「浜出(はまいで、歌謡「蓬莱山」) 後篇が九穴貝(くけつのかい)」

【幸若舞曲一覧(リンク先)】
「浜出(全文版)」(前篇・歌謡「蓬莱山」)
1 鎌倉の名所
 そも鎌倉と申すは、昔は、一足踏めば三町揺(ゆる)ぐかなりひどい沼地であったのを、和田義盛、畠山重忠が総指揮官を命じられ、石切りや鶴はしでもって丘陵の裾を切崩して低地を埋める整地作業を繰り返し行った。
 地割では八幡前から南の海岸に向かい若宮大路には東西に交差する道が八筋数えられ駒留の上中下の下馬があった。
 この地を、上八階を山、中八階を在家、下八階を海の領域に整備して作られた、在家の一番高い所には源氏の氏神石清水八幡宮を勧請した鶴岡八幡宮、正八幡大菩薩を崇め斎い奉り、中八階の在家を鎌倉谷間七郷にぞ割られける。
 あら面白の谷々や、春は先ず咲く梅が谷、続きの里や匂うらん、夏は涼しき扇が谷、秋は露草笹目が谷、冬は実にも雪の下、亀がえ谷こそ久しけれ、遥かの沖を見渡せば、舟に帆に掛ける稲村が崎とかや。飯島、江ノ島続いたり。
 出来上がった鎌倉の山、在家、海の地形は、まさに蓬莱宮に等しい美しさである。
 こういうわけで蓬莱宮と称した江ノ島に参詣する人々は、諸願必ず満足せり、ていとうと鳴る鼓の音、さつさつと鳴る鈴の音々に、巫女が着る襅(ちはや)の袖を振りかざす、神の心を鎮める神楽の音は絶える時は無い。

2 源太三番の雑掌
 かかるめでたき折節、源頼朝上洛(1195年)ましまして、大仏供養を延べさせ給い、御身は左近の右大将(右近衛府の長官)に昇進なされ給い、兵衛の司十人、左衛門府の司十人の官職を下賜されて、その頃、忠の人々に充て行わせ給う。
 中でも梶原景時は、給わった左衛門司の官職を、嫡子の梶原源太景季に譲られ、急いで国に下り、この事を披露すべく大名小名を招待して接待した。
 祝賀の宴の初日、饗応での引出物には、蓬莱山をかたどった物で、その中に美味なる酒を入れ、不死の薬と名付け、白金の竿に黄金の鈎瓶を結び下げ、はね鈎瓶子でこれを汲む、酒に数多の威徳あり疎き人さえ近づき、親しき仲は猶親しむ。
 あちこちの見当もつかない旅人に馴るるも酒の威徳なり、蓬莱の山の上には、漢武帝夫人である李夫人と言う名の橘、けんぽ梨、中国の高士巣父の名の付いた椎(しい)、かかくが柚、東南製の栗と榧(かや)、皆色々連ねてあり、その味わいはどれも甘くておいしいものばかりであった、誠に不死の薬ぞと盃に酒を注いで差上げる。
 二日の日の雑掌(代官)には、肴の数を集め南海に産する沈香の切れ端、じゃ香鹿の雄のへそ下にある香麝(じゃこう)、鐙、腹巻、太刀、名馬らの数を揃え、思い思いに引渡しけり。
 三日の日の雑掌(代官)には、江ノ島詣に事寄せて御浜出(浜遊び)とぞ聞こえける、かたじけなくも源頼朝の北の方(北条政子)出でさせ給う、その上人々の北の方(奥方)も皆お供とこそ聞こえけれ。
 船の上に舞台を高く飾り立て、紫檀やかりんの銘木をかけ渡し、建物の周囲を廻らす高い欄干の柱の先端には擬宝珠磨き立て、舞台の上に綾を敷き、柱の間の水引に錦を下げぬれば、浦吹く風にひらひらと揺れ動き、極楽浄土は海の面に浮き出でぬるかと疑うばかりであった。
 祝賀の舞あるべしとて管弦の役をぞさされける、秩父の六郎(畠山重忠の嫡男畠山重保)殿は笛の役とぞ聞こえける、長沼五郎宗政は銅二枚を打ち合せて鳴らす拍子の役なり、梶原源太景季は太鼓の役とぞ聞こえける。
 御簾の内の人々(奥方たち)の楽器には、琵琶三面、琴二張、七弦の琴の役を北の方(源頼朝の妻北条政子)が弾き給う、一面の琵琶を北条殿の御内様(北条時政の奥方牧の方)、上総介の御内様(北条政子の妹で、足利義兼の奥方)の六弦の和琴の調べ給いけり、管弦何れも名手であり上手なリ。
 舞台の上の舞稚子に秩父殿(畠山重忠)の二男氏若殿と申して十三になり給う、慈光寺にて教育を受けた名童なり。
 左舞の頭役を振り当てられたのは高坂殿の鶴若殿、総じて稚子は十八人、九人づつ分れて左方唐楽、右方高麗楽と二手に分かれて交互に舞楽を演ずる、いずれも舞は上手なリ。
 竜王、羅陵王に勇壮な走り舞踊り、舞楽の曲名「還成楽」の押し足、搔き足づかい、舞楽の曲名「抜頭の舞」の桴(ばち)返し、舞楽の曲名「輪台」の序破のうちの破の舞には差す腕、舞楽の曲名「青海波」には開く手の所作、舞楽の曲名「古鳥蘇」に羽返しの所作。
 何れも曲を漏らさず、夜日三日ぞ舞われたりける、打つも吹くも奏ずるも菩薩の衆生救済の利他行これなり。
 天人や竜神は救済に預かろうと集会して、船の上を読経しながら廻り歩く事であろう。
 仏教で言うところの見る事、聞く事、悟る事、知る事の輩、浮かれてここに立ち給う、御前の人々、皆それぞれ所領を得てその領国へと帰ることができると聞こえけれ。

「九穴貝」(くけつのかい・「浜出」の後篇)
《内容概要》
 梶原景時の提案で、船遊びの趣向として、頼朝の御前で若侍たちは海人の貝取りをしてみせる。
 若侍はそれぞれ海に潜り、貝や海藻を取り上げてきて頼朝の目にかけたので、喜んだ頼朝は梶原景時を奉行として、それぞれに恩賞として所領や具足を与えた。
 そんな中、畠山重保もまた海に潜るが、いつまで経っても浮き上がってこないので頼朝は大いに心配する。
 その一方で、父親の畠山重忠は心配無用と泰然とした態度でいる。すると果たして重保は、たくさんの貝を全身に付けて戻ってきた。
 その様子を見た頼朝は、稀代の不思議に感心して、畠山重保(六郎)を一番の功労者として常陸国八百町の所領を与えた。
 八百町のところを、くだしたびにけり、一門残らず引き連れ所知入とこそ聞えけれ

蓬莱ノ山の内(幸若歌謡)
 初番の日の雑掌(饗応の酒肴と引出物)に蓬莱山を絡組み(形どって組立て)。中に甘露(美味なる)の酒を入れ
 撥釣瓶(はねつるべ、竿の両端に釣瓶を付け酒を汲む道具)にてこれを酌。酒に数多の威徳あり。疎(うと)き人さへ近付く。
 親しき仲は、なを親しゅう。遠近(おちこち)のたつきも知らぬ旅人に(あちこちの知らない旅人に)馴るるも酒の威徳なり。
 蓬莱の山の上には。李夫人(漢武帝夫人)が橘、玄圃の梨。巣父(中国の高士)の椎(しい)、かかくが柚(ゆ)。とうなんせいの栗と榧(かや)、みな色々になり連れて。その味わいは乳味(しゆみ、甘く美味しい)を成し誠に不死の。薬ぞと酔をすすめて。舞い遊ぶ。


「幸若舞の歴史」


「越前幸若舞(年表)」

幸若舞曲(幸若太夫が舞い語った物語の内容)一覧を下記(舞本写真をクリック)のリンク先で紹介中!
幸若舞曲本 - 小.jpg 越前幸若舞
桃井直常(太平記の武将)1307-1367