清重(全文版)

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1 清重、義盛廻文の使者
 判官(源義経)は、武蔵坊弁慶を召され、いかに武蔵坊弁慶よく聞け、諸国の大名や武家の名門たちの中にも、源義経の事を心にかけてくれている人もいるであろう、急ぎ廻状を大勢の人に回覧し兵を頼んでみようではないかとの御諚なり。
 武蔵坊弁慶は承り、この廻状を書て参らせければ、判官(源義経)、御判を据えさせ給ひて、さて廻状での使者には誰がよいかと問えば、武蔵坊弁慶、誰々と申すとも伊勢三郎義盛と駿河次郎清重の二人の名を挙げた。
 その二人を急ぎ召せとて(源義経の)御前に召され、如何に方々、この廻状を諸国の武士に見せて下され、万事頼むとの御諚なり。
 (平泉の衣川高館に身を置いた源義経は弁慶坊弁慶と計って、諸国の大名に廻文を回すことにする)
 伊勢三郎義盛と駿河次郎清重の二人の人々は承って、世間の様子を考えると戦いはそう先のことではございますまい、できれば殿の側に留まって戦いたいと申したが、判官(源義経)聞し召されて、戦い共にせんことも、この廻分を回すことも同じくらい重要だからただ頼むとの御諚なり。
 二人の人々承って、この上は力及ばずとて、山伏姿に変装し、笈の中に廻文を隠し持ち、高館殿(平泉の義経の居宅)を出発した、ほんの一時の別れだが、これが最後の別れとは後にぞ思い知られたる。

2 駿河次郎清重、鎌倉見物
 こうして二人の人々は奥州近き国々の下野(しもつけ)、上野(こうづけ)、安房(あわ)、上総(かずさ)、常陸(ひたち)、下総(おさ)、甲斐、信濃、武蔵の国へとうち越えて行き、秩父殿(畠山重忠)を初め武蔵七党(横山党、猪俣党、児玉党、丹党等)の人々の所を回り本田(埼玉県)の宿に着いた。
 伊勢三郎義盛が言うには、これより中道(甲府に出て南下する)越えよりも、駿河の国に出ようと言う。
 駿河次郎清重聞いて、日本の花の都は日の本の大城、ただし当時は、なを鎌倉が華やかなる新京と聞いてあり、四十(歳)に及ぶ駿河次郎清重が聞こえたる名所も見たこともないとは不名誉の限りと存ずるなり、このついでに鎌倉を一目見て通りたいと申しけり。
 伊勢三郎義盛がこれを聞き、これほど大切な仕事を仰せつかっているのに、遊覧して廻る事は無益である、もしもこの夢目出度て奥洲(源義経)と鎌倉(源頼朝)の仲直りがあらば、見飽きるほど見ることができる鎌倉であるのに、しかるべきは駿河次郎清重殿、直ぐに伊豆へと申しけり。
 駿河次郎清重聞いて腹を立て、こういう時のために山伏姿に変身しているのに、諸国の霊地を廻って修行する山伏の如何程多く通らん中に、自分だけが怪しまれるとしたら、それは自分だけの運命である、御身(貴方)は以前から鎌倉に下り上りを頻繁にして知り合いもありこそすらん。
 この先での合流場所を指定してください、直ぐに追いつきましょうと、入間(いるま、埼玉県)の宿から鎌倉街道の上り道を上って、鎌倉指して行くほどに。
 力及ばず伊勢三郎義盛も同道申したけれども、仰せの如くそれがしは、おおかた人が見知りたり、駿河の国の竹の下(足柄山の麓)にて待ち申さん、直ぐに追い付いて下されと、伊勢三郎義盛は伊豆の国へ。
 駿河次郎清重は、鎌倉へ行き別れるを最後とは、後にぞ思い知られたる。
 さる間、駿河次郎清重は、鎌倉街道中の道の宿場二俣川を渡り、鎌倉八幡の鎮座する鶴が岡の地を雲の向こうに遥々とうち眺め、鎌倉七口の一つ化粧坂の山を越えて鎌倉の方を見渡せば、心、言葉も及ばれず。
 あら面白の鎌倉や、鶴岡八幡宮境内の薬師堂神宮寺の松風は、旅人の夢や覚ますらん、仏閣棟を並べつつ民の在家は軒続き、鎌倉十一谷に有る七つの郷に築地の数、以上八百余門なり、由比の浜に大鳥居、泉が谷に飯島が崎は世に広く知られた名所かな。
 将軍の御所を真ん中に、東向きにぞ立てられける諸大名が住まいし、日夜朝暮の当番が続々と控えている、素晴らしい御運勢であられる。
 哀れ我が君判官(源義経)をこのように大事にお仕えすることのできない悲しさよ、と思えば、猛き駿河次郎清重も涙こぼるるばかりなり、その夜は八幡宮の若宮に参籠申し、夜もすがら生きている間は平穏に、死後は極楽往生できるよう祈誓し。
 さてこそ伊勢三郎義盛が竹の下の宿にて待つらんものをと思い明けければ、笈取りて肩に掛け、急げば程なく音に聞く片瀬川(藤沢市)にぞ着きにける。

3 駿河次郎清重の最期
 かかりける処に、源頼朝の郎党である梶原源太景季が焼取山狩りして帰りしが、河中にてばったりと行き会ってしまい、以前対面して顔を見知られており、怪しまれては大変と思い正体がばれないように笠を深くかぶって、駿河次郎清重は素知らぬ態度にてすれ違おうとした。
 運の極めの悲しさは、突風が巻くようにぱっと吹いて来て、駿河次郎清重の着たりける笠緒をずんと吹き切って、頭巾と連れて川に吹き飛ばされ、浮きつ沈みつ流されたり、駿河次郎清重これを見て、武士のあかしである月代(剃り落した前頭部)が露わになってしまったので、困ったと存ずれば。
 山伏衣装上着の鈴懸の左右の袖をさっとかざして、笠を追うてぞ走りける、弓杖の長さにして、二杖三杖にて程なく追い付き候いて、濡れたる笠をうち着つつ素知らぬ様子で通りけり。
 梶原源太景季は目早き男にて、ここを通る山伏の、河風に笠を取られしが、額を見たれば月代の髪を剃った後の白く見えつる怪しさよ、山伏なら通すが不審な所があれば召し取れとて、駆け足速き駒共に面々に鞭を打ち。
 如何に、ここもと、通り給う山伏に物申さんと言うままに、我も我もと追いかける、駿河次郎清重これを見て、一足なりとも弓取りの敵に後ろを見せる事不覚の至りと存ずれども、君(源義経)の御判と、国々の人々の御請けの判共の明らかになる悲しさに、耳にも更に聞き入れず五町ばかり行き過ぎ逃げて。
 小高い所に走りあがって、笈を肩から降ろし笈の肩箱の中より火打石と硫黄塗の付け竹取出し、ちょうちょうと打ち付け、御判と御請けの判共を咄嗟に焼いて捨てたりしは、剛なるゆえの早業かなと誉めぬ人こそなかりけれ。
 その後、大勢に取り囲まれて、笈の足に結いつけたる三尺八寸の厳めしく堂々とした太刀を抜いて、真向に差しかざし大声上げて名乗る様、いかに、方々が見咎(とが)めたるは道理なり、判官殿(源義経)の御内の侍、駿河次郎清重と申す者にて候が、君(源義経)の御意に違い申し、奥州をばい出され参らせて、主人を裏切らないよう山伏姿に変えて諸国を回りしが。
 運が尽き梶原源太景季に見つかったのではどうしようもないこと、今更それがし判官殿(源義経)の家来であるの無いのと弁解してもしょうがなく、四国九国の戦いにも駿河次郎清重の振る舞いを見ても聞いてもあるだろう、そこを退くなと言うままに、大勢の中に割って入った。
 駿河次郎清重の有様を物によくよくたとえれば、松吹く風に枯葉を散らし、小鳥千羽に鷹一もと放ち合わせた時の様である(剛の清重は鷹のようなもので、敵は弱く数ばかり多い小鳥のようなありさまで風で枯葉が散るようだ)。
 未だ時も移さぬ間に、屈強の兵を二十七騎切り伏せ大勢に手負わせ、東西へぱっと追い散らし、剛なる者の自害の様を見習え梶原源太景季、と言うままに、太刀の真ん中を取って腹十文字に掻き切って、三十八(歳)と申すには、片瀬河にて討たれたる、かの駿河次郎清重を褒めぬ人こそなかりけれ。
 さる間、梶原源太景季は、郎等数多討たれたけれども、駿河次郎清重の首を取り、特別に喜んで急ぎ源頼朝の御目にかける。
 源頼朝御覧じて、源義経の郎等の首ならば、由比ガ浜に懸けよとて、首をさらし衆人に見せた。

4 伊勢三郎義盛の最期
 その頃伊勢三郎義盛は、竹の下の宿にて約束の日数を如何に待てども遅かりけり、いくら待ってもやってこないので、海道に立ち出で、道行く人にも問わばやと思い、はや海道にぞ出でにける。
 かかりける所に、二人連れの旅人の京の方へ通りしが、伊勢三郎吉盛の山伏姿を見て、一昨日の事は哀れであった、因縁とは申せ嘆き悲しい事よと言いながら通ったので。
 伊勢三郎義盛がこれを聞き、何か詳しい事情がありそうだと急いで追いかけ、旅人の袂を取って引き留め、のう、いか様なる山伏がどうかされたのか、我等のような者ならば聞かせてほしいと尋ねた。
 すると旅人聞いて言う様は、その通り一昨日の事なるに鎌倉を出でて此方なる片瀬川という所にて判官殿(源義経)の御内の侍、駿河次郎清重と申す人にて候が、梶原源太景季に見合いぬれば力なし。
 笈踏み破り肩箱よりも火打ち付け竹取り出して、ちょうちょうと打ち付け御判とおぼしき巻物を咄嗟に焼いて捨て給い、その後大勢に取り囲まれて、笈の足に結いつけたる三尺八寸の厳物作刀をするりと抜き、真向に差しかざし、大勢の中に割って入り若干人を滅ぼし、我が身も腹を切り給う、首をば取って鎌倉に上らせて候ぞ山伏殿、とてぞ通りける。
 伊勢三郎義盛はこれを聞いて、忠告したのにそれがしの言う事も聞かずし、さては討たれてありけるぞやと申し、それがしが奥州に帰った時、いかばかり判官(源義経)も御心細く思われるだろう。
 どうしても日の射すのを逃れられない朝顔の花が、日光を嫌うように逃れられない敵を避けるようにして奥州に戻る事もよくない事かとて、明ければ宿にて暇乞い竹の下をぞ出でにけり、そこから伊勢三郎義盛は、都間近い大名小名に御判拝ませ申し、直ぐに京へぞ上りける。
 黄昏時の事なるに、六波羅警護の篝火の前を笠を傾け伊勢三郎義盛は、素知らぬ様子で通りけり、市中警護番の兵がこれを見て、夜中に歩いている山伏は何か事情があるように思われる、笠を脱がれ候へとて、一度にはらりと下り立ちたる。
 伊勢三郎義盛この由見るよりも、それ山伏の習いにて峰渡りする時は、木の葉を敷き木の根を枕にして昼夜もない行にて出羽の羽黒の山伏が熊野へ参ると答えたり。
 警護番の兵これを聞き、何処の山伏の何の行であろうとどうでもよい、笠を脱がれ候へとて、伊勢三郎義盛の着たりけるい草編みの白打出笠を引き落として見てあれば、案の定、伊勢三郎義盛なり。
 警護番の兵これを見て、一度にどっと笑って、道理にて(伊勢三郎義盛は元は鈴鹿の盗賊上がりと聞く)御身は夜を通り給うぞと、真ん中に取り囲む。
 伊勢三郎義盛この由見るよりも、笈焼く暇のあらざれば、はらはらと踏み破って、笈の足に結いつけたる一尺八寸の打刀をするりと抜いて、真向に差しかざし大声上げて名乗よう。
 如何に方々が見咎(とが)めたるは道理なり、判官殿の御内の侍、伊勢三郎義盛なり、ただし備中殿の陣屋の当番の者では敵として不足だが武士の最後の死に場所を定めていないのでお相手いたそう、そこを引くなと言うままに。
 大勢の中に討って入る、西から東、北から南と周囲の敵と切り結んで暴れ回り、蜘蛛手(四方八方)、結果(かくなわ、太刀を縦横に振り回し)、十文字、八つ花形(八方向への太刀遣い)というものに割り立て追い回して散々に斬ったりけり。
 手許に進む兵を十七八騎切り伏せ、大勢に手負いを負わせて、東西へ東西へぱっと追い散らし、刀の真ん中を取って腹十文字にかき切って、四十三(歳)にて討たれたる伊勢三郎義盛が心中を貴賤上下おしなべ感ぜぬ人ぞなかりける。

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「幸若舞(年表)と徳川家康・織田信長」

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