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1 頼朝が伊豆に流されるまでを語る
安元元年(1176)神無月の頃、奥野(伊豆)の狩場にて、河津の三郎(祐泰は、父祐親と同族の工藤祐経が伊東荘を巡る所領争いになり、その時の恨みで工藤祐経の家僮八万三郎に前急所を射られ落馬して絶命した)討たれし時、五つや三つの若(君)有りしを、 (その後、この若君の母と再婚した) 曾我の太郎祐延が養育し、(若君の内)兄の一満十一歳、弟の箱王九つの年(の時)、もの憂き(ゆううつな)事こそ候(そうら)いけれ。
((曾我の太郎祐延は、相模国曾我庄本貫とし石橋山の合戦では平家方として参戦するが源頼朝の厚免にて本領を安堵され以後御家人となる))
それを如何にと申すに、東(関東)八カ国の大名小名、(源)頼朝の御前にて御物語(一連のお話)の次いでに、頼朝仰せける様は、天下において頼朝にまして果報(幸せ)の者は候わじ。
それを如何にと申すに、保元の合戦(1156年)に(頼朝の)祖父為義を始め一門皆討死し、中一年あって、父義朝(が)、悪右衛門(平清盛)の督(かみ、長官)に語らはれ(巧みに利用され)、その軍(1160年の平治の乱を起こし平清盛)にかけ負け(騎馬合戦に打ち負かされ)東国差して落ち給ふ。
((源氏の棟梁父義朝は、保元の乱では平清盛と共に後白河側に与して活躍し勝利を収めるが、崇徳天皇側に付いた父源為義をはじめ主だった一族のほとんどを失う、続いて清盛の留守を狙って平治の乱を起こすのであるが結局熊野より帰京した清盛に敗れ近江国を経て東国へ逃れる途中尾張国内海荘で長田忠到によって従者の鎌田政清と共に殺害され首は京にさらされた。長田忠到は鎌田政清の舅にあたる))
その時(に落武者として私)頼朝も(父に)御伴申して候いしが、暗さは闇し(闇夜で)雪は降る、西近江(の)下がり松の辺りに手負い(浅傷を負っており)遅れ奉り(父達との列に遅れ離れてしまい)。
ただ一人、龍華(りゅうげ)の闇(京大原から堅田龍華をへて琵琶湖に向かう峠道)に迷いしに、(落人狩をしていた延暦寺の坊主)横川法師の大将、大屋のちうきと言いし者、後よりも追っかけ既に難儀に及びし(時)に。
北近江伊吹の麓(にて)、草野の庄司(定康)に助けられ、彼が宿所(住居)に(て)年を越し、今はかふ(換え)よと思いしに。
(父)義朝は長田(忠致)を頼み給へども(尾張の国まで落ち延びたが、そこで長田に裏切られ)、頼む木底に雨漏り(頼みにしていた当てが外れ長田忠致に)闇々と(あっけなく)討たれさせ給い。
御頸(首は京へ)上り獄門に掛らせ給う由を聞く、せめて変わらせ給いたる御姿を成りとも見参らせ、なおも命の有るならば様をも変えて御菩提を問い参らせんと、思い忍びて京へ上りし(時)に(上る途中美濃国)今須河原という所にて(平家方)弥平兵衛(平宗清、池の禅尼の侍で禅尼の子平頼盛が尾張守となった折に目代として任地に下り)に生捕られ、(京の)六波羅(平家一門の住居地)へ渡され、討たるべきにて有りしを(平清盛に討ち取られる所を)、池の尼公(池の禅尼、清盛の義母)に助けられ。
北条(伊豆の北条氏の本拠地)、蛭が小島に流され(流刑)、(平清盛の信頼厚い平家方の)伊東(入道祐親と)北条(時政の)両人に守護せられ(監視され)、春秋を送り迎えて(一年)過ごし時、伊東の入道祐近(曽我兄弟の祖父)に辛く当たられ給いつる。
其の時の心には(何時かはきっと)、あわれ伊豆を従え(征服し)、野心の(敵対)者を滅ぼし思い知らせばやと、明け暮れ仏神に祈誓申せし験(しるし)にや(今では)日本を集めて知るのみならず、四海(天下)を太平に致す事ひれ然しながら、君のため身のため武略(軍事上の駆け引き)の功に若(しく)はなし(及ぶものはない)と仰せられたりければ。
御前(に並び)成し人々も、実に実に由々しき御果報(幸せ)やと同音(等しく)に感じ申される。
((伊東祐親は、伊豆の河津庄を領し河津二郎と称した、のちに伊東庄も領し平氏に仕え,伊豆に流された源頼朝を監視するうち自分の娘が頼朝と通じたため頼朝を討とうとしたが果せなかった。治承4年、富士川の戦いで頼朝に敗れ捕えられ、女婿三浦義澄に預けられたが自殺した。曾我兄弟の仇討ちの発端となるこの祐親の子河津祐泰(曽我兄弟の父)を工藤祐経が所領争いで殺害したのには頼朝による報復としての性格(祐経への協力)があった可能性が指摘されている))
2 工藤祐経の諌言
係りける所に(我が身への仇討ちを恐れる)工藤一郎祐経、(頼朝様の前へ)進み出て申しけるは、今こそ幼少に候ども、末の世に野心(敵意)を存ずべき者一二人(頼朝殿の)御膝の下に(居)候と申す。
((工藤一郎祐経は、以前に平重盛に仕え左衛門尉となり、頼朝に仕えてからは鶴岡八幡宮で静御前が舞いを演じた時に鼓を奏じている))
頼朝聞し召されて、さて(敵意の者)それは如何なる者ぞ(工藤)祐経。
さん候(左様でございます)一年誅せられ申したる、(それは)伊東が孫で河津が(三郎祐泰の)子、一満・箱王とて二人の者の候を、(今は養父)曾我の太郎祐延が養育仕りたる由を申す。
頼朝、聞し召されて、曾我の太郎祐延は、左様に不忠(敵意)はあらじとこそ思い候へ。
これを如何にと申すに、頼朝が代を取りたる初めより深き忠の候へば、随分この方々をば頼もしく思いしに、頼朝が末の代の敵とならん事こそ奇つく怪(わい)なれ(気付かされた)。
急ぎ彼らを召し上(のぼ)せよ(捕まえよ)、誰かあるとの御諚なり。
(工藤)祐経また申しけるは、誰々と申すども、(捕縛の使者として)梶原の源太景末ぞ候らん(がよろしいかと申す)。
急ぎ源太(景末)を召され、如何に(梶原)景末、伊東が(入道祐親の)孫(で)河津祐泰が子、一満・箱王とて二人の者の候を、曾我の太郎祐延が養育し、成人するを待つと聞く。
急ぎ彼らを召し参らせ(捕まえて)、運気を刎(は)ねて捨つ(処刑す)べし、早得々との御諚なり。
梶原(源太景末)承り、あら浅ましやとは存ずれども、主命ならば背えず、かしこまって候とて、(頼朝様の)御前をまかり立ち、駒(馬)引き寄せて打ち乗り、曾我の里にも着きしかば、(曾我の太郎)祐延の宿所に立ち寄り。
3 曽我兄弟の養父曾我祐延の嘆き
君(頼朝様)よりの御使いに源太が参りて候(そうろう)と、高らかに言いければ。
(曾我)祐延急ぎ立ち出で、(梶原源太)景末に対面し、さて君(頼朝様)よりの御使いは何の為にて候ぞ。
源太(景末)聞いて、別の子細にて候わず、御子息達を召しのぼらせ、御対面あるべしとの御諚(御命令)にて候、まだ幼少の人々に御罪科すは候まじい、早得々と言いければ。
(曾我の太郎)祐延聞き給い、とかく返事も無かりけり。
秋を送る老葉は風無きに散り、愁(うれい)を催す涙は、問わざるにまず落つる。
(曾我)祐延の心の内、推し量られて哀れなリ、良有て申されけるは哀れげに、世の中に子に縁なき者を尋ぬるに、(我れ)祐延にて留めたり。
それを如何にと申すに、幼き者を二人持って候らいしが、いどけなくて慕なくなる、彼らが母は、別れを悲しみ幾程なくて空しくなる(死んでしまう)。
妻の別れ子供の嘆き一方ならぬ思い共に、(曾我)祐延も遁世修行(世をのがれて仏道修行する)と思い立って候ところに。
(思い振り返って見れば、曽我兄弟の祖父である)伊東入道祐親、常に来たり、なにかしを慰め物語の次に承れば、曾我殿は妻子に離れたまふと聞く、何某が孫、一万・箱王とて兄弟の候、彼らを養子にしたまいて、母諸共に置き給へと、再三(頼まれ)申され候ほどに。
さすが浮世もいとわれねば、彼らを養育仕り、早七年の春秋を送れば成人程も成し、一満生年十一歳、箱王今は九つなり、身の老衰をも顧みず、成人するを待ちたるは別の為か恨めしや。
げにも仇の末なれば、君の仰せは理や(しかたがない)、されども曾我祐延、君(頼朝様)のため今まで不忠をいたさねば、若(君達)もや助け給わんと奉公たてを申さるる。
4 梶原と曾我が頼朝を救う
如何に(梶原)景末、(今こそ曾我祐延が)頼朝の御代を召されたる始め(平家方から源氏方頼朝様に仕える事となった時の話)を語って聞かせ申さん。
(かって、)石橋山の合戦(の時)に、御身(あなた)の父の梶原景時(も当時、平家方大庭景親の配下だった)こう申す。
((梶原景時は石橋山の合戦に際し一族の大庭景親と共に平氏側に属して頼朝軍を打ち破るが、密かに頼朝に厚意を寄せ逃走した頼朝の在所を知りながら故意に見逃し窮地を救った))
曾我祐延も平家方にて(共に)向かいしに、源氏勢を見渡せば、ただ蟷蜋(かまきり)が自ずから櫓(やぐら)の勢をたなびきて、雲かすみの如くの平家の勢を防ぎ給うぞ哀れなる。
昔が今に至るまで多勢に無勢叶わねば、源氏は合戦に掛け負けて、真鶴が浦(神奈川)に、引く波の頼朝(は)、味方に遅れ給い伏木(倒れ木)の中を頼みつつ御身を忍ばせ(身を隠し)給いしは、御代の(運の)開けん始めなり。
その時、梶原景時、曾我祐延心を合わせ(平家を裏切)申しよう、これ私の儀に非ず、先祖の為の孝行なリ。
いざや訪ね申さんと、伏木の中を見てあれば、御物具(鎧)の金物白く見える所を、弓のくくり(筈)を取り延べ木の葉を厚く掃きかけ、さらぬていにて(素知らぬ様子で)居たりしに、続く兵怪しみ、かたらい依れば二人(は)、伏木の上に上がりとうとうと踏み鳴らし、そも何者か今までこの木の洞(ほら)には有るべきぞ、怪しき様に宣は、いかさま(梶原)景時、(曾我)祐延に心を置かせ給うかと、とかく陳する(弁解する)所に正八幡(宮)の誓いかや、この木の洞(ほら)よりも鳩一番(つがい)発ち出で、虚空(青空)を差して飛んで行く。
その時、二人は力を得、あれ見給へや方々、人の有らんず木の洞(ほら)に、今まで鳩の有べきか、仇はかふこそ落ちつらん。
疾(とく)追続けや人々と、大勢の兵を筋なき方(違う方向)へ教えやり、君(頼朝様)を引き立て(助け)奉り。
(頼朝は洞窟に隠れ逃げ、その後、箱根神社別当の弟求実に救出されている)
(頼朝様はこの時の)真鶴が浦までお供申せし志し、やはかは忘れ給うべき。
その時、頼朝我が世に出る物ならば、命の恩を忘れじと、返し返しも宣いし、たとひ犯す咎(とが、罪)有となどかは御免ならざらん、御身(あなた)の父の(梶原)景時にこの夏語り給いて、訴訟(嘆願)叶えて下さり給へ。
(梶原)景末、聞いて、それがしも存知の事にて候。父諸共に(頼朝様の)御前にてよく様に申すべく候、御心安く思し召せと言いければ。
5 曽我兄弟の母の嘆き
(曾我)祐延聞いてあら嬉しや候、さりながら母に知らせ候はんと、簾(れんの)中に立ち入りこの由かくと申されければ、母は夢ともわきまえず、頓(やが)て消え入り給いけり。
河津殿(工藤祐経に殺害された元夫の河津祐泰)に離れ申せしその時は、露の(はかない)命も惜しからず消え失せばやと思いしが、兄弟(の若共)に目がくれ(行く末を案じ目の前が真っ暗になる)、今また係る身とあれば。
何時か彼ら成人し、(今の夫曾我)祐延の頼りにもなりもやせんと、仏神に祈誓申せし験(しるし)もなく、今更かかる思いをせんと知らずやと、兄弟の若共を弓手妻手(左右)の膝に置き、後れの髪を掻きなでて。
如何に二人の若共よ、祖父伊東(入道祐親の頼朝様へ)の科(とが、罪)により鎌倉殿(頼朝様)へ召し上(のぼ)せ殺されるべきに有ぞとよ、何とて君(頼朝様)には、か程まで深き敵おば成しつらん。
さて若共を先に立て自らは何と成すべきと、泣涕(泣く涙)こがれ給いければ、二人の若も諸共に泣くより外の事なし。
(梶原)源太、物越しより(物を隔てて)申しけるは、御嘆きを承り涙にむせびて候、さりながら是は御使いの身にて候ほどに、早得々(急いで)と言いければ。
母上聞し召し、実に実に御道理にて御座候、別の悲しさにこそ、かように申して候へ、今は力に及ばず(どうしょうも出来ない)と二人の子供を出立せ、供の者ども、いつよりも、きらびやか(立派に)にこしらえ、父諸共に打ち連れて鎌倉へ行くぞ哀れなる。
いたわしや母上は有りにあらねぬ心にて中門まで出させ給い、兄弟の者共が行つる方を見給えば、
雲行客の跡を埋み、面影だにも残らねば(旅人はすでに山のかなたに去り、わき上がる雲がその跡を埋めてしまいました、和漢朗詠集から引用)、思いの外に別れ行く、霧(かすみ)に迷える雁金の鳴く音も我を訪(とぶら)うか(尋ねるか)。
よしなや今は思わじと常の所に立ち帰り、彼らが住まいし所の障子を開けて見給うに、常に手なれしもてあそび(玩弄)、小弓に竹馬作り太刀、作り刀の何時の間に、早形見とは成りたるや、
いたわしや母上は、責めて思いの余りにや、女房たちを近付けて、語り慰み給うよう。
叶わぬ浮世(惨めで苦労の多いこの世)の有様を嘆くべきにはあらぬども、一大教主(仏)の釈迦如来も子には迷いの親の闇(親の心は闇にあらねども子を思う道に迷う)、らごいちょうし(羅睺為長子、仏の嫡子羅睺羅)と説き給う。
ましてや申さん人間は、数多持ちたる子をだにも、一人に後れば皆に別るる心地あり、我は類(たぐふ、連れ添う)も撫子(なでしこ、愛児)の、二人が中に若し独り、如何なる事もあるならば、何と成るお(鳴尾を掛け)の一つ松(一本松)たぐい如何にと思いしに(源俊頼「あすよりは恋いしくならば鳴尾なる松の根ごとに思いおこさむ」から引用)、彼らに別れて母一人、思い焦がれて生きて世も、明日まで命長らえじ、この夕暮れに音信(おとつれ)の、聞かまほしやと宣いて、衣引き被(かづ)き打ち伏して泣涕焦がれ給いけり。
6 曽我兄弟を鎌倉へ連行
さても(曾我)祐延、屠(と)所の羊のあゆみ(刻一刻と死地に近付いて行くたとえ)、隙(ひま)行く駒(白馬が隙を通り過ぎるように月日のはやく過ぎ去ってしまう事)のおのずから、急がぬ旅と思えども、其の日の酉の刻に、早鎌倉に着きにけり。
その夜は梶原の宿所に留まり、二人の子供を左右に置き終夜介錯し(世話をし)、定め無き世を案ずるに、実に実に心に任せぬ別れの道と思いきる。
親子の契りも今日までと、合う時よりも定まりぬ、嘆くは迷いの梵夫(愚か者)なり、悟りすなわち仏にて、会うも嬉しかるまじ、別れも如何うかるべきと、思い切ってまします所に。
(梶原源太)景末申しけるは、のう如何に曾我殿、それがし御前にて事の子細を申し共、このまま御免は候まじ、御対面候わば、取り合いよく様に申すべきにて候、とく出立せ給えとねんごろに(手厚く)言いければ、兄弟これ由聞くよりも、幼き心にも最後とや思いけん。
互いに目と目を見合わせて、泣くより外の事はなし、泣かぬも親は悲しきに、まして彼らが躰を見て、父が心は掻き暮れて覚えず落ちる涙かな。
かくて有るべき事ならねば、(梶原源太)景末御前に参る。
頼朝御覧合って、あれは如何景末、何とて昨日は帰らんぞ、彼らは如何にと仰せければ、召し俱し(召し捕え)て参りたる由を申す。
時刻移して叶うまじ、由比の汀(みぎは、浜)へと引き据え、頸を切って捨つべきなり、早得々と仰せければ、景末重ねて申すべき様の有らずして、我が宿所にぞ帰りける。
いたわしや(曾我)祐延、二人の子供に宣う様、祐延、過去に咎ありと、実子ならねば世も向くわじ、伊東、河津の罪科も、今養育を受けざれば何の報いが有るべきぞ、ただ願わくは神仏守り給いて兄弟を助けてたばせ(下され)給えと、祈念も未だ終わらぬに、早(源太)景末は帰りけり。
(曾我)祐延急ぎ立ち出で、上意(君主の命令)は如何にと問い給えば、源太涙にむせびつつ、とかく返事も無かりけり、やや(しばらく)有て申しけるは、あら口惜しや(くやしく残念)候、せめて御対面も候はば、よその訴訟も頼むべきに、このまま由比の汀へ御伴し、首を切って参らせよ、若君様(頼朝と伊東佑親三女との間に出来、殺された千鶴御前)の御心の孝養に報ぜんとの御諚にて候と、申しもあえぬ所に。
また(も)御使ぞ立にける、曾我の一満・箱王丸をとくとく切って参らせよ、時刻移らば(源太)景末も、同じ罪科たるべしと重ねて御諚(御言葉)候(そうろう)と、語り捨ててぞ帰りける。
曾我も源太も兄弟も余りの事に肝も消え(大きな恐怖に襲われ)胸ふさがりて声出でず。
実に実に、栴檀(せんだん)はニ葉より香うばし(白檀(びやくだん)は発芽の頃からすでに香気を放っている様に大成する人は幼児期より優れた才能を発揮しているたとえ)。
鷲という鳥は(気性の激しさから)小さけれど、虎を取る徳あり(力がある)。
彼らはいどけなけれども儀による命をかろんじ、後名を家に伝えんと嘆く気色もなかりけり。
兄弟申しける様は、如何に候、父御前急ぎ乗り物給わり、由比の汀へ出るべきなり。
もしやの頼み有るにこそ、しばしもかくて有りたけれ、又(も)御使いの立つならば(源太)景末の御為しかるべきも候まじい、とても叶わぬ物ゆえに、構えて嘆かせ給うなよ父御前と、言いければ。
曾我(祐延)は子供に諌められ、輿差し寄せて兄弟乗せ、由比の汀へ出けるが、落ちる涙に目がくれて道も定かに見もわかず、しどろもどろと(よろよろと)歩みけり。
鎌倉うちの貴賤上下、曾我の一満・箱王丸の最後の躰の哀れさよと袖を絞らぬ(泣かない)人ぞ無き。
7 養父、兄弟に因果を含ませる
かくて浜に着きしかば、(刑場の)敷革敷かせ、輿より降り今が最後にて候か、斬られて後に我々は如何なる所へ行くべきぞ、教えてたばせ(下され)給へ、父御前と言いければ。
また幼少の者共が、最後を知らぬ哀れさよと、涙をぞ流しける。
(曾我)祐延さし寄って宣いけるは、今が最後よ兄弟、斬られて後に汝らは、祖父伊東の入道、父河津の三郎と(極楽浄土で同じ)一つ蓮(の花の上に)に生るべし、必ず死して行く者は仏の御前に参るなり、先初七日は泰広(しんこう)王、本地は不動明王なり。二十七日は初江王、本地は釈迦にておわします。三十七日は宋帝王、本地は大聖文殊なり。四十七日は、伍官王、本地は普賢菩薩なり。五十七日は閻魔王、本地は地蔵菩薩なり。六十七日は変成王、本地は弥勒菩薩なり。七十七日は太(泰)山王、本地は薬師如来なり。百ヶ日は平等王、本地は観世音。一周忌は都市王、本地は勢至菩薩なり。第三年は五道転輪王、本地は阿弥陀如来なり。七年忌は阿閦(あしゅく)仏、十三年は大日如来、三十三年は虚空蔵菩薩なり。
かくの如くの仏達、諸の悲願をおこし衆生を済度(救う、迷っている衆生を導き悟りの世界安楽の境地に至ら)し給えり。
幼ければ汝らは、作る罪の無きにより、係る仏の御前へ参るべき事どもは、疑い定めて有るまじい、構えて不覚(油断して失敗)に見ゆるなと、さも高声に宣えども、見れば余りの不便(気の毒)さに、人目も更にはばからず不覚(思わず知らず)の涙を流さるる。
かように時刻を移す所に、一つの喜び候いけり、三浦の吉盛(和田義盛)、宇都宮の友縄(宇都宮左衛門尉朝綱)、千葉の介常種(常胤)、この人々を先として東八カ国の大名小名、訴訟(嘆願)の為に連れ参り申すなり。
源太殿も曾我殿も、粗忽(そこつ、軽はずみ)に斬らせ給うなと、使いを立てさせ給い、各、御前にお参り有り申し上げられけるようは、曾我の一満・箱王を誅せらるる(罪人として殺される)由承る。
まだ幼少の者共に何ほどの事の候べき、助け御置き候へかしと各々申されたりければ。
頼朝、聞し召されて、誠に面々の日頃の忠節いつの世に忘れ候べき。
さりながら、皆々存知の如く伊藤の入道助親に、辛く当たられ候いつる、その時の心には、彼ら程の者をば千人切っても飽くべきか、さては面々は伊藤(入道助親)に頼朝を思い替えさせ給うか、口惜しさよと仰せければ、列参の人々も重ねて申すべき様の有らずして、皆々館に帰らせ給う。
(曾我)祐延この事を汀にて伝え聞き、さては如何様の人の御申せ成りとも、叶うまじいと思われければ、草の陰なる(伊東の入道)祐親に恨み事をぞせられける。
金は砂に交われども、朽ちる事の候か(黄金が変質せぬように武士の名誉も朽ちる事は無い)、君(頼朝様)は正しき清和(源氏)の流れ、一旦落ちぶれ給うども、末に頼みをかけ申し、不忠の心無かりせば、係る憂き目(辛い目)に世も合わじ。
北条殿は君のため不忠の心無きにより、君(頼朝様)を婿に取り給い、今は子孫も富み栄え肩を並ぶる人も無し。羨ましの北条や、あら恨めしの(伊東入道)祐親やと、過ぎし昔を恨みしは果かなかりける次第かな。
さて有るべきにて有らざれば、早よ斬り給へ源太殿。
8 畠山、曽我兄弟の刑を知る
さてさて母が方へは、何とも申しまじきかと、涙と共に宣えば。
兄弟これよし聞くよりも、さん候(左様にございます)、心に掛る事とては、齢(よわい)かたむき(年を取り)おわします母御を先にたて参らせ、御跡をもと日参らせんと思いしに、思いの外に(子供が)先立ち、後にて物を思わせ申さんこそ、黄泉路(冥途への道)の障り(妨げ)と成るべけれ。
さりながら、今こそか様にありども、来世(次の世)にては一つ蓮とやらんに、生まれ合い申すべし。
叶わぬ事をさのみに嘆かせ給い候なと、母上の御心をも慰め給え父御前とおとなしやかに(振る舞い)言いければ、貴賤群集の人々も皆涙をぞ流しける。
さて有るべきに有らざれば、早斬り給へ。
(源太)景末、念仏申せ兄弟と、ねんごろに進むれば、いどけなき声を挙げ南無阿弥陀仏弥陀仏と十辺ばかり唱うれば、源太景末も思い切り太刀取り上げ抜き持ちて歩み寄りて見てあれば、何処に刀を打ちかけて切べき様の非ずして(斬れなくて)元の座敷に直りけり。
(曾我)祐延御覧じて、のう何とて(どうして)斬らせ給わぬぞ。
さん候(左様でございます)一定斬り損じつべう候(損じるに違いない)、何某が内に吉内兵衛と申して不敵(高慢で大胆な)の者の(居り)候、此方へ参り兄弟の太刀取り申せとて、傍らよりも呼び出す。
(曾我)祐延見給いて、何某が子にて候を、御内の人の手に掛け切れとの仰せは口惜しし(悔しく存念)、
何までも候わず、それがしが手をかけ黄泉路(冥途への道)を軽くすべきなり、嬉しいか一満、座敷に直れ箱王と捨てたる太刀を取り上げ、歩み寄らせ給えば。
我を(討ち)取らじと手を合わせ、父に切られん嬉しさやと、兄なれば一満先にとぞ進みける。
箱王は、我を先ずとくとくと斬らせ給えとて、左右の袂に取り付いて、睦ましげ成る有様を、何に例えん方も無し。
係る哀れを催す所に、又喜びぞ候らいける。
秩父の畠山重忠は、筋替橋の(自宅)館を出で、浜表を見給えば貴賤群集をなす、何事にやと問い給えば、曾我の一満・箱王丸を誅せらるる(罪人として殺される)と申す。
これは兼ねても聞いつる事、源太殿も曾我殿も粗忽に(むやみに)斬らせ給うなと、使いを立てさせ給い、御身は御前にお参りあり申し上げられける様は。
ただ今出仕申すとて、浜表を見て候らえば、貴賤群集をなす、何事にやとたずねて候えば、曾我の一満・箱王丸を誅せらるる由承る、まだ幼少の者共に、何程の事の候べき、助け御置き候て、何某に御預け候へ、彼ら成人仕り、若も不忠を存ぜば何某か手に掛け首を切って参らすべし。
9 頼朝、伊東入道祐親への恨みを語る
この度の命を御助け候はば、時の面目たるべき由申し上げさせ給えば。
頼朝、聞し召されて、のう如何に(畠山)重忠、かようの事を申さねば、ただ頼朝が僻(ひが、ひがみ)言と思い給わんずる程に語って聞かせ申すべし。
頼朝流人たりし時、北条蛭が小島に流され、伊東、北条両人に守護(監視)せられ二十一年の春秋を送り向かえて過ごし時。
伊東(入道祐親)が娘(三女の八重姫)に言い交し配所(流刑に処せられた場所)の憂きをなぐさめぬ、かくて日数を降る程に若(子供)を一人設けつつ嬉しさたぐい候わず、構えて果報目出度き正八幡(神)の加護有りて、家を興し名を挙げて、天下の主と仰せかれよと、斎(いつき)かし付き(大事に保護され)日を送る。
掛りつける所に伊東の入道祐親は、三年の大番(宮廷警固)勤め(終え)て都より下りしが、早この事を聞き付け、誰が計らいに頼朝をば婿に取りて有りけるぞ。
平家(への聞こえを恐れ)の御恩をこの間、雨山(地名雨山に掛け点や山の高い所から)に被り、妻子を扶養し身を立てて人となり(伊東入道)祐親が世に無しものを、婿に取り孫を設くるものならば老の苦患に縄かかり、憂き目を見んこそ悲しけれど、娘をば取り返し山木判官(平兼隆の)婿に取り、三歳に成し(我が子)若をば伊東(入道助親)が滝に沈め(殺)しは、情けなかりし次第なリ。
やがて頼朝をも討つべきに有しを、伊東の九郎(入道祐親の次男)が情けにて命ばかりは、とにかくに長らへけるぞ不思議なる(伊東祐清の烏帽子折である北条時政の邸に頼朝を逃がせた)。
恥じの上の嘆き、嘆きの恥辱をば筆にもいかで尽くすべき。
その時の心には、衰える伊豆を従え野心の者を滅ぼし、思い知らせばやと明け暮れ仏神に祈誓申せししるしにや、日本国の主となり(伊東の娘をめとった)山木・伊東(入道祐親)を亡ぼし、会稽(かいけい)の恥(中国故事、他人から受けたひどい屈辱)をすすぐなり。
((「史記」に、越(えつ)の国の王の勾践(こうせん)は呉(ご)の国との戦いに負け、会稽山(かいけいざん)に逃げた、そして、自分は呉の王の夫差(ふさ)の家臣になるということで、恥をしのんで生きのびた後、越の国に帰った勾践は、動物の苦い胆(きも)をなめて、会稽での恥を忘れず、呉の王に復讐しようと心に決めたという故事))
されば古き言葉にも、毒虫をば脳(なづき)を割って髄を取り(災いの種は元から断て)、敵藤(党、一族郎党)をば根を断って葉を枯らせと申す事の候ぞ。
彼ら(曽我兄弟)は正しき伊東の孫、この世に助けて置かさん事、虎の子を野に放し、龍に水を与うるに似たるべし(そのことが後になって更に大きな災いを起こす原因となる)。
よく聞き給え(畠山)重忠、自余(それ以外)の事にて候はば何かは背き申すべき、此の事においては思いもよらぬ事なるべし、時刻移して叶うまじいぞ、早とく斬れとぞ仰せける。
(畠山)重忠、重ねて申し上げられける様は、御諚(御言葉)を委(くわ)しく承り涙にむせびて候。
人間不定の習いにて、早き報いを存ぜず、不忠を致す伊東こそ返す返すも口惜しう候へ、されば因果たちまち歴然たり、御物語の次でに、因果の物語を語って聞かせ申すべし。
今、三生(前世・現世・後世)が先かとよ、天竺(インド)拘尸那国(ぐじなこく)に陵(れう)王と申す帝一人居わします、これ隠れなき悪王たり。
かの国にいんねん法師と申して賢人の候が、非道の勅を背くとて親子三人誅せらるる(罪人として殺される)、今度はいんねん法師、大唐の秦のゆう王に生まれ変わり給う。
さて、天竺の陵(れう)王は、大唐のごめいしこうと申す、民の奴(治められている人民)に生まれ変わり、秦のゆう王に斬られ給う。
これ先(前)生(前の世)の報いにて、逃れかねたる往事(過去の事件)成り、さればかようの因果に(頼朝が生ませた)若君様もあへなく空しく成らせ給いぬ。
さて、三生(前生・現生・後生)は、沈淪す(落ちぶれ果てる)、なおこの念を捨て給はて、因果を顧みたまはずは互いに討つ、討たれつ、生々世々(未来永劫)に尽きすまじ。
哀れこのもの兄弟を御助け候いて、供に生死を離るべき便りとならせ給えかし、如何に如何にと申さるれど、とかく返事もましまさず。
ややあって(しばらくして)、宣いけるは、今明(朝)よりも(関東)八カ国の人々の訴訟(嘆願)有つるをも用い候わず、ただこの事をば頼朝に許させ給えと仰せあり、左右(そう)なく(どちらとも決まらないまま)用いたまわず。
10 畠山重忠の必死の嘆願
(畠山)重忠、承り、あら口惜しの(残念なる)御諚(御言葉)や候、今明(朝)よりも(関東)八カ国の人々の訴訟(嘆願)ありつるその跡(後)に、(畠山)重忠が参り無用(不必用)の訴訟(嘆願)申しかかり叶はで帰るものならば、秩父の(畠山)家の不覚(油断失敗)、末の世とても面目なし、君は征夷将軍にて理非(正と邪)を正し、国を守り給う身が、これ程の訴訟(嘆願)をなど(何故)や叶えてたび(下され)給わぬぞ。
祖父、伊東(入道祐親)は過ぎし事、まだ幼少の者を、これ程までの御罪科すは、有るまじき事にて候、何まで候わず、係る訴訟を申さんと思い立って候事、秩父妙見大菩薩(秩父神社)に放され申し。
この度一門の運の極まる処なるべし、彼らを斬らせ給わば御前にて腹切って、幼き兄弟の左右の手を引いて、死出三途(死出の山と三途の川)を引き渡し阿鼻大城(無間地獄)の底にある、祖父伊藤の入道と父河津を呼び出し、二人の子供を手渡しし、古傍輩(昔の仲間)の徴(しるし)にせん。
如何に(重忠の郎等)本田(次郎近常)、半沢(榛沢六郎成清)よ、浜に下って兄弟の最後の躰を見て参れ
暇申して我が君と刀の柄に手をかけて、思い切られし有様を物によくよく例えれば、漢の高祖の戦いに、項羽(秦代の武将が)合戦に掛け負け、咸陽(かんよう)の陣を外し、呂馬童(りょはどう)を招けども仇を恐れて近づかねば、我と剣を抜持ち我が頸をかき切り仇に渡す勢いも、今(畠山)重忠の有様もいかでか劣り勝るべき。
((「史記」では、漢軍の総大将は劉邦、対する楚軍は項羽、楚軍は敗れ防塁に籠ると漢軍は幾重にも包囲した、夜、項羽と愛妾虞美人は四方の漢の陣からの故郷楚の歌を聞き漢軍は既に楚を占領したと驚き嘆いた、この故事を四面楚歌と言う。項羽は残る兵を連れ囲みを破って南へ向かった、数千の漢軍に追い付かれ、項羽一人で漢兵数百人を殺したが、自身も傷を負い項羽は漢軍に旧知の呂馬童がいるのを見て、漢は私の首に千金と一万邑の領地をかけていると聞く、旧知のお前にその恩賞をくれてやろうと言い、自ら首をはねて死んだ。項羽の死によって楚漢戦争は終結し、劉邦は天下を統一し前後約400年続く漢王朝の基を開いた))
頼朝仰せけるは、あら不請(気に入らない)の(畠山)重忠の訴訟や、叶わずば腹切らんと宣や、前代未聞の事どもかな。
力及ばず兄弟を(畠山)重忠に(預け)参らせ候、さりながら今朝よりも訴訟有つる人々の実には恨みも有るぬべし、心得給えと仰せあり。
(お許し)下したぶこそ有難けれ、(畠山)重忠余りのかたじけなさに頭を地に着け給い、あら有難や只今の訴訟叶えてたび(下さり)給う事、生々世々(未来永劫)の間にやはかは(どうして)忘れ申すべきと嬉し泣きにぞ泣かれける。
やがて、御前を立ち給い、半沢を使い給えば、半沢(榛沢六郎成清)浜に下り、畠山重忠の御訴訟にて、兄弟の人々を御助け候なり。
源太殿も曾我殿も早々帰り給えと高らかに言いければ、浜に集まるのみならず聞く人毎に手を合わせ有難の(畠山)重忠や、優しの(思いやりの深い)人の心やと喜ばざるは無かりけり。
(曾我)祐延は半沢とうち連れ二人の若を引き具し(連れ)、(畠山)重忠に参らせ給い、あら有難や候、只今の御訴訟有り、兄弟の者共が命助けて給わる事、生々世々(未来永劫)の間にやはかは(どうして)忘れ候べきと、余りの事の嬉しさに、嬉し泣きにぞ泣かれければ(畠山)重忠も諸共に喜びの涙を流さるる。
その後、(曾我)祐延申されけるは、今しばらく候いて御物語申したく候へども、故郷に残りたる母にて候者、さこそ嘆き候らわん、先まかり帰り、此の芳志(親切心)の有様を詳しく申し聞かせ重ねて参り候わんとねんごろに(丁寧に)宣いて、二人の若を輿に乗せ故郷に帰らるる。
11 曽我兄弟母との再会
心の内の嬉しを何に例えん方も無し、いたわしや母上は子供の思いに耐えかねて泣き伏してまします処に、曾我殿も若達も御喜びにて只今帰らせ給うと言いければ、母は夢ともわきまえず、臥したる処をかっぱと(急に)起き立ち出でさせ給えば、二人の若も輿より降り、母の袂に取り付きて、これは夢かや現かや夢か現かと泣くより外の事は無し。
やや(しばらく)有って母上は涙と共に宣よう、これ程は実に鳥羽玉(黒い闇)の夜もすがら、泣き明かしつる悲しみに、由比の汀にて斬られしが若しも夢にや来たりけん。
死したる者はさ有りとも、父は夢には世も来たらし、おお嬉しさの夢ならば又や別れも有るべしと思い焦がるる心こそ理せめて哀れなれ。
やや(しばらく)有って、(曾我)祐延、始め終りの事ども(事の始終を)をくわしく語り給えば、母や乳母は手を合わせ有難の事どもや、(畠山)重忠のましまさずば(居なければ)、いかで二度合うべきと喜ぶ事は限りなし。
されば有為(因と縁によって生滅するもの)の報仏は夢(うつつ)の裏の権果(夢の中の幻の仏)、さてまた無作の三身(理体(法身)・智慧(報身)・肉体(応身)の三身を一身に具えた常住のありのまま仏)は覚(現実)の前(表)の実仏(なり。最澄撰から出ている)。
駅路の鈴(官道の馬の鈴)の夜の声(和漢朗詠集から出ている)。返魂香の煙こそ、なき面影も映るらめ。
((返魂香(はんこんこう)は、焚けば死人の魂を呼び返し煙の中に姿を現わすことができる想像上の香。中唐の詩人・白居易の『李夫人詩』に、前漢の武帝が李夫人を亡くした時、道士に命じ、西海聚窟州にある楓に似た香木反魂樹の木の根をとり、この煮汁を玉の釜で煎じて練り、金の炉で焚き上げたところ、煙の中に夫人の姿が見えたという))
これは類(たぐい)もなく鳥の憧れ(あくがれ、魂が身を離れる)、母の嘆きしに君(頼朝様)の恵みの深くして科(とが、罪)を許し理をただし、仰げば高き筑波山、老をも返す松影の緑子(幼子)なれば亡き親の、君(頼朝様)に不忠の末なれば隠し育てし古の、心に今は引き替えて嘆きは変へり喜びの御酒盛りと成りにけり。
さて兄弟の人々成人年を重ね、兄をば曾我の十郎(祐成)、弟を五郎時宗と隠れなき勇士(勇気ある人)なり。
親の仇、工藤祐経を野に伏山に隠れ居て、狙い窺う有り有様、余所の見る目も中々心苦しき次第なリ。
狙う所はどこどこぞ、馬入渡(ばんにうと、相模川の渡し)・平塚(兄十郎の恋人虎御前の母は平塚宿の遊女夜叉王であった)・大磯・小磯・鞠子川(相模湾に流入する酒匂川)・網の一色(酒匂川右岸)・小田原、この世を出での屋形(曽我兄弟が仇を討った井出の屋形と死地へ赴く意を掛けて)まで三十八度狙い、遂に本望(本来の望み、本懐)遂げつつ、後名を家に残しけり。
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