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1 廻文
さる間、平家打倒を決意した源頼朝は、安達藤九郎盛長を召され、この間の事どもは夢現の縁起の良い吉事、文学(遠藤滝口盛遠、出家し文覚)の占の示す所(頼朝の足音から運命を占った文学の占の示す通り)、天命ここに所願して、(見えてきた)果報の花の蕾(つぼみ)出で匂(におい)渇仰(尊び敬う)風情なり。
明夢(安達藤九郎盛長の見た、源頼朝が征夷大将軍になる明確な夢)と占形(文学の源氏が平家を滅ぼす占) 共に既にようやく現実になる好機に恵まれた、平家打倒のために呼応する武士を集めるための回文を廻し頼んでみんとの御諚なり。
安達藤九郎盛長承り、まず、果報目出度き人なればと思い、舟で海を渡り三浦半島の三浦の館(衣笠城)に着く。
源義朝の代から源氏に仕えてきた三浦党の長老の三浦大介義明は、年積もって百六に成りしが、直垂の胸紐を結び、回文を机に置いて伏し拝み、孫嫡子の和田小太郎義盛と、おほうとうの彦太郎を密かに召され、先祖代々仕えた主君源家の御判を拝み申せ、子供孫どもよ。
神仏への祈りにも、世間での名声や評判にも、又、死後の審判で、閻魔に訴えて救済してもらう、訴えにもなるだろう。
されば、(自分の人生を振り返ってみれば)中国周の新豊の翁は、大石で臂(ひじ)を折砕いて雲南の戦に徴発されて、瀘水(ろすい)で死ぬのを免れた。
周の政治家太公望という人、釣りをしていたところを文王に見いだされ、王を補佐し殷を滅ぼした
貧しい顔淵(がんえん)は、しばしば飲食に事欠き家は雑草が茂って荒れ放題である、原憲(げんけん)も貧しく雑草に覆われた家の戸は雨に濡れている、顔淵も原憲も孔子の弟子で、生活は貧困であった。
されば、楚(そ)の政治家、屈原(くつげん)は世の憂き事を恨みつつ、草の庵に身を隠し、昔をしのび老いにけり。
三浦大介義明も人ならば、山にも籠るべけれども、押し寄せてくる老を一身に受けて、寄る年波の三浦大介義明、浦島の玉手箱を開いたように、一人前の武将として活躍できない身の老いを一層悔やむ事だ、かほど目出度き我が君の御判を拝み申す事、
一眼の亀のたとえ、滅多にない事に、浮木に会えるがごとし、さっさと承諾申さんとて、三浦三百九十三騎と横長の帳に判を据え、源頼朝の挙兵を喜び、源氏の君に頼まれ奉る。
それより、安達藤九郎盛長は、下総国千葉の居城に着く、折しも千葉大介常重の嫡男千葉の介常胤、他行の間にて、父の千葉大介常重に出会い見参有りて、子供の千葉の介常胤がここに居ないので一存ではどうすることも出来ない、昔よりこの所は嫡男千葉の介常胤と上総介(上総の豪族平広常)とが、父母の如く一方欠けても叶うまじ。
まず上総国へお越し候て、その帰りがけに旨趣の様を承りたいと返事を濁し、先ず先ずこれは見苦しく候へどもとて、飼っている馬に鞍を置き鎧兜を贈り物として与えられた。
安達藤九郎盛長はこれを見て、野にも山にも見方ぞと、それより暇乞いつつ、千葉の館をぞ出でにける、かかる所に、千葉の介常胤が若党四五騎あい連れて参陣に打って出で来る、安達藤九郎盛長これを見て。
馬に乗りながらの対面、恐れ入りて候へども、君(源頼朝)の御使いにて候へば、お許し下さいと言うままに、千葉の介常胤の駒に打ち寄り、かのあらましを語る。
千葉の介常胤聞いて、さて、親にて候の千葉大介常重は何とか申され候いつると問えば、千葉の大介常重の仰せには、上総介(上総の豪族平広常)が参らば、千葉の介常胤も参らんとの御返事にて候と答える。
千葉の介常胤聞いて、これは何よりも恐れ入りたる御返事を申されて候ものかな、たとえ上総介(上総の豪族平広常)は参らずとも、一騎成りとも味方に参り、真っ先駆け手柄を立て名を後の世に挙げるべきなり、いでいで承知申さんと、駒より飛んで下り。
もとより千葉の介常胤は財力乏しく手勢多くも候わず、七百騎にて参らんとて、横長の帳に判を据えて、源頼朝の挙兵を喜び、源氏の君に頼まれ奉る。
それより安達藤九郎盛長は、関東諸国(伊北、伊南、長北、長南、畔蒜(あひろ)、川上、うさ、山の辺、彼方、此方を触れ回る、頼まれる国は十三か国、大名七十余人、小名数知れず、我劣らじと、横長の帳に判を据えて、源頼朝の挙兵を喜び、源氏の君に頼まれ奉る。
さる間、安達藤九郎盛長は、伊豆の田中を出でて百二十日と申すには、国々の人々の御請の判を取り持って、奈古屋(静岡県韮山町)の御所(源頼朝が常に訪れていた文学の流罪地)へぞ、帰れける。
かの安達藤九郎盛長を見しん人の誉めぬ人こそなかりけれ。
2 馬揃え
そのうち、源頼朝は伊豆のお山(熱海市伊豆山)に御陣を召され、続く味方を待ち給う、我劣らじと参らけるを、馳せ参じた名簿の着到台帳を付けて御覧ずれば、源頼朝の御勢、以上、三百五十三騎と記さるる。
源頼朝は着到披見(ひけん)の後、これは佐(すけ、源頼朝)の祝言の初めなれば、面々の馬共を一目見んとの御諚なり。
承り候とて、まず一番に、君の御家(源義朝の子八田知家)の子で、安芸宍戸の四郎家政殿の玉簾(たますだれ)という馬を通されたり、面白い馬の名よ、玉すだれとは駆けて心や涼しかるらん。
その次を見てあれば、近江源氏の大将に佐々木四郎高綱の馬の四足共に膝から下が白い四白に、白鞍置かせ白竿(さお)を差させ、御前を通されたり、面白の馬の風情や、所々に(宇多源氏佐々木の紋所)目の形を四つ合わせた模様の四つ目結の型を付け、優しき馬の紋かなと、どっと誉めてぞ通されける。
その次を見てあれば、土肥実平乗馬の小黒に白鞍置かせ、御前を通されたり、この馬と申すは、まだ牧場から連れてきたばかりの名馬にて、勇みに勇んで前の足をづんど上げ、後ろの足を引つしき、頭を振って目を見出し、踊り出でて声高くいななく、これも劣らぬ名馬かなと、どっと誉めてぞ通しける。
その次を見てあれば、さても御舅に北条四郎時政の細波葦毛(ささなみあしげ)という馬に、白鞍置かせ白竿(さお)を差させ、六人の舎人に引かせ、御前を通されたり。
面白の馬の風情や、この馬と申すは骨は太くて筋多し、ほっそりとした顔で耳の小さい良い馬で、首筋が長く、たてがみは厚く、胸には筋肉が隆々とついて両横に張りがあり、尾の付け根は小さく切り込んでいて、毛が三重の滝のように長く下がっている。
左右の股はあたかも唐の琵琶(楽器)の転手(絃を巻きつける棒の部分てんじゅ)と反手(琵琶の上部分のはんじゅ)を全部もぎ取って、二面を逆に立てたようである。
尻の骨の高く成った所に肉が良く付き、足の付け根の肉付きも良く、爪の根元の骨は固くて鉄を伸ばしたようで、爪は厚く突き出るように高い、千里を走らせても疲れることがないだろう、前より見れば、秋の鹿、遠山を飛びたるが如く也。
側(そば)より見れば、鶏が大庭へ躍り出、時をうたうが如く也、廻りて見れば竜が雲を引き連れ、虎が風に毛をふるい、象が牙を噛み鳴らし、獅子が歯噛(はが)みしたりしても、これにはいかで勝るべき、あっばれ馬の勢いかなと、どっと誉めてぞ通しける。
これを始めと仕り、佐原の三浦十郎義連の雷葦毛(いかづちあしげ)、狩野介(狩野五郎親光)の金槌葦毛、田代冠者信綱は美女栗毛、佑経(すけつね)が奥州栗毛、沼田の平内が飛雀、南条小太郎が小鷹川原毛、深堀弥次郎が帆掛船、三島の源太が獅子の子に、宗籐太が岩砕き、土屋三郎宗遠が虎つき毛(赤く白みを帯びた色)。
さて、岡崎四郎義実が深山(みやま、赤褐色の)鹿毛、大貫の四郎が黒糟毛(かすげ、白黒交じり毛)。
総じて名馬の毛の色々は、あしか斑(ぶち)、黒鹿毛、蔓斑(つるぶち)、鹿毛斑、あひそう斑、柑子(こうじ色)、栗毛、姫栗毛、我も我もと引かれたり。
以上三百五十三騎は、いずれも劣らぬ名馬なり。
3 源頼朝、伊豆で挙兵
さて、そこで源頼朝、治承四年八月二十三日(石橋山の合戦)に、兵具揃え馬揃え召されて、(高倉宮以仁王の平氏追討の令旨をかかげて、伊豆で挙兵し、伊豆と相模の武将の援軍を得て、三百余騎を従えた源頼朝は、)いつも久しき源氏の白旗をほのぼのと差し上げ。
(鎌倉に向かう途中の石橋山で前方を大庭景親の三千余騎に、後方を伊東祐親の三百騎に挟まれて大苦戦となった、この石橋山の合戦で、源頼朝方の先陣、佐奈田与一義忠が敵将の俣野景久と対戦したのを発端として戦闘に入ったが、十倍を越える敵の軍勢に源頼朝方は破れ、箱根山中に逃れた後)
真鶴が峠に打ち上がって御陣を召されたが、御代を召されんその為に、手勢七騎で落ちてゆき、土肥の谷、小浦よりも御船に召され、真鶴から海路で安房(千葉県)の竜島へ向かった、沖中に白旗を差し上げ給へば、三浦、武蔵の武士団の横山、秩父の丹、武蔵の児玉がこの由御覧じ。
武将たちが次々と、あれは君(源頼朝)の沖に御座あるに、いざや、さらば参らんと、千騎二千騎、百騎二百騎、うち連れ、うち連れ参る程に、武蔵の国とかや国府の六所大明神(府中大国魂神社)、分倍(ぶんばい)の宮にて、着到付けて見給えば、源頼朝の御勢ども八万騎に程なくならせ給いて。
一天四海に光を放つ平家を、三年三月の月日をかけて攻め靡(なび)かせ、天下を治め給う事、八幡大菩薩の御誓ひとぞ聞えける。
《参考》
史実では、八月二十三日の石橋山挙兵後惨敗しも、総崩れの状態で安房に渡って、上総、千葉の諸豪速を糾合して勢力を挽回したという紆余曲折がある。
そうした面は省略し、あくまでも目出度いずくめの祝言者としての話となっている(麻原美子「舞の本より」)。