討ち取って功名を上げる。
 1183年越後の倶利伽羅峠の戦いに一節では、牛の角に松明を括り付け一気に平家軍(平清盛の孫平維盛軍四万騎)に向け放った火牛の計を用いた木曽義仲(五千騎)が大勝利。
 木曽義仲は平家が去った京の都に入り後白河院と謁見、朝日将軍と呼ばれ京中守護に任ぜられた後、平家を追って西国に向かうが苦戦。
 都内狼藉で木曽義仲を見放した後白河院の命令で鎌倉方(源頼朝)の前線指揮者源義経軍(25000騎)が、京の宇治川の戦いで木曽義仲(300騎)を破る。
 木曽義仲は滋賀県大津の粟津の戦いで討死31歳。

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桃井直常(太平記の武将)1307-1367