鎌田(かまだ)

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1 源義朝次男朝長の自害  
 源氏左馬の頭源義朝は待賢門の夜戦(平治の乱)に、敗れて東国を目指して落ち延びる。
 ここに、戦賊掲げ(落人狩り)にて、比叡山横河の法師(僧兵)の大将、大宅の忠希が放す矢を、進む源朝長(源義朝の次男)の左の股口に受け止めさせ給い。
 その御手大事(ひどい手傷)にて、美濃国(岐阜県)青墓の長者(大炊の宿)に着かせ給う。
 青墓の長者、急ぎたち出、源義朝の御目に掛り、さて源朝長(源義朝次男)は御供か聞いてほしいと有りしかば。
 源義朝聞し召されて、大事の手負い(ひどい手傷)最後の際といふならば、長者の嘆きき深かるべし(心配)と思し召し、さにあり、源朝長(源義朝の次男)をば、悪源太(源義朝長男の源義平)と打ち連れ、鎌倉へ遣わして候、明年の夏の頃、必ず、苦して参る(源氏一族を集めて都へ攻め上る)べしと、深く包ませ(言い含め)給い。
 その後、鎌田兵衛正清を召され、如何に正清、源朝長(源義朝次男)が躰を見(て参れ)よ。
 尾張をさして一まつ(ほんのわずか)、落べきにても有やらん、委く(まかせる)とへ。
 鎌田兵衛正清承り、中宮大夫進(中宮御所に仕えた)源朝長(源義朝次男)に参り、明日は都より討手の参り候べし。
 夜半に紛れて一先、落つべきにても、ましまさば、御伴召され候らへ申す。
 源朝長(源義朝次男)聞し召し、お供申度は候えども、痛手薄手に七カ所の手負い、五躰安からねば、御供申し難し、さあらば、平家の者共に、かき首なんどにせられては、骸の上の侮辱たるべし、ただただ、腹を切りなんと御返事を申させ給い、とみにて鎌田兵衛正清召され。
 如何に鎌田兵衛正清、弓矢にたずさわり箕裘(父祖の業)の家といいながら、自害を未だ知らんなり、如何様にするものぞ委く(まかせる)、申せ。
 鎌田兵衛正清承り、さん候う自害と申すは、十万浄土は申せども、先最後の時は、西に向かって手を合わせ、声高に念仏申し、腰の刀をするりと抜き左手の脇にかばと立て、右手へきりりと引き回し、返す刀を取り直し、心基に差し立てて、袴の着きばえ押し下ろし、臓を掴んでくり出し、寸々に切りて、捨てたるを清き死骸と申すなり。
 源朝長(源義朝次男)聞しめし、やがて心得給いて、おしてを仕置直り、腰の刀をするりと抜き、左手の脇にかばと立て、右手へ漸々引き回し、返す刀を取り直し、心基に差し立てて、切らん切らんじ給えども、痛手薄手に腕こばり、御身思うようにならざれば、自害を半ばにしかけ給い、鎌田兵衛正清は居ないか、首をとれ。
 鎌田兵衛正清この由見まいらせ、涙と共に参りつつ、御首を取らんとしけれども、三代相思に仕えてきた主君に、いづくに刀を断つべきと、涙より外の事はなし。
 源朝長(源義朝次男)は御覧じて、不覚成り鎌田兵衛正清、早、とくとくと宣えば、いたわしや御首を、水もたまらず掻き落とした。
主人源義朝の許に参りつつ御自害の由を申せば、御落涙は暇もなし。

2 源義朝、鎌田正清舅の長田忠致を頼る
 その後、源義朝、鎌田兵衛正清を召され、これより尾張へは何として着きべきぞ。
 鎌田兵衛正清承り、さん候、青墓の長者の弟に、尾張国の鷲栖玄光を御頼みあれ申す。
 にわかにて鷲栖玄光を頼ませ給えば、安き程の御事とて、芝舟下すにことよせ、人々を舟に乗せ申し、かせを高くゆいあげ、上に柴を積みかけ、府津七郎が七百余騎にてささえたる関所の前を、とかく諌(いさ)めして押し通し、内海の浦へ船を寄せ。
 鎌田兵衛正清を御使いにて、内海の荘司長田忠致(おさだただむね、鎌田兵衛正清舅)を頼ませ給う。
 長田忠致難なく頼まれ申し、新造に御所を建て、君を入れ申し大事にお世話した。
この事都に伝い知れ、平家は六波羅に差し集まって、内義評定(会議)とりとりなし、時刻移して叶うまじと、平弥平兵衛宗清に三百余騎を下したふ。
 小松の内府(内大臣)平重盛(平清盛の嫡男)の御諚(おおせ)には、愚かなる御計らいかな。
 かの東国と申すは、源氏に心有かたなり、討手下るると風聞せば、東に残る源氏かな、雲霞の如く馳せ集まり如何様大事も出来なん。
 所詮、謀り罪をこしらえ長田忠致を頼ませ給い、過分の国所領を一旦与え味方に召され、源義朝を謀り、安々と討って後、長田忠致も討罰有るべきに何の子細候べき。
 この儀にしくはあらじとて、やがて、謀り状をこしらえ、長田忠致の館へ着き給う。

3 六波羅よりの教書
 長田忠致難なく頼まれ申し、平家からの御教書頂き開いて拝見申す、その御書にいわく。
 下状、源氏佐馬頭義朝は、親の首を斬のみならず、親しむべき兄弟を亡ぼし、六親不和にして三宝の加護なし(一族同士が仲が悪くては、どんなに信心しても神仏の助けは得られない)、父母が不幸にして天罰を蒙る、それいわれあいたがわず(相違ない)。
 去年の罪近年に関し、平治の戦にかけ負け、帝都を去って遠島遠鄙(いなか)に迷う。
 わずかに露命を、石草にかけ芭蕉(の花)の四大(人の体)を乱風に任ず、租頼み少き事は槿花(はかないむくげ花)、一日の影を待つがごとし、草風春の雨を待ちに似たり、とても自滅すべきものをや。
 是の味方に組せんことは、ただ深い腫物に望んで、薄氷を踏むに似たるべし。
 はや源義朝の首を斬って、天下に捧げ申すべし、下賞には美濃尾張三河三カ国をあて行う、同じく受領は望みたるべし、仍(よる)状くだん(件)の如し(以上)、平治二年正月一日長田忠致の館へと書かれたり。
 長田忠致、御状書頂き、夜中に人を廻し、五人の子供を近づけ、これこれ拝み申せ。
 綸旨の旨、至極の道理ここにあり責めるも源義朝は親の首を斬り給う、五逆罪(殺父、殺母、殺聖者、仏身を傷つけ出血させる事、僧団の和合破壊の事)の人なりを、主に頼みて何かせん。
 いざ、この君(源義朝)を討ち申し、美濃、尾張、三河の三カ国を賜わり、上見ぬ鷲と思うはいかが図らう。
 子供承り、此れは、由々しき御大喜にて御座候、この人々三人(源義朝、鎌田兵衛正清、渋屋金王丸)を討とうと思えは、尾張の国が動きても、軽く討たれ給うまじ、御思案あれと申す。
 長田忠致聞いて、不覚成り、汝ら勢を揃えて討たばこそ、謀って討つべきに何の子細のあるべきぞと申す。

4 長田先生景致の遁世
 かかつし所に、長田忠致の三男長田先生(せんじょう)景致と申す者、烏帽子の先を地に着けて、仰せの如くこの君(源義朝)は親の首を斬り給う五逆罪の人、擾(ゆう、乱れ)亦一代ならず、二代ならず、三代相思の主の首を斬り給わば、五逆をばさて置きぬ、八逆(謀反、謀大逆、謀叛、悪逆、不道、大不敬、不孝、不義)罪を如何せん。
 永々数は候えど、ここに例えの候を語って聞かせ申すべし。
 昔、天竺せつぜんの傍(かたわ)らに、めいみょうてうという鳥あり、かの鳥筒一つにて觜(くちばし)二つ、一つの嘴(くちばし)が餌を求めて服せんとせし時、(他の)一つの嘴賢くてこの餌を宙を這うて喰う。
 一つの嘴思うよう、何故か世の鳥は、筒も一つ、はしも一つ、我らどのようになり因果にや筒一つにて嘴二つ、たまたま求める餌食(えじき)をも奪われる事の口惜しさよ。
 所詮一方を退治せばやと思い、毒の虫を求めて服するまねをせし時、常のごとく心得これ餌を宙にて這うて食う。
 嘴は二つと申せども筒が一つである間、其の毒筒に納まりて身体が破れつつ、筒、躰が損して、己さへに、死したると承りて候ぞ、我も人も自然はもっては等(ひとし)かるべし。
 この君(源義朝)と申すは、政道賢くおわします、鎌田兵衛正清は、双びもなき剛の者、童ながら渋屋金王丸は弓矢を取って名人と名を得たる程の者なり、これ三人を討たんには、尾張八郡動きても、容易く討たれ給わじ。
 我々が心中には、とても捨てる命ならば、君に頼まれ奉り、内海に城をこしらえ、敵向かうと見るならば、軍兵共を差し遣わして、めざまし軍ぜさし、軍兵つくすは腹切って、死出の山のお供こそ、弓矢を取っての面目なれ。
 昔が今に至るまで、婿(鎌田兵衛正清)と主(源義朝)とを討ち取って、いや世に出たる法(きまり)や有、然るべくは、この事を只思い留まり給えということだよ。
 長田忠致、聞いて殊の外に腹を立て、何と申すぞあの冠者(若造)め、それ天地開け始めてより以来、天は父、地は母、親の恩を蒙り、庄司(長田忠致)が申す事を直に背くは、奇怪(けしからん)成り。
 惣じてあの長田先生景致めを見れば、なかなか腹も立つ、まかり立つと言うままに、居たる所をづんと立ち、簾中深く行ったるは、とかふ申に及ばれず。
 あら無残や長田先生景致は、父に叱られ常の所に立ち入り、つくづく案じける様は、親の命を背かじとて、主(源義朝)に弓矢を引くならば、八逆罪の罪たるべし、主と一所に成り申し父に弓矢を討つならば五逆罪の罪たるべし。
 しかし、ただ鬠(もとゆい)を切って様を変え、辛いこの世を避けたいものだと思い、年十七と申すには、みどりのたふさをおしきりて、刀と共に西へ投げ、つたのふち笈(おい)肩にかけ、心と衣を墨に染め、遁世(出家)修行に出たりし、かの長田先生景致を見し人の誉めぬ人こそなかりけれ。

5 長田忠致の裏切り
 その後、長田忠致残る子供を近付け、実に長田先生景致めは遁世したるとな、さて汝らは長田先生景致に同ずべきか、父の義に従うべきか、早々返事を申せ。
 子供承り、ともかくも御計らいの悪しく(間違い)は、よもお仕え申し上げる候はじと申す、長田忠致、聞いて打ち笑、かように申すも汝らを世にあらせんが為ぞかし。
 先ず婿の鎌田兵衛正清をば、三男長田先生景致の諫言を一部受け入れ、山海の珍物を取り替え、取り替え酒を強いよ、酔うたらん所を見て、酌にたったる者が、持ちたる酒を投げかけ、ひるんだ所を素手と組め、一間所に上手く兵を隠し置き折合って討つべし。
 童の渋屋金王丸(こんのうまる)をば、内海の沖に大網をおろし、網の奉行に事寄せて、内海にて討つべし、主人の源義朝をば、この庄司(長田忠致)めに任せよ。
 先に渋屋金王丸を謀りてこそと言うままに、蔀戸の本の塵とらせ、若き女を使いにて渋屋金王丸を招する。
 渋屋金王丸そうなく来る、長田忠致、急ぎ立ち出で、三献盃過ぎて後、如何に渋屋金王丸殿を万事頼み申すべき事の候が、但し頼まれ給わんならば申すべし。
 渋屋金王丸聞いて、何事と仰せ候べき、長田忠致の大事たるべきは、一命を成りともしんずべし。
 長田忠致聞いて打ち笑、それまでも候らわず、我が君(源義朝)のこれまでの御下向を一期の面目、優曇花(三千年に一度その花の咲くときは転輪聖王が出現するという)し存じ、蓬莱を絡組み、君を祝い申さんため、蓬莱の下組には、魚と鹿がいる事にて候ほどに、五人の子供をば、三河の国あすけの山へ鹿狩りにこし候いぬ。
 また、内海の沖に大網を下ろして候が、奉行に、はたと事を欠いて候、若き時の遊びに漁獲と申して苦しからぬ事なれば、奉行に立って絶えがしと、うちとけ顔にて謀りける。

6 渋屋金王丸の怒り
 渋屋金王丸(長田の決意を悟り)あえて聞く、やがて腹こそ立ったりけれ、長なる髪をからわ(唐子髷)に、きっと別けたるが、ふるふると解いて(怒りを顕にし)大童にぞなったける。
 ここに喩(たとえ)あり、奨噲(はんかい、中国三国志に登場する前漢の武将)勇みをなせば、髪、兜の鉢を追い抜く、これにはいかで勝るべき。
 何時も離さず持ちいたりし、四尺三寸の角鍔の打物、鍔元二三寸くつろげ(緩め)、長田忠致をはったと睨んで、何とさふ長田忠致、君(源義朝)を大事に思い申さばこふんなりとも出ましきか、さなくば、りんたん隣郷に、傍輩(仲間)共も在りこそ、するらめなと酔い寄せていたさぬぞ。
 陽明(平安京南門)持賢(東門)郁芳(北)門、泊り泊り鬨々にて合戦に骨折り、物具に肩引かせ下って三日も過ぎ去るに、網の奉行に立てとそうや、鴉(からす)の子が白くなって、駒に角のおいんほど、待ち候へよ庄司(長田忠致)、定めて上に申さるべし。
 太刀取り縄取りさだまて、打って切って捨てらるるとも、全く渋屋金王丸いつましひ、見れば中々腹も立つ罷(まか)り立つと言うままに、銚子、土器蹴散らし、外の出居まで躍り出し、かの渋屋金王丸の勢いは如何なる天魔疫神も面を向くべきようぞなき。
 さる間、長田忠致は渋屋金王丸に脅され、震い震い座敷を立ち、頭殿(源義朝)の御前に参り、何と物をば申さずして、ただ、さめざめと泣く。
 源義朝御覧有て、これは如何に長田忠致は何事を嘆くぞ。
 さん候、別の子細にて候わず、我が君(源義朝)のこれまでの御下郷を、一期の面目、優曇花(三千年に一度その花の咲くという)と存じ、当生はやる蓬莱を絡組み、君を祝い申さんため、蓬莱の下組には、魚と鹿がいる事にて候ほどに、五人の子供をば家の子郎ら差し添え、三河の国あすけの山へ鹿狩りに越そうらへぬ。
 又内海の沖に大網を下ろして候が、奉行にはたと事を聞いて候ほどに、御内の渋屋金王丸を頼んで候らへば、奉行にこそは立たさらめ、その上年老いたる庄司(長田忠致)めを散々に悪口せられ申す、強面(こわもて)命存へ、これまで参りて候とて、はらはらと泣く。
 源義朝聞いて、しめされて實々それはさぞ有らん、自体、あの渋屋金王丸は物狂わしき者にて、我言う事をさえ五度に三度は背く者、ましてや、そなたが申さん事に、いかで承引すべきぞ。
 よしよし庄司(長田忠致)、腹いて帰れ、奉行には、いた候するにて有ぞとて、長田忠致を帰させ給いて後、渋屋金王丸を召さるる。
 渋屋金王丸承り、このように庄司(長田忠致)が訴訟申した小細由々しき御事と心得、御前に畏(かしこま)る、源義朝御覧ありて、荒けなくは宣うて、やあ何とて汝は違うたるぞ、都よりこの国まで、長田忠致頼み下る身が、山ならば須彌山、海ならば滄海よりもなお頼もしう候に、一旦違う事有ともなと承引をさせざるべき、その上、漁獲とやらんは若き時の遊びにて、苦しからぬ事ぞとよ、奉行に立って魚を取り、庄司(長田忠致)の心を慰めよ。
 渋屋金王丸承り、謹んで言しけるは、さん候、それ全く奉行に出ましきにても候わぬか、長田忠致の今の振る舞いを見候に、君(源義朝)に心変わるを申し、五人の子供をば、狩倉に事寄せ、催促回し勢揃え、我が君(源義朝)を討ち申さんずる巧みを巡らすと見て候を、御存知なくて、かように君(源義朝)は仰せられ候よのう。
 源義朝聞し召されて、よしよしとても力なし、長田忠致が心変わるならば、一所に有っても何かせん、若も忠臣たるべくは、後の恨みを如何かせん、ただ出で魚を取り庄司(長田忠致)が心を慰めよ。
 渋屋金王丸承り、あかんは君の御諚にて、御受けを申して御前をまかり立つが、君(源義朝)も聞し召せと声高らかに、人は運命尽きぬれば、智恵の鐘もかき曇り、才覚の花も散り果てる、郎党が謀るを御存じなきこと口惜しき。
 かようにかきく時、一間所へつつと入り、肌には唐紅引きちがえ、重目結いの直垂の上下四つの括(くく)りをゆるゆるとよせさせ、黒糸縅の大鎧、草摺り長にざつくと着、総じて刀は三腰差す、四尺三寸の角鍔の打物、三尺五寸の太刀を重ねばきに佩き、四尺八寸の長刀をひき杖に着いて、
 頭殿(源義朝)の御前に参り、東俗の前後の夕煙、昨日も昇り今日も立つ、(中国の王侯墓地として名高い)北邙朝露の幻は後れ前立世のならい、若内海にて討たれずば、参りてお目にかからんと、涙と共に立ちい出る。
 源義朝御覧じて、いまはしし(不吉だ)渋屋金王丸、首途(かどで)祝えとの給いて、白酒をぞ下されける。

7 渋屋金王丸を討たんとす
 御暇申して渋屋金王丸は、内海の沖へ出にけり、契りはあれど山鳥の尾を隔つるがごとくなり。
 さても内海には、組手の人数を定るに、先一番に片岡十郎、野組小栗を先として、宗旨大力十六人、大舟八艘催し、上に歩みの板を渡し、渋屋金王丸を乗せ、沖を差して漕ぎ出し、ここにも魚はなきぞ、かしこにも魚は無きかと、彼方此方と目を見合わせ渋屋金王丸を討たんとする。
 渋屋金王丸元より存知のこと、ちっとも騒ぐ気配もなく、持ったりし長刀にて、舟底をどうどうと突き鳴らし、何とぞ面々は夕日茜に傾き給うに縄手をばとらずして、良しともすればそれがしに口をかくるこそ不審なれ。
 ああ、やがて心得たり、汝らの主の長田忠致、君(源義朝)に心変わりを申し、それがしをこの沖にて討たんとする、その功を巡らすと覚えたり。
 思い内に有れば色外に現るる、天知る地知る我知る人知る、間近く寄って叶うまじ、先ず長刀の切手(手法)には、籠む手、薙の手、開く手、八方さびしき長刀の手を使うものならば、ああ算木を乱したように討たるべし。
 長刀折れ砕けば、二振りの太刀をもって散々に切るべし、太刀の柄折れ砕けば、三腰の刀を抜き替え抜き替え、取って引き寄せ、差し殺して、底の水屑となすべきなり。
 運命つき果て、太刀も刀も折れ砕けば、汝ら手首を取って、五人も十人も左右の脇にかひこふて、海底につつと入り、五日も十日も底にて日を送るならば、汝らが命は止まるべし。
 間近く寄って叶うまじいと、船舳を駆けり廻れば、内海を出し時には、渋屋金王丸ならば我組まん誰組まんとは勇みしかと、これ勢いに恐れつつ舟底せかいにひれ伏して、震いわななきいたりけるは、こと可笑しゅうぞ見えにけり、これは内海の物語。

8 鎌田兵衛正清の死
 ここに、物の哀れを留めしは、鎌田兵衛正清なり、 宵までは御前(源義朝)に謹んで御機嫌伺に申し、宮使い参らせ夜の更ける頃にお暇給わり、廊の屋に立ち帰り、弥陀石、弥陀若の二人の若の有りけるを左右の膝に置き、後ろの髪を掻きなでて、涙を流し申しけるは。
鎌田兵衛正清、都にて度々合戦にすそろに命の惜しかりつるも、ただ汝らが有ゆえなり、いつか汝ら成人し、父が供を仕り、はちある矢をも一筋射る、その折柄を見るならば、如何は嬉しかるべきと、明暮これを願いしに。
 思いの外に引き替えて、君(源義朝)落人となり給えば、御供申して鎌田兵衛正清も、討たれん事は治定なり。
 さあらん時に汝等は、三河の真福寺の院主の御坊に深く契約申すなり、院主の御坊に参りつつ、小経の一巻をも、良きに学して鎌田兵衛正清の無からん跡を問へやとて、包むに余るその涙、余所の袂も濡れぬべし。
 廊の御方(鎌田兵衛正清の妻、長田忠致の娘)は御覧じて、これは未だ正月三日も過ぎざるに、御身は宣ぞと、いひもあへぬに、舅の長田忠致、組手数多用意し、鎌田兵衛正清殿や、まします物申さんと有しかば、鎌田兵衛正清舅の声と聞き、これに候とて太刀おつ取り出んとする。
 廊の御方は御覧じて、袂を取ってひっ留め、慌てたり鎌田兵衛正清殿、騒いで見えさせ給う物かな、今日ここの習いにて、親は子を謀れば、子は親にたてをつく。
 しかも御身は落人にて、萬に心を置くべき身が、明まじき夜にて持て成し、今夜を明かし給いて夜明けて御出でましませや、鎌田兵衛正清殿とぞ留めける。
 鎌田兵衛正清聞いて、いつよりも、親(むつま)しげなる風情にて、立ち帰り打ち笑ひ、なう何故にそのように留め給いぞよ、召さるるは御身の父、鎌田兵衛正清が為には舅なり、居ながら返事を申さんは、不覚の至りとぞんずるなり。
 やがて帰らん、さらばとて名残りの袂引き裂けて、長田忠致と連れてぞ出にける、これが最後の別とは、後にぞ思い知られたる。
 その後、三男長田先生景致が提唱していたように、山海の珍物、国土の菓子を整え、色を変えてはと三度盛、風情を変えては五度、七度、盃の数も重なれば、さしもに剛き鎌田兵衛正清も次第、次第に閃(ひらめ)いたり。
 長田忠致これを見て、ああ、時分は良いぞと思い、帳台へつつと入り、貝を一つ取出し微塵さっと打ち払い、にっこと笑って申しよう、如何にのう鎌田兵衛正清殿、この間の御疲れ思いやられて痛しうぞう、子供数多候ひぬ。
 庄司(長田忠致)もかくて候へば、何かは苦しく候へき、ただ打ち解けてお遊びあれ、貝の身に取っては、山田郷と申して三百町の処の候を鎌田兵衛正清殿に奉る、庄司(長田忠致)も(酒を)三度給わるなり、御身も三度参れとて、婿の鎌田兵衛正清に思いさす。
 さる間、鎌田兵衛正清、舅の飲んだる盃に所領を添えて得さするうえ、いづくに心の置かるべき、さし受け、さし受け飲むほどに、微塵積もりて山となり、砂長して岩となる、盃の数も重なれば、左手の座敷が右へ回り、右手の座敷が左へ回って、天井の大床がひらりくるりと回いければ、後ろの障子に寄り添いて、とろりとろりと眠りけり。
 酌に立ったるともやなき、持ったる酒を投げかけ、押し並べて素手と組む、鎌田兵衛正清元より剛の者、察したりと言うままに、友柳の腕を取って、膝の下にひつしひたり。
 長田忠致これを見て、居たる所をづんと立って、鎌田兵衛正清の腕を取って、後ろへひとおりつくる、鎌田兵衛正清これを見て、情けなし長田忠致、さように、はせらるまじいと、長田忠致をかい掴んで、取って引き寄せたりけれども、いかがはもって逃すべき。
 隠しおき兵が、隙(すき)をあらせず折り合いて一刀づつと思えども、十三刀刺されて、樊噲(中国の武将はんかい)と勇む鎌田兵衛正清も弱々と成って、かっぱと伏す、あら無残や鎌田兵衛正清、最後の言うぞ哀れなる。
 されば弓取りの持つまじきものは国を隔つる妻子なり、親の起こす謀反を何とかは知らで有るべきぞ、たとえ縁こそ作るとも、二人の若が有るなれば何故最期をば知らせんぞや、七の子話すとも女に心許すなと申し伝えて候。
 妻子珍宝及王位、臨命終時不随者(妻子、珍宝、王位も、臨終の時には、その人に従って来るものではない)。
 実にも思えば仇なり、子は三界の首枷(親は子に対する愛情に引かされて束縛されてしまうのだ)今こそ思い知られたり、三界の首枷(くびかせ)かと煩悩のきずなに引かれつつ不覚の死をするものかな、南無阿弥陀仏、弥陀仏とこれを最後の言葉にて朝の露と消えにけり、鎌田兵衛正清の最後の躰推し量られて哀れなり。

9 鎌田兵衛正清妻子の死
 さすがに長田忠致も不憫に思い、夜明けて首を取らんとて、空しき死骸に衣引き覆い、各々立ち去った、ああら、いたわしやの廊の御方(鎌田兵衛正清の妻)これをば夢にも知らず、小夜更けていき、人も静まり、兄弟の人々も皆々帰らせ給うか。
 不思議や妻は、鎌田兵衛正清が何故か遅く見えさせたまうらんと、薄絹取って髪に掛け、とうらうまわり、まこ廂(ひさし)を通る時、人に忍びたる声にて、鎌田兵衛正清殿やまします、鎌田兵衛正清と呼びけれど、宵に討たれたる事なれば、夜更けて呼ぶに音もせず。
 四間の出居を見てあれば、灯り少かきたて、あたりに人一人衣引っ掛け伏せてり、討たれたるとは思いもよらず、酔い伏したるぞと思い、するすると寄って、のう御身は鎌田兵衛正清殿にてましますか、左様に酒に酔い給いては、しぜん我が君残せんに、何として立たせ給うべき。
 起きさせ給えと言うままに、衣引き除けて見てれば、紅に身をぞ染めにける、余りの事の悲しさに、死骸にかばと打ち掛かりしばし消え入り給いけり。
 少し心を取り直し、さこぞ最後に自らを怨みさせ給いつらん、夢にも自ら知らんなり、我をば誰に預け置き、捨ては何処へ行きやらん、我をも連れて行けやとて、最後に抜かぬ刀を抜き、すでに自害と見えけるが。
 待て、しばし我が心、明日にもなるならば、無残や二人の若共は、父母が行脚を知らずして、父よ母よと呼ぶならば、邪険の祖父伯父にて、鵜鷹の餌を打つように討たせ給わん無残さよ。
 同じ道へと思い切り、また、廊の屋に立ち帰り二人の若を見給えば、兄が手をば弟に掛け、弟の手をば兄に掛け余念ものうて臥せにけり。
 廊の御方は御覧じて、二人の若をかき抱き、父鎌田兵衛正清の伏したりし前後にとうと下ろし置き、如何に二人の若共よ、祖父伯父のこの仕業を見よ。
 情けなやの事やとて、泣く涙こがれなき給へば、二人の若も諸共に伏し沈みてぞ泣きにける、さて、有るべきにてあらざれば、如何に聞くか兄弟よ、かく恨めしき浮世に存へてあらんより、父諸共に討ち連れて閻魔の庁にて母を待てよと語りつつ。
 兄弥陀石を引き寄せて右の肘のかかりを二刀害して押し伏する、弟がこれを見て、あら恐ろしの母上や、我をば許し給えとて、居たる所をづんと立ち、さらば余所へも行かずして、殺すべき母にすがり付く。
 いとど心は消ゆれ(正気が亡くなる)ども、目をふさぎ思い切り心基を一刀、あっとばかりを最後にて、兄弟の若共を三刀に害しつつ、我が身は肌の守りより朱辺の数珠を取出し、西に向かって手を合わせ、より一層女は生まれつき備えている五障(女性は梵天王、帝釈天、魔王、転輪聖王、仏陀になることができない)三従(幼時父母に従い、少時夫に従い、老時子に従う)に選ばれて罪の深いと承る。
 弓矢にかかる自らを助け給えや神仏、南無阿弥陀仏を最後にて刀を口にくわえつつ、鎌田兵衛正清の死骸に打ち掛かり朝の露と消えにけり、廊の御方の最後の躰哀れと言うもあまりあり。

10 長田忠致の妻の自害
 あらいたわしや廊の御方の母上は、これをば夢にも知ろしめされず、鎌田兵衛正清討たれると聞し召し、さこそ廊の御方が嘆くらん、辛らばはやと思し召し、廊の屋に立ち寄り呼べと答える者もなし。
 さては、鎌田兵衛正清が討たれ居る所に有りぞと思し召し、四間の出るを見給えば、廊の御方、二人の若、皆々赤に染み、同じ枕に伏して有り。
 母この由を御覧じて、のう、これは夢かや現かや、さりながら道理なり、ことわりや何に命の惜しからん、子よりも孫はいと不思議に花の様なる若共を先に立て、齢傾く自らが一人後に残りなば、太山かくれの遅桜、梢の花は散り果てて、下枝に一房残りて嵐を待つに似たるべし、我おも連れて行けやとて、母も自害を遂げ給う。
 平治二年正月の二日の夜の事なるに、鎌田兵衛正清を始め、父子五人水の泡とぞ消えにける。
 天(空)明ければ長田忠致は、鎌田兵衛正清の首を取らんとて、四間の出居を見て有れば、我が女房を先として、皆々赤に染み同じ枕に伏して有り。
 さしも情けなき長田忠致、とは申せども心弱り遁世するか腹を切るか、如何はせんと思うが、いやいや身より出せる罪なれば、誰を指してか怨みんと、心の内に存ずれば、ああら、果報なの者共が成りたる有様や。
 長田忠致が世に出るならば、果報の妻女は如何程も有るべきに、南無三宝阿弥陀仏とへんしゅの念仏を申し、鎌田兵衛正清の首を取ったるは、とかふ申すにおよばれず。 

11 源義朝討たれる
 その後、源義朝の御前に参り、今日は三ケ日の御嘉例(めでたい先例)、八幡宮へ御社参る有べき候、田上(たがみ)の湯殿と申して子細なき所の候へば、御出有りて御行水と申す。
 源義朝、聞し召されて、先祖の郎等ならずば誰かが様振る舞うべき、構えて長田忠致弓矢の冥加(幸運)、七代まで安穏なれやとの給いて、御重代(先祖代々伝わる)御創御腰物、長田忠致に預け給うは、御運の尽きる所なり。
 かくて源義朝、湯殿の内へ入り給う、宵より定めし事なれば、都合二百余騎にて、湯殿を二重三十重におっとり巻いて鬨をどっと上げる、源義朝、聞し召されて、心変わりか長田忠致。
 さん候、都より討手の参りて候に御自害あれと申す、源義朝、聞し召されて、長田忠致の事は兼ねてより思い設けつる事。
 情けなし鎌田兵衛正清、たとえ舅と一所になり、我に代わるとも三代相思の主になど最期を走らせぬぞや、如何にえい長田忠致、刀参らせよ自害せん、承ると申して、刀に鎌田兵衛正清の首を添え湯殿の内へ参らせ上る。
 源義朝、鎌田兵衛正清の首を御膝の上にかきのせ給いて、ああら、儚(はか)なの只今の恨み事や、我より先に立ちけるぞや、死出の山にて待つよへひ三途の川で追いつかん、腰の刀をするりと抜き。
 左の脇にかばと立て右へきりりと引き回し、返す刀を取り直し、心基に刺し立てて、袴の着きはへ押し下ろし臓を掴んでくり出し、四方の壁に投げつけ、湯船にて御手をすすぎ西に向かって手を合わせ。
 何とて源義朝死なれぬぞ、さる事有や父源為義、天台山(比叡山)月輪の御坊に深く忍びておわせしを謀(たばか)り出し申して、御首を斬り申す、その因果たちまち報うて死なれぬ事は口惜し。
 如何にへひ長田忠致、急ぎ参りて首を取れ、長田忠致そうなく参りえず、長刀にて差し参らせ、おつおつ御首賜わり、知多の郡で討たれ給うただ人間の因縁は巡るに早きものであり、かくて、長田忠致は源義朝の御首をも安々と給わりぬ、今は渋屋金王丸の首を遅しと待つる。

12 渋屋金王丸大暴れ
 さても、渋屋金王丸は内海の沖に在りけるが、例ならず胸騒ぎ頻(しき)りなるは、何事か君(源義朝)にましますらんと、じれったく存ずれば舟を寄せよと下知をする、力及ばぬ次第とて、左右なく(ためらいなく)舟を差し寄する。
 渋屋金王丸ゆらりと飛んで下り、暇申して面々とて、五十町の所なるを揉(も)みにもうてぞ走りける、ここに鎌田兵衛正清が召使し下女一人走り向かい、のう御身は何処え行ってましますぞ、鎌田兵衛正清殿は夕べ討たれ給いぬ、君(源義朝)は只今、田上(たがみ)の湯殿にて御腹召され候いぬ。
 今は御身の首を遅しと待たせ給うに、何処えも一先忍ばせ(隠れ)給えと申す、渋屋金王丸、聞きあえず、涙をはらはらと流し、だから、それがしが申しつる事を御承引なくして討たれさせ給いて候や。
 さては、鎌田兵衛正清は御心変わりを申さざりけるや、おう最もこうこそ有べけれ、定めて長田忠致は我館にはよも在らじ、君(源義朝)の御最後の所、田上(たがみ)の湯にぞ有らん。
 それがしが討たれん事を一定と心得、討遂げたらん所へつつと行き、長田忠致の首を討落とし、受けた恩や払われた労力などに対し、ふさわしいお返しをせんと心の内に存ずれば、田上の心かけてゆらりゆらりとあかりけり。
 長田忠致これを見て、すはや渋屋金王丸か、内海にて討ち漏らされ、ここまで来たったるは、余すな漏らすなとて、真ん中に取り囲まる、渋屋金王丸これを見て、面白し長田忠致、そなたは猛勢なり、我は只一人参りぞうと言うままに大勢の中に割って入り、散々に斬りたりけり。
 さる間、長田忠致叶うべきようあらざれば、我が館を差して、揉(も)みにもうで逃げにけり、渋屋金王丸これを見てどこまでもと言うままに長田忠致めがけて走りけり。
 去る間、長田忠致、我が館へつつと入り、堀の橋を引いて、四方の城戸をちょうと打つ、渋屋金王丸これを見て、あら、物々しげらのたけりと言うままに、三重の堀をば、ひらりひらりと跳ね越して。
 八尺築地の有けるに手を駆けるこそ遅かりけれ、かけすゆらりと跳ね越え、中門めんろう遠侍(当番侍の詰所)、長田忠致を追って走りしは荒鷹が戸やを潜(くぐ)ってキジを追うるがごとくなり。
 さる間、長田忠致、妻戸(両開きの板戸)よりもつっと抜け行方知らずになりにけり。
 渋屋金王丸これを見て、力及ばぬ次第とて、また、取って返して大勢の中へ割って入り、西から東、北から南と周囲の敵と切り結んで暴れ回り、蜘蛛手(四方八方)、結果(かくなわ、太刀を縦横に振り回し)、十文字、八つ花形(八方向への太刀遣い)というものに散々に斬ったりけり。
 手元に進む兵を五十三騎切り伏せ、大勢に手追わせ、東西へはつと追い散らし、海の渡りを左右なくし都を差して上りける、渋屋金王丸が心中をば、貴賤上下押し並べ、感ぜぬ人はなかりけり。

《参考》
 幸若舞「堀川夜討」に、土佐正尊(昌俊)は心を剛に知恵深し、彼を義経の討手として京へ御上らせあれとの注進に、頼朝聞し召されて、そういえば、こんな事が有ったな、この者十九の年、未だ金王丸と有りし時、父源義朝が平治の乱で敗れた時に御伴を申し、尾張の内海にあった長田忠致の館にて浴室で討たれた御最後の戦いに、長田忠致の子供等その数人を滅ぼし、そこにても討たれずし(幸若舞「鎌田」)。
 その後、渋屋金王丸は京紫野にいる常盤御前(義経を抱かえていた)の元に注進に訪れ、平清盛の許しを得て長田忠致の首を取る。
 土佐正尊(昌俊)は、頼朝の命で京堀川の義経館を襲撃するが失敗し義経に捕まり六条河原で首を切られた。
 渋屋金王丸は長刀の使い手である、この長刀は現在も渋谷区の金王八幡宮の宝物に「毒蛇長刀」として収蔵されている。


「幸若舞の歴史」


「越前幸若舞(年表)」

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桃井直常(太平記の武将)1307-1367