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1 扇の射手となった那須与一
那須与一宗高は、大将(源義経)の御前に弓取直し畏(かしこ)まる。判官(源義経)御覧じて、ただ今御辺(おへん、貴方)を召す事、別の儀にあらず、沖の平家方よりも作り物(弓の稽古用に作られる標的)を出して有り、御辺は弓の上手と聞く、一矢射よとの御諚(御言葉)なり、(那須)与一(宗高)謹んで畏まる(辞退する)。
(源氏の)大将(源義経)は御覧じて、あらようようしや(様子有り気だが、何も言わずに)只仕れ(射よ)と仰せければ、重ねて辞退の儀あり(何度も断るのは)悪(あし)かりなんと存じ(良くないだろうと判断して)あの扇を射る事、いと易(やす)く候と御受けを申す。
御前を罷(まか)り立ち、駒引き寄せて打乗り、和田(義盛)、秩父(畠山重忠)、(武蔵七党の)児玉党、大勢控(ひか)えておわします、陣の前を通る時、(那須)与一(宗高)申しける様は。
それ物の面白(興味深)さは、夏山や青葉交じりの木の下に、鶸(ひわ、小鳥)と小雀(こがら)と鶯(うぐいす)と、そんじょそ(こら)の木の枝に、幾声鳴くと目には見ずして声ばかり。
(長良川の鵜飼いは)どんちにかけ(すっぽんに食いつかせて鵜の餌としていた)、命も殺さず羽も散らさず。
これを蟇目(ひきめ、木製紡錘形物を先に付けた大型鏑矢)の目のたち(目柱、矢先の二股)に(小鳥を)射こんで取るぞ大事(大切)なる。
あれ体に(あれ位)目の(前)当たりにさし現れたる(現わした)分の物(絶好の標的は)、(一人前の立派な那須)与一冠者(男)にてあらずとも、弓取って引かんものかな。
目際(扇の骨の要)より射ちぎり、海上の花と散らさん事、いと易く候と、からからとは笑いけれども、(那須)与一(宗高)も、(中国の弓の名人、柳の葉を百歩離れて射ち百発百中の)養由ならざれば(ではないので)、心細さは限りなし。
鞍(しほで)、鞅(むなかい、鞍をくくる紐)の浸る程(馬の胸から鞍を海面に浸たる程)、駒海上にうち浸って、沖をきっと見てあれば、扇の立ったるその間(は)七八段切(二十メートル位)と見ゆる、ここは遠し(い)と存ずれども、暫く陣をぞ取り(場所を占め)たりける。
2 見物の源平両陣の人々
かかりける所に、沖の平家三万六千余騎月卿(げつけい、公卿)雲客(殿上人)あい残らず(全てが)、只今出でたる梨子烏帽子の初冠(元服したての若者)は、扇の射手か面白しと、(皆が)ざわめき渡って(わめいて)見えさせ給う。
先ず一番に進む(平家方の)船女房たちの御座船なり、帥の典侍(そつのすけ)殿(平時忠の妻で安徳天皇の乳母)、普賢寺殿(清盛の娘で藤原基通の妻)、更科殿、姥捨殿、浄土寺の丹後の御局(後白河院寵妃高階栄子)、阿波の内侍に、上総の御局(つぼね)を先として、上臈(じょうろう、身分の高い女官)、女房百六十人、下共に(身分の低い女房を合わせて)二百八十余人が幔幕(周囲に張り巡らす横長幕)を上げさせ、あっぱれ時の見物やとて、ざわめき渡って見え給う。
その次を見てあれば、先帝(安徳天皇)を始め奉り、御一門にとっては、(清盛没後の平家の棟梁の)右大臣(平)宗盛(むねもり、清盛の三男)、御子の中将(平)時実、(平重盛の四男)四位少将(平)有盛、(清盛の弟教盛の三男)蔵人の太夫(平)業盛(なりもり)、(清盛弟の)修理の太夫(平)経盛(つねもり)、(清盛の弟教盛の二男)能登の守(平)教経(のりつね)。
さて僧綱(そうごう、僧正・僧都・律師・法印・法眼・法橋)にとっては、(清盛の妻時子の養子)三井の僧都せんしん、(平経盛の子)経誦坊(きょうめいぼう)の阿闍梨(祐円)、(藤原顕憲の子の)法勝寺の執行能円(しゅぎょうのうえん)。
さて侍にとっては(では)、越中(前司盛俊二男)の次郎兵衛(盛嗣)、上総(介原忠清の子)の五郎兵衛(忠光)、悪七兵衛景清、飛騨(守藤原景家の子)の三郎左衛門(景経)、この人々を先として諸国の受領、検非遣使、(諸国から)駆り(集められた雇兵)武者に至るまで、あっぱれ時の見物やとてと、ざざめき渡って見えにけり。
さる間、(那須)与一(宗高)は、陸を帰って(振り返って)見てあれば、大将(源義経)を始め奉(たてまつ)り、武州( 武蔵国)に秩父殿(畠山重忠)、相州(相模国)に和田(義盛)殿、(工藤茂光の孫の)田代の冠者信綱、河越の太郎重家、(下野国の)宇都宮(宗綱の子)の弥三郎朝綱、(上野国の児玉党の)山名里見を先として源氏六千余騎が渚へさっと降り下(くだ)って、射や当てんずらん(的中させる)、射や損ぜん(射外す)と手に汗を握りて、かたずを飲んでおわします、後ろは瓜生(うりゅう、高松)、王墓、前は牟礼(屋島の東の半島)、高松(郷)、八栗(五剣山)、八島(屋島)も近かかりけり。
3 扇の前に向かう心用意
頃は元暦元年三月十八日(史実上は元暦二年二月十八日)の事なるに、昨日(から)吹きたる西の風、未だ波こそ鎮まらね(ん)、船は浮き木の物なれば、浮い(て)つ沈ん(で)ず漂うたり、能登の守(平教経)の謀(はかりごと)に、源氏に恥辱(ちじょく)をかかせんため、くるりを構えて(扇を回転するように仕掛けて)立たれば、浜風は激しく、ひらりくるりと舞いたるは、陸を招くが如くなり。
(那須)与一(宗高の)が馬と申すは、明け六歳(になる)の野取(放し飼いされていた)の駒、波風に戯(そばぶ)れて上がりつつ落ちつつ、この馬が手綱をうってぞ狂いける。
(扇を掲げた)船も座敷に直りかね(その場に留まらず)、扇矢壺に(狙いが)定まらねば、乗りたる馬も狂いけり、持ちたる弓に汗を籠め、余しつべう(射ちもらすよう)にぞ覚え(感じ)ける。
さる間(そうするうちに、那須)与一(宗高は)、潮を掬び(むすび、手に汲み清め)手水とし、南無や(氏神)那須野の(水を司る)竜神(源氏の武の守護神)正八幡大菩薩、波風鎮めてたび(下され)給へと祈誓を申し、振り仰(あお)のいて(あお向いて)見てあれば、誠に氏神、八幡の御加護にて候いけるか、波風ちょうど(ぴたっと)静まって、今はこうと(最良の状況に好転したと)見ゆる。
(那須)与一(宗高は)心に思うよう、女の立てたる分の物(絶好の標的を背負矢入箙の)中差し(の戦闘用征矢)にて射る時は、花(を)見て枝を手折る風情(手荒いやり方だ)と思い、(矢入箙の)上矢の鏑(かぶら、開戦合図用の音の出る鏑矢)抜き出し、さつさつと爪縒(つまよ)って(矢のゆがみや羽の具合を点検し)みてあれば。
ちょっと、この矢羽広くし、浜風に吹かれ悪しかりなん(の影響を受けやすい)と思い、(鞍の)後輪(しずわ)に(移り)乗り居、前輪の外れに押し当て、腰の刀をするりと抜き、(風の抵抗を少なくするために)走り羽(を)二三度さつさつと掻いて(そいで)捨てければ、源氏平家(の人々)は御覧じて、実(まこと)の射手ぞ、よくする(さすが上手くやる)と誉めぬ人こそなかりけれ。
4 矢所の指定
その後、(那須)与一(宗高は、)鐙(あぶみ)踏んばり、鞍笠に(座る所から腰を上げ)つつ立ち上がって、大音声にて名乗(りをあげ)る。
只今、源氏六千余騎が中よりも、扇の射手に指(定)され、まかり向かいたる兵(つわもの)を、如何なる者と思うらん、下野の国(栃木県)の住人、金村の太夫に十八代の後胤(こういん)、伊那の庄司がその子に、那須の与一宗高とて、生年十八歳にまかりなる。
それ扇と申すは、上下によって差別の候、上か要(かなめ)か、いずくを矢壺(ねらい目標)と承って仕まつらんと(指定する箇所尋ね)申す。
大臣殿(おおいどの、平家棟梁平宗盛)聞し召し、あっぱれ大剛の者かな、扇ならば、いずくを成りとも射当てたらんを勝とは思わずし、矢所請いつる優しさよ、自余の者(玉虫以外の者で)は叶うまじ、以前(先)に扇たてたる玉虫出でて矢所を取らせよ。
彼の玉虫(という女房の)が由来を詳しく尋ぬるに、もとは九国(九州)の住人、花見の太夫が末子、花やの八郎京腹の妹、字名(あざな)を鸚鵡(おうむ)の前と召されしが、一とせ(先年)、女院北山にて花見の御遊びの有りし時、百首連ねて参らせ上げる。
日本一番の常葉(ときわ、源義経の母)に劣らぬ(千人の中より選出せる)美人とて、四季に(よせて)名をこそ変えられる、春は青柳糸桜、夏は又藤の花、秋は七夕の天の河、瀬に関据えて絶え絶え見ゆるは滝の水、近で色の増せばとて、名を玉虫と付けらるる。
(玉虫が)梅地(梅谷渋で染めた)の織(おり物を)紅梅(重ね着の配色美)を七枚重ねた単(ひとえ)の衣(きぬ)の褄を取り、船の船枻(せがい、舷側に取り付けた板)に、つつ立ち上がって、迦陵頻(かりょうびん、極楽に居る美声を持つ鳥)なる声を上げて。
あら今めかし(当世風勇肌)の射手殿や候、日本広と申せども、花の都にて止めたり、車は千里を掛けるとは申すども、(車軸に打ち込む)くさびを持って本とせり。
(小さな的の例えとして)、針を下げては針穴(みず)を射、(刀の鞘に差し挟んでいる髪を掻き上げるのに使う)笄(こうがいを)立てて(時は)区(まち、その中央)を射る。
(紙などを的に挟んだ)挟み物には串(の所)を射る、扇を立てては(扇の)要を射るとは申せども、要(かなめ)の辺(で)は珍しからず、蜘蛛手(形の骨)の辺を(射て)遊ばせと、袖かざして立てたるは、(平安初期の画工で大和絵の始祖、巨勢)金岡が絵図に写すとも、筆もいかでか及ぶべき(風景姿なり)。
(那須)与一(宗高)この由聞くよりも、殊に(特に)大事の所を矢壺に指されつものかな、(うまく)射んず(射たい)ものと思いて、鏑(かぶら)を潮(うしお)にうち浸して、三人張り(の強い弓)に、(長さが握りこぶし)十三束(のやや長めの矢を)取って、からとうち番(つが)い、本筈末筈(もとはずうらはず、弓の上下)一つになれと(強く)、きりきりと引き絞り、勝手(弦を引っ張る右手)強にぞ放ちける。
精兵(強い弓を引く勝れた兵)の射る矢の癖として、手本には鳴らずし、においにおい(うめくうなる)と遠鳴りして、扇の蜘蛛手の辺りをば、ひふつと射切りたり。
扇は(動くもので)陽の(を現わす)ものなれば(勢いよく)花の如くさっと散る、鏑(かぶら)は、いよいよ遠鳴りして大臣殿(おおいどの、平家棟梁平宗盛)の召されたる御座船の船枻(せがい)の内にし、海上へざつ(ん)ぶと入りたりけり。
平家三万六千余騎(が)射たりや、陸(くが)の源氏射たりや初冠(立派なる強者なり)と、しばしは鳴りも静まらず。
大将(源義経)は御覧じて、神妙(行いが立派)なりと御諚にて、やがて(所領安堵の)御判(状)を出されるる。
5 栄光の所知入り
さる間、(那須)与一(宗高)、旗くるくるとひん巻いて、阿波の鳴門の渡りをし、岩屋(明石海峡)が瀬戸をうち過ぎ、花の都に着きしかば、関東へ下って、(源)頼朝にかくと申す。
神妙なり(心がけや行いが立派ですぐれている)と御諚(御言葉)にて、やがて(所領安堵の)御判を出さるる、二つの御判給わり一門残らず引き連れ、所知入(頂いた領国へとめでたく下った)とこそ聞こえけれ。