未来記(全文版)
【幸若舞曲一覧(リンク先)】
1 天狗の兵法
さる間、牛若殿、鞍馬の奥の僧正が崖(木船神社との間の谷間)という処へ夜な夜な通い給いける。
天下を治めんがために鞍馬寺に入った牛若丸は、兵法稽古の修行に励んでいた。
そもそも兵法と申すは、三略(黄石公が張良に伝えた兵法)の七書(中国の七部の兵法書)である。
昔、大唐にある商山のそうけいが伝えた秘密の書物であり、吉備真備(遣唐使)の大臣が入唐し、八十四巻の中より四十二帖に抜き書きして我が朝に伝えた。
それを、鎮守府将軍となった藤原利仁が、九年三カ月にわたって習い、天下を治めたと言われている。
さて、その後に征夷大将軍坂上田村麻呂が十二年三カ月習い、奈良坂山の盗賊ゃ鈴鹿山の盗賊を平らげ国を鎮めたという。
さて、その後、廃(すた)れ、この兵法書は叡山に籠められしを、北白川の声聞師の者どもが習うとは申せ、これという程の武者は出なかった。
さる間、牛若殿(天狗と夜な夜な兵法を習うと言い)山岳を走り回って、古木の枝を伝い(早足、飛び越え人間わざとは覚えず)身軽で動きが敏捷になられていた。
ここに天狗どもさし集まって、寄り合い評定する。
そもそも当山は、慈覚大師の秘所として、修行者並んでは此の山へ通う者もなかりしに、鞍馬寺の牛若が、夜な夜な山を駆けまわり、我らの住家を荒らし悪く言ったりする事、その言われなきものを、いざや天狗の法罰を当てん、なんどと申す。
修験道の霊地愛宕山の大天狗太郎坊が進み出でて申しけるは、そもそもこの稚児は役立たずの者にて、親にも師にも不孝ならば、天狗の法罰を与えるべきであるが、自分の親の霊の為に何事かを行おうと、兵法稽古の技をひと通り身に付けんがためなり。
比良山に住む大天狗次郎坊が進み出でて申しけるは、我らが異名を天狗と言うは、いわれあり、昔は人にて候いしが、仏法をよく習い我より外に智者なしと、おごり高ぶった心から仏にはならずして天狗道に墜ちるなり。
2 天狗の住む本坊に招かれる
たとえ慢心を起こしてこの道へ堕ちるとも、情けをいかで知らざるべき、いざや牛若に手助けして、天狗の法(未来を知る神通力、自在の飛行術、忍者兵法等)を許し、親の仇を討たせん。
もっとも然るべしとて、主だった天狗七八人は若い山伏の出で立ちに化けて、牛若殿の傍に行き、如何に少年聞し召せ、この辺りに人住む所が有るので御出で有て、しばらくお遊び候えや少年と、こそ申しけれ。
牛若殿は聞し召し、これ普通の人とは思わなかったが、何の子細の有るべきと思し召されける程に、山伏の肩に乗せられ、そことも知らぬ山を行き深き谷に分け入る。
何処まで牛若を引き連れて行くのか、怪しやと思し召されける程に、山の気色と木の木立、岩の峰がごつごつとそびえて、繁木枝を並べては花が名園に美しく咲き匂っている、穂が実って垂れ草木が繁茂し緑色深し、滝の音冷々と響き岩間をくぐる音、これや誠に(中国の)清涼山の(昔、中インドの舎衛城の長者須達多が、釈迦に寄進するために祇陀太子から購入した林園)儀孤独園かと疑わる。
此処は本堂並びに拝殿、玉を磨き、神殿に珠玉を連ね、九重の塔は雲にそびえ、坊中棟を並べつつ、門門甍(いらか)を続けたり。
かほど目出度き御寺のこの川谷にありけりと、思し召さける程にしばらく立ちておわします。
かかりける所に、有大坊の客殿に宗徒の大衆百人ばかり並び居て、管弦講の持て遊び、笙、笛、琴、箜篌(くご)、琵琶などの弦楽器と管楽器の調べ面白かりし座敷あり。
牛若殿を見参らせ、管弦を止め招待申して遥かの座上に据え奉り、山河の美食を取りととろえ、珍味全てを揃えて手厚くもてなした。
多くの人々の声や楽器による歌と音楽と乱舞になれば、天狗共我劣らじの狂い事、生まれつき持ちたるものの上手ども、限りなく面白い技を尽くして、ここを先途とぞ遊びける。
3 天狗の未来語り
老僧たち申されけるは、遊侠だけで済ましていて事がうまくいくだろうか、(興の限りを尽くして歓待したあと、牛若の未来となる)源平合戦の将来有るべきを、予(かね)て知ってお仕えするなり。
4 清盛、南都焼討の報い熱病死する予言
少年への御もてなしに、近い将来に起こる事件をそのまま実演して御目にかけよと言う。
如何にも立派なる天狗が承ると申して、我は平家の大将安芸の守平清盛と名乗りて進み出て。
安芸の厳島神社の明神の御計らいによりつつ、この世を今より治めるべし、平家に野心の者あらば都の内には置くべからず、薩摩潟硫黄が島(鬼界が島)へ流すべし、後白河院を鳥羽の離宮に幽閉し、平清盛の子供繁昌し、以上一門六十三人いずれも官禄重かるべし。
嫡子、重盛と宗盛の二男は左右の大臣、孫は国王(安徳天皇)、或いは百官卿相(けいしょう)なり。
諸国に散らばっている末流の源氏どもは、胤(たね)を断って滅ぼすべし、南都の興福寺や東大寺に敵が籠ると聞く、逆徒強くて手に余らば、大仏殿に火をかけよ。
如何にも立派なる天狗が承ると申して、平清盛の五男、本三位の中将平重衡と名乗りて、三千余騎を率し南都へ押し寄せて大仏殿を焼き払う。
藤原氏の氏神春日大明神の御咎め深くして、既にはや平清盛は火(高熱)の病を受け取って、八大地獄の一つ焦熱地獄の釜で焼かれ苦しめられる金屋(精錬所)の焔、これにはいかて勝るべき、あら熱や悲しやと焦がれ死に死んだりと、かように平清盛のはや一期を語って、さっと入る。
5 頼朝や、木曽義仲挙兵の予言
その後、これは平家の代継ぎ、(嫡男の平重盛が死んだため家督を継いだ三男の)右大将平宗盛と名乗って進み出、朝廷での儀式礼服である冠束帯の装束にて、如何にも立派な様子でお座りになる。
不思議や、過ぎ去った昔の平治の乱の時、伊豆の田中に流されし源頼朝、世を乱れ伊豆守時兼の代行として任地にあった山本判官平兼隆を討つて石橋山(小田原)に陣を張った、大場三郎景親押し寄せて石橋山を追い落とす。
源頼朝主従七騎にて武蔵の国へ落ち給う、国府(現府中)の六所(大国魂神社)、分倍河原に旗をなびかせ続く味方を待ち給う。
東国さるべき弓取が轡を並べ馳せ伝う、到着付けて御覧ずれば、源頼朝の御勢二十八万七千余騎、旗の下に相なびけ、先陣は相模の国に鎌倉の谷七郷の一つ小林郷に京をたて新鎌倉とざざめく。
ここに信濃の住人木曽の冠者義仲は、平家を責めんそのために五万余騎を率し、越路をさして攻め上る、都間近き越前(今庄)ひうちが城に陣を取る。
平家の人々肝を消し驚き騒ぎ給いて、十万余騎にて都を立って近江の国とかや、北陸道の要所愛発(あらち)の関を越えて、木の芽山うち越え、帰(かえる)の里の山に陣を取る。
源氏は屈強の城郭に籠りそう易々落ちないものを、平泉寺の長吏の裏切りで、陽谷の関を破られ、こらえかねて落ち給う。
平家後より攻め続く、加賀の国の篠原、安宅の戦いは天地も響くばかりなり、ここをも木曽の冠者義仲打ち負けて、加賀越中の国境の倶利伽羅(くりから)山に陣を取る、平家の人々勝ちに乗り、かの山に攻め上る。
その時、砺波山に陣取った木曽の冠者義仲は、源氏の氏神八幡宮の鳥居を発見し、戦勝祈願の願書を奉献した八幡大菩薩の御計らいによりつつ、平家三万六千余騎は一夜の内に倶利伽羅(くりから)の谷の朽ち木と滅び果てつ。
平家逃げて上りしを源氏跡より攻め続く、平家都を落とされ、皇室のしるしと継承する三種の神器を取って遥かなる福原(神戸)の京に落ち給う。
さる間、木曽の冠者義仲は木曽政権の統治者となるはずであったが、頼朝の幸運に覆い隠され逆賊となって衰える相がある。
君に背いた平家、さすが情けの有りけるに優かりけるかな、木曽の冠者義仲の源氏の猛攻四海に吹き荒れて、雲の上まで波高し(後白河院と木曽の冠者義仲の合戦である法住寺合戦)。
源頼朝聞し召されて、君を守らんためにこそ、木曽の冠者義仲、都の守護供あれ、かえって天下を悩ます事、重ねて悪逆な野蛮人たるべし。
6 義経と名乗り平家滅亡へ追い込む予言
その儀にて有るならば急ぎ討手を上らせんとて、大将には蒲の御曹司(源氏嫡流の子息)源範頼。
この牛若は元服して源九郎義経と名乗るべし、牛若殿をば、鞍馬寺の本尊の多聞天(毘沙門天)、伊勢神宮の内宮外宮の両社が守り守護し給い、弓矢の末を世に取り立て、金色に輝くように美しく麗しい顔を現し、父親の偉業を継ぐべきなり。
その時、蒲の御曹司源範頼、源九郎義経両大将と定め、都へ攻めて上るべし。
無残やな、木曽の冠者義仲は天下の憎まれ、朝威の罰、弓矢の末も廃り果て、近江の粟津が原で討たるべし。
源九郎義経、都の警固として、三種の神器事故なく都に返し申さんと、兵庫の三草山、鵯越(ひよどりごえ)、搦め手を廻して攻め回る。
平家こらえて城を落ち、遂には四海の赤間が関(下関)、壇ノ浦、早鞆の瀬戸にて、二位殿、先帝、家督を継いだ平宗盛を始め奉り、平家六万三千余騎水の泡と消え果つべし。
7 兄頼朝不和が運命を傾ける予言
さてその後に、牛若殿、兄に憎まれ給うなよ、梶原景時に心許すべからず、兄弟の仲不和ならば、その身の運は尽きべきなり、父母兄弟妻子ら六親の者同士が反目し合っていては、決して神仏の加護は得られない。
ここまで末をば教ゆる成り、さて、その後は知らぬなり。
これまで少年参らせて対面申すしるしには、天狗の法伝授のしるしとし魔よけの強い呪力の有るこれを御守りとして掛けよとて鉄の玉を取出し、牛若殿に参らせて、かき消す様に失せければ、有りし所もうち失せて、我に返ると、僧正が崖にある松の枝の上にぞ居わしける。
さては天狗が、牛若をだましてかどわかしけるよと思しくて、鞍馬寺の東光坊へ帰られる。