和泉が城

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1 梶原景時の調伏
 さる間、判官殿(源義経)高館(奥州)の御所に移らせ給いて、昨日今日とは申せども三年になるは程もなし。
 (藤原)秀衡入道、いつきかしつき(大切に面倒を見て)申す、奥州五十四郡の大名小名、皆この君(源義経)に思い付申し非番当番(勤め)隙もなく、いねうかつこう中々申す計はなかりけり(敬いかしこずく事は口では言い表せない程であった)。
 さる間、梶原(景時)は、嫡子の源太(景季)、二男平次を近付けて、さても判官殿(源義経)が奥州へ御下向あり御威勢を申せば月に重なり日に増る。
 ことさら、この間は、高尾の文学上人(後白河法皇から平家打倒の院宣を取り付け源頼朝に差出したのが文学(文覚)上人)、鞍馬の東光坊(牛若丸は鞍馬寺の別当東光坊阿闍梨蓮忍に預けられ修行した)が、奈良のとつこ(得業、東大寺座主)の御坊にて御兄弟(頼朝と義経)の御仲、直し申さんとの御内談と承る、(もしも)上は御一体になれば終にご(御)和睦有るべし。
 もし、さもあらば判官殿(源義経)、摂津の国の渡辺福島にての逆櫓の遺恨(源義経は戦奉行梶原景時が軍議で、船のへさきにも逆櫓を付けるとの進言に反対し僅か5艘150騎で平家の屋島を急襲)、今までもいかでか忘れ給うべき、さあらんにおきては我等父子(ふし)供引き出され斬られんことは治定(ちじょう)なり、如何はせんと申しつつ案じ患うばかりなり。
 源太(梶原景季)承り、仰せの如くこの君(源義経)在鎌倉ましまさば、我等が家の大事これに過ぐべからず、されば昔が今に至るまで力に及ばぬ仇をば払しむに申すならいの候。
 叶わぬまでも判官(源義経)殿を調伏召されて御覧ぜよと申す。
 梶原(景時)実にもと思い、やがて若宮(鶴岡八幡宮)の別当僧正に参り、判官(源義経)殿を調伏すべきよしを一圓(ひたすら)に頼む。
 さる間、(若宮の別当)僧正固く辞退あれけれども、一命に懸けて頼み申す間、力に及ばず了承し、吉日選び給い一所を清め荘厳(宗教的空間を飾りつけ)し、四面の壇を飾って調伏の護摩をぞ焚かれける。
 抑えて呪詛の壇と申すは、息災・増益(ぞうやく)・敬愛・調伏とて、以上壇は四壇なり。
 息災の壇は、東向いてぞ行わる、増益は南向き、敬愛は西向き、さて調伏は北へ向いて行わる。
 供物の様こそ恐ろしけれ、(護摩壇で焚く)乳木に山空木(やまうつぎ)、焼香に毒蛇の骨、供具にはひつし(櫓、稲を刈り取った後の株から生えた稲の実)の飯を盛り、灯火にイモリの油、閼伽(あか、仏に供える水)には、白蛇の水を垂れ。
 飲食日々に変わって、初七日は地蔵の法、二七日は阿弥院の法。
 三七日に成りしかば、取って押し降ろして内縛外縛の印(護摩業の時に結ぶ印相)を結んで、烏枢沙摩明王、金剛童子の真言にて重ねて七日祈りけり。
 この法にて叶わずば、僧正が命を召さるべしと独鈷(密教の法具)を持って胸を叩き、三鈷(密教の法具)を持って、脳(なつき、頭)を打ち、頂を打ち破り頂上よりもあゆる血を護摩の火へ取ってかけ、いらたか(角張った)数珠を押し揉んで、責めに責めてぞ祈りける。
 余りに強く責められて、西方に立ち給う大威徳の召されたる侍者(ちしゃ)の牛がわっと吠えて、北へ向かって諸膝折って伏しければ行者これに力を得、一字金輪五壇の法、六字訶梨帝、八字文殊不動延命大威徳明王、内縛外縛に差し掛かり、責めに責めて祈りければ、四七日の曙に、壇の上に黒雲がかかって、不動の利剣に生血が付いて生首壇より転び落ち、ししっと笑ろうて失せければ、一方は成就したりとて壇を破らせ給いける、あら、ありがたや仏は広大慈悲とは申せども、祈る験(しるし)ぞ現れける。
 されども判官(源義経)殿には負い給わで、(藤原)秀衡の身の上となって病の床に伏し、今を限りと見ゆる。

2 藤原秀衡の病床
 かくて、(藤原)秀衡、(長男西木戸国衡)太郎、二男は伊達次郎(泰衡)、三男和泉三郎(忠衡)、(四男)四郎元吉、樋爪の五郎(通衡)とて五人は男子にて、乙和姫にてぞ候いける。
 今を限り見みえし時、兄弟の者共を跡や枕に近付けて、いかに兄弟物を聞けそれ弓取りの亡き跡に一門兄弟不安なれば必ず家は破る(滅びる)なり。
 兄は弟を憐憫(れんみん)し、弟は兄に従うべし、君(源義経)を敬い奉り民をも深く憐(あわれむ)べし、その他神拝、まつりごと、秀衡が亡き跡に、少しも違ゆる事なかれ。
 いかに、和泉の三郎(忠衡)、高館殿へ参り君(源義経)をお供申すべし、それがし、最後に申したき子細有り。
 (和泉三郎)忠衡承って、急ぎ高館殿へ参り、この由かくと申し上げる。
 判官(源義経)大きに驚き給い、伊勢の三郎義盛、亀井の六郎重清の彼ら二人をお供として、(藤原)秀衡が館に移らせ給う。
 (藤原)秀衡、斜めに(特別に)喜んで五人の子供に介錯せられ起き直り、手水うがいし(身を清めて)直垂の上ばかりを着し、君(源義経)に対面申す。
 只今、我が君(源義経)を申し入るる事、別の子細にて候わず。
 (藤原)秀衡こそ娑婆の縁尽き果て冥途黄泉の旅に赴き候、子供数多候えども御目に掛り候ごとく、いずれも若き者にて候ほどに恐れながら君(源義経)を証人に立て参らせ所領が分けたく存知候。
 まず、(長)兄にて候ほどに、西木戸太郎(国衡)にこそ惣領を申し付けたく候へども、君(源義経)御存知の如く秀衡が子孫において嫡子に惣領を持たする事の候わねば、家の惣領をば(二男)伊達の次郎康衡に申し付け候。
 東海道にとっては、伊達の郡、信夫の郡十五郡の所を惣領職にて候ほどに(二男)伊達の次郎(泰衡)に取らせ候。
 西海道にとっては刈田の郡、柴田の郡、雲井、あんぜ、かれこれ十五郡の所をば、(長男)西木戸の太郎(国衡)に取らせ候。
 松島七郡をば(三男)和泉の三郎(忠衡)に、塩釜六郡をば(四男) 四郎元吉に、樋爪の郡八郡をば末の冠者に取らせるなり。
 武隈西海分二郡をば、乙(和)姫に取らするなり。
 片田の郡をば、後家分に参いらする、さてまた出羽は十二郡小国にては候へども、我が君(源義経)に奉る、御馬の草飼い所とも思し召され候べし。 

3 藤原兄弟の起請文
 あら、名残惜しの我が君や、君のかくて御座ある事、御本意にてはあらねども、世に従えば苦しからず。
 秀衡空しく(死)なるならば、鎌倉(頼朝)殿より我が君(源義経)討って参らせよと謀り御判下るべし。
 それを真と心得て君(源義経)に不忠を致すならば、神慮の憎まれかぶって秀衡が子孫絶えぬべし。
 何とてか、世の中の思う様にはあらざらん、御兄弟(頼朝と義経)の御仲直りありて鎌倉の御供をも申さばやと思いしに、只今空しくなる(死ぬ)事よ、これのみ心に掛るとて、不覚の涙流しけり。
 子供承って、御心安く思し召せ君に全う二心(裏切)有るまじき由を申す。
 秀衡聞いて、あら嬉しや候、その儀にてあるならば未だ今生に生きの通う時、起請(文)を書いて我に見せよ。
 兄弟承って容易き間の事とて松島大明神の牛王を申し降ろし、兄の西木戸(太郎国衡)を始めとし各々起請をぞ書きたりける。
 抑えて起請文の意趣は(前九年後三年の合戦の際)、八幡太郎義家この国(奥洲)に下向ありて、安倍の貞任を攻め亡ぼし、我らが先祖御館(みたち・当主)の(藤原初代)權太郎清衡にこの国の守護を給発しよりこのかた、その子に(藤原)小次郎基衡、今の秀衡まで三代、国穏やかに治まり、かたじけなくも、一天の君の宣旨を被ぶり弓矢の家の名を得し事、しかしながら、当家の御恩たり。
 なんぞ、この君の御等しからずや、これを違背(背く事)申さば、上は梵天帝釈、下は四大天皇、下界の地には伊勢天照大神を始め奉り、王城の鎮守、八幡大菩薩、鹿島、香取、諏訪、熱田、別而は(特別に)氏の神、松島の大明神、総じて六十六ヶ国の大小の神き冥道を驚かし奉る所。
 この君に、二心(裏切)あるならば、秀衡が子孫絶え果て、今生にては弓矢の冥加長く廃り、来世にては奈落に沈み紅蓮大紅蓮の氷に閉じられ浮かぶ世さらに候まじ。
起請文くだん(件)の如し(以上)、文治四年十二月廿三日、西木戸太郎国衡、判と書きければ、次弟も起請を書き、各々判をすべたるは、さて身の毛もよだつばかりなり。
 秀衡これを見て、起請の面神妙なり、先ず惣領(次男伊達次郎)泰衡が起請をば氏神松島大明神の御宝殿に納むべし、西木戸(長男太郎国衡)が起請をば我が君に奉れ、和泉の三郎(三男忠衡)が起請をば入道が冥途の証拠に持つべしとて肌の守りに懸けにける、残り二人が起請をば灰に焼いて水に入れ兄弟五人の者共が次第次第に飲んだリしは例少なき次第なり。

4 藤原秀衡の死
 秀衡これを見て今は心安く候、それ人の死するには末期の一句と申す事の候。
 それがしが一句には、戦の様を申すべし、秀衡空しくなる(死)ならば、定めて、鎌倉殿より判官討って参らせよとの謀り御判下るべし。
 一度の使いに御返事は申しぞ、二度の使いは討って捨てよ、三度にもなるならば、鎌倉勢が立つべし討手向かうと風聞せば、軍兵ども相触れさせ伊達の大木戸切り防さぎ、亀割坂に関を据え五人の子供は大将にて、西塔の弁慶を戦奉行に定めて、覚ざまし戦せさすべし。
 軍兵尽くるものならば、高館殿に火をかけ、達谷窟か切山か禅定へ君(源義経)を移し奉り、兄弟五人の者どもは、刈田、村田、相田の城、四十八の城郭におつとり籠って五年も十年も防ぎ戦うものならば、鎌倉勢の長陣は、思いもよらぬ事にてあり、さあらば、時刻移って御兄弟(頼朝と義経)の御仲は終り直らせ給うべし。
 もしさもあらば汝等は九郎(源義経)に忠ある侍とて関東へ召出され勲功勧賞に預かるべし。
 たとい、秀衡死したりとも、草の影にて、それがしが鉄の楯となって守るべきぞや子供どもとて、さも高声に宣へども、次第次第に弱りければ、君を始めて子供ども皆涙をそ流しける。
 なを、なを、申したき事候へども、餘(あまり)にくたびれ候程にしばらく休み申さんと、これを最後の言葉にて、文治四年十二月廿四日の曙に、九十八と申すには、明日の露と消えにけり。

5 源頼朝からの命令
 子供一族集まりて、嘆くと申すもおろかなり、ことさら嘆かせ給しは、高館殿(源義経)にてとどめたり。
 果報なき義経や二歳の春の頃、離れ申せし父御をば、まだ幼少の事なれば、夢ともさらにわきまえず、今、秀衡に離るる事、二親に遅れるる思いかな、義経こそ世に有らば、いかなる恩をも与ゆべきにあまつさえは、秀衡に譲り置きつる事ともこそ何より持って恥ずかしけれ、何となりゆく、憂き身ぞと流涕焦がれ給いけり。
 ただとにかくに、恩にしくはあらじとて、御喪服をめされて野辺まで送らせ給いけり、ただ義経の御果報の尽くるゆえとぞ聞こえける。
 さる間、七日七日をば子供請け取り思い思いにぞ弔いける。
 三十五日にあたる日は、閻魔の庁へ参る日なれば、義経弔はんと仰せあって自らお経あそばし、数の御僧供養し、様々の御弔いなり、草の影なる秀衡もさこそ喜び給うべし。
 四十九日と申す日は松島の別当を供養し申し十七日の御法談(説法談義)有り、さても秀衡申せしごとく案にも違わず、百か日も過ぎ去るに鎌倉殿よりも判官(源義経)討って参らせよと謀り御判、西木戸が館につく。
 西木戸が中の廷にて兄弟五人の者共開いて拝見仕る、その御書に曰く。
 何とて奥(洲)の一統は、世に無き義経と一味し、頼朝に敵をなすてういわれなし、早悪心をひるがえし義経がこうべ(頭)を切って関東へ捧ぐるならば、勧賞には上野、下野、甲斐、信濃、武蔵五か国をあておこなう。同じく受領は望みたるべし、件(くだん)の如し(以上)。文治五年三月一日源頼朝判と読んだりけり。

6 和泉三郎忠衡の忠義
 子供これを承って、仰せの如く、世にも御座なき判官殿(源義経)を、主と頼み申せば、降りましき所にて、馬より降りるも無念なり。
 いざこの君(源義経)を討ち参らせ、上野、下野、甲斐、信濃、武蔵五か国を五人して、知行せんと申し、おのおのこの儀に同じけり。
 其の中に三男和泉三郎忠衡は、烏帽子の先を地に着け涙を流し申すよう。
 父秀衡、我らに起請を書かせ、世にも嬉しげにて、過ぎさせ給いしに、今いく程もなき間に、かようの謀反を思い立ち父を地獄に落とし申さば、天命いかで逃れるべき。
 この事においては、思し召し留まるべし、それに承引無きならば、忠衡(三男和泉三郎)は、御免あれ。向後、対面申すまじと座敷を立ちて帰りしを、誉めぬ人こそなかりけれ。
 その後、和泉の三郎忠衡は我が宿に帰り女房に言う様は、さても面目もなき申す事の候ぞ、それを如何にと申すに兄弟の人々の敵となり給い、我が君(源義経)を討ち申さんする企みの候、何ほう浅ましき次第にて候。
 女房聞いて、あら浅ましき事や候、秀衡殿に遅れさせ給い今いく程もなき間に、兄弟の人々の敵となり給いなば、さて我が君(源義経)は何とならせ給うべきぞ、たとい自ら女の身にて候とも、高館殿に参り、君(源義経)のお供申すべし、さて、(和泉三郎)忠衡は何とか思い給うらん。
 和泉(三郎忠衡)此れよし聞くよりも、さらさら別の子細も候らわず、定めて兄弟の人々の心中には今夜の内、高館殿(源義経邸)へ夜討ちに寄する事も候べし、見継(応援)勢を参らせんと屈強の兵を二十七騎すぐって高館殿へ参らせて、我が身はただ打解けて(油断して)最期を知らぬぞ哀れなる。

7 和泉が城を攻撃
 さても、西木戸が館には残る兄弟の者ども、さもあれ、和泉三郎 (忠衡)が我らを制止かね座敷を蹴立てて、立ったるものかな、時刻移して叶うまじ。
 和泉(三郎忠衡)に腹を切らせ、九万八千の軍神の血祭りにせん、もっとも然るべしとて照井、金沢、鳥の海に三千余騎を相添え、和泉が城へぞ、寄せたりける。
 かの和泉が城と申すは、三方は衣川、一方は堀を掘り、逆茂木を引き用心厳しかりけれども、実には寄せ手は案内有、または、にわかの事にて有り間、一二の木戸へ押し寄せ、鬨をどつとあげる城の内の兵、思いより無き事なれば、仰天(慌て騒いで)ひしめいて見ゆる。
 和泉(三郎忠衡)これよし見るよりも、何を騒ぐぞ面々は、父の遺言の旨を一端言いつる所に、かように情けなく寄せんとは夢にも知らず、如何に誰か有る、寄せ手の大将は誰にて有るぞ聞いて参れと下知をなす。
 関の四郎承り太刀はき、矢負い弓持って大手の櫓に走り上りて、大音上げて呼ば張る、ただ今、そこ元へ寄せ来たったるは天下の討手にては、よもあらじ私の宿意か、又、盗賊人か、怪しや名乗れ聞かんと言う。
 寄せ手の大将、照井の太郎がこれを聞き、謀反の起こりは存ぜねども惣領殿の御下知に寄り照井、金沢、鳥の海三千余騎を給わって、これまで参りて候。
 忠衡(三男和泉三郎)は御腹召されよ、方々は兜を脱ぎ何れも主にてましませば、惣領殿へ降参申して命を継げとぞ言うたりける。
 関の四郎がこれを聞き、からからとうち笑い、和殿原(あなた達)が習いかや、主の先途(危険困難)を見捨て降参する法やある、受けて見よと言うままに尖り矢取って打ちつがいよつ引いて放しけり。
 一陣に進んだる、鳥の海の三郎が胸板にはっしと当たり不掛(無造作に)後ろへ抜けたりけり。
 寄せ手も他門であらざれば、ああ、射たりや、射たりやと、誉めたりけり。

8 高館にも聞こえる
 さても高館殿と和泉が城とは、その間、十八町の所なれば、鬨の声や叫びの音、手に取るように聞こえければ、判官、武蔵を召され、和泉が城にあたって鬨の声の聞こえるは、いかさま兄弟の者共に討たるるとおぼえたり。
 これというに義経か身の上なり、急ぎ見継(応援)とぞ仰せけり。
 承りと申して、御所侍三十五騎、和泉が郎党二十七騎、細畷(なわて、真っ直ぐ道)にかかって、駒を早めて打ったりけり。
 道にて武蔵、言う様は、待てしばし方々この合戦と申すは、和泉に野心があらばこそ、ただ我が君への心変わりの合戦なり。
 高館の御所へ、定めて討手向かうべし、押し隔てられ叶うまじ、いざや、御所へ返って君を守護し申さんとて、みち(途中)よりも引き返す。
 これと申すも忠衡(三男和泉三郎)が運の尽きたる所なり。
 和泉が郎党申すよう、主の先途(危険困難)とて候へば、暇申してさらばとて、駒に鞭をもみ添えて、揉みにもうてぞ鞭を打ったりける。
 照井の太郎がこれを見て、すはや高館よりも見継(応援)勢のあるぞとて、左右へはっとぞ退いたりける、陣を二つにかけ割って内へ一所に加わわったり。
 照井の太郎が申すよう、これほどの城郭を時刻移して落とさぬは無下に不覚と覚えたり。
 出で出で隆直(照井太郎)先駆けせん、我と思わん者あらば、続けやと言うままに、長刀を横たえて、真っ先にこそ進みけれ。
 続く兵の誰々ぞ、三輪の六郎、宇陀の藤次、あいた(秋田の)の兵衛を先として七十五騎にて切って入る。
 城の内の兵、すきさし(城側の軍勢の名) 、隆直(照井太郎)先として二十七騎切って出で、ここを先途と戦うたり。
 この者共と申すは、敵味方と言いながら、あるいは伯父甥兄弟なれば、他人よりは恥ずかしく、一足も退かず、しのぎを削り、鍔を割り、切っ先よりも火焔をい出し、ここを先途(危険困難)と戦うたり。
 寄せ手は、あいた(秋田の)兵衛、中村、古堀兄弟討たるれば、城の内の兵は、堀の端にて十七騎枕を並べて討たれたり。
 あるいは、手負いくたびれて、城の内へぞ引いたるける。
 寄せ手は、さすが猛勢なれば、新手を入れ替え攻めければ、一二の木戸をも打ち破られて、詰めの城にぞ籠りけり。

9 和泉城の最期
 さる間、和泉の三郎忠衡は、兄弟に向かって合戦すべきにあらずとて物具もせず居たりしが、味方ことごとく討ち死にし、はや城中へ乱れ入ると聞こえければ、この上は力及ばずとて広縁さして出ずる。
 女房これを見て、射向け(左側)の袂を引き留め、それ弓取りの跡に思いを残しぬれば不覚の死をする由を承って候ぞや。
 兄弟の若どもをば何んと成れと思し召し捨てて行かせ給うぞや、ともかくも、良き様に計らい給え(和泉の三郎)忠衡殿。
 和泉これよし聞くよりも、実に実にこれも言われて候とて、有りし所へ立ち帰り、七つ五つに成りける兄弟の若どもを、弓手(左側)馬手(右側)の膝に置き、おくれの髪を掻きなであら無残の若どもや、いく程添わぬ物ゆえに、親子の契りと生まれ来て、あまつさえ父が手に掛り、はかなくならん無残さよ。
 父が手に掛るを恨みとはし思うなよ、ただ伯父たちを恨むべし、助けたくば思えども、貪欲不道(人の道に背いた)の伯父共の助くる事は世も有らじ。
 (和泉三郎)忠衡が手に掛り死出三途を嘆き越し閻魔の庁へ参るべし、念仏申せ若どもと涙とともに進むれば、何の心は知らぬどもいたいけしたる手を合わせ、阿弥陀仏、弥陀仏と四五遍申す時にこそ目眩(くれ、くらむ)心は消ゆれども心弱くて叶わじと腰の刀をするりと抜き、兄花若を引き寄せて二刀害して押し伏する。
 弟の花満が此の由を見るよりも、ああ恐ろしの父御や、我をば許させ給へとて、居たる所をづんと立ち、母が所へ逃げけるを後れの髪をむずと取り汝一人行かばこそ、父母も兄も行くぞとてただ一刀害しつつ同じ枕に押し伏せて我が身を抱いて泣きいたる。
 心の内ぞ哀れなる、母この由を見るよりも、あら例なの次第やとて、兄弟に抱き付きしばらく待てよわが若どもよ、やがて追いつき手を控え死出三途を行くべきぞと泣き沈みてぞ居たりける。

10 和泉夫婦の活躍
 さる間、(和泉三郎)忠衡居たる所をづんと立って、あら名残惜しや女房、夫婦の契りも今ばかり暇申してさらばとて、一間所へつと入り糸緋縅の鎧のまた巳の時と輝く(朝の太陽の光を浴び輝く)を草摺り中にざっくと着、高紐上帯しっかりと締め太刀はき、矢負い弓取って、大庭さして躍り出る。
 女房これ由見るよりも、如何に(和泉三郎)忠衡、御身十八、自ら十四の秋よりも片時も離れ申さず、今この時に至って我をば捨ておき給うか。
 しばらくお待ち候へとて一間所へつつと入り、紅の二つ衣(打掛二枚重ね)むずと取って着るままに、萌黄匂いの腹巻(鎧)を草摺り長にざっくと着、高紐上帯しっかと締め白柄の長刀かいこう(掻込)て、和泉(三郎忠衡)と共に切って出づる。
 心の剛なるも道理かな、西国「八島の合戦」に義経のお供申し能登の守の矢先にかかって空し(亡)く成ったりける佐藤継信の妹なり。
 奥州五十四郡がその中に隠れもなき大力の剛の者、(和泉三郎)忠衡櫓に上がれば、女房木戸を固め手追うた味方の軍兵にしばらく息をつがせんと、畳(折り畳み)楯取って差しかざし、大手(正門)の木戸へ向かいしは、げに頼もしき次第かな。
 (和泉三郎)忠衡、櫓の上より大音あげて言いけるは、只今そこ許へ寄せ来ったるは、照井、金沢、鳥の海か。
 汝等程の云う甲斐無し(取り立てて言う価値もない相手)に、かく言うべきにはあらねども、確かに聞いてよく語れ父の遺言、起請の罰、二代相恩の主の旧功かれこれ持って天命いかで逃がるべき。
 あっぱれ(和泉三郎)忠衡、命が二つ欲しきぞとよ、一つの命をは君(義経)の御為に奉り、今一つ残し置き兄弟の人々のなれる果てを見たきぞとよ、只今それがしが、放つ矢、汝等に射る矢にあらず、兄弟の人々に怨みの矢一筋受けてみよ、
と言うままに、三人張り(の弓)に十三束(の矢)取って、からりと打ちつがい、本筈、裏筈一つになれと(力いっぱい)きりきりと引き絞り、かなくり放ちにかつきと放す。
 一陣に進んだる金沢の九郎が胸板にはっしと当たり、立つより早くくつと抜け裏に控えたる番場の兵衛が兜の弓手(左)の吹き返しに、火花を散らいて立ったりけれ。
 これを初めに仕り矢束ね解いて押し乱し差し取り、引き詰め散々に射たりけり。
 屈強の兵を十七八騎、はらりと射られ、少し矢頃を(距離を取る)引き退く矢種尽くれば、櫓をゆらりと飛んで下り、打物の鞘を外して、夫婦ともに切って出る。
 (和泉三郎)忠衡が手並みをかねて知ったる事なれば、嵐に木の葉の散る如く、面を合うる者はなし。
 逃げる者を追い詰め、諸膝を薙ぎ落せば、うつ伏しに伏すもあり、兜の真向を唐竹割に割られて弓手(左側)馬手(右側)へ退くもあり。
 (和泉三郎)忠衡が手にかけて屈強の兵を二十七騎薙ぎ伏すれば、女房が手にかけてよき兵を七八騎手の下にて切り伏せ、残る兵共に痛手薄手負うせて、四方へはっと追い散らし、夫婦手に手を取り組んで、静々と引きたるは人間の業にてなかりけり。
 総じて寄せ手は二百余騎討死す。

11 和泉夫婦の死
 城の中の兵は五十余騎討たれ、残る兵ども、あるいは手負い、また落行きければ、今は竹王丸、月王丸とてわっぱ(雑役の若者)二人ぞ候ひける。
 (和泉三郎)忠衡二人の者を近付け汝等防ぎ矢射よ(和泉三郎)忠衡は心安く腹切らんと言いければ、竹王丸は大手の木戸に走り出で、ここを先途と防ぎ戦う。
 月王丸は火打ち付け竹取出しちょうちょうと打ち付けて、屏風障子に火を掛け、天下霞に焼き立てる。
 さる間、(和泉三郎)忠衡は、兄弟の若共が死骸の辺りに、とうと居て、いかに女房子供と連れて行けやとて、先害せんとしければ、女房刀にすがり付き、あら愚かや(和泉三郎)忠衡、自ら命惜しむにあらねども、女は何と死したりとも、苦しからぬ事にてあり。
 さすがに御身は、名を得たる弓取りにてましませば、悪しく自害をし給いては、屍の上の不覚成り、先、御腹を切り給え、御供申さふらふべし、和泉(三郎忠衡)これよし聞くよりも、実に実にこれも言われたり。
 さらば(和泉三郎)忠衡切るべしと、腰の刀を引ん抜いて鎧の上帯切って除け、弓手(右)の脇にかばと立て馬手へ、きりきりと引き回し、返す刀を取り直し、心元に刺し立て、袴の着際へ押しおろし、臓を掴んで繰り出し、ずんずんに切って捨て、如何に如何にと言いければ、女房これよし見るよりも涼しく切らせ給いけり。
 しばらくお待ち候えとて、和泉(三郎忠衡)の刀押っ取って、切っ先を含みで、うつ伏しに、かっぱと伏す。
 女房は二十九、(和泉三郎)忠衡は三十三、その他の者共も同じ煙と成ったりしは、ためし少なき次第なり。
 (和泉三郎)忠衡が心中貴賤上下押し並べて感ぜぬ人はなかりけり。


「幸若舞の歴史」


「越前幸若舞(年表)」

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桃井直常(太平記の武将)1307-1367