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1 静の母の召使六波羅へ通報
さる間、梶原平蔵景時が鎌倉を発って都に着き、判官殿(源義経)の想い人(愛人)、静御前の御行方を尋ね申せど行く方なし、辻々に(手配)札を立て、その告げを相待つる。
九重(宮中)の内にも、「哀れ静逃れよかし、たとえ勲功有るべくと誰やの者が参り、(源頼朝)六波羅(邸)にてかくと申さん」と、上下涙を催して哀れと問わぬ人ぞ無き。
ここに、静(御前)が母(磯の禅師)の召使し、あこやと申す女、ある(手配)札を読んで見るに。
判官殿(源義経)の想い人、静御前の御行方を六波羅に参り申したらんする輩(群衆)に、上臈(身分有る者)ならば(任)官をなし、下(臈)ならばいと(十分)の賞、勲功功によってげじょう(勧賞)望みたるべし、(梶原)景時判と書留たり。
(召使)あこや、ななめ(格別)に喜んで、この(手配)札を懐中し六波羅差して急ぐ。
梶原景時は、静御前を尋ねかね、関東下向とて馬引立て乗らんとす(る寸前、召使)あこやそう (ためらい) なく走り寄り、人目をはかり(みはからって)この札を梶原(景時)が袂に落入れる。
梶原やがて(すぐに)心得、この女房を先馬に取て乗せ六波羅を出る、女手綱を引き向けて大和(奈良)大路に差し掛かり、三の橋打ち渡り法性寺(京都市東山区の南)をもさし過ぎて、伏見と深草の境なる浄土寺(京都市左京区)へ乗り入りて、ここぞと言って馬を止む。
梶原、馬の上よりも大声上げて呼ばはる、判官殿の想い人静御前のこの寺にまします由を承り、関東(鎌倉)の梶原が御迎えに参りて候、早々御出候へ鎌倉へ具足(連行)し申さんと大声上げて呼ばはる。
静(御前)も母(磯の禅師)も諸共に、夢にも人の知らじとこそ深く頼みをかけつるに、誰やの者が参り六波羅にてかくと申しつらん恨めしさよとかき口説き、簾の間より見出せば、年ころ(ここ数年)召使しあこやと申す女、先馬に乗りて来りたり、おう、さては早この女が注進によりてけり。
貪欲妄念は、情けをも捨てはてて、恥をも更に顧みず、(召使)あこやが知るべ(知らせ)をする上は、何と思うと叶うまじ、如何わせんと申しつつ泣くより外の事はなし。
母の(白拍子舞の名手、磯の)禅師、簾巻き上げ立出で、梶原に見えければ、先ず逃さじと捕らんとす、(磯の)禅師涙を押さえ「静御前は昨日まで、この寺に有りつるが、都の人目を隠しかね、大和(奈良)の方を心がけ小夜更け方(夜の更ける頃)に出づるが、人を連れ去る道なれば、宇治方にや迷うらん追手を掛けさせ給へやと、一旦偽りたりければ。
梶原景時聞いて、実にも左様に候らん、先ず(寺中を)探し申して、実になくば追手掛け申すべし、東はあくる(帆を上げ遠く)津軽の果て、西は櫓櫂の届かんするほど、天下の其の内(日本中)を探さぬ所有るまじい。
誰かある、参りて(寺中を)探し申せ兵者どもと下知(命令)すれば、静このよし聞くよりも、のうそれまでも候わず(探すまでもない事です)、自らは此処に候ぞや、暫く暇たび給え、この程馴染申す比丘尼達にお暇申し、やがてまかり出ずべし梶原殿と有りしかば。
梶原聞いて腹を立て、さらば先より此の旨をかくとは思せなくして、その間は門前に待ちこそ申し候らはめ。
こなたへし去れ(後退しろ)兵(つわもの)とて、門より外に引き出す、網代(あじろ)の輿の古りたるに力者(外出時の供)ばかりを相具して門より内に入りにけり。
あらいたわしや静御前、この程馴染申す比丘尼達に暇を乞い泣く泣く出でんとし給えば、母の禅師これを見て、しばらく(制止する)なう静御前いとどだに(ただでさえ)女は五障三従選まれ(仏にはなれない)罪の深いと聞こえ候。
(源)義経の草の種(妊娠)やとして露の消えもやらぬ、たらちねのその中(母の胎内)までも探せと言う事あらば冥途に赴く人(死)ぞかし、敵の手に渡らぬ間に髪剃り衣脱ぎ替え、戒(戒律を)保つて冥途の道、教えられて出で給え。
実に実に思い忘れて候とて、聖(僧)を請したてまつり、髪下ろし(て)と有りしかば、(公方の)おとがめ如何有るべきと、人を出して梶原に出家の暇を乞いければ。
(梶原)景時聞いて、是は関東よりの御使いなり私にては叶い候まじ、御髪を付けながら御下向あれ、良き様に申しなし御出家のお暇をば参らせんと申す。
実に実にこれも道理とて、髪をば未だ付けながら、剃刀ばかり額に当て戎行の文(呪文や経文)を唱えて、五戒を請けさせ給いけり。
2 静御前五戒を授けられる
仰せ、五戒と申すは、殺生、偸盗(ちゅうとう)、邪淫、妄語、飲酒(おんじゅ)、その源を尋づぬるに、良辨(東大寺の初代別当僧正)多生(何度も生まれ変る)のかつかの流れをくんで、鑑真の法を伝えたり。
天平勝宝六年に奈良の都に戒壇(東大寺)を建て、聖武皇帝初めて受戒し給へり、また天台の戒壇(比叡山)は弘仁五年に金座主の立てさせ給う、上下万民押し並べて誠の道に入り、人の誰かは戒を請けざらん。
① 仰せ第一に「殺生戒」と申すは、ものの命を殺さぬなり、その謂れを案ずるに命は重き宝なり昔、玄奘三蔵の聖教を渡さんとて流砂を渡り、壮麗の峰を越えさせ給う時、六賊はうきりて、聖教を奪い取る。
見る人此れを問らいしに、玄奘三蔵の宣わく、愚かなりたとえ聖教をば盗らるるとも、命と言う重き宝を盗られねば、何をさのみに嘆かんと憂えたる色もましまさず。
この世一世のみならず、生々世々の命は重き宝なるべし、此の理を知らずして、あるいは貪に耐えず、親しきを失い、疎きを滅ぼすは愚痴の致せる所なり。
今は人を殺すとも、因果は身に積もるべし、一世にものを殺して(この世に)七(度)生(れ替る)まで殺さるる。
蝸牛(かたつむり)の角の上にして何事をか争わん。
(魏の恵王は斉王と戦争するか暗殺するか迷う時、宰相の恵施は恵王の前に載晋人を遣わし、蝸牛の左角には触氏の国があり右角の上には蛮氏の国がある、双方領土争いし数万の戦死者を出し十五日間の逃亡者追跡の結果互いに引揚げた、王が作り話かと問うと戴晋人は、宇宙の広大さには現実の世界は及ばない、現実世界の魏国の都など小さな存在で、王様のやり方は蝸牛の角の上の争いと異ならないと説いた)
石火の光(一瞬の時間)、水の泡(何れもはかない)、ただ幻の世に一旦(一時の)の貪に、ふけって殺生をするぞはかなき。
② 第二に「偸盗(ちゅうとう)戒」と申すは、他(人)の宝を犯さぬ(侵害しない)なり、この戒を破る人は貧しき身と生るるなり。
今も貧苦にある人は、先の世に物を盗みしと思うべし、東方朔(中国の文人)が三度まて、仙の桃を盗み、仙宮に籠められしも、さこそは悔(くや)しかりつらめ。
(中国で不老不死の薬があるのは東の蓬莱山と西の崑崙山で、崑崙山の主人西の王母(西王母)は、不老不死の薬や三千年に一度しか実を結ばない桃を持つ、これを東方朔が三度も盗んで八百歳の長寿を保ち、その罰で人間界に落とされたという伝説がある、不老長寿仙人のおめでたい画題として狩野永良『西王母・東方朔図屏風』がある)
遠山鳥の花の色、霞にこめて見えねば、匂いを盗む春の風
(遠い山に見える花の色を霞で隠しているのは仕方ないがせめて香りだけでも盗んで届けてくれ、古今和歌集91番)
同じその名はたちながら、科(とが)にあらじと思う。
抑えて危めらるる事、三更(午後十一時から午前一時ごろの間)の深き夜に鳴く時鳥、音を盗み冥途の鳥となりにけり (ほととぎすは夜も鳴くので不吉な冥途の鳥として忌み嫌った)、あら浅ましや、仮にも偸盗(ちゅうとう)を犯すことなかれ。
③ 第三に「邪淫(じゃいん)戒」と申すは、我が妹ならぬ(妻でもない)女に(みだりに)言葉をもかけず、我が夫ならぬ夫の言葉をもかからぬなり(夫でない男に話し掛けたりされない事)、嫉妬の罪は他生まで鬼畜生に生まるるなり。
村上(天皇)の安子の女院は、清涼殿の皇后に妬(ねた)まれさせ給い朱雀院の鬼となる。
(今昔物語集、村上天皇が玄象と云ふ琵琶を紛失、管絃の道極めた源博雅と云ふ殿上人がある夜清涼殿に玄象を弾く音を聞き、よく聞くに南の方に当たり朱雀門に至りさら羅城門に至り門の上にて玄象を弾くなり、これは人の弾くにあらじ、定めて鬼などの弾くにと思ふ程に誰かと聞くと天井より玄象に縄を付けて下したり博雅これを取り返ると天皇いみじく感ぜさせ給ひて「鬼の取りたるけるなり」となむ仰せられける)。
恐れてもあまり有り邪淫戎をたもつべし。
④ 第四に「妄語戒」と申すは、空言(嘘)を戒めり。此の謂れを案ずるに、偽り多き言葉にはその科(とが)多き物なり。
されば北野の天神の菅丞相(菅原道真)にておわせし時、時平(しへい)の大臣(藤原時平)に讒せられ心筑紫へ流されて、榎木寺(太宰府天満宮)にてうせ給う、その科に大臣は奈落に沈み給えば、菅丞相(菅原道真)はまさしくも今の北野の神となり。
孟嘗君(中国の宰相)がいたづらに鳥の空音(鳴き真似)に鬨を挙げて(門を開けさせ脱出した)敵に討たれ給いけり、なを戒めの深き事は妄語戎に留めたり。
(史記孟嘗君列伝の故事、中国斉の孟嘗君は秦の昭王に捕えられた時、犬鳴声の得意とする人を使い白狐の皮衣を盗み王の寵姫に献上し釈放され、さらに函谷関にのがれた際に関門が深夜で閉ざされていて窮地に立たされたが鶏鳴声の名人に一番鶏の鳴真似をさせると鶏がつられて鳴きだし門番は朝と感ちがいして開門し孟嘗君は脱出したという)
⑤ 仰せ、第五に、「飲酒(おんじゅ)戒」と申すは、酒に酔いて平伏し売り買う事を戒めり、喜化洞女(きくわとうにょ)と、いいし人は五百生の間、愚痴の闇に迷いしも、服酒破戒なるが故、あるいは(釈尊の経を説いた所)鷲峰山(じゅうぶぜん)の戒めと号し、又は三十六の科(とが)有りと聞きへり(聞こえり)。
戒め深き酒を何とて、天台山に許すぞと尋ねるに、昔、天台山(比叡山)に飲酒を事に戒め、酒を嫌い給いしに、九重の僧正(母は醍醐天皇皇女雅子内親王、父は藤原師輔の十男尋禅)、(天台宗で初めて一身阿闍梨となる)御登山の有りし時、饗応の餘(余り)に初めて酒を許す事、寒を防がんためなり。
大冷の余寒に、なおこの酒を許せり、まして花底(花の中央)の遊泳に誰かは酒を飲ざらん。
樽(そん)の前に酔いを勧め、林水(曲水)に盃を浮かべ、周の朝野(まわりのありさま)を見渡せば山も紅葉に酔うとかや、酒を愛する人をば福酒と此れを名付け、飲むことを許し売り買う事を戒めり、それは言われぬ所(筋の通らないことだ)。
仏を初め奉って(釈迦十大弟子の内)阿難、迦葉、須菩提、何れか酒を参り喜び歩き給いし(誰が酒を飲んでよろめいて歩いたりされただろうか)、酔いては心乱れつつ自ずから舌をたちまち殺害す(自然と口が開いて命取りとなってしまう)なを戒めの深きは飲酒戒にて留めたり。
かかる五戒を全うして、一つも破る事無くば天輪王(インド神話の世界統一支配する帝王)と生るべし。
昔、(比叡山横川の)恵心の僧都、当今(今の国王)の行幸を必ず拝み給う、僧都の姉安養の尼、不審をなして問い給う、何とて僧都は王を拝ませ給ふぞ。
(十訓抄『安養の尼の小袖』では、安養の尼の所に強盗が入った、全て着るもの盗まれ尼君は布団を被っていたところ、妹の小尼公は強盗が小袖を一つ落としていったのでこれを御召し下さいと言うと、尼君は盗まれた以上持ち主強盗の承諾がない物を着る事が出来ない、まだ遠くへは行ってない、返しなさいさいと言うので、強盗を呼び返し言うと盗人達は考え込んだ末、盗みに入るべきでは無い人のもとへ間違って入ってしまったと皆全て返し置いて帰ったという話がある)。
僧都答えていわく、さん候、王の尊ときにて拝み申さず、前世にて戒をよく保ち今国王と生まれ給う、宿善(前世で行った善事)の力の尊さに拝むとぞ仰せける。
いかにも我ら先の世に戒行(戒律を守り修行する事)無きが故により、心も愚痴に悟りなし(愚かで煩悩から脱せない)、今この申す戎行により信楽(教えを信じ喜ぶ)の衣の上に開発(他人を悟らせること)を包み捨て去れよ。
当来にては必ず受戒の酬因(誓いを立てた修行が報われる)浅からず、無常得脱なり給い(無常から逃れ悟りを獲得されて)、かえって我を導くべし、寝ざめに忘れ給ふなとねんごろに説き教え申す。
其の日既に入相い(日没)の鐘撞く撞くと聴聞す、梶原(景時)は待ちかねて、遅しと言いて責めければ、聖(僧)涙を流し、回向の鐘打ち鳴らし燈明を消し庵室(聖の住家)に入らせ給えば、静(御前)は武士の手に渡る。
「燈火暗うして(落ちる涙の様)数行虞氏が涙、夜更けぬれば四面楚歌の声」
(暗い灯火の下で、虞氏の流す涙、夜も深まり自分は楚の歌に取り囲まれいる)
とは虞氏(虞美人)が別れを悲しみて作り給いし詩にてあり。
(史記の項羽本紀では、項羽の軍は垓下に立て籠もったが食糧も尽き漢の軍に取り囲まれた、楚はみな漢に寝返ったか、夜楚の歌が沸き起こった、項羽は歌を作り、時は私に味方せず虞よどうしたものかと繰り返す、虞美人も歌を唱和した、項羽の頬に涙が伝い皆泣いた)
それは(史記、項羽の寵姫虞美人の漢詩から)異国の物語、これは静御前が身の嘆き、漢と和朝は変わるとも思いの色は一つなり、上は玉楼金殿(御殿)、下は静(御前)が伏屋(粗末な家)まで、静を惜しまぬ人ぞなき。
見目(顔かたち)といい(才)能といい、心の情けの道と言い類(たぐい)もや、わが有るべき(並ぶものが他にどうしているだろう)と人々の嘆き愁歎は四方(よも)にも余るばかりなり。
3 召使あこやへの仕打ち
掛る哀れを催す所に、憎き事こそ候いけれ(召使)あこやと申す女、梶原に向かって言うよう、忘れさせ給わぬ先に御約束の俸禄を急ぎたべと申す。
梶原聞いて腹を立て、何と申すぞあの女これほど静御前の関東下向とて上下涙を催す所に申さんや、(言ってみるならば)汝は昨日が今日に至るまでその内に有りし者ぞかし、別れをば悲しまで宝禄の乞いようこそ心得られね、余りにものを知らぬ女に因果歴然の道理を語って聞かせん、それにて良く聴聞せよ。
宵には朗月をもてあそぶと言えども(栄華に誇っていても)、暁は離別の雲に隠れぬ(空しくなってしまう)、心は虚空常住(変化のない)にして、形ばかり(からだ)は仮の宿、耳は渡世の耳、目は浄玻璃(閻魔王庁で亡者の生前を写す)の鏡、口は災いの門、舌は災いの根、舌三寸のさえずりにて五尺の身を果たす、誰かある、あの女に引き出物を取らせよ。
承りと申して、 (荷運び用の) 雑車に取て打ち乗せて渡す所はどこどこぞ、上は一条柳原、下はから九重(くまなく)小路小路を渡し見る物ごとに憎ませて、後にはこの女を桂川の深き所を尋ねて、柴漬け(簀巻きで水中に沈める)にしたりけり。
都の上下これを見て、もの言いしたる(おしゃべり)女房が所知(領地)をば給わらで、黄泉の国の大国(死罪)を給わったりやと申し、見る人聞く者押し並べて憎まぬ者はなかりけり。
4 静御前、鎌倉に連行
かくして梶原は静御前を輿に乗せ浄土寺を出る、母の(磯の)禅師も泣く泣く徒歩にてあくかれ(さまよい)出ずる、静(御前)この由見るよりも母を徒歩にて歩ませ申し、我が身が輿に乗りたればとて安き心の有るべきか、年寄りたる母上を乗せて舁け(かつげ)とてこぼれ出る、実に実に是は道理とて馬をたてて母(の磯の禅師)を乗せ。
都に名残うき想い、物憂き事に、粟田口、我をば止めよ、関山山科(逢坂と山科の関)の凄まじさに、すぎふる(過ぎ経ると杉生る又は古を掛ける)雪の下道を跡よりも誰か大津の浦(追うを掛ける)、消えばやここに粟津が原、思いはなおも瀬田の橋、野路に日暮れて篠原や、憂き節しげき仮の宿の夜毎に物や思うらん。
この程は心の闇に掻き曇り鏡の山(滋賀県)も見もわかず、名は醒ヶ井と聞くからに深き意は泉(清水であり出づを掛ける)かな、いとど涙の多かるに雨山中や通るらん、嵐木枯らし不破の関、月の宿るか袖濡れて荒れたる、宿の板間より露も樽井と聞くからに絞りかねたる袂かな。
夜はほのぼのと赤坂(夜が明くを掛ける)や、打ちこそ渡れ杭瀬川、植し早苗のいつの間に黒田とは成りてはらむらん、夏は熱田(熱いを掛ける)と鳴海潟(成るを掛ける)、三河に掛けし八橋の、末をいずくと遠江(問うを掛ける)、恋を駿河(するを掛ける)の富士の根の、煙は空によこおれて、くゆる思いは我ばかり、伊豆の三島や浦島が、明けて悔しき箱根山、相模の国に入りぬれば、なお憂き事を菊川(聞くを掛ける)の宿にも早く着きにけり。
梶原、道よりも早馬をたて、静御前をば菊川の宿まで召し具して候、道の草葉の露霜となしもやせん(道中で命を奪う)と申す、(源)頼朝、聞こしめされて鎌倉まで召しぐせよ尋ぬべき子細あり。
5 静御前、源頼朝と対面
承(うけたまわ)って静を大御所(頼朝の居所)差してかき入るる、折節(時折)あり合う(居合わせる)大名達、所狭きなく並み居たり、静輿より降り鏡をも見わかずして、遥かに座敷の空いたるを我が為ぞと思い、人々の方を後ろになし、包め(隠せ)ど湓(あふれ)る涙の色、乱れ髪を伝いて貫く玉のごとくなり。
やや有りて頼朝御対面のその為に、青狩衣に立烏帽子召し、和田義盛、秩父(畠山重忠)左右にして御座に直らせ給い。磯の禅師が娘、静(御前)とは女房が事か。
四国九国(九州)の戦い合戦は珍しからぬ物語、義経一人合戦、世を治めたる港に非ず、頼朝が威勢によって諸国は己と静まりぬ、世が我世にもあらぬには兵法の術も叶わず遠く異朝を尋ねるに(中国戦国時代の刺客)刑軻(けいか)秦舞陽(しんふよう)は、燓於期(はんおき)が首を借って始皇帝を狙い阿房殿(始皇帝が建てた宮)迄登といえど運尽きぬれば討たれぬ。
(中国の故事、秦の人質で燕の太子丹は、秦王(後の始皇帝)政からの冷遇で逃げ帰り燕は滅ぼされると秦王政に刺客を送る、丹の刺客依頼を受けた荊軻は、用心深い秦王政に謁見するには、秦王政の怒りに触れ一族処刑され燕へ逃亡してきた樊於期の首を差し出せば、秦王政も荊軻に会うだろうと、樊於期に貴方の首を手土産に秦王に近づき殺すことができればと頼んだ、樊於期は聞き入れ己の首を荊軻に与えた、刺客の相棒秦舞陽を連れ出発、領地割譲証の地図と樊於期の首に秦王政は大喜び、荊軻たちに接見する、秦舞陽が恐怖で震えたため秦王政に気づかれ失敗、逆に殺され秦王政は激怒し、燕を攻め滅ぼした)
さしも名が高き弓取りも琴の音にとらかさる、いわんや義経は刑軻(けいか)秦舞陽(しんふよう)燓於期(はんおき)ほどは、世も有らじ、まして(三国志の英雄劉備の祖先劉邦の護衛を務める)燓噲(はんかい)、(劉邦の名軍師)張良が勢いにも劣りたる義経一人戦い天下に満ちし平家を傾ふくべしとも覚えず頼朝が威勢の重き所なるべし。
それに義経この世を覆さんと思い立つ、義経と一味し愛念深く定め無き、契りを込むる静には、心を許すべからず、たとえ女の身なれども、怨念の心深きを、強敵とするなり。
なにさま引く手定め無き、遊女の身と有りながら、さしも頼朝恨めしき、草の種を着く(妊娠)と聞くやあ如何にとの御諚なり(咎めた)。
静、疎まし顔にして袂を顔に当てながら、泣く泣く申しける様は、人の契り(結びつき)と申すは定めなしとは言いながら、生々世々旧縁の尽きせす朽ちぬ機縁にや(生まれ変わりを経た古い縁で尽きもせず朽ちもしないつながりなのであろうか)。
昔、源氏の大将(光源氏)も、桐壷(1帖)、帚木(ははきぎ2帖)、空蝉(3帖)のも抜けの衣着たりし尼にも契り給いぬ、若紫(5帖)、末摘花(すえつむはな6帖)、紅葉賀(もみじのが7帖)、花の宴(はなのえん8帖)、葵(あおい9帖)、賢木(さかき10帖)、花散里(はなちるさと11帖)、須磨(12帖)や、明石(13帖)、澪標(みおつくし14帖)、関屋(せきや16帖)、蓬生(よもぎゅう15帖)、絵合(えあわせ17帖)、松吹く風(18帖)や、薄曇(19帖)の巻、それのみならず源氏物語は六十帖(巻)の物語(光源氏の君が多くの女性と契りを結ばれましたが)。
儚(はかな)き契りこれ多し(それもはかない契りとか)一樹の陰や一河の水を汲むことも(同じ川の水を飲む事も)、多生の縁(前世からの因縁である)とこそ聞け、富める人もいつまでぞ(このように今栄える人の御運も)、いつまで草(ではないが)のいつまでと(続くでしょうか)、霜枯れ行く(人が勢いを失う)を知らぬぞと、袂を顔に押し当てて泣くより外の事はなし。
頼朝、大きに腹を立て給い、言葉多しと申せども、何時まで草と言いつるは、壁に生うる草なり、平地に根を差すだにも、秋果てぬれは霜枯るる、ましてや壁に束の間の根をかくる草なれば、身の厭(あ)き(秋と掛ける)果てぬその前、盛りの夏に枯るれば何時まで草と事を言う。
さればにや(それゆえ)静、我が身の上を観じ(思い見て)、源氏によそへ(物語になぞらえ)六十帖(巻)所々語りつなり、それはともあらばあれ(ともかく)、何時まで草と言いつるは頼朝の事を申すなり(源氏物語に事寄せていつまで草とは私の事をあてこすったつもりであろうが、その位の事を知らぬ私ではないぞ)。
今、世に出て天が下(日本中)を我が(思いの)ままにするとも、何時まで栄ふべきぞと申しつる処、それは静が言わずとも有為転変(人生や物事などのはかなさと変転ぶり)の世の習い、明日まで頼む事やある(浮き沈みのあるは世の常の事)。
然りとは申せども、世に有る程はいつまでも、久しかるべき例(ためし)に(しかし、源頼朝が生きているうちは此の繁盛は続くのだ)、かねては(いつまでも命長かれと)松を植えおき住吉とこそ祝うなれ(安泰をことほぐものだ)。
名詮自性(名は本性を言い表す)中々(本当に)、移ろい易き世の中の祝えば叶う事なるに、それに静なんぞその源氏の物語に何時まで草と言いかすめ(ごまかす)、頼朝が身の上を調伏すると覚えたり(静のこのような言葉は私を言霊で呪詛調伏しようとする言葉だな)。
かかる不浄を聞く耳は、潁川(えいせん)の流れあらざれば、洗うべしと覚えず。
(中国の故事で、人格の廉潔さに名高い許由の噂を聞いた中国の聖天子といわれた堯帝が、彼に帝位を譲ろうと申し出るが、許由はその話を汚らわしいことを聞いたと、潁川の流れで自分の耳の汚れをすすぎ洗い清めて箕山に隠れてしまう、まさに牛にその川の水を飲ませようとしていた高士として名高い巣父は、許由が耳をすすぐのを見て牛に汚れた水を飲ませるわけにはいかぬと立ち去ったという、その光景は書画の題材として狩野永徳作『許由巣父図』などがある。)
と御座敷づんと立ち、板荒らかに踏み鳴らし内所へ入らせ給いけり。
連座有りし人々、一度に座敷をはらりと(一斉に)立つ、心細くも静(御前)はただ一人ぞ残りける。
去る間、梶原(景時)は思う様にし済まし内々打ち笑い、静が辺りへ立ち寄って、是は公方(征夷大将軍頼朝)の御座近しこなたへ入らせ給えとて伴ひ出したりけるが、いやいや係る囚人なんとを時刻移せば内縁あり(時間が立てば状況が変化するかも)、今夜のうちに胎内を探し、朝敵の御末を枯らさばやと思い宿を取て押し込め日の暮れるをぞ相待ちける。
6 母の磯の禅師の機転
さすがに人の先途(最期、死)なれば、最後を知らせてその仕度有らせばやと思い、静が宿へ打ち越え(立ち寄って)、今夜御内(頼朝)より胎内を探し申せ、実験(妊娠の本当かどうか定める)との御諚の候。
思し召たる事の候はば母御前に何事をも仰せおかれ候へとて空泣きしてぞ語りける。
静が母の(磯の)禅師、娘に抱き付きつつ人の親の習いにて悪しき子の数多有るだにも、別れと言えば物憂きにましてや申さん、自らは唯一人の静御前、見目形心際上下に並ぶ人なしと世にも隠れぬ一人子を先立て何と成すべきぞ。
いかなる朝敵逆臣も女を殺す事はなし、たとい厳格あらけなき夷(東国の荒武者)の住家なれども盛りの花を風なふて切り枯らしたる事やある、うたて(嘆かわしい)かりける鎌倉の政(まつりごと)とかき口説き流涕焦がれ泣きにけり(激しく泣き悲しむ)。
よくよく物を案ずるに、頼朝の御諚は夢々もって有るまじい、ただこれは讒臣の成せる所なるべし。
事も斜めの時にこそ(普通の時であるならば)人目も包み恥ずかしけれ、御所中へ参り北の台(源頼朝の正室北条政子)へこの事を申さばやと思い、静御前に暇を乞い御所内へ参り然るべき方に付いて静が事を申し上げる。
北の御方(北条政子)は折節御機嫌目出たくて、人の親の習いにて子を思う道は浅からぬぞ、例え如何なる仰せなりとも自ら心得て候はばなどかは助けざるべきその上、是は時刻移しては叶うべしとも覚えす早とくとくとの御諚にて、かたじけなくも北の台(北条政子は、死罪免除の)奉書を下し給えば静が母の嬉しさを何に例えん方もなし、鳥ならば一飛びに飛んでも告げたけれども女の身のこの程の思いに、痩せ衰え夢路をそへる如くに唯一所ばかりに躍るようにぞ覚えける(速やかに前進できず足踏みしているように感じられる)。
7 梶原景時の胎内探し
かくて、梶原は日も入りあいの鐘を聞き、輿一梃用意し警固の者四五人怪しからん(普通でない)姿にて出たたせ、静が宿へ押し寄せて早召されよと申す。
静このよし見るよりも今を最後の事なれば、唐綾の二つ衣懸け帯守り懸けながら呪遍(の数珠)に御経取り具して輿の前へぞ出られける。
我よりも先に涙は誰を誘うて先立つぞや、なとやかんろの(慈悲深い)母上の都の内を出でしより、かかるべしとも知ろしめさずや、とても叶わぬ訴訟ゆえ今朝御所中へ出られつつ面影ばかりのたち添いて、今朝の別れを限りぞと、知らで行つる儚さよ、親は一世と聞くなれば冥途に又ぞ会うべきか、それも後悔すべからず、それ人間の習いにて進み退きとにかくに物憂かるべき世かな、心に任せざりけるは生死無常の世なりけり、かようにかき口説き最後の輿に乗り給う。
乗るかとすれば、武士共輿を中に飛ばせ由比の汀(由比ガ浜)へ急ぐ。
ここにて胎内を探さんとたち隠すところに、土肥二郎実平は鎌倉の警固にて暮れれば十騎二十騎にて鎌倉内を廻りしが、何とは知らず浜端に怪しき人の見えければ駒打ち寄せて誰ぞと問う、苦しゅうも候わず、梶原是に有りと言う。
急ぎ馬より飛んで降り何事にやと問えば、静胎内を只今探すなりと申す、それはよくこそしたたむれ、去りながらこの辺は若宮(鶴岡八幡宮)近き所なり、これより少し引きのけ、名越か入の三昧場(葬場)いしかりなん(良いであろう)と申す。
おうもっともと同じて又輿寄せて打ち乗せて、おう、名越か入江へ急ぎけり。
静この由見るよりも、これや冥途の呵責(かしゃく~地獄の責苦)が火坑(火の穴)逆浪(さかまく波)の旅もかくやらん、かねて(親子の関係は)一世と聞きたりし、親には生じて別れて、又も会わぬによみがえり、暗き闇路(冥途の道)をまた行くや、当鎌倉の敬(う)神は、かの若宮(鶴岡八幡宮)にしくはなし(匹敵するものはない)、しかも八幡大菩薩、宗廟(先祖の御霊や)の神として(生き物を水中や野に放す神事)放生会をなし給う。
毎年八月一日より一切の有情(生き物)の捕られて死すべかりしを、価を報じて買い集め、同じき月の十五日に石清水(八幡宮)の流れに放ちて助け給うなり、この理りに任せて放生会とは申すなり。
神々ならば聞こし召せ、人こそ人を殺すとも、和光の影(神の威厳の光)の遍(あまね)くは、我を助けてたび給え。
たとい命は露の身の消え易き習いにて、嘆く印のあらずとも、生きて別れし母上を今一度見せてたび給え。
神は歌に必ず納受まします(神仏に受け入れられる)ことなれば、腰折れ(下手)ながら傍題(題の忠心を外して詠む)の愚詠をとみて参らせる。
「なとされば、なにはに捨し浦浪の静も荒きはまの名はたつ」
(何ゆえ一体何事も捨てたはずの難波の浦の静けさの中に、荒い波が押し寄せて来るのだろう、難波に捨てられた静の身の上に荒い波風が押し寄せるのだろう「静も荒き」に自分の名を読み込んだ物名歌である)
かように詠して、若宮に回向申されたりけるに、何とは知らず後ろに、人の呼ばはる声がかすかにこそ聞こえけれ、警固の者肝を消し(潰し)、何事にやと聞けば、静が母の禅師の呼ばはる声はかすかなり。
梶原はやく聞き付け、もし奉書や下し給うらんに助けやせん悔しや、何とも是非のなき先に計らへ(どうとも指示の出る前に静の処刑をしてしまえ)やれ兵、承ると申して輿を宙に投げ落とし静を取って引い出し、害せん(殺さん)とせし時。
土肥二郎実平が塞がって、実平かうて有りながら若し奉書や下し給うらんに、慌てて後の大事と押し留めたりければ、梶原いとど怒ってただ害せん(直ぐに殺せ)と申す。
禅師は奉書これありと呼ばわり叫び走れば、静は母の声と聞いて遅しと悶え焦がるるを、物によくよく例えれば罪深き罪人、俱生神(閻魔王の側で記録している神)の手に渡って、無間地城(無間地獄)の底に落とさるべかりしを、六道能化の地蔵の錫杖をからりと打振り、(地蔵菩薩の真言)からかみざんまいと呼ばはるかけ救い上げ助けんとし給うも、これほどぞ有りつらん。
さてこそ奉書読み上げて、静も母も諸共に同じ輿に取り乗り喜楽の笑みを含めば、静は母にすがり付いて是は夢かと言いければ、母は娘に取り付き夢とないひそ現ぞ、さもあれ(それにしても)あや浮かりつる。
わごせ(おまえさん)が今日の命とはらはらと泣きにけり、憂き時は道理、流す涙は理や嬉しき今の何とてか、さのみ涙のこぼるらん。
8 静御前、男子を産む
かくて、静御前をば土肥の二郎(邸)に預けらるる。
頼朝よりの御諚には、(静御前の胎内の子が)男子ならば朝敵にて力及ぶべからず(やむをえない)、女子の体(すがた)と有るならば母が宝たるべしと、かねて御下知下さりける。
静も母も都に有りし時には、義経の忘れ形見にてましませば男子に生まれ給へと願う心を引き替えてただ女子になれとぞ祈りける。
されども叶わぬ浮世の有りさま、玉を延べたる如くなる(玉を敷き詰めたように美しい)若君いでき給う。
梶原はやく聞きつけ(嫡男梶原景季)源太を遣わし言わせるよう、御産すでに平安に御座ある由を聞し召し、男子女子の間を見て参れとの御使いに、源太が参りて候と大音上げて呼ばはる。
静も母も諸共に源太が声と聞くよりも、阿傍羅刹(頭と足は牛手と胴は人間姿の地獄の獄卒)の使いの閻魔の責めを告ぐるかと肝魂も身に添わず(生きた心地もしない)、母の禅師急ぎ出で、のう、いかに源太殿女子をもうけて候に、かねてよりの御約束の如く母にたべ(下さい)と申す。
(梶原源太)景季聞いてそれは何より目出度き御事候よ、何様(とにかく)いまのまれ人(新生児)をそと(そっと)拝み申して候、ともかくもと申す。
静産所よりたち出で源太に打ち向かいつつ泣く泣く申しける様はし、七色の島に八尋の船を隠すとやらん(どうしょうにも仕方がないのたとえ)、申し例えの候なれば、ともかくに源太殿をこそ頼み申し候め、是これ御覧候へとて、玉ノ様なる若君を抱き上げて見する、源太是を見て、あら厳(いつく)しの御若君や候、これ程の御事を私にては叶い候まじ、御所中へ御供申し御目に掛けやがて返し申さんと袂に包み懐に押入れ駒引き寄せて打ち乗り由比の水際に急ぐ。
二人は後を慕いて、なふ、せめて泣く声を今一度聞かせてたばせ(下され)給えやと呼ばはり叫び走れども、馬にはいかで追いつくべき、あら情けなや源太。
由比の水際にて、取り外したる躰にて(誤って落としたような格好して)波打ち際へぞ落としける、磯打つ波(赤子の)泣く声、浜松を誘う風の音、身にしみじみと思えども取りも留めぬ事なれば(抑え止める事も出来ないことなので)、辺りにまろひ(ころがり)伏し(恋)焦がれ、声を並べて歎けけども、源太は少しも哀れまず、沖より波がどうと(落ちるさま)来て玉の様なる若君を落花の如く(こなごなに)打ち砕く、その後、(駒に)鞭をしとと(勢いよく)打ち源太は家に帰りけり。
静も母も諸共に散りたる死骸を取り集め袂に包み顔に当て流涕こがれ泣きけるが、静思いに耐え兼ねて身を投げんとせし時に母の禅師これを見て、道理なり静御前、何に命の惜しからん、我も連れて行けやとて二人手に手を取り組んで身を投げんとしたりしを、折節有合う人々がすがり付いてぞ止めにける。
思いきりぬる道なれども心に任せぬ事なれば、この人々の愁嘆を哀れと問わぬ人ぞ無し。
9 静御前、伊勢物語成立論を披歴
かくて日数を降る程に、(此の事は)御所中の女房達、大名達の北の方、静が思いさこそやと(見舞い)訪いと名付けて(名目で)その文共は数知らず、静も手跡(書)世に勝れ、源氏(物語)、伊勢物語をば、うち置く文の言葉にもただ是心ばかりなり(身辺に置いておく文の類の中にも古典文学の風情が満ち溢れている)。
御所の北の御方(北条政子)仰せ出されけるは、羨ましやな、静は如何なる知恵の深うして女の能(力)を残さず知したる事の由々しさよ(女性として持ちうる能力を余さず身に付けていることの素晴らしさよ)。
それ我が朝(日本)の女は大和言葉を旨として歌(和歌)の道を知るべし、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の八雲立つと五文字に詠じ始め給いしは、我が朝の守り、花ほととぎすと月雪(春夏秋冬の季を代表する景物)はあだなる(はかない)物と思えども、四季転変(四季の移り変わり)の無常を現わすところ是なり。
仏もただこの事を一大事とて(釈尊が悟りを得てから入滅するまでの)五十年時をかせ結べども、神(神秘的で)奥深こうして届かぬ言葉なりければ、不説不可思議(言葉で説く事も思いはかることが出来ない事)なるが故、たた不可得(人間の思慮を超えていて認識できないこと)とばかりにて、言葉に述べ尽くされず。
ここをもってまさしく、不立文字(語り伝え)なるゆえ、仏祖不伝(ぶっそふでん、仏祖にも依らずに禅によって法門を悟る)とこれを言う、たとい優婆塞(うばそく、五戒を受けた在家信者) 優婆夷(うばい、三帰・五戒を受けて正式の仏教信者となった在家婦人)にて形は女なり共、悟りを受けば仏なるべし、殊(こと)にかの静は内典外典(仏教関係の書籍と、それ以外の書籍)暗からず、しかも我が朝の風俗和歌の道達者なリ、いまや静により合て源氏(物語)、伊勢物語の深き心を尋ねん。
もっとも然るべしとて、おのおの移らせ給いて打解け遊ばせ給ひけるに、北の御方(北条政子)仰せけるは、如何に静御前、歌の不審さまざま多しと申せども、伊勢物語の奥義を詳しく知る人まれなれば、静御前が情に教えてをかせ結べや、と仰せい出されたりければ、静承って自らなればとて、如何でかその奥義をば知り候べき、さりながら心得て候程をは申すべし。
そもそも伊勢物語と申すは(在原)業平の中将の一生涯(略歴)を語るなり、(在原)業平と申すは、平城天皇に第四の御子阿保親王に第五の皇子、母は桓武天皇に第八の御娘伊藤内親王の御子なり天長二年乙の巳の年生まれ給う。
淳和天皇の御時七歳にて童天上(元服前に殿上に仕えた)し給へり深草の御門の御時、春日の臨時の祭りの時内裏より猟の姿に出でたって透(き)額の冠を着け五節の伶人(舞の楽人)にて立ちし故忍摺りの小忌の衣を着たりしなり。
また承和七年に宇治の蔵人に補せ(任命され)給う、惟喬皇子(これたかしんのう)の御時交野(現交野市)の御狩にあい具せり、かの在原業平の中将は娑婆の宝算(現世の寿命)尽き果て給い大和の国(山田の郡)布留の郡在原という所に御墓を点じ給う(場所をお定めになる)、これまでは、(在原)業平の一生涯を語るなり。(静御前が政子のために伊勢物語成立論の知識を披歴した)
この物語を春宮(とうぐう)の御所にて作られけるに、古ざれ色の衣着たる人一人来て、由々しくもこの物語、作り給うものかな、それがしも歌二首入んと有りし時に、何処よりの御使いぞと問いければ、その返事に及ばずして、
「神風や伊勢の浜荻折り敷きて旅寝やすらん荒き浜辺に(伊勢物語小式部内侍本系第71段で万葉集501から採歌)」、
(あなたは伊勢の浜の萩を折り倒して旅寝でもしているのでしょうか荒れた浜辺で~業平は狩の使いという勅使として伊勢に行った)
「思うこと言はでただにや止みぬべき我に等しき人しなければ(伊勢物語第124段)」
(心に思う事は言わないでそのまま黙っていた方が良いのだ、どうせこの世に私と同じ考えの人などいないのだから~伊勢物語の終段の一つ前にあるこの歌は在原業平の孤独な葛藤の日記でさまざまな女と情を交わし逢ったり別れたりを繰り返して年月をすごし、その中で権力闘争に勝てず不遇を受け、そういった過去を顧みる年に至り、自らの体験で得た感慨は誰に言っても共感してはもらえないだろう、そろそろ物語も終わりにしようという歌である)。
かように詠じ立ち帰らんとし給う時、人々袂にすがり付いて、さも候へ何処(いづく)より何方へ御通り有るぞと申せば、これは伊勢よりとばかりにて消すが如くに失せ給う、さては、疑う所なし伊勢太神宮の御使なりと心得、この理に任せつつ伊勢物語とは申すなり。
北の御方(北条政子)聞し召し、あら殊勝や候(何と素晴らしい事でしよう)、さて初被(ういかぶり~伊勢物語第1段)とは如何なるいわれにて候。
それは深草の帝の御時に、春日(大社)の(臨時の)祭りの時、内裏より猟の姿に出で立て、透(き)額の冠を始めて給わりし(元服の儀式)によって、初被(ういかぶり)とは申候(在原業平の初冠の段)。
おうこれも早心得ぬ、その他の不審には、眺め明かしつ(2段~ながめ暮らしつ)、みおつくし、とぶ蛍(45段~)、ぬきすということそ(27段~貫簀を)、田のむの雁(10段~田にいる雁)、蓑代衣(雨衣)、千尋のたけ(79段)、信夫摺、宮こ鳥(9段)、此の品々の不審は如何なるいわれにて候ぞ。
その品々の不審は真言(仏の言葉)の極秘事、あはんうんのたうに(阿鍑吽アパルフンたらに)、あはらかけやのこもん(阿縛羅訶佉アバラハキャ地水火風空の五大を表示)、五智の如来(大日、阿閦、宝生、無量寿、不空成就)の種子として、四季転変の色相(形として見える)、雨土開け始め日月星の三光、有情非情の種(生命も感情もないもの)として、陰陽二つ和合して四季転変の色を成す(四季の諸相を形成する)。
春の色は青けれど(五行思想)何とて花は紅の色には出て開くらん、夏の色は赤ければ照る日もやがて酷熱す、秋の色は愁い(悲しみ)にて虫の鳴く音はことわりや、冬されぬれば(冬になれば)涅槃(ねはん)にて雪降る山は白砂の是を生老病死の(人間が逃れる事の出来ない4つの苦しみ)、色相定め無き事を三十一字の歌に詠む。
この歌の姿は娑婆世界の人の身、虚空と同じ事にて、仏と衆生隔てなし、されば歌をよく読めば神も仏も納受あって、衆生もやがて仏となる(和歌陀羅尼観に基づく考え方)と解き教え申す時、北の御方を始め参らせつつ、その他の女房達、和歌の道は暗からず、尊く無上菩提(一切の法を悟った完全な悟り)の真如(永久不変の真理)の道に入り (和歌の奥義を説いて人々を感服させ) 給う。
かくて憂かりし鎌倉、昨日今日とは思えど、女房たちの情の得さり難きにほだされて(断りにくいのに引かれて)、不覚さの忌みも晴れにけり。
10 静御前、雨乞の舞を舞う
大名高家さし集まって囁(ささや)き申されけるようは、かの静の舞と申すは日本一の上手なり、それを如何にと申すに。
いん(過ぎ去った)養和の夏の頃、日照り多く続き草木もことごとく青(未熟)苗残るべからず、この事天下の笑止(困り事)とて公卿詮議まちまちたり。
それ竜神の腹を休め神の心を取る事は、女の舞にしくは(及ぶものは)なし、誰か名人なるらんと御尋ね有りし時、近衛の院の左大将進み出て申さるる、誰々と申すとも磯の禅師が娘静と申す白拍子、父は伏見の中将とて藤原氏の公卿たり、その子静生年十七歳にまかりなる。
(舞いは)天下に並びなし、これをや召されべからんと僉議もうされたりければ、おう最もと議せられ、やがて勅使をたて、内侍所へ召され駿河の舞を舞けるに、月卿雲客(公卿や殿上人)拍子を打って囃されたり、舞の袖ひょう揚し天人の駆けるごとくなり。
歌う声はさながら、君を始め奉り月卿雲客(公卿や殿上人)に堪えさせ給う時、照る日にわかに掻き曇り轟々となる神も拍子に合わせたりければ雲碧落(青空)に厚うして真の雨こそ降りにけれ。
この程照りて草木一注の雨を注げば、緑若葉となりにけり、さてこそ五穀葉は栄え、根は深くすえは雲井に伸び秋は其の実の全(また)き事、寸の稲粒玉に似て(一寸ほどの稲の実は玉のよう様で)尺の穂丈も長かりき(一尺ほどの穂の丈も長いものであった)、臣も君もこの舞を感ぜぬ人は無かりけり。
係る名人たまさかに、稀にも如何で候べき如何わせんと内談す。
11 鶴岡八幡宮での白拍子舞
北の御方(北条政子)静が宿へ御使い有り、はばかり多き事なれど日本一の舞とやらんを一目見ばやと仰せけり。
静答えて申すよう舞わぬ咎めに二つ無き(以外になく)、命を召され候とも舞わしとこそ思えども、(北の方の恩を感じた静は承諾する)君が情けの深ければ舞わでは如何なんと、舌打解けて(親しく)申しけり。
北の御方(北条政子)聞し召し、あら嬉しや候、舞わせ給はば若宮殿の透き廊(渡り廊下)にて、神慮も諸人までも目を驚かすものならば、一は神の腕差(かいなざし~神前で歌い舞い)又は我が身の祈りかれ是れ持って目出度しと仰せ出でされたりければ、静もこれに同じ吉日取って若宮(鶴岡八幡宮)にて腕差し(神前で舞を舞う)と風聞す(世間のうわさに伝え聞く)。
既に当日にもなりしかば、若宮殿の正面に大将殿(頼朝)の御桟敷には幔幕をひかれたり、北の御方(北条政子)の桟敷には外には御簾を掛け内に几帳をひかれたり、諸大名は回廊と大庭に所狭きなく並み居たり、貴賤群集(身分の高い者も低い者も寄り集まる)は中々に申すに及ばざりけり。
かの若宮と申すは、後ろは山、前は海、左右には軒を並べ民家の門家々、棟の数多ふして太唐の明州の津(かって日本から入唐する際の港)とも言つつべし、あら面白や寺々の楼門は雲根にさし挟み、嶺の嵐は松に吹き、水際の波は寄せ引いて(いづれも法のたぐい)無数の罪業(数限りない罪のさわり)を洗いけり、沖の鷗は海上の白波よりも立ち居けり、等なく(悟り)真如(万有の本体)の沖の波、法性(万有の本体)の岸を寄せて打つ(仏法の理にかなうことを暗示する)。
大慈大悲(仏菩薩の慈悲慈愛が満ち溢れる)の若宮は、無明の闇を照らさんと、神楽男の鐘鼓の音、きね(神に仕える人)が袂(たもと)になる鈴、何れを聞くもいさぎよく、和光の影涼しく、静の舞の装束は千葉(常秀)殿の御役、笛は秩父の六郎(畠山重忠の子畠山六郎重保)殿、鼓は工藤佑経。
かの、工藤佑経と申すは内裏に門役のありし時、鼓を打って名誉をす、禁廊禁中の拍子をだにも囃したりし上手にて指さるるも道理なり、下武蔵の住人に長沼の五郎は銅(ばち)拍子の役なり。
静はこれに囃されて、何の情けに鎌倉にて、舞舞うべしと覚えずと、袂を顔に押し当てて泣くより外の事はなし。
母の禅師これを見ていかなる事ぞ静御前、かほど目出度き御座敷にて、舞わはぬ物ならば、御咎めをば如何せん。
まづ庭払い候とて、先に立ってぞ舞うたりける、元より舞いは上手、かたくり絞り萩を謡い済ましたりければ、静これ由見るよりも、あらいたわしや母上の何に心の慰さみて、かように謡い給ふぞ、これも只自らを助けんための舞ぞかし、それに自ら只今、物憂き心のあるままに、舞舞わぬものならば、母の咎めを如何せん、舞はばやと思いなおし、打衣の袖(そで)ひきろい(ひきつくろい)、袴の帯さし挟み、立ち出たりし心の内、さこそやと思いやられたり。
見渡せば、歴々と座せられたる人々に、和田、秩父殿、江戸、笠井、千葉、小山、宇都宮、いずれか日ごろ我がままに振る舞わざりし人やある。
義経と妻と有りし程は、大名高家恐れを成し、舞まわせて見るまでは、思いもよらでありつるが、昨日は人を従え、(おちぶれて)今日は人に従えり、天人の五衰(静を天人に例え、天人の寿命が尽きて死の直前に現れる五種の兆し)も今日さめぬると、思えば余所の見る目も恥ずかしく。
恥ずかしながら静御前、時の祝言なりければ、(まず、序歌として)
「君を始めて拝むには千代も経ぬべし姫小松」
(君に初めて御目通りしたことで姫小松も千年の長寿を保つでしょう)
と(一声を上げ時の祝言を披露)謡いすましたり、形は日本一なり、声はただ迦陵頻伽(声の美しい極楽浄土にいる鳥)妙の響き也けり、打つも吹くも皆上手、ひらりと上げる腕に、天人も天下り、地神も動くばかりなり。
入り舞に成りければ、
「しづやしづ 倭文(しず)の苧環(おだまき) 繰り返し 昔を今に なすよしもがな」
(冬の吉野山で悲しい別れをした義経を恋い慕い、しずの布を織る麻糸がたゆまず繰り出されるように、くり返し我が名をあの人が呼ぶ幸せだった昔を、今に戻せたなら)
と謡い済ましたりければ、(居並ぶ人々が舞の素晴らしさに感動し)御簾も几帳もささめき(ざざめいて)、叫ぶところに、源頼朝(不快を顕にし)御簾を下さるる。
ゆへを如何にと申すに、しづやしづしずのおだまき繰り返し 昔を今と謡うは、吉野で別れし義経を慕う処。
それは頼朝見ぬ所、(この時)秩父殿(畠山重忠)の申されるる。
昔を今と謡うは、五帝(古代中国の五人の聖君)の昔今に来、世は治まるという処、目出度く覚えて候に、御簾を上げられ候はでいかがと申されたりければ、御領(頼朝)実にもと思し召し、御簾をさらりと上げ給う。
静これを(見て、締め括りの祝言で舞い歌った)。
「極楽浄土の玉すだれ、干珠満珠のたまのはに、上ぐればいよいよ光増す、玉体つつがのうして、天(あめ)が下(日本中)こそのどかなれ。」
(頼朝およびその治世の平安と長久をことほぐ意味を持つ歌)
と三返踏んで舞われば、御簾も几帳もささめき(ざざめいて)坊舎(建物)も揺るぐばかりなり(人々の熱狂的な喝采を受ける)。
(日本書紀に神宮皇后の三韓(朝鮮)征伐時、神に勝利を願い満願の日、にわかに強風吹き荒れ狂う波中に白ひげの神が現れ、私は住吉明神の化身である、安曇の磯良を使者とし龍神より干珠満珠の二つの珠を借受けるがよいと告げた。潮の満干を自由にできる不思議な力を持つ二つの珠を借りた皇后は、朝鮮沖の島で陣を張る、新羅大船団が攻寄せた時、潮干る珠を海に投げると引潮で海底が現われ新羅軍団は動けなくなる。兵隊が陸に上がろうとする時干満つ珠を岸近くに投げると海水が満ち、新羅の軍船は全滅し兵もおぼれた、皇后は三韓から貢物を献上させ今後天皇に仕える事を誓わせた。皇后は凱旋し干珠満珠の二つの珠のご神徳で勝利した、これを今龍神に返すと長門の海に沈め、平和の波は末永くいつまでも干珠・満珠の岸を洗うであろうと述べた)
頼朝、感に堪えかね給い、おどり出でさせ給いて、ともに腕をさし(応じ)給う。
大名高家、庭上に転び落ち声を挙げてぞ、喚(おめ)いたる(騒ぎたて)さてしも舞はおさまりぬ(大喝のうちに奉納は終了する)。
君よりの御諚に(恩賞として)駿河の国蒲原八十余町賜びにけり、大名たちの(山のような)俸禄、宝の山を前に積む。
静はいよいよこれに恥じ、何時の程に舞いもうて俸禄に誇るべき、返せばおそれありやと、(全て)鎌倉内の宮社御堂寺に寄進し義経の御祈り、また我が子のためにと一つも身に添えず都へとてぞ上りける。
《参考》
◎ 十六世紀に流行した語り物の芸能「幸若舞」は、近世には読み物としても普及していった。
その中でお伽草子と同様に、奈良絵本として制作された舞曲もいくつかあり、「しずか」もその一つである。
義経は平家征討で活躍、都での評判が高まるにつれ兄頼朝との関係が不和になる。
都の堀川館が鎌倉方に攻められ危惧を脱したものの、義経は静を伴い西国へと逃れて行く。
文治元年(1185)都落ちした義経の一行が九州へ渡るべく大物浜(尼崎市)から乗船するが、暴風雨によって難破し一行は離散、その後、静は奥州に向かう義経に同行し畿内に戻り、雪深い吉野山で義経と生き別れてしまう。
やがて、静は鎌倉側に囚われの身となり、詮議を受けるため母磯禅師と共に頼朝の元に送られる。
文治二年(1186)4月、静は頼朝に鶴岡八幡宮社で白拍子舞を命じられ、義経を慕う歌を唄い頼朝を怒らせるが妻政子等が取り成し命を助けた、京に帰され、傷心に浸たる静のその後の消息は杳として知れない。
◎ 貴族山科言経(ときつね)『言経卿記』の幸若舞(1597年)記事
1597年 (慶長二年)正月十五日次黄門(秀忠)へ罷向了、内府(家康)へ御出也云々、次内府へ罷向了、対顔了、カウ若舞有之、半ニ罷向、胎内探也、次常ノ座敷ニテ暫雑談了、次薪ノ間ニテ鶴ノ料理、内府自身之拵也、相伴衆、内府・同黄門・予・冷泉・冨田左近将監(知信)其外大勢有之、
(次に秀忠の所に行った。家康の所に行ったと言われた。次に家康の所に行った。会った。幸若舞をしていた。舞は半分進んだところだった。胎内探であった。次の常の間で暫く色々話した。次に薪の間で鶴の料理が出た。家康が自ら用意した。鶴の料理を共にしたのは、家康・秀忠・私(言経)・冷泉為満・冨田知信、その他大勢である)
貴族の山科言経(やましなときつね)が残した『言経卿記』には徳川家康のことがよく書かれている。家康は、秀吉没後に天皇から勅許をもぎとられた言経に公卿の地位、所領を取り戻してやっている。言経は、家康の所によく通い、家康と「雑談」をした。そのため、『言経卿記』には政治や戦とは関係ない、徳川家康の日常の姿が度々垣間見える。家康は好きな「幸若舞」を何度も楽しんでおり、正月で客人も多く来ているから、張り切って鶴の料理でもてなしている。
十五日、山科言経は冷泉為満とともに伏見へ向かう。家康はここでまた幸若舞を見ている。能は付き合いで演じたり見たりしているが、自分で楽しんで鑑賞するのは幸若舞の方だったようである。