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《内容概略》
1 牛若丸からの便り
さる間、牛若殿は、十六歳の春のころ、鞍馬寺を御出あり。
平家を討伐の為に、吉次の太刀を担いで奥州へ下らせ給う。
栄華を極める奥州、平泉の藤原秀衡の館へ程なく着かせ給う。
秀衡、館で対面中、誠に源氏の御大将と生まれをなして給いたる、若者にて御座ありけると、格別に喜んで、秀衡父子の契約を申し、手厚くもてなし奉る。
一方、都に居わします母の常盤御前は、牛若殿の行方を見失い、悲しみに沈みんでいた。
牛若丸との再会を願い、石清水八幡宮へ御参りあって、十七日参籠するとともに、清水寺観音へ参らせ給い、南無や大慈大悲の観世音、願わくば、我が子牛若丸の行方を知らせ給へと祈誓深く申される。
それより(京都市北区)紫野の御所へ帰り、明かし暮らさせ給ひける程に、八月半ばの事なるに、奥州より上りける商人の便りに、牛若殿の御文なりとて捧げければ、近習の女房取次ぎ参らせ上がる。
常盤、開いて御覧ぜらるるに、何何。
牛若こそ奥州へ罷(まか)り下る、何事も心に任せ候、明年の夏の頃に必ずまかり上り、
御目にかかり候べし、母御台様へ、牛若丸。
とぞ書かれける。
常盤これよし御覧じて、これ見給えや女房達、我が子のあると思いなば、千里を行くとも遠からず、いざ奥州へ下りなん。
乳母の侍従承って、これより奥州へは雪深こうして難所なれば、冬に向いて叶い候まじ、春にもなって候わば、花見がてらに事寄せて御下向あらば、自らも御伴せんと言いければ。
常盤聞こしめして、ともかくも侍従が計らいぞと仰せあって、百年を暮す心地して明かし暮らさせ給う。
2 常葉御前奥州への旅立
すでにその年も打ち暮、二月半ばの事なるに、何時までかくてありあうべき、いざ下らんと宣いて、旅の出立ちをぞし給いける。
常盤御前の出立には、十二単の御絹の褄を手でつまんで持ち上げ、褐色のすね巻にあい皮の足袋をめし、やつちの糸の藁沓を履き市女笠にて顔隠し乳母も急げと宣いて、さに立ってぞ出させ給う。
乳母の侍従出立には、くちばの五重かさねに、やつちの糸の草鞋を履き、市女笠を手にかけ、紫野(京都)の古御所を夜を籠めて御出あり。
花の都を立出で、賀茂川、白川うち渡り、人を尋ぬる門出には栗田口こそ嬉しけれ。
四の宮(天孫神社)、川原袖の森、闢の明神伏拝み、早く大津に着き給う、粟津、松本うち過ぎて、山田や初瀬の渡し舟、漕行路は白波や、石山寺を伏拝み、瀬田の中橋を駒もととろと打ち過ぎて。
のち篠原の宿過ぎて曇りかからぬ鏡山、中の土橋うち渡り、湖水の舟を愛知川や小野の細道焦がれ来て、すり針山に上がりつつ。都の方を眺めれば、比叡山はかすかにて、遠かりし伊吹の岳は近くなる、番場と聞けば春風も身に染みて吹く我が心。
夢路ならねと醒ヶ井の、地水に写るかけ見れば誰も老いせは矢瀬の川、今津河原柏原、丈比べを過ぎければ、彼方此方の見当も知らぬ山中の宿(美濃国)にも早く着き給う。
3 常葉御前山中の宿に逗留
あらいたわしや常葉御前は、この間の旅の疲れに風邪の心地との給いて、やがて内臥させ給う。
乳母の侍従見参らせ、こは如何にし奉らんと十二単の御絹と、その外色々の小袖を着せ申す。四十五日逗留し良きにいたわり奉る。
かの山中の宿と申すは、屈強の盗人の住まいする在所なり。彼らが名こそおかしけれ、天火稲妻はたたがみ、せめ口の六郎、今津の与太郎、余川の十郎とて屈強の盗人の六人までこそ候らいけれ。
彼ら一所に集まって言う様は、この程は暇ありん酒盛りせんと言うままに、遊君どもをすえ並べ、打つたり舞うたり口上に、上なき者の遊びとて合うどめいて酒をぞ飲むだりける。
かかりける所に、せめ口の六郎が宿を廻って帰りしが、いかに面々聞き給え、此の宿のはずれに、京下りと思しくて、さも美しき上臈のお宿を召されてましますが、色々の小袖に風邪をひかせ病いてあり、いざ押し寄せて盗らんと言う。
4 常葉御前の最後
野党の者の不当さは、もっともと同じで夜半ばかりの事なるに、常盤のお宿へ押し寄せ中の亭へ乱れ入り、十二単の御絹と乳母の侍従の小袖まで、ことごとく奪い取る。
常盤これよし御覧じて御声を挙げ給い、情けなや武士も物の哀れは知るぞかし、何にて肌上を隠すべきぞ、小袖一つ得させよと、さも声高に宣えば。
せめ口の六郎がこれ由を聞くよりも、憎き女の高声やと立ち帰り刀を抜き、いたわしや常葉御前雪の肌上を刺し通す。
乳母の侍従も悲しやな、助け給えと抱きつく、汝も共に行けやとて二刀刺して押し伏せて、行方も知らずなりにけり。
あらいたわしや常葉御前かすかなる御声を挙げ、旅の者の成りゆく果てを見てたび給え人々よ。
宿の太夫この由承って、あわや野党が入りたるぞと心得、松明に火をたて、中の亭を見てあれば、あらいたわしや二人の人々は赤に染めておわします。
よくよく見奉れば一人は事終わり、今一人主人と思しきは未だ終わらせ給わねば、急ぎ抱き起し奉る。
さもあれ御身は如何なる人にてましませば、お供人の一人連れられて、此の宿まで御出あって我らに憂き目を見せ給うぞ、さて御名は無きかと尋ね申せば。
あらいたわしや常葉御前、細蟹の糸より細い御声を挙げ、今は何をか隠すべき大和源氏の大将に宇田の藤次が娘常盤とは自らなり。
義朝に契りを込め三人の若をもうけて候ぞや。
三男に当たりたる牛若丸、十六歳の春の頃、行方も知らずうしなりしが、奥州に在と聞く余りの事のゆかしさに、是なる乳母を伴としてこの宿まで下しが、恋しき子には合いもせず空しくならん悲しさよ。
如何に太夫頼むなり、黒木の数珠とびんの髪、肌の周りを取り揃え、太夫に是を預けおく、もし牛若が縁とて尋ねる者のあるならば、形見に是を見せてたへ。
さて自らの死骸をば、道の辺りに土葬つき印を植えてたび給え。
それを如何にと申すに、恋しきわが子の牛若が都に上ることあらば、草の影にて見んずるなり。
子を悲しめる屋家の軒、来すも子ゆへに身をば焦がすらん、梁の燕も子ゆえ小蛇の餌となる。
そのごとく自らも子ゆえ空しくなるなれば、恨みとさらに思わずや、気失せんに係る自らを助け給えや神仏、南無阿弥陀仏と最後にて御年積もり四十三、朝の露と消え給う。
見る人聞く者押し並べて哀れを問わぬ人ぞ無き。
太夫これ由見参らせ今は嘆きても戒の有らばこそ、御遺言にまかせ道の辺りに土葬に突き籠め奉り。
これは無縁の旅の人の卒塔婆なり、上下の人々念仏廻向あれと札を書いてぞ建てにける。
5 牛若丸母を迎えに都へ
さても、奥州にまします牛若殿、この程は母の姿が暮は夢に見え、おくればみにそう心地して、さも物哀れに見えさせ給う。
心もとなく思し召し藤原秀衡に日数の暇を乞い給う。
秀衡承って御上洛ましまさば、御供人を申し付けんと申す。
牛若殿聞し召し、これは思いもよらず、忍びて上洛の事なれば、ただ一人と仰せあって秀衡の館を出でさせ給い。
急がせ給いける程に、美濃の国に聞こえたる赤坂の宿に程なく着かせ給う。
かの赤坂の宿より、山中の宿へはその間三里を隔てたり、唯一夜を隔てつつ、母に対面なき事は無念至極の次第なリ。
すでにその夜も明けければ、赤坂の宿を御立ちあり、山中の宿に着かせ給う。
道の辺りを見給えば、新しき卒塔婆あり、立ち寄りご覧ありければ、これは無縁の旅の人の卒塔婆なり、上下の人々は念仏回向あれと札を書いてぞ建てにける。
牛若殿は御覧じて人の上とも思わねば、通らはばやと思し召し、五の巻きのたいば品、高らかにぞ遊ばしける。
この御経の功力によって、一切の衆生ことごとく、無常菩提と回向あり。
何とやらん若君の塚の辺りの哀れさに、落ちる涙に目隠れて、文字の習いも見もわかず、例え如何なる人なりとも、この御経の功力により、九品の上品上生 (極楽浄土の生まれ変わり) へ迎え取らせ給えやと、塚の前にて牛若殿、とかくの時刻ましまして、その日も既に暮にけり。
6 牛若丸の枕元に立つ母
あらいたわしや牛若殿、門並こそ大きに、夕べ常盤の討たれさせ給いたる一つ所に御泊りある。
前世の気縁朽ちもせん親子の契り哀れなり。
あらいたわしや常葉御前、魂(陽)は冥途に赴けば、魄(陰)は憂き世に留まって、乳母の侍従供として、牛若子の枕神に立寄せ給う。
如何に牛若、珍しや、遥々と思い立ちこの宿まで上るものなり、自らも余りに汝がゆかしさに、これなる乳母を伴として、この宿まで下りしが、夕方野党どもの手に掛り空しくなりて候ぞ、自らが供養には如何にもしてかの野党供を討てたて。
道のわずらい無かりせば、如何なる功徳にも勝りなん。
けさ汝、廟所へ来たりし時、無垢ならばひしひしと、取付けばやとは思いしが、応召の雲に隔てられ、親の姿、子の行方をも互いに知らざる悲しさに、黒木の数珠とびんの髪、肌の周りを取り揃え、宿の太夫に預け置く、形見に取りて御覧ぜよ。
誰を見んとて牛若は遥々都へ上るぞや、起きよ起きよと宣えば。
牛若夢ともわきまえず、かっぱと起きて母上にすがり付かんとし給えば、幻のそのままに夢は破れて覚めにる。
あらいたわしや牛若殿かっぱと起きさせ給い、ぼうぜんと飽きれて御座ありしが、宿の太夫を召され事の様を御尋ねありければ、太夫承ってさん候、この四十五日が先ほどに京下ると思しくて、さも美しき上臈のお宿を召されてましますが、なんぼう哀れなる事御座候。
野党どもが打ち入りて御小袖を奪い取り刺すども身をも絶ち間違いし申して候。
我ら夫婦急ぎ参る事の様を見申して候えば、あらいたわしや二人の人々、開けにぞ見てぞ居はします。
よくよく見奉れば、一人は事切れん、今一人主人と思しきは未だ終わらせ給はねば、急ぎ抱き起し奉り、さても上臈は如何なる人にてましませば。
この宿まで御下向あって、我らに憂き目を見せ給いぞ、さて御名は無きかと尋ね申せば。
あらいたわしや息の下よりも、我は常盤と言う者也、頼朝に契りを込め三人の若をもうけて候が、三男に当たる牛若丸十六の春の頃、行儀も知らず失いしが、奥州に在ると聞く。
余りの事のゆかしさに、是なる乳母を伴として、この宿まで下りしが、恋しき子には合いもせで、空しくならん悲しさよ。
黒木の数珠とびんの髪、肌の守りを取り揃え、太夫に是を預け置く、もしも牛若が縁とて尋ねる者の有るならば、形見に是を参らせよとの、御遺言にてそのまま空しくなり給いて候、どれほど不憫なる事にては御座候わぬか。
牛若丸は聞し召し、あれこれ御返事もなく御涙を流し、やがて打つ伏しに臥させ給う。
太夫これ由見参らせ御嘆きの顔、よそ人ならずに見申して御座候、もし牛若殿縁にても御座候わば、御名乗り候へとて、数の形見を取りい出し、これこれ御覧候へとて牛若殿に参らせ上がる。
牛若殿は御覧じて、これは夢かや現かや、今に何をかはばかるべき、これこそ牛若丸にて候へ。
神とまほりは知らねども、黒木の数珠は、母上の朝夕持たせ給いたる御数珠なり。これ偽と思わねば、胸に当て顔に当て激しく泣かれ給いけり、ややありて牛若殿、落ちる涙を押しとどめ、あらいたわしや母御台様。
紫野(京都)に御座有りし時、奥州へ下るべきよし申しければ、常盤、聞こし召されて、何と申すぞ牛若丸、賢女の法を背き、敵の妻になびく事も、ただ汝らが有る故なり、まこと其の義にあるならば、我をも連れて下れやとて、様々に留め給いしを、避けられないように申しなし。
紫野を立ち出しが、思えばそれが最後なり、今日よりして母上とも誰をか拝み申すべき。
父義朝の御事は二歳の年に離るれば、夢とも更にわきまへず今までの様にある事も、ただ母上の御恩ぞかし、さては牛若は親不孝の者やとて、激しく泣き焦がれ泣き給へば、あるじ夫婦も泣きにけり。
牛若殿の御涙を物によくよく例えれば、しょうようきゅうが春雨の降るやの軒の玉水もかくやと思い知られたり。
7 牛若丸の仇討ち
その後、牛若殿、宿の太夫を召され、嘆きても解のあらばこそ、どのようにしてでも野党どもを、謀り寄せ討たばやと思うは、さて如何せんと仰せければ、
太夫承って、これは御諚とも覚えず候、かの野党と申すは一人ならず二人ならず屈強の盗人の六人までこそ候いけれ、君はただ一人いかでか叶わせ給うべき、時節を御待ち候へ若君とぞ申しける。
女房がこれを聞き、愚かなリ太夫殿、上臈様の御為に何に命の惜かるべき、自ら頼まれ申すべし、御心安く思し召せ、のお旅の殿とぞ申しける。
牛若斜めに思し召し、さらば座敷を飾るべし。
承りと申して、柄太皮籠を取りい出し、中の亭をぞ飾りける。
その後に牛若殿、賢も武者の直垂召し、宿を廻らせ給い、如何にや宿の面々、奥大名の御着き有るがお宿を知らいで尋ぬるなり、教えてたべとぞ仰せける。
その後に牛若殿、召使に変装をし、御刀引っさげ、宿を廻らせ給いて、如何にや宿の面々、奥大名の御着きる御宿は何処で候と、触れて通らせ給いけり。
その後に牛若殿、強力に変装し、蓑笠にて御身をまとい、宿を廻らせ給いて、如何にや宿の面々、奥大名の御着き有るが馬のぬかはら買わんと言い。
親の敵を討たんため、様々に変装し山中の宿をば触れて通らせ給いけり。
その後、かの野党ども一つ所に合って申しけるは、夕方の宿にこそ奥大名の着かせ給うと思しくて、柄太皮籠を取りい出し、中に出居に積んだるは、ただ宝の山の如し、いざや押し寄せて盗らんと言う。
野党の武士たうさは、最もと動じて、夜半ばかりの事なるに、物の具ひしひしと固め、松明に火をたて太夫の宿へ押し寄せ、表の門を討破り中の亭に乱入、ここかしこを見るに人一人も無かりけり。
辺りを見れば、童一人臥して在り。
如何にやこれなる童、汝が主は何処に臥してあるぞ、宝は何処に積んだるぞ、ありのままに申せ、包む風情のあるならば、やがて斬って捨てんと言う。
牛若殿は聞し召し、のお、それまでも候わず、我らが主殿は向かいの宿に臥させ給いて候。
宝は奥の間に、積ませて候、六人の盗人どもを奥の間へ教えやり、何処にか持た給いけん。
御刀をばひん抜いて、せめ口の六郎の膝の口をづむと斬り、のっけに返す所を細首中に打落とし、ああ朝の露にとぞ消えにける。
残る五人の盗人どもが、これ由を見るよりも、牛若殿を真ん中に取り込め申す、火水になれと舞うたりける。
牛若殿は御覧じて、好む所と思し召し、踊り上がり飛びさかり、てうてうと斬って御覧ずれば、三人の盗人は、あう六つになりてぞ転びける。
残り二人の盗人これ由を見るよりも、叶わじとや思いけん。
中のでいへにけけるを、牛若付いて追いかけ、この所にてぞむぐわをふるまふなり。
よくよく思い知らせんと追い詰め追い詰め斬り給えば、六人の盗人どもを一つ所に斬り止め給う、牛若殿の嬉しさを何に例えん方もなし。
宿の太夫も物の俱し長刀持ってぞ参りける。
牛若殿は御覧じて、思う仇は斬り止めたるぞ、死骸を隠せと仰せけり。
承ってと申して、夜の間に淵へぞ沈めける。
その時は、御曹司十八の事なり。
二十一と申すに十万余騎を卆し、討って上らせ給いしに、美濃の国に聞こえたる、山中の宿に着き、常盤の廟所へ参り供養ましまして、宿の太夫を召しだし、山中三百町を太にこそ与えにけり。
ただ人は情け在れば人の為ならず、終わりにはそのみのととなる程につけても女房の情け故とぞ聞こえける。
その後御曹司討って上らせ給いて、天下を治め給いけり。
《参考》
舞曲の正統派を称する越前幸若系では「山中常盤」は語らず、大頭系のみにある曲とされている。
舞曲正統派の越前幸若系が「山中常盤」を語らなかったのは、それなりに賢明であった、それは既に舞曲の人気曲となっている「烏帽子折」との抵触を避けるためであったと思われる。
「烏帽子折」で東下りの吉次一行を襲う熊坂長範は三百七十人の手下を従えた賊徒の張本であり、敵役とはいえ大衆に愛されるキャラクターを備えている。
一方「山中常盤」では、旅の女の衣装を奪いで殺す卑劣残忍な盗賊どもである。
群衆を同化せしめる登場人物の性格を重視する舞曲の語り手は、人気曲「烏帽子折」の重要人物熊坂長範に傷のつく合体作業には同調しなかったのであろう。
しかし大頭系では大衆に人気のある「山中常盤」の語り物を演目に取り入れた。
(内山美樹子「山中常盤の原型と舞曲」から)