剣讃歎(つるぎさんだん全文版)(曽我物語⑤)
【幸若舞曲一覧(リンク先)】
1 別当のはなむけの太刀
さる間、曽我兄弟(兄十郎祐成と弟五郎時宗)の人々、(親の仇、源頼朝の家来工藤祐経を狙う為、頼朝主催の富士野の狩の場に向かう途中)駒(馬)を早めて打つほどに、箱根の別当(寺務を統括する僧官、箱根権現十九世の行実)の(弟五郎時宗が新参の稚児で暮らした箱根権現の)宿坊に着き給ふ。
いつしか(早くも)、稚児(や)同宿(五郎の稚児時代の兄弟弟子)に至るまで、珍しや今(来た)かとて対面せぬは無かりけり。
人も稀なる所(立派なる客室部屋)へ兄弟を請じ(招き入れ)、別当出で合い給(たま)い。
(富士野の狩場に向かう途次、箱根権現に出向いて、曽我兄弟は別当と別れの対面をする)
(別当から)如何に兄弟、久しく見えさせ給わぬものかな。
箱王(弟五郎の幼名)殿は、男(還俗し元服する)に成りて候へども、憎しと更に(腹立たしいとはけして)思わぬぞ、愚老(ぐろう、私)も若き時ならば共に男(還俗し元服する)になりたいぞ。
此の程は、うち続き夢にも悪しく見ゆれば、又何事か聞きい出し。
老愚に添えて(老人の愚かな取り越し苦労も加わって)、この法師が物思わんずらんと心許なく思いしに(この法師の嘆きの種とも成るのだろうと気がかりに思っていたが)、
富士野へ出でさせ給うこそ、(兄弟の覚悟を察した別当は)心許なき次第かな。
箱王殿は七歳にてこの寺へ上りつつ、十六までは、いささかも下り上る事もなく。
跡懐に育て置き(無き父河津祐通に変わって我が子同然に養育し)、智者能化に成し立てて(仏教に精通し、人々を教化する優れた僧に育て上げて)、跡を訪はれんためぞかし(任せんためなのに)、かくあやなくも別れて思いをせんと知らずや(あのように甲斐なく箱根を去っていき、さぞ嘆いているだろうとは思わなかったのか)。
朽ち果つべき埋もれ木の(朽ち果てて行く埋もれ木のように)、つれなく憂き世に長らへて(無情にもこの世に長らえて行く私だが)。
兄弟の人々の親の仇と討死し、弓煎(きゅうぜん、弓矢)の先にかかりなば(矢で射殺されたならば)、一時三帰(仏・法・僧)の隙もなく(少しの間も仏法僧に帰依する暇なく)、修羅の苦を受くべきに(ただちに修羅道に墜ちて苦しみを受けるだろうが)、跡を問うべき法師の一人有と思し召され候へとて。
黒鞘巻(くろさやまき、鍔の無い黒漆塗り)の(短)刀をば兄十郎祐成に賜び(与え)給う。
兵庫鎖(兵庫寮の工人が作った精巧な銀の鎖を付けた)の太刀をば弟時宗にこそ賜びに(与え)けれ。
2 太刀の来歴
別当の御諚(おんじょう、お言葉)には、それ、人の持つ宝の謂(いわ)れを聞かねば何ならず(太刀の来歴を物語る)。
時宗に参らする(与えた)太刀の謂れ(由来)を語って申さん(聞かせん)。
昔、天竺(インド)よたう山に、れううんという滝あり、彼の(この)滝の双岸に三尺の鉄の丸かせ(塊が)有りて日夜に人を悩ます(悩ませていた)。
ある時、しやりふんという者、祈り出し、柄と身に八尺の長刀(なぎなた)に打ちたてて持つたりしを(持っていたのを)、かううんという者(が)盗み出し、これを唐(中国)へ渡す、唐より日本へ渡さるる(渡来し)。
奈良の帝(平城天皇)の時、かかる名誉の長刀(なぎなた)を太刀にせん(しよう)との宣旨にて、鍛冶の上手(名人鍛冶師)を召さるるに、奥(州の舞草を拠点とした)の舞房と(京都)三条の小鍛冶(宗近)と彼らは名誉の上手とてこの長刀(なぎなた)を二つに分け二人の鍛冶に預け給う。
奥(州)の舞房は三年にて(かけて)三尺に打って参ら(作り立て持参)すれば、三条の小鍛冶は三年三(カ)月にて(打って)二尺七寸に打ち立てて参らせ上る(作り立てて持参)。
(これを見た)帝(は)叡覧ましまして、憎い鍛冶かな、いかさまにも小鍛冶は鉄を盗みたりとて(仕上げた太刀が片方は三寸足りなかったので、三条の小鍛冶を鉄を盗んだ者と怒り)
あら無残や小鍛冶を土の牢に押し籠め給う(投獄した)、牢の内(で)の住まい(では)、なかなか申しばかりもなし(何とも弁解の方法もなかった)。
さる間、(帝は)舞房が打ったる太刀をば、「枕上(まくらがみ)」と名付けて一段上に(飾り)立てられたり。
(三条の)小鍛冶が打ったる太刀をば「寸なし」と名付けて、一段下に飾り立てられけり。
(三条の)小鍛冶はあまりの無念さに、
「南無や、(全国)九万八千の(荒神、稲荷神、金屋子神、天目一箇神等諸々の)鍛冶の神たち、小鍛冶の誤りなき所のその微(しるし)を見せ給え」と悲涙涕泣し肝胆を砕き(大泣き懸命に)祈りければ、まことに鍛冶の守護神も納受ありけるか(祈りを聞き届けてくれたのか)。
寸なし(の太刀は、自然と)鞘を外れて(抜け出し) 、枕上に流れ懸ってちょうど切る。
(同時に)舞房が打ったる太刀(枕上)も化生(けしょう、不思議な霊力を持った)の鉄にてある間、鞘を外れて、(二つの太刀が)渡り合い追いつ捲きつつ散々に(追いかけ払いのけたり激しく)戦うたり。
御殿の内(が)振動す(る)、帝を始め奉り、公卿、大臣(らは驚き)「これは如何なるもののけぞ」と怪しめ給うところに、寸なしと枕上(が)鞘(さや)を外れて戦うたり。
帝、叡覧(御覧)ましまし、「こなたは枕上か、あなたは寸なしか、あれは如何に」と仰せあり、御目を覚ますばかなり。
(見ていると、)ややもすれば枕上は受け太刀になりてぞ廻りける(相手の勢いに押されて防御ばかりになる)。
なおも寸なし(が)無念にや(とばかりに)思いけんとある所へ追い詰め、我(自分の)丈にたち比べ、(同じ長さになる様、)切っ先三寸切って捨て、元の鞘にぞ納まりける(納まるった)。
帝、叡覧(御覧)ましまして、寸なしを引き変えて(の名を変え)「友切」(という名誉の名を与えた)に官をなる。
さてこそ(三条の)小鍛冶は、やれ、土の牢をばい出されけれ(釈放されることとなった)。
その後、二振りの太刀は、(清和源氏の)多田満仲の手に渡る。
(三条の)小鍛冶が打ったる太刀(友切)にて、(多田満仲が命じて)咎有者(とがあるもの、罪人)を召し寄せ(試し切で)首を切って見給えば、あまりに早く首が切れ、髭をかけて切れければ(ひげまでもが切れていたので、その後)「髭切」に官をなる(という名誉の名を与えた、後の源満仲の子源頼光の時には鬼切丸)。
(もう一方の)舞房が打ったる太刀にて、咎有者(罪人)を召し寄せ(試し切で)首を切って見給えば、余りに早く首が切れ、膝を掛けて切りければ(両膝までも切ったので)、「膝切」と官途(かんど、手柄を記念した名を得る、源頼光の時は蜘蛛切と号し源義経の時は薄緑と号す)なる。
その後(さらに)彼の(この)二振りの太刀(は)、(父満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田の地を継承した息子の源)頼光の手に渡る。
(その片方の)小鍛冶が打ったる髭切にて、鬼の手を切れば「鬼切」に官途(かんど、手柄を記念した名を得る)なる。
( 源頼光四天王の筆頭として頼光より名刀髭切を貸し出されていた渡辺綱の大江山酒呑童子退治や、京都一条戻橋の上で鬼の腕を源氏の名刀髭切の太刀で切り落とした逸話は有名である。
大江山絵詞に、一条天皇の時代京の若者や姫君が次々と神隠しに遭ったので安倍清明に占わせたところ、大江山に住む鬼(酒呑童子)の仕業とわかり帝は源頼光らを征伐に向かわす、頼光らは山伏を装い鬼の居城を訪ね一夜の宿をとらせてほしいと頼む、酒呑童子は京の都から源頼光らが自分を成敗しにくるとの情報を得ていたので様々な詰問をするが何んとか疑いを晴らし酒を酌み交わして話を聞いたところ、大の酒好きなために家来から「酒呑童子」と呼ばれていることや最澄が比叡山延暦寺を建てた事からそこに住めなくなり大江山に住みついたことなどを語った。頼光らは鬼に八幡大菩薩から与えられた神便鬼毒酒という毒酒を振る舞い寝込んだ所を武具で身を固め寝所を襲い身体を押さえつけて首をはねた、生首はなおも頼光の兜に噛みついたが仲間の兜も重ねかぶって難を逃れた、一行は首級を持ち帰り京に凱旋。首級は帝らが検分した後に宇治の平等院に納められた。
また、渡辺綱が源頼光に用を頼まれ一条大宮へ遣わさる、帰り道一条戻橋で美女に夜で心細いので五条まで送ってほしいと頼まれ、馬に乗せ行く途中鬼に姿を変えた美女は我の行く所は愛宕山ぞと言い綱のもとどりを掴み乾の方へ飛んで行く、綱は少しも騒がず宝刀髭切で鬼の腕を斬り落とす綱は北野天満宮の回廊に落ち、その後鬼は綱の養母に化けて屋敷を訪ね、斬り落とされた片腕を奪い取っていった、現在この鬼切丸別名「髭切」は京都上京区の北野天満宮に平安時代の名工安綱作として保管されている)
(もう一方の)舞房が打ったる「膝切」にて、変化の蜘蛛を切りければ「蜘蛛切」に官途(かんど、手柄を記念した名を得る)なる。
( 平家物語に、源頼光は不明の発作に冒され祈祷しても治らず発熱七転八倒の苦しみが30日も続いた、頼光の寝所に長七尺(約210cm)の法師が忍び入り縄で絞め殺そうとする、気付いた頼光は枕元の刀膝切で切りつけ駆けつけた四天王が室内を調べた、屋外に続く血の跡を追跡すると北野神社の塚に着いた、掘ると四尺(約120cm)大の山蜘蛛が潜んでおり退治し鉄串に刺し河原に晒した、源氏の棟梁を呪詛し亡き者にしようと館に忍び込んだのだものだ、この刀は現在京都右京区大覚寺に薄緑別名「膝丸」として保存されているその由来は源氏代々宝刀として受け継がれ源満仲から源頼光、頼基、頼義、義家、為義から熊野別当教眞、熊野別当湛増から源義経、曾我五郎時宗、源頼朝からと伝わり、薄緑別名「膝切丸」の名は源義経がこの刀を抜いた時に山の緑が刀身に綺麗に映ったことから薄緑とも呼ばれ、義経は平家討伐を願い箱根神社に奉納したものが曽我兄弟の親の仇討ちに使用されたが捕まった源頼朝の手に戻された刀である)
その後、二振りの太刀(は)、八幡殿(源義家)の御手に渡る、それよりも(そこからは源)為義(義朝の父)の御手に渡りけり(源氏の宝刀として伝来する「髭切」と「蜘蛛切」と呼ばれるようになったものである)。
3 源為義の婿、熊野別当の事
その頃、(源)為義の嫡女に、たづはらの姫と申して、熊野にこそましましけれ。
かの姫、熊野にまします謂(いわ)れは、後白河の法皇(が)熊野参詣ましまして、証誠殿(しょうじょうでん、熊野本宮大社の証誠大権現を祀った神殿)に籠らせ給い(し時)、この山に(は、責任者となる)別当はなきか(おらぬか)と尋ね給う。
この山開けて七百余歳(年)の今に至るまで別当は候わず(居りません)と答え申す。
折節(ちょうど)、夏籠りして(修行中で仏殿の)花摘みける(雑役従事の)法師(僧が居った)あり。
法皇、御覧ましまして、これを(別当がいなかったため、ちょうど修行に来ていた雑役の法師を見て、この者を)別当に定めよと、かの聖を別当に定め給う。
御堂寺の別当は子孫に伝えて持つべきに(寺院を統括する別当職は、世襲すべきものであるから)、妻無くしては叶うまじ(妻がなければやっていけない)、妻を語らい給え(持ちなさい)とて、(源)為義の嫡女たづはらの姫を(この)別当の妻に定め(た)給う。
(親の源)為義この由聞し召し、某が(我が家の)婿には源平両家を選み弓矢を取って器量の人(力量の有るひとかどの人物)を婿に取らんと思いしに(と決めていたのに)、行方も知らぬ法師(素性もわからない僧)を婿に取るこそ無念なれと不興して音信なし(勘当して、この婿と行き来もしていなかった)。
かかりし時の折節(折しも)、都に事出来(いでき)、戦うべき(都では戦いがあり)災いあり。
(これこれを知った婿の)教真(けうしゅん)伝え聞き、我は勘当の婿なれど、舅の詮(価値)となる間一見継ぎ見継がん (舅源為義の一大事であるから一助となるよう支援しよう)とて、三つの山(熊野三山で、本宮の熊野坐神社、新宮の熊野速玉神社、那智の熊野那智神社)には八将神(方位の吉凶を司るという陰陽道の神々で太歳、大将軍、大陰、歳刑、歳破、歳殺、黄幡、豹尾の八神)、山伏などを催して、紀之國を打立て、淀(の石清水)八幡(宮)に陣を取って篝(かがり火)を焚かせ(て)控えたり。
(これを源)為義御覧じて、あれ程の大勢(の者)は、如何なる者ぞと問い給えば、為義の嫡子(嫡妻の子女に迎えた)婿(むこの)田辺(に館を構える)の別当教真房と答えられる。
(源)為義聞し召し、さもあれ、(婿の)教真は誰が末ぞ(の先祖は誰か)と問い給えば、(陸奥守藤原さねかた)実方中将の末孫なりと答えらる。
(源)為義聞し召し、さては、さるべき人にてあり(大軍を率いても当然の身分の方にてあり)、父はあぼう親王(平城天皇の第一皇子)とて、世に隠れなき族姓なり(有名な家柄である)、為義の為には過分の婿と覚えたり、この時、対面(婿と面会)申さんとて、田辺の別当教真房に対面し、嫡子に伝わる剣なれば。
「髭切(鬼切丸)」を(は)嫡男義朝に、「蜘蛛切(膝丸・薄緑)」を(婿の)田辺の別当教真房に引き給う(与えた)。
不興こそ許(ゆ)りんめ(勘当は許されたるに違いない)、剣賜り教真は熊野に帰り給いけり。
4 源義経奉納の太刀の徳
かくて寿永の秋の頃、源平両家楯を築き戦うべき災い有(源平の激しい合戦が起こった)。(この時、熊野別当)教真の給いけるようは、我は既に法師の身と有って(身なれば)剣(を)持ちても詮なし(意味がない)とて、(源)義経に参らせらる(「蜘蛛切」を譲った)。
(義経は)此の剣の徳により、おごる平家を滅ぼし、三種の神器事(故)なく都に返し納め申し、関東へ下らるる。
梶原讒訴を仕り(義経は平宗盛を連行し酒匂宿に着いたが頼朝に鎌倉へ入る事を許されず)酒匂の宿より、この君二度都に上り給うが(再び上洛の折)、ここ山(伊豆箱根権現)に上がって、御兄弟の御仲の和平の祈りの為にとて(仲修復を願って祈り「蜘蛛切(膝丸・薄緑)」を)権現に(奉納)寄進ある(した)。
この時申しおろして、面々に奉る(この刀を箱根権現の別当は曽我兄弟に宿願成就(親の仇討ち)の刀として与えた)、守りの為と思し召せ。
明王の(不動明王が左手に持つ)羂索(けんさく、衆生を救い取る縄)は、万里が外の敵を討ち。
(仏法を守護する)四天王の(持国天、広目天、増長天、多聞天の四人の天王が持つ)弓矢は、四海の戦を防がんため、この剣、(親の仇の工藤)祐経が首を討つべき剣なり。
これを肴(さかな)に今一つ参りて御立候(そうら)へと、数珠(を)さらさらと押し揉んで、社壇(箱根権現の社殿)を礼し給いけり、別当の心中末頼もしく見えにけり。
兄弟の人々箱根の寺の暇乞い、野七里(のくれ)、山七里(やまくれ)、巓七里(たけくれ)、二十一里(三島から元山中への道を上って箱根に至る十数キロの山道の古称)を行き過ぎ、麓の宿で垢離(こり)を掻き(神仏に祈願する前に冷水で煩悩の垢を落とし身体を清め)、やしは(三島社)の宮に参り、七番づつの笠懸(馬を走らせ的を射狙い)扇を立ててあそばし「所願成就」と祈って、相沢の原(静岡県の富士山東麓)に出で給ふ。
《参考》
剣は昔から不思議な霊力を持つ武具として、公的には神聖な権力の象徴であり、私的には敵を倒して宿願を成就させる護剣として特別視されてきた。平家物語の剣の巻は前者であり、本話は後者である。
注目されるのは、この太刀の来歴譚(はなし)で、曽我物語では単なる挿入説話扱いであるが、本話は特立させて有り、ここに幸若舞曲の芸能の特性が現れている。(麻原美子「舞の本」より)
この続きは