靡常盤(なびときわ)

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 (伏見常盤の続き)
1 常盤御前の母を拷問
 ここに物の哀れを尋ねるに、常盤(御前)の母(桂の宰相)にて留めたり、それを如何にと申すに。
 六波羅方の兵、常盤御前を尋ねかね、九条の院(常盤御前が雑仕女した中宮藤原呈子)に居わします母の尼公を生捕りて、(平家一門の邸宅の有った)六波羅へ参らする。
 (平)清盛、御覧じて親子の中の事なれば、知らでは如何有るべきと、難波(経遠)、瀬尾(兼康)に仰せ付け、七十余度の拷問は目も当てられぬ次第なり。
 瀬尾、難波に言う様は、心弱くて叶うまじ(弱気で居ては白状しないだろう)。
脅して申して問わんとて、一所を構え多々良(鈩)をたて、銅金を沸かし猛火盛りに燃ゆる時、いかに尼公御覧ぜよ、あの蕩炎に当て申さん、早々に常盤の行方を御語りあれと申す。
 尼公御覧じて、見るにだにも(見るだけでも恐怖で)身の毛立つ、まして炎に身を寄せば、焦熱地獄の苦しみも、是にはいかで勝るべき。
 よしそれとても力なし、とても生き甲斐有まじや、死ぬべきものと思い切り、更に物をも宣わず。
 瀬尾、力に及ばず、如何に難波、大事の囚人を責め殺しては叶まじいと、清盛にかくと申す。
 清盛、聞召し、出で急かして問わん(どれどれうまく言いくるめて尋ねよう)とて、大口白衣(略装)の出立にて、尼公の辺りに立ち寄らせ給い。
 如何に尼公聞給え、平家の運を開くる事出る日、蕾む花なれや、源家を物に例えれば入日の如し、如何に尼公の哀れみて子供を隠し給えども、遂には漏れて聞こゆべし。
 尼公の教えで捕るならば、尼公にも常盤にも報挙を与えば育むべし、早々と常盤の行方を御語りあれとありしかば。
 尼公聞こし召し、珍しの御言葉や道理を分けてぞ宣うらん、自らが耳には皆ひが事のみ(道理に外れた事間違いとしか)聞こえ(ません)候。
 それを如何にと申すに常盤は生年二十八、孫今若は七つ、次の乙若は五つ、末の牛若は二歳なり、彼らが年を合すれど尼公が年の半ばなり。
 自ら幾ほど生きんとて盛りの孫子を失うべき、其の上、源家は黄金に例えて、いとに朽(くち)は果てし成り。
 常盤が子共も三人何れも男子にて候えば、彼らが中に一人運を開かぬ事あらじ。
 其の上、頼朝は天下の御目に懸り源氏の将(軍)の相ありと君王も宣旨有りし也(将軍としての素質があると言われている)。
 天文博士(安倍氏)漏刻しんもんせんの神も札を打ちかねて、源氏の大将と天下にこの沙汰隠れなし、もしさもあらば末の世に残り居たらん平治共憂き目に遭わぬ事あらじ、まして源氏の末の代を切り枯らさんと思すとも。
 五十鈴川の末尽きす八幡山の月影の光を宿す事なればいかで闇に迷うべき冥慮知見にまかする上、死なん事をば嘆くまじ(源氏には八幡山、すなわち石清水八幡宮という光が照らしていてくれるのだから、闇の世にあっても迷うはずがない)。

2 常葉の母、清盛を非難
 早得々と仰せけり、この間の拷問は物の数にて数ならず、誠や聞けは、拷問は眼を抜き足手を切り、血を絞りて責めると聞く、なとそれで意に責め給わぬ、事多しといえども清盛の末の世に有るべき事を今見るぞ。
 この合戦と申すは大悪劇の(藤原)信頼(平治の乱を起こし清盛に敗北)が朝敵となって滅びしなり、それも天下を軽くして世を逆さまにせし故なり。
 これにも見懲り給わず尼こそ卑しくと、宣旨(朝廷文書)なりとて免ざるれば、君朝敵の尼たるべく。
 さあらん時は、清盛も礼儀を正しくすべき身が、大口白衣(下着のまま)の対面は上なき人の振る舞いかや(清盛の非礼を咎める)。
 世を知らんと思ぼさば、強きを和らげ弱気を撫で義を重くすべきなり、君君たれば臣臣たり(主君は主君の道を尽くし、臣下は臣下の道を尽くすなり) 。
 御身の今の振る舞いは、将門の其の上純友の狼藉(関東での平将門の乱と瀬戸内海での藤原純友の乱いずれも朝敵の件)。
 さて貞任(安倍貞任は前九年の役で東北陸奥国で朝廷に反抗し源頼義義家と戦い敗死)が獰悪(凶暴)、今、信頼(朝廷の実力者藤原信頼は源義朝と組み平治の乱を起こし平清盛に敗北)が逆乱も、これにはいかで勝るべき。
 未だにもがくあり、まして平家一へむ(全般)の御代ともなるものならば、君の位を奪い取って天下は闇なりとなるべきなり
 さあらん時に清盛も必ず滅び、果つべきなり(平家の滅亡を予言)、末の代に、この尼が申し捨てし言の葉を想い出し給うべし、生けで物を言わせんよりも、とく責め殺せと仰せけり。
 清盛聞こし召し、案に相違の言う事なれば、責め殺しては叶うまじ先ず汝等(瀬尾、難波)に預くるとの御諚なり。

3 常葉御前、子を連れ都へ
 さる間、常盤御前は、これをば夢にも知らし召されず、大和国(奈良)宇陀の郡、岸の上の加藤次(兵衛)の宿所に数日とを暮せ給う。
 ある時、商人来たって都の事を語れけり、常盤物越しにて聞こし召し、都には何事かあると問い給えば。
 商人承りさん候、都は目出度く候がここに哀れなる事の候、(源)義朝の御台所、雲の上の(帝の寵愛を受けた)常盤御前という人、公達数多引具(連れて行く)し行方知らず失せ給うを、六波羅方の兵、常盤御前を尋ねかね九条の院に居わします母の尼公を生け捕りて六波羅へ参らする。
 清盛仰せけるは、親子の中の事なれば知らでは如何あるべきと、難波、瀬尾に仰せ付け、様々の拷問は目も当てられぬ次第なり、子を思う道にはかかる闇にも迷うと語り捨てぞ通りける。
 常盤御前聞こし召し、こは如何に浅ましや我が子を思うごとくに、さこそに(きっと)尼公も自らを不便と思し召さるらん。
 子をば設けて又見れど親を二度見る事なし、今は力に及ばれず三人の若子供を、母上の御命に取り代えばやと思し召し、人に問うべき事ならねば我が身一つに思い返え。
 八幡詣でと事寄せて(母を助けに都へ行く為偽って)出させ給いけるとかや。
 加藤次兵衛(宿主人)申しけるは、余寒も未だ打ちとけず、弥生(三月)の頃になるならば花見がてらの詣でには御慰みも多かるべしと押し留め申す。
 常葉聞し召し、子供のための願なれば今参らでは叶わじと仰せければ、加藤次(兵衛)力に及ばずと若達をば下男に抱かせ夜半に紛れてい出給う。
 西を遥かに眺めれば、雲を帯びたる高見山、末は葛城雪白く花かどのみぞ疑がはる、長谷寺の鐘の聲尾上に響く朝ぼらけ(山頂からの夜明け)。
 三輪の山本(奈良県桜井市三輪山、大神神社)過ぎかでに、布留(天理)の中道在原(業平の邸宅跡)や、寺井(伊勢物語の井戸)の跡も名にし負ふ昔男(伊勢物語の主人公)こそ忍ばるる。
 奈良の都を見渡せば堂塔軒を並べたり、興福寺と申すは大職冠(藤原鎌足)の御願所(娘)紅白女(二女)と申すは異国の王(唐帝)の后となり、御父の大職冠(が)大伽藍を建てさせ給うと伝え聞し召されて。
 三国(中国日本インド)一の重寶、五寸の釈迦の礼像を、水晶の塔に入れ、数の宝を揃えつつ(興福寺へ)送らせ給いけるとかや、住かは他生なれども親子の思い浅からず、志は一つにて遠きも近き心なり。
 されば孔子の言葉にもけを隔つると言えども心通うを憐(あわれむ)という、我も都に居わします母上の御命に三人の若共を代えんと思う心ざし。
 七堂の仏達不便と思し召さるらん、七堂(伽藍)と申すは興福寺の内に有り、みな(全て)とりどりの御願所有難さよと(遠くから)伏拝み。
 行くは、程なく木津川や遥かに見れば八幡山、いかでか八幡の捨ては果てさせ給わじ(どうして自分達源氏を石清水八幡宮はお見捨てになることがあろうかと拝む)。
 波の遠方(おちかた、宇治の彼方神社と遠方を掛け)や、ましははら(真紫原)、宇治にこそ迷いけれ、巡り来て見れば水車流れは絶えぬ、うたかたの槇の島(城、宇治市)こそ優かりけれ。
 さんぬる(殊過ぎ去った)正月十八日の雪の日を、迷い暮らして伏見山(京を脱出し三人の子と伏見に逃れた日は正月十八日のことであった)。
 又如月(きさらぎ二月)の十八日に巡り来ぬ、清水寺へ詣でたく思えども心に任せぬ事なれば余所ながら伏拝み(日頃から観音信仰に厚い常盤御前は観音の縁日である十八日に都に入る) 。

4 九条院御前への挨拶
 九条の院(常盤が雑仕女した近衛天皇の后藤原呈子邸)に参らせ給えば、数の女官立ち出で常盤御前を中に取り込めて、行く方知らずと聞きし程に、さりともとこそ(ともかく無事でいたと)思いしに、雉の隠れの如くにて現れ出でたる悲しさよ、人目に触れぬ其の先に、とく忍べとぞ仰せける。
 常盤聞し召し、忍ぶべき身にて候はば何しにここ迄参るべき。
 母上の御命に代わらんため三人の若を引き具し参りて候と申されければ、女院聞し召し親孝行の心さし世には有らじと思えども末も久しき事ならずや、よくよく思い定めよと再三御諚くだりけり。
 常盤御前この由承り、仰せはかたじけなけれども君と親を比ぶれば君に命は捨て安し、親と子を合わすれば、いかでか親を愚かにせん、神明よりもかたじけなく仏体よりも尊つときは君と親にておわします。
 思い切りぬる事なりと重ねて奏し申さるる、女院聞き召し、君と親とのために命を捨てんと申すこそ余り思えば不便なれ、それそれ装束い出たたせよ。
 承ると申して、十二単に紅の千入(ちしお、染重)の袴給わりけり、今若七つになり紫摺(すり)の一重ね精好(細やかな作りの)の大口生絹(すずし)の一重直垂着せ、乳母(めのと)を十人付け給う。
 乙若は五つなり、白塗貫の肌付けに、顕紋紗(平織りで文様をあらわした紋紗)の直垂着せ、乳母を五人付られたり、牛若は二歳なり、練貫(横糸に練り糸を用いた平織りの絹織物)に紅梅重ひきまわしの帯はかり、乳母を三人付給う。
 常盤に官を給わりけり大納言の輔の局に任ぜらるる、最後の乗り物なりとて八葉紋付の牛車を給わりけり幾程乗るべきならぬ共「買臣(ばいしん)が錦の心地して」嬉しさ類なかりけり。
 (鎌倉時代の説話集「唐物語19」に、昔、朱買臣は会稽という所で薪を伐り貧しく生活するも学問は怠らずに居た、妻は貧しさに堪えかねて家出した、帝が才能を聞き国の太守となった買臣は狩先で貧しげ賎しい女が菜を摘みいざり歩くのを見て探し求めた妻を発見、妻は「買臣」を見て悩み煩い夜明けに命が絶えた、もし妻が苦しさに堪える心ならば嬉しい気持で「錦を着て」一緒に故郷へ帰ることができたのに、思慮の浅い人は、何事につけても恨みを抱いてしまうものだ)

5 常葉の名の由来
 彼の常盤と申すは、享和六年近衛の院(近衛天皇)の御時、美女揃えの有りし時、後宮七殿(承香殿、常寧殿、貞観殿、弘徽殿、登花殿、麗景殿、宣耀殿)へ勅使を立て。
 見目良き女を千人すぐり、千人の中より百人すぐり、百人の中より十人すぐり、十人の中よりも三人すぐって、中にも美醒なきとて常葉(化粧しなくても常に美しい)と彼を名付けたり。
 宮中に仕えしを、常は院の御心通わし思し召さるれど、おぼろげの人(並大抵の人)にも、ま見えぬる事更になし。
 されば、彼の(源)義朝は雲の上の常盤を、風の便りに伝え聞き、妹背(夫婦)は人を選ばねど浮恋路にぞ迷いにき。
 すてに(たしかにまぎれもなく)彼の義朝は天下に聞こうる忠臣を恋ゆえ身をいたずらになしなん(身を亡ぼす)事の無残さよ、さらば常盤を取らせよと車に乗せて給わりぬ。
 無残やな、常盤は雲の上の起き伏し竜顔に親しみ后妃のように有りし身を下されて、はいしん(臣下、凡人)にまみえん(面会)事の悲しさ、身はいたずらになさるると、あだな(浮き名)はたたし、ものうやと、怨みながらも義朝の館に移りけるとかや。

6 常葉御前、六波羅に出頭
 かくて、年月をふる程に忘れ形見を設けおき、かかる憂き目を見る事よと、女院遥かに面影を御覧じ送り給えば、数の女官、立出でて倒れ伏して泣き給う車の内の嘆きをみれば、中々物憂きに早ようやれとこそ仰せけれ。
 牛飼い車を轟かし六波羅へすぐに遣り入る、門の警護是を見て、交名なくば、御車をえこそ通すましけれと、押し留め申す。
 さの身はいかで包むべき(隠して置く事もない)常盤の車と言いければ、未だ子細も言わせずして三人の若共を一人づつ抱き取って御前指してぞ参りける。
 清盛、御覧じて、されば厳島の利生の早さよ、助けおきて叶うまじい急ぎ是より次第に容すべし早とくとくとの御錠なり。
 いたわしや常葉御前、母の訴訟を申さんと、瀬尾に付きて仰せけり。
 実にや親子恩愛は割なき仲と言いながら、末も久しき若共を、老たる尼公に代えんと思う心さし類あらじと思いつつ、心の有るも有らざるも袖を絞らぬ人はなく。
 清盛この由聞こし召し、実に実に、さこそ思うすらんと問い損じたる尼公を抱き出して渡しれり。
 常盤は母に抱きつき、彼の若共を一抹と思う心に紛れつつ母御を跡に捨て申し、かかる憂き目を見せ申すも自ら故の事なれば面目なさは限りなく。
 尼公これよし聞し召し、出る日よりも頼みある、若共を失いてこの年寄りを助けんとや嬉しく更にあらずやと倒れ伏してぞ泣き給う。
 常葉聞し召されて、仰せはさにて候えど如何に子供を哀れみても、前世の果報(先の世における善行のこの世での報い)つたなくば、世を知る事も有まじや(世間を支配する事もないだろう)。
 今こそかように運尽き果て敵の手に渡るども、親に孝ある徳により来世にては必ず一つ蓮に生まれるべし、何よりも母上を見奉る嬉しやと、よそめも思し召されすす声をあげてぞなき給う。

7 平清盛、常盤御前に恋慕
 清盛、常盤御前の嘆きを物越より聞し召し、たとえ嘆きはとにもあれ常盤は聞こぶる美人と聞く。
 我世に有る印に一目見ばやと思し召し、玉章(手紙)をねんごろに(妾になるよう)したため(示し)、常盤の嘆き伏し給う傍(かたわ)らへ送らせ給う。
 常盤聞し召し、夫の仇子供の敵、名を聞きだにも恨めしやと更に見入給わず、御使帰り清盛にかくと申す。
 清盛聞し召し、返事の有らんほど書んとて其の日のうちに御文の数二十三通とぞ聞こえける。
 常盤御覧じて見苦しき事かなと一々に引き裂き縁より下へ捨て給う、御使帰りありのままに申す。
 清盛聞し召し、天が下の其の内に某(それがし)が消息を裂かん者こそ覚えね、母には科(とが、罪)はなけれども常盤が心の憎ければいかにも(どのようにでも)荒く拷問せよ、三人の若共も兄より次第に容すべし(殺すといえども返事をしない)。
 遅し遅しと宣いて、(清涼殿の衝立を模した)荒海の障子を立てば開け開けては立て(閉める)、例の(厳島神社修復の功で厳島大明神から給わった銀の)長刀引きずってしんの板をとうとう(どんどんと)と突き鳴らし給えば、近習外様の人々は一度に座敷をはらりと立って方々へ逃げんとす。
 清盛このよし御覧じて、静まれ方々不覚なり、おう、一旦は仮の脅しであり。

8 常盤御前への平盛国の説得
 盛国(平清盛の側近)尼公へ参りて申さるる、かように御文の繁き事も若君様の御氏神の御計らいとこそ存候へ。
 (この様に平清盛さまが文を常盤御前に送るのも源氏の守護神である八幡宮による計らいと思って下さい)
 御返事の御座あらば若君様も目出度く渡らせ給うべし御教訓あれと申さるる。
 尼公、実にもと思し召し常盤の前に平伏し、別れし夫の為ならば、孫子を育ておきてこそ草の影なる亡霊(義朝)も嬉しく思し召さるべけれ、其の上御身一人に限らず、昔もさる試し有り。
 異国の漢のしやう王と御てう王と数度の戦い有りし時、しやう王かけ負け給い官軍皆散り失せ、后の宮も王子達も御霊山に籠らせ給う
 かのしやう王の后の宮、容顔美麗におわします、てう王叡覧あって后の宮にいわはむ(祝う、大切にかしづく)との勅諚成り
 后聞き召されて、君子の法に漏れじとて更になびかせ給わねば、てう王怒らせ給い、王子五人を生捕って既に死罪に及びし時、王子たちを助けんため、なびかせ給うと承る。
 それのみならず奈良の葉(帝、平城天皇)の末葉(その孫在原業平)の「露を眺めし」に、在五中将(在原業平)には代々の后もなびかせ給いし(数人の后と契りを結んだ)となり。
 (伊勢物語六段で、昔ある男が女と駆け落ちし芥川まで来たとき、女は草の上に置いた「露を見て」あれはなんだ尋ねた、夜も更け目的地までまだ遠く空き家に女を入れ戸口で番をしたが、そこは鬼の住家で鬼が女を一口で食べてしまい夜が明けて女がいなく泣いたがどうしようもない、露を白玉(真珠)かと人が尋ねたときに知りませんと答えて露のようにこの世から消えてしまえばよかった、これは藤原高子を在原業平が盗み出したのを兄弟が取り返した、それを鬼に食べられたなどと言った業平と藤原氏との対立の話)
 石と成りしは「望夫石」。
 (唐物語12には、昔、相愛の夫婦の夫が死にその後、涙に沈み女は再婚を許さず、夫を思い亡き影のみ心にかけ、時の忘る隙なく遂に命を失いけり、その屍は石になる、ことはりや契りしことの固ければ遂には石となりにける、この石を里の人々「望夫石」とぞいう。一筋に思ひ取りけん心のありけん有り難さもこの世の人には似ざりけり)
 鏡を割りし「徳言」も思わぬ仲の契りなり。
 (唐物語10、「徳言」は、陳氏の女と夫婦になる、世間乱れてそれぞれが逃げる時に女の鏡を二つに割り夫婦一つずつ持ち毎月十五日の市に出し半分を尋ねんと約し別れる、後に女は親王に具し年月を経るが徳言を忘れず鏡を市に出し互いに相手の境遇を知ることが出来た、親王は哀れんで女を徳言に返し、再び夫婦になる事が出来た)
 ただ清盛になびき給え、御身が名は下すとも末も久しき事ならずや、さらずば、御身も自らも、さて三人の若共も最後の極め今であり、如何に如何にと宣いて、涙も汗も諸共に床も浮かぶと覚えたり。
 常盤聞し召し、母の仰せの理無(わりな)さに、とかく物をも宣わず思い入れてぞおわしける、尼公御覧じて少しくつろぐ色(折れた様子)かとて、(清盛)側よりも返事をし給いけり。
 御使いの見給うごとく自らが返事なり、「百夜の榻(しじ)の端書き」も数重なればなどと申すこと人の候うぞや。
 (深草少将と小野小町の伝説として、昔、男が女に思いをかけ百夜続けて通ったら承知すると女に言われ九十九夜通って、その印を御輿の台である「榻に書きつけたが、百夜目」に支障があって通えず思いを遂げられなかったという故事)

9 常盤御前、平清盛になびく
 よりより(時々)意見を申すべしと仰せければ、盛国急ぎ帰り清盛にかくと申す、その時、清盛気色(気分)を変え御座に直らせ給う。
 さる間、常盤の御返事あり、清盛御覧じて筆の立(使い)と文章書き流したる匂い墨、あら恐ろしや主だにも未だ見ぬ先に文にて人を殺すやと。
 打も置くべき心地もなく巻いつ開いつ見給えば、奥に咲山の言葉あり、いも(妹)が契りは定めなや後の世懸けて契れども一重に変わる縁もあり、否ね仮初と思えども(軽い気持ちだと思っても)長らえ果つる縁もあり。
 末も通らぬ池水の(最後まで愛が続かない浅い池の水)あだ名は余所にたつ(浮気だと評判が立つ)か弓、引返してもいらればこそ、かかる時の身の憂さ(宇佐を掛け)も心尽く(筑紫を掛け)しを如何にせん。
 人目もまみへ候らはば、三人の若共を、実子に御なし有るべきとの誓いの證文正しくはともかくもとぞ書かれける。
 清盛御覧じて、こわ如何にせんと案じ煩わせ給いしが、
 蜘蛛のい(網)に荒れたる駒は繋ぐ共、蓮穂の中の結び目は、繋ぎも果てぬならいなり
 (雲の網のように細いもので荒馬をつなぐことが出来ても恋慕の仲の結び目は完全に繋ぎ止められない)。
 例えば三人の若を実子に成してあればとて、何の子細の有るべきと、かたじけなくも厳島の大明神を所見(証人)として、三人の若達に敵をなさじと誓いつつ常盤の方へ送らるる。
 常盤御覧じて、清盛はさありとも、或は孫子一族の御世ともなる物ならば、定めて相違有るべしと思し召されける間、八人の公達、三十人の御一門、十人の侍大将の起請文なくては、あだなは如何でたちなんと、重ねて仰せ出されけり。
 清盛聞し召し、か程まで起請書き、さてのみやまん無念さよ(このまま終りにするのは無念だ)と、御一門の人々に起請書けとの触状は、あう、実に浅ましき次第なり。
 重盛(清盛の嫡男)聞し召し、実に傾城(けいせい、君主が色香に迷って国を亡ぼす)と書いては都傾くと読まれしも、今こそ思い知られたれと仰せながら書き給う。
 御一門の人々も思い思いに起請書き、心々の判をすえ常盤の方に送らるる。
 その後常盤は、清盛になびき給いけり。
 尼公は大方殿、常盤は北の政所、囲繞渇仰(いねうかつこう、敬いかしずく事)中々申しばかりもなかりけり。
 さてこそ寿永(二年)の秋の頃、平家都を落とされ滅び果て給ひしも、起請ゆえとぞ聞えける、かの常盤の心中をば貴賤上下おしなべ感ぜぬ人はなかりけり。

「幸若舞の歴史」


「越前幸若舞(年表)」

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桃井直常(太平記の武将)1307-1367