【幸若舞曲一覧(リンク先)】
1 清盛、流人二人を赦免
ここに門脇の平宰相教盛(平清盛の異母弟)が、折を得て小松殿(平清盛の長男重盛邸)に参り、内大臣(平清盛の長男重盛)に申されたのは、その人の嘆きを止め給わねば身の喜びも有らぬべし、薩摩潟の硫黄が島の流人の事。
如何に大臣(平清盛の長男重盛)聞し召せ、この度后の宮の御入胎に非情の大赦(赦免)を行わるべき由承る、是は何にも優れたる御祈祷なり、さこそ喜び申すべき(清盛の娘で高倉天皇の中宮徳子が懐妊し、その大赦には硫黄が島の流人の赦免をするのが何よりも効果があると説得した)。
先案じても御覧ぜよ、(東山の鹿ケ谷事件(謀議露見)によって流罪となった)薩摩潟の硫黄が島の憂き住まい思えば不憫である。
大臣(長男重盛)も「げにも」と思し召し、浄海(平清盛入道)の所に参り、この件をどう思われるかと申し上げると。
浄海(清盛)聞し召されて、流罪人の丹波少将(清盛の異母弟の平教盛の女婿)藤原成経と平判官康頼の二人の赦免状を出された。
大臣(長男重盛)が重ねて仰せけるは、三人を召し(捕え)集め一つの島に流しておいて、二人召し返して、残りの一人だけを留めるのは、ますます恨みは深まるばかりと申させ給えば。
浄海(清盛)聞し召されて、法勝寺の執行(俊覚)の事は、この浄海の大変な口添えあって出世となったものを、東山鹿ケ谷の山荘にて人を集めて平家打倒の謀議を巡らし散々に悪口したと聞く、この俊覚の帰洛だけは絶対に許さない赦免できないと怒れば、それ以上申し上げるのは無理とて、二人のみ大赦の御教書が八条殿(清盛邸)より出された。
同じき二十日に赦免の使いが京を出立した。
2 硫黄が島の有様
薩摩潟とは総称を言い、奥七島は唐の島で、端五島は昔より日本に従う島で、総じて島は十二島ある中で、始めは白石が島、千鳥が島、硫黄が島へ一人ずつ流す所を、門脇の平宰相教盛(平清盛の異母弟)の嘆願によって、硫黄島一つへと流された。
かくて三人の人々は退屈のあまり、いざや島巡りして遊ばんとて島巡りをぞし給いけるが、都で聞いていたより遥かに大きい島であった、島は北西から東南に掛けて長く続く山が連なって、百千万の雷の音絶えず、嶺には雷電暇もなく、麓の里に雨降って、昔は鬼が住んでいたので鬼界が島とも言われている。
今はまた何となく嶺に硫黄が立ちければ薩摩潟、硫黄が島とも申すなり、またまた、この島に住む人は、我が国の人と違い、我云う事が通じず、彼らの言う事も私達には言葉も通じず、男は烏帽子を付けず、女は髪を下げず、田を耕すこともしないので米穀の種もないし、園の桑を栽培しないので絹布の類もない。
水をくむには沢に下り、薪を取るのに山林に入って迷い毎日の暮らしも憂き身で悲しい、されども、流人の一人丹波少将の藤原成経のためにと、舅(妻の父)である門脇の平宰相教盛(平清盛の異母弟) の所領が肥前の国(佐賀県)鹿瀬の庄たるによって、丹波少将藤原成経一人分の衣装や食料を送ってもらえるので、三人で分けて皆が露命をつないでいた。
3 成経、康頼、熊野権現を勧請
流人の丹波少将藤原成経と平判官康頼の二人は、我ら都に有りし時、熊野三権現の信者で心を一つにして、都に有りし時から熊野三権現に十度の参詣での大願を起こし、五度づつ参り十度に達しようとした時にこの島へ流罪となった。
誠や熊野の三権現は、信者が居れば、野の末、山の奥であっても光を差して導かんとの御請願、本心今に違わせ給わず、いざこの島に熊野三権現の霊を勧請申し、熊野詣の真似ごとをして我らの帰洛を祈り申さん。
さて僧都(俊覚)はどうなされる、僧都(俊覚)聞し召し、山王権現(比叡山延暦寺の鎮守神)ならばともかく、熊野権現まではあまり信仰していないと答え同調しなかったので、これ以上は勧められないと二人すごすごと御立ちあり。
漫漫たる海上を見渡し、峨がとある磯辺を巡り、三つ御山に似ている所を尋ね探し、或いは山高くして浄水が久しく流れ出、或いは木々の梢が清らかで涼しげな所を見つけ、ここは熊野本宮の證誠殿(主殿)、かしこは神倉山(巨石を神坐)の新宮、遥かの北にあたりつつ、百石の峨がとあるよりも滝水雲より流れ出で松の嵐も神さび、飛滝権現お立ちある那智の御山に似たりとて、ここを那智と定めた。
津の国の熊野参詣道に設けられた熊野の分社窪津の王子より、九十九所の分社分社を型の如く勧請申し、それより黒部に御下向ある。
その間に僧都(俊覚)は高き所に上がり東西南北を見渡し、心を静め雑念を取り去りましますに、黒雲厚く隔たって石厳崩れて海に入る、その時僧都(俊覚)先に古き詩を思い出し、風仏前に花を散ず、岸崩れて魚害す、その岸心無くして罪を得ず、されば五体(頭頸胸手足)は五つの借り物、地水火風(空の五つ)は象れり、心は虚空の如くにて形なければ色もなし諸法は有無の二道にて有とも見え、又はなし、立ても居ても座禅なりと戒律を破って恥じない行為の高枕し起きぬ伏しぬとし給いけり。
4 帰洛の祝詞奉納
こうして、流人の丹波少将藤原成経と平判官康頼の二人は、日数積もって、新しく仕立てる浄衣(神事用の白狩衣)のあらざれば、麻の衣を塩に朽ちたるを沢の水で洗い、岩田川(熊野の心身を清めた川)の清い瀬にて煩悩の垢をすすぎ、五体(藤代、切目、稲葉根、滝尻、発心門)の王子を臥拝み、それより山道に上れば、高原や峰の嵐に誘われて巌を越して参るにぞ、中天竺(インド)も遠からず、十条、近露、熊瀬河、発心門(本宮の総門)にも入りぬれば、はや本宮に参りけり。
あら有難や、これこそ熊野本宮の證誠殿(主殿)にてましませ、いざや、我らが申し帰洛を熊野権現に祈り申さん。散米(邪気を払うため神前にまく米)のあらざれば、浜の真砂を潮に洗い散米と定め、花を手折って御幣に捧げ、帰洛の祝詞をぞ申されける。
5 祝詞(本文)
再拝、再拝。これあたり来る歳次、治承二年(1178)戊戌(ついのえいぬ)、月の並びは十月二月、日の数三百五十余ケ日、吉日良辰(目出度い良い日)を選んで、かけまくも忝(かたじけ)くまします(言葉に出して言うのももったいない)、日本第一(の霊験あらたかな)大霊権現、熊野三所権現、並びに(那智の)飛滝大薩俛埵(大菩薩)の教令(菩薩の教化相の怒りの相)、珍の広前にして(尊い神の前で)。
信心の大施主、羽林(右近衛少将)藤原の成経、並びに沙弥聖照(平判官康頼の法名)一心清浄の誠を致し、三業相応の心ざしを抽(ぬき)んで(種々の果報を招く原因となる体、口、心の行為その調和を一段と強めて)、謹以敬白(つつしんでもってうやまってもうす)。
それ清浄大菩薩(本宮の本地仏阿弥陀如来)は、済度苦海の(浄土に導く)教主、(法身、応身、報身の)三身円満の覚王(仏)たり。
両所(那智)権現は、東方浄瑠璃(世界の教主)、医王の主(新宮の本地仏薬師如来は東方浄瑠璃世界の教主で、良薬で衆生の病気を治療するので医王と称される)、衆病悉除(良薬で病気治療)の如来たり。
或いは(那智の本地仏千手観音菩薩は)、南方(インドの山で)補陀落(で人を教化する)能化主、入重玄門(如来になる直前最高の菩薩が凡夫の時からの修業を再度やり直す)の大士(菩薩)。
(本宮第四殿の)若王子(権現、本地は十一面観音菩薩)は、娑婆世界の本主、施無者の大士(衆生の災難への恐れを除いてくれる菩薩)。
頂上の仏面(十一面観音の頭の上にある顔)を現じて、衆生の所願を満てしめ給ふ。
かるがゆえに、上一人を始め下万民に至るまで、或いは現世安穏、又は後生善処(死後浄土に生まれる事)のために、朝には浄水を掬(むす)んで煩悩の垢を灌ぎ、夕べには深山に向かって宝号(仏菩薩の名前)を唱えるに、感応怠る事なし(通じないことはありません)。
峨々とある嶺の高きをば神徳の高きに喩(たと)ふ。
嶮々とある谷の深きをば弘誓(菩薩が救おうとして立てた広大な誓い)の深きに准(なぞら)へ、雲を分けて上り、露を忍びて下り、ここに利益の地を頼まずは、いかが歩みを嶮難の道に運ばんや(菩薩の功徳を頼りにしなかったら、どうしてこんな厳しい山道に分け入って参詣しましょうか)。
権現の徳を仰がずば、何ぞ必ずしも幽遠の境にましまさんや(権現、仏の徳を心から仰ぎ慕わないで、どうしてこんな幽遠の地に神霊を勧請いたしましょうか)。
よって、証誠大権現、並に飛滝大菩薩は、青蓮慈悲の御眼(仏の慈悲ある眼)を並べ、小牡鹿の御耳を振り立(願いを良く聞き届けること)、我らが無二の丹誠を知見して、一々の懇志を納受せしめ給へ、まくのみ(そのように思うばかりです)。
両所権現は、各(おのおの)機に随って(衆生それぞれの仏の教えを聞けば働き出す力に応じて)、或ひは有縁の衆生を導き、又は無縁の群類(仏菩薩の教化を受けられない人々)を救はんがために、七宝荘厳の住処(浄土)を離れ、(仏の表情から発する)八万四千の光を和らげ、仮に垂迹と現じ(仏菩薩が仮に神や人となって姿を現し)、(天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄の)六道(欲有、色有、無色有の迷いの)三有の塵に同じ(本地を隠し俗界の衆生と交わること)給へり。
かるがゆへに、定業亦能転(苦を受けると定まった定業も衆生の機によって転ずることができる)、求長寿得長寿(長寿を求めれば長寿が得られる)と礼拝、袖をつらね、幣帛礼奠(神仏に捧げる供え物)を捧(ささ)ぐる事隙もなし。
忍辱(心を柔和にして侮辱などに耐える)の衣(袈裟)を重ね、渇仰(仏の徳を仰ぎ願う)の花を捧(ささ)げ、神殿の床を動かし、信心の水(心を清い水のように)を澄ましては、利生の池に湛へたり。
神明納受ましまさば、諸願なんぞ成就せざらんや、願わくば、十二所権現(三所権現、五所王子、四所明神)、利生(迷いの苦しみから衆生を救って、悟りの世界に渡し導くこと)の翅(つばさ)を連ねて、遥かに苦海の空を翔って(我々が苦しんでいる硫黄が島に飛来し)、左遷の愁へを止め(流罪の苦しみを終りにして)、帰洛の本懐を見せしめ給へ(帰京の願いを遂げさせてください)。
再拝、再拝
と礼拝して浄衣の袂を絞るは、ありがたふこそ聞えけれ。
<参考>
◎ 鹿ケ谷事件とは、安元3 (1177) 年5月,藤原成親,師光 (西光) ,成経,僧俊寛ら後白河院の近臣が,京都東山鹿ヶ谷の俊寛の山荘で行なった平氏討滅の密議が発覚した事件。
平清盛を中心とする平氏政権の強勢に対して,これを倒そうと志した後白河院の意を受けて,上記4人のほか,近江中将成正,山城守基兼,式部大輔雅綱,平康頼,平資行らが参加し,摂津源氏多田行綱や北面の武士の武力に頼って清盛討滅を企てた。
しかし行綱の密告により,清盛は福原から上洛して一味を捕え,師光を死罪にし,成親を備前に,成経,俊寛,康頼を鬼界ヶ島に配流した。
◎ 物語的面白さはないが、熊野権現の利生譚(はなし)として幸若舞曲では祝詞を音曲の聞かせ所とし、祝言性の強い曲である。
◎ 1615年江戸幕府二代将軍徳川秀忠と幸若舞
「台徳院殿御実記」卷三九の元和元(1615)年7月5日の条に、「二条にて(中略)幸若舞御覧じ給ふ。烏帽子折、和田酒盛、俊覚」と、幸若大夫が将軍の京都上洛に際して随従し幸若舞を上演したことがわかる。
また、「徳川実記」では、元和二(1616)年の記事として正月三が日の儀式の次第と用いられた御殿について詳細に記録されている。
○ 元旦 ○大広間、将軍(下段間)出御。次の間との間の襖を老中が開く。次の間には譜代大小名・諸番頭・近習・三千石以上の外様・法印と法眼の医師、扈従(こしょう)人等、拝謁。将軍、上段に着座。盃。松平和泉守家乗、松平主殿頭忠利、松平伊豆守信吉を始め初太夫法印と法眼の医師等迄、御流・時服頂戴。板縁で幸若・観世等、御流頂戴。将軍、入御。