岡山

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1 義経、佐藤兄弟の子に烏帽子親となる
 その後(屋島戦における義経奥州入りをうけて)、佐藤庄司(元治)の後家(乙和御前、藤原秀衡の従妹)、心の内に思う様、それ人間は老少不定夢幻の世の中(人の世の無常であることを嘆き)、昨日見し人今日はなし、我が存生の(生きている)間に、(今は亡き我が子佐藤)継信・忠信が子供(尼公の孫)に君(義経)の御前にて烏帽子を着せばやと(させたい)と思い、(兄藤原)秀衡にかくと語る(相談した)。
 秀衡これに同(意)し、吉日選び五人の子供を引き具し(連れ)高館殿(源義経邸)へぞ参りける。
 二人の嫁、三人の孫、尼公諸ともに、高館殿へ参らるる。
 君(義経)も哀れと思し召し御前に召し連れて、継信・忠信(佐藤)兄弟が有し昔を思し召し、今一しほ(入)の御泪、遣る方のうぞ見え給う。
 尼公涙を留め、ここまで参る事、別の子細にて候わず、継信・忠信兄弟が子供に烏帽子を着せたく候いて参りて候。
 判官(義経はこれを聞いて)なのめに(格別に)思し召し、それそれ秀衡計らえと有りしかば、承ると申し髪を生やし(忌み詞で前髪を切り)烏帽子着せ、御前にかしこまる(敬い気持ちを表し謹んで座る)。
 判官、御覧じ「継信が若をば佐藤の三郎義信、忠信の若をば佐藤の四郎義忠」と(名)付け給う。
 尼公(乙和御前)、なのめに(格別に)喜び「如何に(どうです)和泉の三郎(藤原秀衡の三男忠衡)、兼て申せし(佐藤家に代々伝わる)御太刀を若君(祝いの品として)に奉れ(差し上げよ)」
 承と申して、(和泉三郎忠衡が)御前をまかり立ち(退出し)、佐藤が家の重代(先祖伝来の宝物)と覚しくて金(こがね)作りの丸鞘捲きの御太刀を我が君に奉る。
 御前の御方(義経の北の方、久我大臣の姫、史実では河越重頼の娘郷御前)へも、唐綾(模様が浮き織りされた絹織物)の御小袖、巻絹取り添えまいらする(差し上げた)。
 さて、その他の人々にも太刀、刀、馬、物具(鎧兜)を思い思いに引きたりける(取らした)。
 尼公涙を流しつつ「哀れ同じゅう(ように)候ははば、継信・忠信(佐藤)兄弟の者共、今生に永らえ(生きていて)、若共(尼公の孫)を引き具し、御前にて烏帽子を着ると思いなば、いかがわ(どんなに)嬉しかるべきと、流涕焦がれ泣き(激しく泣き)ければ、二人の嫁と若共も、声も惜しまず泣きにけり。
 君(義経)も、哀れと思し召し、御涙をぞ流されける、御前に有りし秀衡も袖を顔に押し当つる。
 (義経の臣の)亀井(六郎)、片岡(八郎)、伊勢(三郎)、駿河(次郎)、その外上下の人までも皆が涙をぞ流しける。
 父亡き後の元服に、先立つものは涙なり。

2 若の家督相続の確認
 判官、御盃取り上げさせ給い、継信が若に下さるる、盃のこうだい(受けるしぐさ)当座の会釈(その場での礼儀作法)誠に大人しく(ぽく)見えければ、御前に有様人々も皆涙をぞ流されける。
 判官御覧じて、実に実に盃のこうだい(受けるしぐさ)眼の内(物を見るしぐさ)少しも替わらぬ継信なり、汝の父継信は西国(屋島の合戦の折)にて義経が命に代わりたる者ぞとよ、今日よりして義経を汝が父と思えと仰せあって、御前近く召され後れの髪を掻きなでて御涙を流させ給う。
 また御盃を取り上げさせ給い、忠信が若に下され、汝が父忠信は(大将の鎧を付け義経に似せ義経を逃がすため)吉野山にて防ぎ矢(攻撃を防ぐ先手の矢)射(当たり)、その後都に上り(追手におわれて)腹切って大剛の者(勇猛果敢な武者)といわれしも、汝が父が事なり。
 剛なる者の子なれば、汝等までも頼もしく思うなり、父に似たる事よと仰せあって、今ひとしおの御涙やるかたのうぞ見え給う。
 判官御涙を止めさせ給い、伊勢の三郎義盛を召され、(故兄佐藤継信の)小桜おどし、(故舎弟佐藤忠信の)卯の花おどしの鎧を召しい出させ(取出し)給い、父(継信・忠信)が形見に、あの鎧を若共に取らせよ。
 承ると申し、わたがみ(鎧の胴の両肩に懸ける部分)掴んで引き立て二人の若が前に置く。
 尼公涙を流しつつ、あら有難の御諚かな、侍ほど剛なるべき者はなく、剛なる者の子ならずば(でなかったらならば)、か程迄は候ばじ(これほどまでの名誉に与る事はないでしよう)。
 汝ら成人仕り、小弓に小矢を打ちつがい(たとえ若輩であっても実戦に出た時は小弓小矢ででも戦え)君(義経)の御前にまかり立ち、討死を仕れ、構えて不忠を致すなよ。
 もしも不忠を致すならば父(継信・忠信)に劣れる若共と傍輩(仲間)達に言われつつ後ろ指差をされるるならば、(たとえ)家を継ぐと(継いただとしても)甲斐あらじ。
 この事ならでは他事(たじ)もなし(ただもなし)、形見は由なき徒(あた)なる物(空しく無益なもの)、この物具(鎧)をかくて二度見るならば、涙は袖に堰遣らで(こらえ留められて)明け暮れ嘆き沈みならば。
 冥途に赴く(佐藤)兄弟が、なおもや修羅の苦を受けん留め置かせ給いて御覧ずる折々は跡弔せたび給はば、草の影にて兄弟がさこそ喜び申すべき。
 何時まで語り申すども言の葉尽きずまじ、お暇申して我が君と皆一族を引く具して、佐藤が館へ帰りしは哀れ成りける次第なり。
 さる間、(藤原)秀衡、佐藤が家に伝われる家の子、郎等召し出し、君よりの御諚には、佐藤が家の家督をば、二人の若にくだされる、相構えてその旨を存く(まったく、厳守)せよと言い含め、二人は佐藤の家を継ぎ。
 今一人の若をば父の菩提を問わせんと貴(たっと)き寺へ上らせ、まだ幼(いどけ)無き若なれば、秀衡養育仕り、判官の御代を待ちけるは、末、頼もしく覚えける。

3 佐藤兄弟の嫁と尼公髪を下ろす
 その後、二人の嫁たち、髪を下ろさん其のために弁慶を請(たのみ)せらる。
 武蔵そうなく(すぐに)出で来たる尼公申されけるは、如何に武蔵殿。
 継信が御方は信夫が姫、忠信の御方は築山が姫にて候、都の伝手(使者)を良しや悪しと待つほどに(良い便りはまだか悪い便りではないかと案じ待っている間に)、早七年の春秋を送り迎えて候ぞや。
 今は形見(の品)を見るなれば(確認できて)、かくて二人の嫁達の心の程も、いかばかり。
 誠の左右(正しい情報)を聞くなれば、誰を頼みのうつぼ舟(いったい誰を頼みにすれば良いのか夫の死によって心が空になった私たちは頼むべき人が誰も居ない)、主亡き人に繋がれて、浮身の果てはいかならんと皆故郷に帰りなば(婚家との人間関係に縛られ不安定な状態のままいたなら今後どうなるのだろう、繋がれている空舟で、うき身は浮きと憂きを掛け、結局皆が実家へ帰ってしまったなら)。
 この尼一人残り居て思い焦がれて生きて世も、明日まで命長らえし浅ましさよと宣いて、絹引かつぎ倒れ伏し、流涕(激しく泣き)焦がれ給いけり。
 二人の嫁たちこれを聞き、うたての(情けない)尼公の仰せや、兄弟(継信・忠信)の人々西国にて討たれ給いんと聞きしより、憂き黒髪を剃りこぼし(落とし)身を黒染に成さばやと、千度百度(何度も何度も)思いつれども、定め無き世の習にて、もしも命長らえ二度故郷へ帰り給わば、現無き(うつつなき、出家し剃髪)姿にて見え参らせんも、恥ずかしさに今までかくては候え(夫の生死を十分確認する事なしに早まって出家出来ずに居た)。
 この上は武蔵殿髪下ろしてた(賜)べと有りしかば。
 弁慶聞きて、まだ若き姫達なれば、もしも時の道心(出家の志)はひるがえす事の候らふに(あるかもしれないから)、しばらく御待ち候えと、左右無く(すぐに)髪を剃らざりけり。
 二人の嫁達是を聞き、情けなの武蔵殿の仰せや、賢臣は二君に仕えず、貞女は両夫に交えずと申す事の候と、我と髪を切り給へ。
 武蔵これを見、五戒を破るも咎たるべし、この上は力及ばずと五戒を授け、丈なる髪を剃りこぼし(落し)。
 花の姿(若い姫達が出家する姿)を引換えて、(興福寺と東大寺の大和の国の荘園)十市の里の墨衣、今着てみるぞ哀れなる、よしそれとても力なく(今更思い悩んでも仕方がない)、亡き人ゆえと思えば、恨みとは更に思わずや。

4 修行の廻国、岡山での隠遁生活
 さる間、尼公額には四海の波を畳(額に深く大きな皺が寄り)、腰に梓の弓を張り(梓弓のよう腰が曲がって)、年は六十二歳なり。
 継信が後家(信夫が姫)は二十八歳、忠信の後家(築山が姫)は二十三歳、三人の人々は濃き墨染めに身をやつし、奥州五十四郡残らず修行し給い。
 岡山という所(地)に柴の庵を結び、(仏に供養する)香を盛り花を摘み過去精霊(しょうりょう、この世を去った死者の霊魂)と回向し、同じ日の同じ時(佐藤兄弟の妻たち二人と母との三人が同時に往生を遂げる)、空より紫雲たなびき(阿弥陀来迎の時に従う)二十五の(諸)菩薩が天下り大往生をとげ給ふ。
 この人々の心中をば貴賤上下押し並べ感ぜぬ人はなかりけり。

「幸若舞の歴史」


「越前幸若舞(年表)」

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桃井直常(太平記の武将)1307-1367