笈捜(おいさがし、全文版)

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1 富樫の館を無事通過
 さる間、武蔵坊弁慶は富樫が館にて勧進帳、奉加帳(寄進名簿)をことごとく読み上げれば、富樫よくよく聴聞あって、あら殊勝(素晴らしい事)や候、実に南都の勧めにて御座ありけるを存じ申し、さて一時なれど白州に立たせ申しつる事、さこそ神仏三宝も憎しと思し召しつらん。
 こなたへ御入り候へとて中の出居(客間)へ請ぜらる、武蔵今は安堵の思いをなして、笈をここに置かばやと思うが、いやいやしれたる(馬鹿)者に笈を探され悪しかりなんと存ずれば笈掛けながら(担いだまま)座敷へ無手(むず)と直る。
 富樫これを見て、少勧進(わずかの寄進)にて候へどもとて、巻絹三十疋(ひき)、武蔵(坊弁慶)が前に積ませらる。
 富樫の北の方を始めとし、その他心ざしの人々は武蔵(坊弁慶)が前に宝の山を積む、弁慶これを見て、あらおびただしの御奉加どもや候、只今も給わりたくは候へと存ずる次第の候、来する三月これよりも、都(の宿)へ付けてたべ(下さい)と申す。
 富樫聞いて、京は何条と問わるる、武蔵何時も言い付けたれば、都は三条河原さきの弁慶がもとへ付けてたべ(下され)と言わんと心ざして、都は三条河原さきの弁と言つしが、はっと思いて、弁層(武蔵の父)の御坊へ付けてたべ(下され)とぞ申しける。
 さらば御暇申すとて、互いに暇を乞われ富樫の館をぞ出でにける、御曼堂に参りて君(源義経)にかくと申しければ、(俗人の)武蔵(坊弁慶)殿にてなかりけり、ただ八幡の御現化とて、御手を合わせ給いけり。
 その夜は、宮の腰(金沢市大野湊神社)、左良岳(さらたけ、左那武)の大明神に(祈願し)一夜の通夜を申し、夜を籠めて(夜の明けないうちに)い出でさせ給う。
 (ところが里)宮人申しけるようは、(これより先)越中への御下向はなかなか叶い候まじい、それを如何にと申すに、倶利伽羅の峠をば、(土豪)砺波(となみ)の七郎が七百余騎にて支え、山伏を通し申さず、能登と加賀との境をば志保の小太郎が塞ぎ、山伏を通し申さず、越中への御下向は思い寄らずと申す。
 弁慶聞いて浜に下り、もし能登の方へ下る船やあるとぞ問うたりける。

2 船路陸路の北陸下向
 折節、(能登の国)珠洲の岬へ下る船こそ候ひけれ、天の与ふる所とて、この船に便船し、その日の内に能登の国珠洲(すず)の岬に着かせ給う、御船よりも上がらせ給い、水際の岩に腰を掛け、辺りの体を見給うに、石岸峨々とそびえ風縮んだる(静まり)万木(全ての木々)は絵に書いたるが如くなり、西の沖は果てしもなく蒼海、雲を浸し、櫓械を渡る腰船や、波間に潜(かづ)き浮き沈む。
 水に羽振れて(鳥が飛び立とうと身構える)飛ぶ鷗(かもめ)、水際の岩に波かけて、底荒磯の岩間にも砕けて見ゆる空せ貝(実の無い貝むなしさのたとえ)人の心は荒磯の、片思いなる鮑貝(二枚貝でないあわび)、海松布(みるめ、見る目)なのりぞ(な告りぞ)取らんとて、海女ども海に下り浸り潜(かづ)きのために浮き沈む。
 かくて弁慶は、とある岩間よりも、螺(にし、小さな巻貝)に海松布(みるめ)の付いたるを取り上げて、(北の)御前に(持って)参らする、螺(にし)は生きて動きければ、海松布(みるめ)も共に動く。
 判官(源義経)御覧じて、(北の方)御前(史実は河越重頼娘、物語では平時忠女)の都に御座あらば、かように(生きたように)動く海松布をば如何にとして御覧候べき、遠国の果てにても何某(義経)が徳により、(都では絶対に見る事が出来ない)かかる名誉のもて遊びを御覧(になる事が出来ますよ)ずるよと仰せければ、御前(北の方)ぞ取り敢(あ)えさせ給わで(歌を詠う)。
  都より波のよるひる(波の寄る・夜昼)浮かれ来て道遠くして、うきめ(浮藻、憂き目)みる(海松布・見る)かな
  (都から海上を日夜遠くまで旅してきて辛い目を見ることだ)
 判官(源義経)聞し召されて、あら殊勝(すばらしい)の御詠歌や候、(行く手を阻む苦しく暗い中、海に浮かぶ海藻、浮藻を愁いに沈む憂き目に重ね合わせ、行く末の旅の苦難を予想させる不吉な北の方の詠を聞いて)やがて(義経も)御返歌申さんとて、
  憂き目をば、藻塩と友にふり捨てて喜びとなる珠洲(すず)の岬や
  (辛い思いは、製塩に用いた海藻と一緒に掻き捨てて、今喜びとなる能登の珠洲の岬だと、感情の「憂き目」から景物の「浮藻」へと逆に辿って、それを捨てることで不吉感を祓う祝い直しを行い、一行へ勇気を与え、安堵感を出す掛け合いによる祝い直しをした)。
 この歌に慰みて今は船路も便りもなく、遥々の廻わりをして越中へこそ急がれけれ、磯伝い峯伝い絶え絶え細き谷の道、石動山を伏拝み、越中の国に聞こえたる六度寺(川)の渡に着かせ給う。
 船に乗らんとし給えば渡守が見まいらせ、この渡りは南都造営(焼失した東大寺大仏殿再建資金集めの僧)の為なり、(運)賃無くしては渡す申しまじ。
 弁慶聞いて、如何なる津泊り、関々(何処の関でも)にても山伏の法(習い)にて賃という事は(運賃を取ると言う法は)無きぞ、ただ渡せと申す。
 (賃なくば)ふつつと叶い候まじい(賃なしでは渡し申さず)船賃なくばただお戻りあれと申す。
 賃は無し、急がしし(ならず気が気でない)、遅参せば跡よりも如何なる事か出来なんと、御前(北の方)の紅の千入(ちしほ)の袴取出し、せむはう(方策)尽きて船の賃にこれこそあれとて賜びにけれ。
 渡し守が見まいらせ、是は我々が見知り申さぬ物にて不足には候えども、さらば渡し申さんと、六度寺(川)を漕ぎ渡し、放生津(ほうしづ)を歩み過ぎ岩瀬の渡り、今日も早、打出の宿とうち眺め、御通り有りし所に。
 旅人数多(あまた)居り合いて、是より奥(州)への道すがら少人(児童)を歩ませ申して、あらそいか(いかでか)下り給うべき、のう山伏と申しけり。
 (義経が)さては船路ならでは行くべき便もあらばこそ船便有れかしと仰せければ、折節越後の直江の津へ下る船こそ候いけれ、此の船に便船し直江の津に程なく着かせ給う、御船よりも上がらせ給い、直江の太郎の宿所に一夜の宿を借り給う。

3 直江の浦での山伏詮議
 浦の人々(一つ所に)さし集まり、内儀評定(密かに相談)する様は、そもそもこの浦は当国の(国)府、善光寺へ参る道、総じて数多の道辻、制札のその上見も知らぬ山伏たちの勢々着かせ給いたるは、判官殿(源義経)が怪しや、いざいざ咎め申さんと、我と覚しき浦の者七八百人さし集り弓矢を帯しひしめいたり。
 御宿の女房は情(深き)ある人にて、弁慶を招き寄せささやき申しける様は、痛わしや客僧達を判官(源義経)殿なりとて絡め取り、はるばると鎌倉へ具足し(連れて)申さんと大勢率し只今向かう也と申す。
 弁慶聞いてうち笑い、嬉しくも聞かせ給いて候ざりながら、我々は羽黒山の山伏にて別に子細は予も有らじ(是といった問題が有ろうはずもなし)、御心安く思し召せと、さあらぬ(素知らぬ)躰にもてなし。
 さて君の(源義経)の御前に参り、この由かくと申しければ、義経聞し召されて、哀れげに義経は如何なる月日生まれけるぞや、天に業の網(逃れる事の出来ない網)を張り、地には逆茂木の関を据え、五尺に足らぬ形骸を繰りかねたる悲しさよ、さりながら口多くしては言葉の誤りもあるべし、御辺たちは、山伏の峰の薪取る風情にて上(の山へ)入り給え、それがし(義経)一人残り居て問答をしてみんずるに、陳じ損ずる(もし申し開きをしそこなったら)ものならば、合図の(法螺)貝を吹こうぞ、その時(は)降り下って共に腹を切り給え。
 この儀もっとも然るべき候とて、十一人の人々は傍(かたわ)らに立ち忍ぶ、その跡に浦の者雲霞の如く乱れ入り、鎌倉殿の御舎弟、大輔の判官義経の御着あったる由を承り、(鎌倉殿の御代官に)直江の太郎がお迎えに参りて候、早々御出で候へ鎌倉へ具足し(お供)申さんと大声上げて申す。
 義経聞し召されて、何、判官殿とは何処に御座候、おういつぞやの事かとよ(何時の事であったか)、平家を攻めさせ給はんため十万余騎を引率し奥(州)よりも討って登らせ給いしを、羽黒の傍らにて、そっと見参らせて候しが、只今も千騎に劣る事はよも候じ、やは(まさか)かか(これ)程の少勢にて叶わせ給ふべき(適合しないでしょう)。
 一夜の宿の情けに山伏共に具足たべ(道具下され)、亭(直江太郎)の御伴申し、一方防ぐべしと仰せければ、浦の者共これ聞き、もっての外に相違して(とんでもなく違っており)、あきれてここに立ったりけり。
 直江の太郎が申しけるは、判官殿と申すは背小さく色白く、赤ひげにてまします由を承り及びて候が、只今左様に仰せらるる山伏の形相(貴方の顔つき)、判官殿において疑う所なし、御出で候へ。
 判官聞し召されて、さては面々は実に仰せ候が、ついでを持って音に聞く鎌倉とやらんを見て通ろうぞと嬉して連れて行き給え。
 浦の者共これを聞き、若しもさもなき山伏達を判官殿なりとて絡め取り遥々と鎌倉まで具足(連れ)したればとて、さしたる高名(大した手柄)はなくして山伏どもに呪われ良かりつべしと覚えず、所詮笈を賜わり中を見ん、誠の山伏行者ならば山伏の道具持つべし、空(偽の)山伏にてあるならば、山伏の道具よも持たじ、笈を賜わり中を見んと声々に申す。

4 笈の中まで調べられる
 判官力に及ばせ給わず、八挺の笈を取りい出し浦人のかたへ渡し給う、浦の者共この笈を取りて行き、中を開いて見てみて有れば。
 まず、一挺の笈には金剛界の曼荼羅、胎蔵界の曼荼羅、護摩の次第諸尊の法、数を尽くして入れにけり、廻し文が怪しやと疑い申す処に、国上(真言宗)の寺よりも法師一人来って、ことごとく拝み知って悪しくして(粗末にして)罰当たるなとて元のように取り納むる。
 二番の笈の中には、顕密(顕教と密教)二種の法、釈(迦の)教のとめい(経典)有り、これもかたじけなしやとて元の如くに取り納める。
 第三番の笈には、いや(真言密教の道具である)三鈷、独鈷、鈴、錫杖、火舎、花皿を入れにけり。
 四番の笈の中には、五大尊の霊像、不動、降魔の諸天、本尊の数を尽くしたり。
 五番の笈の中には、返牒、願文、往来(平安末期からの教科書)、仮名、真名の手本、弘法の御自筆、(小野の)道風の古い筆、秘本の数を尽くしたり、知るも知らぬも押し並べて、尊(たつと)しと申しつつ手を合わせぬはなかりけり、笈に子細のあらばこそ(問題となる所は全くない)、いざ戻らんと申す。
 直井の太郎が申しけるは、如何に方々一切の事をば(全ての作業が)卒爾にては叶わぬぞ(いい加減ではいけないぞ)、残る笈をば誰が為に残し置きたるぞ、只ねんごろに捜せと申す
 げにげに(確かに)これも言われたりとて、また次なる笈を取りて行き中を開いて見て有れば、あら判官(源義経)の都より持たせ給いたる萌黄匂いの御腹巻(鎧)、籠手小具足取りい出して、是も山伏の道具候か。
 判官(源義経)聞し召されて、さては面々は当国の山寺の山伏達に習って、羽黒山の山伏の礼儀をば知ろし召されぬよのう、仰せ羽黒山と申すは役行者の苔の道、山伏の秘所(修験霊場)、ここに衆徒と名付けわがままに振る舞う方あり、山伏これを嫉(そね)み、瞋意(しむい)の怒り(怒り憎む事)絶えせず、これによって武具弓矢を持たぬ法師が有らばこそ、この辺にあわ良き売具足やそう(が有りませんか)御秘計あれ(便宜を図って下さい)、山伏の甲冑持つ事諸方に隠れそうばこそ(何処でも知らぬ者はいないはず)、あら世間狭ばや面々(世間知らずの人々や)。
 浦の者共承り、実に実にこれもさぞ有るらんと、又次なる笈を取りて行き中を開いて見て有れば、御前の都より持たせ給いたる五尺の(束ね)かつら、七尺の掛け帯、唐の鏡、十二の懸け子入れたりし手箱なんどを取りい出して、是も山伏の道具候か、あら殊勝(感心)と行いすまさせ給いたる山伏の道具ともや候、さればこそ判官殿なりと声々に呼ばはる。
 判官ちっとも騒がせ給わず、面々の不審は(もっともの)理り、さりながら掛帯、かつら、装束の由来は、この法師がために伯母御にて候は羽黒の権現の一(第一位)の巫女たるによって、今向かう(これから行われる)三十講の神輿の御供申さんため、都より買い下りし給うなり。
さてまた、懸子(かけご、箱の中に入る箱)、手箱は、越中の国水橋を通し時、水橋殿の姫君、熱病を強く労(いたわ)りて、存命不定におわせしをこの山伏の中に験者の上手あるにより、七日留まり加持し(祈祷し)たちまち験に着け(直り)申す、是によって財宝を本尊の前に取り懸くる、おぼつかなくば(信じられないならば)使者を立て、水橋へ問わせ給うべし。
 浦の人々これを聞き、か様に御述べあらんには、いずくに(どこに)詰がそうばこそ(決め手があると言うのですか)、御身にてもましませ同行にてもましませ、是非一人給わり鎌倉へ具足し(お連れし)申さんと声々に申す。

5 武蔵坊弁慶、浦人を脅す
 判官(源義経)力に及ばせ給わず、腰なる(法螺)貝を取あげて、二つ三つ吹き給う、貝の声も静まりければ、上の山に隠くし置く人々に、武蔵坊弁慶、常(陸)坊海尊、亀井、片岡、伊勢、駿河この人々を先として打刀、まさかりを、面々に持って乱れ入って、何とては法師は貝をば吹くぞ。
 それ山伏の貝吹くは約束があって吹く物を、左右なく(見境もなく法螺)貝を吹き鳴らす事ひが事なり(間違いである)と、申しつ義経を中に取り籠めたり。
 判官(源義経)聞し召されて、静まり給え方々、この浦の面々がこの法師一人取り詰めて、判官に成れ義経に成れと仰せあれど、氏も種姓も無きにより(家柄家系ではないので)、ならじと申し候を、ただ成れ成れと仰せ候程に、あまり千方尽き果てて(これ以上どうしようもなく)、只今の貝を吹いて候、御免あれやと仰せけり。
 弁慶がこれを聞き、さては稀代(不思議)な事かな、羽黒の方の山伏に由なき事を云いつけ、判官に成れ、義経に成れとは何事ぞ、とてもの事にてあるならば(いっそのこと)、直江千家(繁昌している所)を我等が住むとなすべきなり(支配下に置いて住もうではないか)。
 ここに立ったる太夫殿、見知らぬ顔にはいたれども六挺(の櫓を持つ遠距離廻)船の船頭、七月の初め秋田、酒田を漕ぎ出し、八月の初め越前の国とかや敦賀の津に聞こえたる、清次(と言う男)が元を宿として、七里半(越えの北陸道愛発)あらぢの中山、海津(滋賀県牧野)の浦より船を立て大津(滋賀県)の登り大路のこう太夫が元を宿として。
 一年に一度ずつ下り登りし給う、六挺(の櫓を持つ遠距離廻)船の船頭と見なした事は虚事(いつわり事)か、今こそ小目は見るとも(辛く惨めな思いをしているが)、明年の夏の頃何処にても(どこへでも)参り合い、あら痛わしや是の還礼(仕返し)を申さんとて、カラカラと笑いければ。
 浦の者共これを聞き、判官殿(源義経)にて御座有らば、我等が船の着所やはかは知ろし召さるべき (どうしてご存じのはずが有ろう)、事の乞わらぬその先(物事が荒立って大事に至らぬ前に)、こちらへ来いよ浦の人々と、一人二人逃げて行く。
 弁慶続いて追っかけ、大音上げて申す様、何とて面々は笈をからげて得(返)させぬぞ、それ山伏の懸け笈、私ならぬ事ぞとて(勝手に扱えるものではないぞ)、峰(金峰山の金剛蔵王権現)の八大金剛童子の乗り移り給うなる懸け笈を不浄の身にて取りい出し候いて、ただは置くべきか(ただでは置かんぞ)笈絡げて得させよと続いて追うて出でければ。
 手を合わせ立ち戻り、嫌疑(を掛けた事)に咎がさうばこそ(有ろうはずは有りません)、何事もうち忘れて御免候へ、少人(源義経北の方)も御座有れば、伝馬なんどの御用は、(後で)御目に懸るべし(うけたまわりましょう)と言う。
 さしも剛なる浦の者、御怪力に押されて、その後ものを申さぬは理とこそ聞こえけれ。

6 船で下る一行に暴風の難
 その後、義経、武蔵を召され、陸を行かば、この先にまた物憂き事も有るべし、便船有れかしと仰せければ、弁慶承り、事の外に腹を立て総じて我が君(源義経)の、ここにては便船、かしこにては便船と便船好み給うによって、かかる難しき(面倒な)事をも出来候。
 四国、西国の御合戦は、皆船軍にて候いし、あいた船路の事をも大略に心得て候、船を買取って、我等で漕ぎ下らんに何の子細の候べき(支障が有りましょうか)。 
 判官(源義経)実にもと思し召し、直江の太郎を召され、この辺にあわよき売船や候、秘計(人に知れないよう)あれ、直江承り、余所を秘計申すまでも候はず。
 (直江太郎は廻船業)、小鷹、隼、波潜り、石割太郎、呼子鳥とて船をば数多(速船を七艘)の持ちて候、御用に任せて召さるべしと。
 判官聞こし召されて、その小鷹と言える船、如何程(いくら位の値段)もせよとて、(義経の)秘蔵に思し召す御腰物(刀)を直江の太郎に下し給う。
 直江太郎、御腰の物を賜わり我が宿所にまかり帰り、船具足ひしひしとしつくろい(てきぱきと取付け)、船押浮かべて早召されよと申す、十三人の人々(山伏達)は我も我もと召されけり。
 優かりける直江の津を事ゆへなく(無事に)漕ぎ出し、順風を得て帆を上げけり。
 雲海漫漫として際もなし(大海は広々として果てしもない)、雲の波、霞の煙分け難し、蒼波なを道遠し。
  汀(みぎわ)の海は錦に似、雁、北天に飛びにけり、いづれの歳月か義経と諸共に帰らん事を得ん
  (汀の海は山々の紅葉に映じて錦の如くであり、雁北天を目指して飛び立った、いつの日にか義経もお前と一所に帰る事が出来ようか)
ことは菅丞相(菅原道真)の詠めなり。
 (菅原道真の詩、しかし前文は唐詩人韋承慶の詩に依拠したもので韋承慶の立場を義経に置き換えたもの)
  うらやましやな雁金(雁の鳴く声)は、はつき(葉月、陰暦八月)にならば来こそせめ、義経は何時の時に都へとてか帰るべき、せめて玉章(手紙)ばかりをば(雁の翼に付けて)言伝ん、
との給いつつ、歌を詠み詩を作り、梶を取り、帆を上げて浪路遥かに吹かれ行く心ざしこそ哀れなれ。
 かかりけるところに、佐渡の国北山の岳よりも、黒雲一つ立ち出ずる、雨か風か怪しやと仰せける所に、越後の国蔵王(権現堂)の上よりも雷電、雲を響かす。
 ああ気色の悪いは(あれ様子が変わるぞ)山陰風の隠れ(風を避けれる)島いずくにか有る、船寄てこの難を逃がるべしと言う、言わせも果てずして(言い終わらないうちに)大風梢を吹き砕き渚に砂(いさご)を飛ばすれば、へいへいとしたる雲海に雪の山こそ多かりけれ、水を天に吹上げ逆さの雨とぞ成りたりける。
 上下船に酔い給う、その中にとっても(伊勢三郎)義盛と弁慶二人ばかりこそ大肌脱ぎに肌脱いで(着物の上半身を脱いで諸肌を現わし)艫舳(船尾と船首)に立つてぞ廻りけり。
 いかにもして(どんなことをしてでも)この船を磯へ寄すべからず(よせないよう)、荒磯に船を寄せ船損じて(座礁させて)は叶ふまじい、風に任せて梶を取れ、帆菰(ほごも)が風に揉まれば(張った帆が風に揉まれて)、帆わた(膨らんだ所に刃物を入れて)を切って風を通せ、更に風が激しくば(帆を張る)大綱小綱を切り払い、艫綱(ともづな)に結いつけ引かすべし。
 取り舵より(左舷から)水入らば面舵へ(右舷へ人は移動し)乗り直せ、亀井、片岡は戦場ばかりの嗜(たしなみ)みにて、かかる時には前後不覚に見え給うものかなや(役に立たない者かな)、船底に下り立ってあか湯(船底に溜まる水でも)をなりともかへ(掻き出し)給え、例え此の船が鬼界、高麗、契丹国へ落とさるると申すとも(本土を遠く離れた異国の地まで流されたとしても)、我々二人有らん程は何の子細の候べき、我が君(源義経)と申す。
 判官(源義経)聞し召されて、あの(伊勢三郎)義盛と申すは、伊勢の国の者にて渡りの船に習って(港から港を渡る廻船に乗り馴れて)航路の事をも心得べきが、不思議やな武蔵は文にも武にも達者なるが、船路の事をもこれ程に心得けるか不思議さよと、そぞろに(むやみやたらに)誉めさせ給いけり。
 あら痛わしや、(北の)御前の御身もただもましまさぬに(妊娠し普通では無いのに)荒き波に強(こわ)き風に弱り果て丈と等しき御髪を波と涙に揺り流し、むずかる(苦しみうめく)声も弱り果て今を限りと(命も終りかと)見え給ふ見え給う、十一人の人々は、この由を見参らせ、実に実に夫婦の中程に、わりなき事はよもあらじ(言い難い物は有るまい)。
 痛たわしや御前の都に御座の御時は七重の屏風、八重の几帳、九重の幔の内、御簾吹き返す風をだにも人かといとい給いしに、今は何時しか変り果て、かかる遠国波濤にてさて果て給うは痛たわしやと(最期を迎えられる事は御気の毒な事よと)、鬼神を欺く輩も不覚の涙流しけり(怖れさせる豪勇無双の者も思わず涙を流した)。

7 武蔵坊弁慶、平家の怨霊を引導
 かくて黒雲次第に引き覆い偏(ひとえ)に常夜(暗く夜の)の如くなり今までは有りとも思えぬ(今までは、そこに有ったとも思えぬ)船共が、その数多ほの(ぼんやりと)見えければ、助け船か嬉しやと仰せける所に、そはなくして(そうではなく平家の)赤旗さし連れたる(亡霊)武者どもが、如何程も多く湧き出でたり、不思議に思し召す所に船の内に声あって。
 (平)宗盛(と平清宗の)父子是に有り、東国の九郎冠者(源義経)恋しやと呼ばはりかけ近づくと見ゆる、能登殿(平教経)と思しき人、小船に舵取り一人相具し(連れて)近ずくと見ゆる、(平清盛の妻の)二位殿と覚しき人(尼公)、先帝を抱き参らせ、只今海底に身を沈めんとて義経の方を恨めしげに見立たせ給う。
 弁慶これを見て、所詮(成仏できずにさ迷っている霊を供養して、成仏させるよう)引導せばやと思い、船底につつと入り、(山伏の法衣である)頭巾、鈴懸(麻の上衣)うち掛け、船の舳板に突つ立ち上がって大声上げて呼ばはる。
 昨日は西の海岸にて(四国落ちの時に大物の沖での暴風に遭難した時の平家の亡霊)多勢の嘆きを見、今日はまた北国の江にして目前(に現れ怨み)嘆きをなす事は夢幻の如し。
 有為の法(因縁によって生じ滅する現象的存在)はさながら今吹く風の如くなり、無作(常に住む不変の絶対的存在)の観をなす事は、今立つ波の如く也、大小の戯論は(根本は一つで)風によって形有(因縁によって生ずる現象である)、一つの風があればこそ多くの波も形あれ、風と波の(別々の現象と見る)二見は、迷いの前の夢なり。
 (因縁で生じ滅する現象的存在は、因縁によって生じたことではなく常住不変の絶対的真実によって、根本は一つで、因縁で生じる現象である、風と波を別々の現象と見るのは間違いである。)。
 一つの海空海(海は海であってしかも海ではない)にして浄土なしと悟る時は風も波もあらばこそ(海も現象であり、一切万物は空でありそこには浄土も存在しない)。
 おう、痛たわしや、平家(一門の中)にはさるべき智者のなければこそ(しっかりした見識のある高僧が居なかったから一門の人々を成仏させることが出来ず)、多くの怨霊を仏にはなさずして(しまい修羅道に墜ちて)執着の闘諍に輪廻し給う(争いを繰り返している)、痛たわしさよ。
 只今申す弁慶が引導につき、発心の一理を悟って輪廻の絆を離れて妙覚無為の位に(仏法の心理を悟り、三界六道の迷いの世界に生死を繰り返すことから解放されて、絶対の悟りの境地に)着かせ給うと申す時。
 (平清盛の妻の)二位殿の声として、昔は一天の国母とし万乗の聖主とありしかど(高倉天皇の中宮、建礼門院徳子を母として、天子として生まれたが)、今はまた御裳濯川の流れ遠里波底に身を入りし(天照大神の子孫、遠里、壇ノ浦で入水し)、愁歎の涕泣(ていきゅう)、嫉妬の執念は砂(いさご)よりもなを多し
 是によって六道多くの里を巡り三途、八難の旧業(前世での悪行の報い)を逃れ難く思いしに、只今申す武蔵が引導につき、発心の一理を悟って輪廻の絆を離れて妙覚無為の位に付きたることの嬉しさよ、昔は敵、今は導師となり給ふ、暇(いとま)申してさらばとて、波の底に入り給えば、風も波も鎮まり、船は小浪に揺りすゆる。

8 弁慶、夫役の義経を打ち負かす
 かくて御座船をいずく(何処)ともなく押し寄せ上がりて、問わせ給えば越後の国、寺泊りと申す、さては跡へは戻らざりけりと御悦は限りもなし。
 ここの里人が申しけるは、これより先に鼠付きの関とて世の始めより候べしか、鎌倉殿よりも判官殿の御姿と御内の弁慶が姿を絵図に写し関所の前に高札を打って置かれて候が、山伏の禁制が以外に候。
 弁慶聞いて打ち案じ、この関屋をも某しが謀によって通ろうずるにて候、所詮熊野より下向する先達と号しなし某は伝馬に乗りて通るべし。
 恐ながら我が君をば、あい(とりあえず)の(人)夫に作りなし申し、中の蓑笠おわせ申すべし、十一人の人々は笈鈴懸をとり隠し皆々男に成り給へ。
 この儀もっともしかるべしとて、十一人の人々は本の男に成られけり。
 弁慶は伝馬に乗って関所の前を轟懸けして通す、その日の関守には井沢の与一が候いしが、関の戸をはたとたて制札と御覧ぜよ、なかなか叶うまじいと申して万事を捨てぞ支えける。
 弁慶これを見て都よりこの国まで山伏の禁制とて辻々に札は立ちぬれども、この法師共年々熊野へ参ると、国より関守どもが見知ってなんなう是まで通したるに、この関屋にて唯今うち留めんとは何事ぞ。
 熊野の権現はおわせぬか、関所のやつばらをすくめてたび(下さい)給えと(算盤玉のように角の尖った修験用の)いらたか珠数を取出し、さらさらと押し揉んで熊野の方を伏拝む。
 関守上下怖じ怖(お)それ、恐ろしの人の勢いや、この人々を関屋にて討ち留めと申すども、国が半国ゆるぎ候いても一人も討つが討たんでこそ、あるべけれ中々の事をし出して関所の者共残り少なく討たれては何の用にたちそうべき、見んでい知らぬ由にして、脅しあれと申しけり。
 井沢の与一がこれを聞き実に実にこれは言われたり如何なう先達坊判官殿の御内の弁慶と云う人に似させ給いたるほどに、かように申したれども御通りあれと申し、関の戸を開けて通しけり。
 心の強なる徳により鰐の口を逃れて鬼神が門を出でけるを、褒めぬ人こそなかりけれ。
 その跡に判官殿中の蓑笠をそぞろに負はせ給い片目をふさぎ肩腰を引き、関所の前を通らせ給う。
 関守共がこれを見て、ここにあい(にわかの)の(人)夫にさされたる男こそ、下種(げす身)ぶんの中には生まれついたる判官殿なれ、例えば腰を引かば引け片目だにもつぶさづは、定の判官殿よと、一度にどっと笑いければ十一人の人々は生まれたる心地もなかりけり。
 弁慶は馬の上よりも大音上げて申す、やあ、強力(山伏の従者)さなきだに(そうでなくてさえ)山の内は村雨の重きに良ともすれば、さがって道者を濡らす不当さよ歩めと云って、持ったる鞭にてちゃうちゃうとぞ打ったりけり。
 判官殿御覧じて、これ程重き荷をうてえこそは歩むまじ、けれど泣く体にもてなし急がせ給いけるほどに最上川にぞ着き給う。
 かくて判官の持たせ給いたる蓑笠をかしこへかばと投げ給へば弁慶走り寄り中にておっとり三度いただき頭を地に着け、謀(たばか)り事とは申しながらも、まさしく主君を打つ杖の天命いかで遁(のが)れ候べき、唯今の弁慶めが狼藉をば、仏神三宝も許させ給い候へと、鬼の様なる弁慶も東西を知らず泣きければ十一人の人々も皆泪をぞ流しける。
 判官御覧じて如何に武蔵殿、仏だにも因果をば遁(のが)れさせ給わず、ましてや末世に於いて破戒の凡夫の身として争いて因果を遁(のが)るべき事に、是は弁慶が打つ杖ならず舎兄頼朝のあそばす杖と思えば是を恨みと思まじ、はやはや舟に乗れやとて川船に召されけり。
 遥かの川上に鵜と申す鳥が余多おり居て遊びけり、判官御覧じて如何に武蔵殿あれなる石におりいた鳥をば何と云うやらん、鵜と申す鳥で候。
 御前(北の方)聞し召し一首の歌にかくばかり
  最上川如何なる神の誓いにか、浮いたる石の流れざるらん
  (どんな神さまとの誓いがあって、最上川の川筋に浮いたこの石は流れてゆかないのでしょうか、神の加護によりこれ以上諸国を流れ歩く事のないよう祈りを込める)
と、かやうに詠みし給いて急がせ給いけるほどに姉歯の松、亀割坂に着き給う、人々の嬉しさ例えん方はなかりけり。

「幸若舞の歴史」


「幸若舞(年表)と徳川家康・織田信長」

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桃井直常(太平記の武将)1307-1367