腰越(全文版)

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1 源義経、鎌倉下向
 さる程に判官、おごる平家を三年(とせ)三月に攻め靡(なび)け、三種の神器、事故なく無事に二たび帝都に納め申し、あまつさえ平家の大将大臣殿(平清盛没後の棟梁の内大臣平宗盛)父子(子は、平宗盛の嫡男、右衛門督平清宗)生捕って天下の御目にかけ奉る。
 かの源義経を見聞く人、あっぱれ弓矢の大将かなと誉めぬ人こそなかりけれ。
 ある時、源義経、参内ありて帝に奏し申されけるようは、彼の大臣殿(内大臣平宗盛)と申すは平家にとっても、よき大将にて候えば、都にて誅殺すべきかもわかりませんが、か様に申せば。
 恐れ入りたる御事なれども、一には御朝敵又は我等が家の敵なれば、関東の源頼朝に下したび候わば、家の面目たるべき由を奏し申されたりければ、帝叡覧ましまして、その儀ならば大臣殿(内大臣平宗盛)父子取らするぞ、急ぎ守護して鎌倉へ下るべし。
 承(うけたまわ)ると申して、手勢選(すぐ)って三百騎、都の中の神々にも様々の御暇(いとま)を申す。
 ことさら、男山の石清水八幡宮は、当家、弓矢の守護神、目出度き神にてましますと、八幡の御山を伏拝み、五月七日の暁(あかつき)、大津へと通じる東海道の粟田口をうち過ぎて、大内山を雲居のよそに眺め越し、逢坂の関の清水に着き給えば。
大臣殿(内大臣平宗盛)思い続けて、これほどに、
  都をば今日を限りの関水に又逢坂の影や映さん
  (都は今日を最後として、せきたてられて出て行くが、この逢坂の関の清水に再び出会って、私の姿を映す事が出来るだろうか)
と口ずさみ給い、さして急がぬ道なれども、駒も(鞭で打ちに掛けて)打出の宿(琵琶湖畔の宿場)に着く。
 ここは、天智天皇が、大和の国岡本の京(明日香宮殿)より近江大津に遷都し、宮作りし給いし、その旧跡を伏拝み、勢多の唐橋うち渡り、野路、篠原の宿過ぎて、曇りかからぬ鏡山の宿(近江蒲生)場。
 その昔、奈良の翁が野路の里にかかり、鏡山を望み鏡山の古歌を想う句、
  鏡山いざ立ち寄りて見て行かん、年経ぬる身は老いやしぬると
  (長年生きた自分が老いてしまったかを確かめるために、鏡という名を持つ鏡山に、さあ立ち寄って我が姿を見てから行こう)
と老いを厭(いと)いて読みたりし、その古(いにしえ)の言の葉まで、思い出されて哀れなり。
 愛知河渡れば千鳥鳴く、小野の細道、磨針山の宿、番場の宿、醒ヶ井の宿、柏原の宿、遠近の手がかりもない山中で不安げに子を呼ぶ呼子鳥、不破の関屋の板庇(ひさし)月光が漏れるように隙間が多いなる垂井(岐阜)の宿をうち過ぎて、早くも熱田に着き給う。
 かの熱田大明神と申すは、かけまくもかたじけなや、伊勢太神宮、熊野権現と熱田大明神は一体分身の神なり、尾張では、真清田明神、大県神社に次いで第三番目の三の宮の神と言われているが、日本では伊勢神宮、出雲大社に次いで第三番目の神にてましますと、その時こそ、大臣殿(内大臣平宗盛)が判官(源義経)に語り給いけれ。
 どうなる身かわからない事を思うと、鳴海(名古屋)の磯辺を見ても、涙で袖が濡れて、参河(みかわ)の国に入りぬれば、早、東海道の八橋にかかり、橋の風情を見給うに砂子(いさご)に眠る、鴛鴦(おしどり)は夏を知らで去り、水に立てる杜若(かきつばた)は、時を迎えて開けけり、
 花は昔を忘れずして同じ色にぞ咲きにける、橋も昔の名なれど幾度か渡し替えつらん、影が暗くなく明るい赤坂の宿にも着かせ給いける。
 ここは大江の定基(後の円通大師)が当国の守たりける時、赤坂の宿の遊君に深く契りを籠めたりしが、憂き世の習いのはかなさは、その死により、見果てぬ夢となりたりし、飽(あ)かぬ別れを悲しみて、菩提の道を悟りけん縁(ゆかり)思えば格別なり。
 末をいずくと遠江、浜名の橋を見渡せば、南には海上漫漫として際もなし、北には又湖水有り、人家岸に連なって、松吹く風、波の音、何れも法(のり)の類(たぐい)ぞと、うち眺め下る程に大井川にも着き給う。
 大臣殿(内大臣平宗盛)御覧じて、我が世が世にて有りし時、京都嵯峨の亀山離宮の後白河院の御供し、紅葉乱れて流れだし高尾の清滝川や松尾の大井川、思い出しつつ懐かしや。
 浮島が原から富士山を望み、時知らぬ雪の色、雲居に白くたなびきて、麓には東西へ長く見えたる沼の有り、蘆(あし)の生い茂った中を漕ぎ分けて、群れいる鷗の心のままに、彼方此方へ飛び去るを羨ましく思われけん、大臣殿(内大臣平宗盛)親子共に思い続けて、かくばかり、
 父平宗盛は、
  塩路より絶えず思いを駿河なる身はうき島に名をば富士の峰
  (海辺の道すがら絶えず苦しい思いをして、駿河の浮島が原に着いたが、憂く辛い我が身だが、せめて名は富士の峰にあやかって残したいものだ)
と詠むと、御子の右衛門督(かみ、長官)平清宗は、
  我なれや思いに燃ゆる富士の峰のむなしき空の煙ばかりは
  (思いの火に燃えるという富士の峰の煙のように、空しく消えていくだけの我が身なのだろうか)
 原には塩屋の煙片々とし、風に任せて行方も知らず迷えり、伊豆の三島に着き給う。
 かの三島明神と申すは、昔、能因(三十六歌仙の一人、橘永愷)が、「天の川苗代水にせきくだせ天くだします神ならばかみ」と詠みたりし歌の道を納受あり。
 炎旱(日照り)の天より雨下り、枯れたる稲葉もたちまちに緑の色と成りたりし、目出度き神にてましませば、頼もしく思い申すなり。
 来世にては、必ず九品の蓮台へ迎え取らせ(極楽に往生)給えやと、祈誓を申させ給いつつ、相模の国に入りぬれば源義経のために喜びを(聞く)菊川の宿とうち眺め、末は(栄えゆるに掛けて)酒匂(さかわ)川の河越の宿に着く。

2 梶原景時の讒言
 判官(源義経)、武蔵坊弁慶を召され、案内申さでの鎌倉入りは、無礼の至りと存ずるなり、飛脚を立てて鎌倉へ案内を申すべし、武蔵坊弁慶承って、この儀、もっともしかるべき候とて、伊勢の三郎吉盛をもって案内を申されたり。
 源頼朝聞し召されて、さて源義経が酒匂の宿まで下りけるかや、目出度さよ、この鎌倉と申すは新造の所にて対面場所として見苦しい、対面場所を造らせよ、和賀江の湊よりも材木を上げさせよ、鍛冶、大工を揃えつつ急げ急げと仰せける。
 梶原景時承って、おつと答えて御前を立ったものの、心の内に思うようは、あさましやこの君(源義経)在鎌倉ましまさば、政治、司法、民事全般の式目、正しき民の旨までも、みなこの君(源義経)の御計らいとなるべし。
 屋島の海戦の折に、舟揃をした際、梶原景時が船尾をさきにして船を進める逆櫓をつけることを主張する梶原景時と烈しく口論した事をめぐる対立の強い恨み残って、我々父子引きい出されて、由比の浜にて斬られん事は疑い更に有るまじき、その儀にて有るならば、先ず追い返し奉り、よりより讒訴を仕り、この君(源義経)失い参らせて、憂き世の中を楽々と住まばやなんど思いければ。
 案じすまして梶原景時が源頼朝の御前に参りけり、如何に我が君、聞し召され候へ、悪者やその共犯者どもが逢坂山に隠れていて、世を乱さんと企む由のうわさがあり候、関東には君(源頼朝)がすでに御座有り、都は源義経の警護してこそ、天下は治まりめでたかるべきに、二人とも関東においでになっては天下を誰が守護申さん。
 源頼朝聞し召されて、その儀にて有るならば、酒匂の宿に土肥実平を遣わし大臣(平宗盛)殿親子を受け取ると、源義経はすぐに都へ上り帰らせよと命じた。
 梶原景時承って、御前を罷り立ち、土肥次郎実平を近付けて、御身、酒匂の宿にうち越えて大臣(平宗盛)殿親子を受け取って、源義経をば都へ上り帰らせ申され候へ。
 土肥次郎実平承って、あっぱれ是は一大事の御使いかなとは存ずれども、君(源頼朝)の御意とある間、伊勢の三郎吉盛とうち連れ酒匂の宿に参り、この由かくと源義経申し上げる。
 源義経聞し召されて、いやいやこれは源頼朝の御返事とも覚えず、例の梶原景時が中に立っての讒言であると感付きたり、このまま鎌倉へ下って梶原父子の首を刎ね、この間の無念を散らすべしとこそ仰せけれ。
 土肥次郎実平承って、御諚もっともにて候、さりながら先ず大臣(平宗盛)殿親子をば鎌倉へ移し御申し上げて、しばらくこの所に御逗留なされ、よりより御訴訟候わば、土肥実平もかくて候へ、良き様に申し成すべしと、とかくなだめ奉り、大臣(平宗盛)殿親子を受け取って鎌倉へ移し申されたり。
 その後また源義経は、伊勢の三郎吉盛を持って、土肥次郎実平に申されけれども、これも梶原景時の中に入っての事にて心得、とくとく京へ御上り候へと申し付けて候に、長々逗留さるるこそ心もとなく存ずれ。
 土肥次郎実平を通し、この度の勧賞には伊予の国一カ国を申し預け奉る、別して忠の有るならば、追って九国(九州)の御代官を申し預け奉らんとの御意にて候と伊勢の三郎吉盛を返す。
 伊勢の三郎吉盛やがて立ち帰り、酒匂の宿に参り、この由主君の源義経にかくと申し上げる。
 源義経聞し召されて、是は如何に木曽義仲を誅戮(ちゅうりく、罪を犯した者を法に照らして殺す)せしよりこの片、平家を三年(みとせ)三月(みつき)に攻め靡(なび)け、三種の神器事故なく再び帝都に納め申し。
 あまつさえ平家の大将、大臣父子生捕って、ここまで下りたる源義経にどんなに讒言する者が居ても一度の対面は有って然るべきである。
 是も思えば梶原景時の讒言による人を落とし入れようとする心によるなれば源頼朝に恨み更に無し。
 全く不忠なき由を、諸寺諸社の牛王法印(厄除け護符)の裏に書き持って誓い申されけれども、是も梶原景時の讒訴によって叶わず。

3 腰越状
 源義経は無念に思し召し、如何に武蔵暮弁慶聞いてくれ、一通の書状を書いて参らせ、源頼朝の御目にかけ、その返事によって、ともかくも計らうべきにて、身分の高い人のそばに付き従うなり。
 それそれ武蔵坊弁慶と仰せければ、武蔵坊弁慶承って、墨磨り流し筆に染め、下書きもせず、ただ一筆にぞ書かかりたりける。
《腰越状内容》
 源の義経、恐れながら申し上げ言いたき事は、源頼朝代理の一人に選ばれ、勅宣を持って使者として、先祖代々の武芸の限りを尽くして、亡き父の報復を遂げてその恥をそそぎ、忠功のあったを賞するべき処に、思いの外の恐ろしき(梶原の)讒言により、莫大の勲功を語る事も許されず。
 源義経無実のままにて咎(とが)をこうむる、武功はあっても過ちを犯したことはなく、御勘気をこうむるに及び、空しく涙に血がにじむ思いで悲しみに沈んでいます。
 つくづく事の真相を考えてみれば、讒言が事実か否かの糾明もなされず、鎌倉にさえ入ることが許されないので、心の思いを申し上げることも出来ず数日を送っている。
 この肝心な時に、恩顔をも拝見するのも叶わず、肉親兄弟の関係も絶え、前世の因縁も尽き、何の意味もないのでしようか、或いはこれが前世の悪因の結果なのでしようか。
 悲しきかな、亡き父の霊が再びこの世に出現しない限り、いったい誰が私の悲しみの釈明を聞いてくれようか、誰にも悲しんではもらえません。
 今さらめいた物言いは愚痴めいているようですが、源義経はこの身体髪膚(全身)を父と母からもらい、幼いうちに父左馬頭源義朝に先立たれ、孤児となり、母の懐に抱かれ大和の国宇陀の郡に着いてより此の方、一日片時も安堵の気持ちで暮らしたことはありません。
 不甲斐ない運命とはいえ、京都中を往来することも難しく、諸国を流れ歩き、色んな所に隠れて、辺土遠国を住まいとし、土地の百姓等の世話になり、思いもかけず幸運の機が熟し、平家一門追討のために上洛せしむる。
 手合せに木曽義仲を討ち果たした後、平家を亡ぼさんがために、ある時は厳しい岩石の中を駿馬に鞭打て、敵のために命を失わん事を顧みず駆け巡り。
 またある時は、大海の上にて風波の難を凌(しの)ぎ、我が身が水底に沈み鯨の餌になろうとも船を勧め、鎧兜を枕に野宿し弓矢の業で日を送ったが、しかしながら本心は亡父の怒りを和らげ、長年の源氏の望みを果たそうと思う以外は何もなかった。
 ましてや源義経が検非違使五位の尉に任ぜられ、これを受任したのも当家の面目を思っての事、でも今の胸の内は、愁(うれ)いの嘆きで渦巻いています。この上は仏神にすがるほかありません。
 そこで、全国の諸寺諸社の牛王法印(厄除け護符)を集め、その裏に、野心更に存ぜぬ旨を日本国中の大小の天の神と地の神、冥界の諸仏や冥衆を驚かし奉り、数通の起請文にして提出しましたが、いまだお許しの返事は頂いていません。
 この国は神国なり、神は道理に外れたことを祈っても受け入れない、頼む所は他になし、ただ貴殿の広大な慈悲を仰ぎ、良い機会を探して兄源頼朝殿の耳に入れて頂きたい。
 私の為に、上手く取り計らって過ちの無い事を認めて怒りをなだめていただき、罪が許されるならば、その善行の報いの喜びは一家一門におよぶことでしょう。
 よって、私の多年の悲願も晴れ、生涯安堵を得ることができるでしょう。
 思いは尽きないが、このようになった原因は、摂津の国渡辺にて、源義経が屋島の平家を攻めるために舟揃をした際、船尾を先にして船を進める逆櫓をつけることを主張する梶原景時と烈しく口論した時の遺恨により、源義経兄弟が仲よからず。
 ややもすれば、梶原景時は隙を見て、源義経を討たんと望み、猶もって叶わざれば、源平の合戦では大手(正面)将軍の蒲冠者源範頼(源義朝六番目の子で、頼朝とは異母兄弟)の手について、先立て関東に下着し、源頼朝に近付き奉り、よりより讒訴いたしたが、それはいわれなきもので、本当の罪ははっきりした事で疑いを軽くしてもいいが、無実の罪は強く疑ってみなければならない。
 物事の筋を正しく通すことは、万民の喜びなり不正は嘆きの種となる。
 賢王は自分の都合で物事の筋道をまげることはしない、先人の失敗は、後人の戒めとなり、上に立つ者の心が素直であれば下の者は安心していられる、水上澄まざれば下流によって月宿らず(根本を正しくすることが大切である)。
 何ぞ梶原一人を生かすために多くの武士を犠牲にするよりも、急ぎ遠島に配流せられ、諸家の嘆きを止め、一身を捧げて忠節を尽くそうとする者の勇気を奮い立たせて下さい、誠惶(せいこう)誠恐(まことに恐れかしこまる)謹言。
 元暦二年六月五日、進上、因幡の頭(公文書別当因幡守大江広元)殿へ、源義経判。
と書たりし、このときの武蔵坊弁慶の見事な筆(腰越状)勢、誉めぬ人こそなかりけれ。

《参考》

◎ 天文23年(1554年)4月11日久世舞幸若太夫、照護寺下也、六十近者也、来。舞度之由内々望之間、頼資被、露之間、即於亭令舞之。頼若太郎、たかだち、景清上ロ、新曲、こしごえ以上五番也。座敷七人也。音曲面白相聞也。(略)…太夫二三百疋、同子悉皆脇ヲスル、百疋、座者六人中三百疋遣之(証如上人日記)。
 本願寺第十世証如は、焼かれた山科本願寺の寺基を大坂石山本願寺に移し、一向一揆の宿敵越前朝倉孝景とも和談している。

◎ 慶長十年1605年10月2日芸能好きで有名な女院(後陽成天皇の生母、勧修寺家出身晴子、新上東門院(1553-1620年))より、明日こうわか舞参候間可参候由廻文有之(言経卿記)。
 10月4日女院の御所にて舞あり、香(幸)若が子、兄弟十四歳と十歳と奇妙(めずらしい)也、露払いと後祝言、夢大庭が合る事あり、中は八島・鞍馬出・勧進帳・腰越・土佐正尊(堀川夜討)以上巳刻初末に果、少納言局にて各食あり(時慶卿記)。女院へ舞各々参了予早出了(言経卿記)。女院参、香(幸)若太夫舞有之、入夜退出(慶長日件録)。

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「越前幸若舞(年表)」

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幸若舞曲本 - 小.jpg 越前幸若舞
桃井直常(太平記の武将)1307-1367