含状(ふくみじよう)

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1 高館の最後
 さる間、(奥州)高舘の御所(義経の館)には、大手(正面)を固めし、鈴木(三郎重家、亀井六郎重清)兄弟をはじめとし、武蔵坊弁慶、皆討死をしけれども、寄せ手(攻め手)の軍兵は怖じてそうなく、攻入る者もなかりけり。
 搦め手(背面)にありし人々は、鷲尾、片岡、熊井太郎(忠元)、源八右兵衛広綱、備前兵四郎これらの方々申しよう「いつまで角てながらえん、寄せ手(攻め手)の陣へ駆け入って討死せん」と言うままに、我先にと切って出る。
 寄せ手(攻め手)の軍兵も、ひとまずは支えけり、さしもに猛き人々なれば、八方を差し搦めてかかって一方へ追い向け、その中へ切って入り割り(こみ)追い廻し、蜘蛛手(四方八方)、結果(かくなわ、太刀を縦横に振り回し)、十文字、八つ花形(八方向への太刀遣い)というものに散々に斬って廻る。
 天は渦巻いて、地をあけに染め替え、龍が水を得、雲を分け虚空へ上がる如くなり、未だ時も移さぬ間に、くきょう(究意~極めて優れた)の兵者共を九十三騎切り臥せたり。
 残りの兵者、防ぐべき様あらずして、風に木の葉の散るように、むらむらぱっと引いたりけり。
 向かう敵のあらざれば、城の内の人々も、互いに手に手を取っ組んで、静々と引いて入る、ここまでの際ぞとて、思い思いに腹切りて、同じ枕に臥したりしを、ああ、惜しまぬ者はなかりけり。
 かくて、時刻も移りければ、寄せ手(攻め手)の軍兵申すよう、城の内よりも続いて切って出ざるは、皆腹をや切りつらん。
 さらば寄せよと言うままに、大手(正面)、搦め手(背面)揉み合わせ、見合わせ、鯨波(鬨の声)をどっと挙ぐる。

2 若君満王丸の最期
 その時、判官(源義経)は増尾兼房(北の方の守り役)を召され、いかに(増尾)兼房、弁慶を始めとし、いずれも討死しけるよな、御経も奉納した、義経、腹を切ろう、ただし、満王丸(子息)と御前(北の方~久我大臣の姫、史実では河越重頼の娘郷御前)を先に、ともかくも、良きように認よとの御諚なり。
 増尾兼房承り、かしこまって候とて、未だ四歳になり給う若君(満王丸)様に参り、御最後なりと申せば、若君聞し召されて、最後とは何事ぞ。
 増尾兼房が、最期とは西に向かわせ給い、御手を合わせ高らかに南無阿弥陀仏弥陀仏と御唱えましませば、西方の浄土とて、由々しき所の候に、武蔵坊弁慶が先に参り待ち奉り候、増尾兼房も御跡より、やがて参り候べし若君様と言いければ。
 あらいたわしや、若君(満王丸)は、何の心もおわせねば、西に向かって御手を合わせ、南無阿弥陀仏弥陀仏と高らかにのたまへば、増尾兼房、目をふさぎ心元を一刀刺し参らせ候らへば、あっとばかりを御最後にて、衣川の水の淡と滅せさせ給う御有様哀れというも余りあり。

3 御前(北の方)の最期
 その後、増尾兼房は、御前(北の方)に参り、早、城の内の者共、武蔵坊弁慶を先とし皆討死つかまつり候らん、敵も近づきて候へば、御自害をすすめ申せとの御使いに、増尾兼房参りて候と申すもあえず、縁に手を打ち懸けて、はらはらとぞ泣きにける。
 御前(北の方)これ由聞し召され、自ら自害をせん事は、思い設けたる事なれば、驚くべきにて非ず、さて満王丸をば何と計らいけるぞやきかまほしやと仰せあり、さめざめと泣き給えば、
 増尾兼房承り、さ候、若君様(満王丸)をば、助け参らせたく思し召され候らへども、君(源義経)の御座なき御跡に敵の手に渡らせ給い候はば、か名の御傷たるべければ、ただただ失い申せとの仰せにて候うえ、悼(いたみ)ながらも、只今害し奉って候と、ありのままにぞ申しける。
 御前(北の方)聞し召されて、あら無残や満王丸さては空しく成りけるぞや、今は憂き世に思い置く事そうらわず、早自らをも害せよと。
 御肌の守りより、呪遍(呪文を数える回数)の数珠を取出し、御手を合わせ、高らかに南無西方の弥陀如来いとどだに、女は五障三従に選らまれて、罪の深いと聞くなれば、弓箭(武士)にかかる自らを、助け給えや阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とのたまえば。
 増尾兼房もおもい切りすでに刀を抜持ちて、御側近く参りつつ装いを見申せば、紅の顔ばせは、露を含める海棠(かいどう)の花かとも疑われ、月も妬むべかりつる、桂の(細い美しい)眉のほのぼのと思い乱れし黒髪の、その隙よりもあらわれて、雪の様なる御肌に、いづくに刀を立つべきと、あきれはててぞ(ぼんやりと)居たりける。
 御前(北の方)このよし御覧じて、おく(後)れたり増尾兼房よ、はや疾々(とくとく)との給えば、弱気心を引き立てて、心元を二刀、水も溜まらず差し申せば、袖の下にて御手を合わせ、「(死後の救済を願い)天上天下唯我独尊、四大(地水火風)五形(色受想行識)を司り、ついには土に返すなり」とかように唱えたまりけり。
 悼(いたむ)や、御前の都に御坐(ざ)の御時、仮初ふりの玉章(たまずさ~ほんのちょっとした気持ちで出した恋文)の榻(しじ~牛車の踏み台)の端書かきつめて百夜も同じ丸寝(着衣のままごろ寝)せんと明け暮れ嘆かせ給いつる(榻の端に印を記し通いつめ百日に一夜欠けた為恋は思い通りに成らなかった小町伝説)君が心を哀れとや思いの外に道芝(草)のおもきが露に打ちなびき悄瀬(姉背~夫婦)の中と成り給い、(義経が)天下の守(守護)りとおはせしがいつぞの程(いつのまにか)に引替えて都の花を見すてつつ、こしの空にと帰る雁の鳴く音を袖に友ないて、はるばる御下りましませしが、幾程もなきその間に御年二十四歳にて、陸奥の草むらの露と消えさせ給いしを申すばかりもなかりけり。

4 源義経の最期
 さる間、増尾兼房は、君(源義経)の御前に参り、この由かくと申す。
 判官(源義経)聞し召されて、おう、今こそ心安けれ其の義にてあるならば、義経腹を切るべし、南無十方の諸仏、構えて(必ずきっと)悪見(地獄)に落とさせ給うなと、御刀をするりと抜き、腹十文字に掻き切って臓を掴んでくりい出し、寸々に切って捨て、白き綾にて御傷の口をまとい、おうなんぼう切ったぞ兼房よ。
 増尾兼房、このよし見参らせ、あっぱれ涼しき御自害かな、しばらく御待ち候えとて、灯火の有けるを屏風几帳に吹き付けて、(火が燃え広がり)天下霞に焼き上げ、腰の刀をひん抜いて、腹十文字に掻き破り、御頸を賜わって臓の中へ押し入れ、猛火中に跳び入り焔となってぞ失せたりける。
 兼房が振る舞いはただ樊會(はんかい~漢の劉邦の功臣)もかくやらん。

5 源義経の首実検
 すでに炎も鎮まりければ、寄せ手の軍兵馳せ集まり、九つの首を取り集めて鎌倉に上らせ頼朝の御目に懸くる。
 何れも焼け首の事なれば「是こそ誰にて候へ」と見知れる人も無かりけり。
 頼朝御諚には、秩父(畠山重忠)殿は見知り給いてやおわすらん、それそれ見給へと仰せければ、(畠山)重忠御前に参り、いずれも御兄弟には御しるしの候ものをとの給いて、こうかい(小刀)を抜きい出し御口を割って見給えば案にも違わず、向こう歯二重に生いさせ給いたり。
 何とは知らね共、巻物一巻銜(くわ)え給う、兼て御契約の子細もや候らいけん、はばかる気色もましまさず、(声)高らかにこそ読まれける。
 「源の義経畏れながら申し上げ候、その意趣はかたじけなくも清和(天皇)の後胤とし、多田(源氏)の新発意満仲の家を継ぐといえど、父尊霊故頭殿(源義朝)、平治の戦いに懸け負け、都を退き給いし時、その時義経二歳なり、母の懐に抱かれ大和国宇陀の郡籠門の牧に趣(き)しよりこのかた一日片時も安堵の思いに佳せず。
 然しながら、平家の一族退罰のために上洛せしむる手合せに、木曽義仲誅戮(ちゅうりく~罪有る者を殺す)ののち平氏亡ぼさんために、ある時は峨々とある岩石に駿馬に鞭を打って仇のために命を失わん事を顧みず、
 またある時は満々たる海中の上にして風波の難を淩ぎ骸を西海の波嶋に曬む(さらす)ことを痛まず天下に満ち満てし平家を三年(とせ)三月がそのうちに攻め亡ぼし、三種の神器事故なく再度帝都に納め奉り、一天四海を穏やかにせしこと、
 しかしながら義経の戦功にあらずや、かように粉骨を尽くし奉るものなり、あまつさへは大臣殿(平宗盛、清宗)父子(壇ノ浦で)生捕て京都鎌倉を渡し、源氏の曾稽の恥辱を雪(すすがん)む処に、なんぞ虎口之(とんでもない)讒言によって莫太の勲功を黙(もた)せられ、わずかの梶原に真の兄弟の思いを変えられるる、うっぷん深うして嘆き切なり、
 願わくば梶原(景時、景季)父子が首を切って義経に手向け賜わるならば未来ようよう恨み有るべからず、万端多しとぞ読まれたる。
 (源頼朝の)御前なりし人々は、一度にあっと申しおのおの涙にむせばるる。
さる間、源頼朝は御兄弟の御別道理至極にせめられて、狩衣の御袖を御額に押しあて伏し沈み流涕(涙に)焦がれ給えば、御前の人々も直垂の袖を絞りかねたる有様哀れなりとも、なかなか申すばかりもなかりけり。

6 梶原景時の最期
 去る間、梶原(平三景時)は御前にありしが、この由を見るよりも叶わじとや思いけん、御前をまかり立ち、はだし馬にうち乗ってくけ路(足のくじけそうな裏道)を指して逃げにけり。
 運の極めの悲しさは、駿河の国の住人(武士団)に高橋の与一が的を射て居たりける弓場の前を騎り打ちに(下乗の礼を欠いて)したりけり、高橋これを見、君の覚えはとにもあれ侍の的の前へ馬に乗って通る事奇怪(きくわい)なりと言うままに、もとより填(は)めし矢なれば引いて放しけり。
 さても、梶原景時が弓(左)手の脇に受け止め馬より下に転び落ち明日の露と消えにけり。
 二男平次(梶原景高)は、駿河の国に聞こえたる森の野辺とかやいう所にて誅せられ候ひぬ、嫡子の源太(梶原景季)をも切られべきにてありしが、度々の高名(源平争乱で活躍)さまざまに申し上げける間、命ばかりは助かりて、紀伊国谷輪という浦にさすらい(流離)明日には水おこり、夕べに水を汲み裾(すそ)を結んで肩に懸くる、かの梶原源太景季が配所の憂きの有様、かくとも尽きぬ藻塩草(掻き集める~書き集め記したもの)、何に例えん方もなし、梶原父子を見し人、憎まぬものはなかりけり。

《参考》
 なお,源義経の自害ののち、源義経の首級の口中より発見、出てきたものは梶原景時の死を語る「含状(ふくみじよう)」は、奥州高館における最期を中心とする「高館」の続編である。
 また、赤木文庫本「義経物語」では、源義経の首級の口から書状が出てきた、「判官の孝養には、くれぐれ梶原父子が頭を刎ねられ、源義経が精霊に下し預かるべし、しからずば悪霊となって当家を亡ぼし奉らん」と書かれ、末尾は「判官殿の亡魂荒れ給ひて、怨敵に加わるもの一人も残さず取り殺し給ふ事こそ恐ろしけれ」と結ばれている。

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