桃井直常(年表)

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直常.jpg桃井直常
◆1307◆ 徳治二丁未年三月五日足利一族の桃井直常は上野國群馬郡桃井郷(群馬県北群馬郡榛東村)生、父桃井貞頼、母は新田支族堀口三郎貞満(後美濃守)女、幼名徳若丸、嘉禄年間桃井荘の莊司に任ぜられ荘園経営に当たり東に三ノ宮荘をも取り込み領域を広げる。
◆ ? ◆ 桃井直常は桃井次郎尚義(後遠江守)の女を妻とる。桃井直常嫡男直和生まれる、幼名又太郎。
◆1333◆ 元弘三癸酉年後醍醐天皇討伐軍として足利高氏の上洛、六波羅探題の攻撃に桃井直常従う、功により右馬権頭となる。一方この年五月八日新田義貞は生品明神社前にて旗上、この場に従う者桃井次郎尚義等百五十騎鎌倉攻めにあっては桃井尚義は義貞本隊に属し化粧坂から攻め入る。鎌倉幕府滅亡。
◆1335◆ 建武二年十一月新田義貞は、尊氏追討の宣旨を受け鎌倉へ発向。堀口美濃守貞満、桃井遠江守尚義は新田義貞の朝敵追討軍に随う。新田義貞軍の左方の大将として桃井尚義等は三河矢矧の合戦で足利直義軍と戦う、一方桃井修理亮(義盛)は直義に従い戦う、直義側は大敗し鎌倉へ退却。
◆1336◆ 延元元年大渡の橋の戦で桃井遠江守尚義ら新田義貞軍は、桃井修理亮(義盛)らの尊氏軍に攻められ都へ引き帰す。尊氏入洛。北畠顕家は尊氏を追い奥州より鎌倉に入り明年勝ちに乗じて京都に至る。九州へ敗走途中の尊氏は四国に細川和氏、安芸に桃井義盛等を配し武具兵粮米準備を命じる。顕家鎮守府将軍に任じられ奥州へ下る。足利の大軍海陸路より寄せ兵庫で合戦、楠正成・正季・討死。尊氏の比叡山攻撃では桃井義盛大将として西阪本より攻める。 十月新田義貞は春宮恒良親王を奉じ桃井駿河守義繁等合計七千余騎で北国へ下向、越前敦賀金ケ崎城に入城。 十二月足利尊氏は陸奥の北畠顕家に対抗するため一族の桃井直常(貞直)を北関東に派遣。
◆1337◆ 建武四年陸奥の北畠顕家の先発隊が下野(栃木県)に侵入し小山城周辺を攻め、旗頭である桃井直常指揮下の茂木知政と合戦、北畠勢は軍を引く。七月北畠顕家の尖兵の春日顕国・多田貞綱が小山城を攻めようとしたが、桃井直常(貞直)・茂木知政が城外の乙妻・真々田原、常陸国(茨城県)の関城で迎撃。八月北畠顕家が二度目の上洛に向け奥州に挙兵。 十二月顕家は宇都宮を通り今まで敗れなかった小山で足利方の桃井直常(貞直)、茂木知世らと十三昼夜の猛攻また猛攻により打破り利根川で戦い鎌倉に入る。鎌倉では桃井直常等七千騎で足利義詮を守ったが、奥州の北畠軍は鎌倉を十万騎という大差で占拠、足利義詮・桃井直常等は房総方面に脱出。
◆1338◆ 暦応元年正月北畠顕家軍は尊氏の後を追って近江坂本・京へ向かう途中東海道を前進、六万余騎が垂井(岐阜)・赤坂に到着、この時美濃根尾徳山にいた堀口貞満も兵一千騎を率いて出兵し顕家軍を助ける。鎌倉合戦で敗退した足利勢の上杉憲顕も道々桃井直常・芳賀禅可・今川範国らの軍勢を合わせ奥州軍を追尾し美濃に到着、これに美濃の土岐頼遠七百騎も加わった。桃井勢はみな「たかの鈴」を付けていた、そこで今川勢も笠印として「あか鳥」を馬に付けることとなった。
 【 青野原の合戦 】 正月二十八日青野原(岐阜県垂井町・関ヶ原)で、南朝総師北畠顕家軍六万騎を迎え撃つ室町幕府足利勢の諸将は皆消極的な防衛策を主張する中土岐頼遠が叱咤し決戦を呼び掛けると桃井直常が「それがしも同意見だ、おのおの方は如何か」との発言で一同決戦に決した。そこで後詰めの軍勢八万騎を五手に分け、くじ引きで攻撃箇所を分担、一陣の小笠原貞宗・芳賀禅可らは印食に、二陣の高大和守らは墨保に、三陣の今川範国・三浦新介らは足近に、四陣の主力上杉憲顕勢が青野原にて善戦したが、一陣から四陣までいずれも敗れた。出番を待っていた五陣の桃井直常と土岐美濃守頼遠はその軍勢の中から精鋭一千騎を選び出し顕家本隊四万余騎に攻めかかるが半時ほどで七百騎となる。さらに、これをまとめて顕家の弟顕信軍二万に向かい奮戦したがやがて桃井勢七十六騎・土岐勢二十三騎となり退けられ、桃井直常は京都に入る。この戦三陣今川範国の子今川了俊は「難太平記」の中で、この青野原戦の時の事について桃井直常は「戦というものはお互い退かなければ身の安全を保てない、先手を打った敵に対しては少し退き味方の態勢を立て直して攻め駆ければ敵も引き退く、その中で機会を捉えて勝利を得るのを高名(てがら)というものだ」と語った、後に今川範国は「桃井は強敵には何度も負け戦をするような人だ、人の天命はそのように故実によって逃れることはできない、まず戦ってどうしようもなくなって力尽きた時に退くものだ」と言ったと書いている。
 【 般若坂の合戦 】 正月堀口貞満四十二歳を以って越前に没す。顕家は越前で盛り返した新田義貞との合体をきらい伊勢から京都をまわり南都(奈良)に到着。 二月足利尊氏は之を攻めんと欲して将を選むに難やむ高師直曰く「桃井直常・桃井直信兄弟は勇にして敵軍恐る。之を遣はすに若かず」と、尊氏之に従う。桃井直常と弟桃井直信は、尊氏の命を受けて即日之に赴き顕家を大和国入口にあたる般若坂に拒ぐ、桃井直常士卒を激励して曰く「我が兄弟特に此の選に当る今日戦いて或は利あらざれば併せて前功を病せん汝等努力せよ」と下知、桃井勢は曽我師助を先頭に、より抜きの兵七百騎が身を捨てて切って入り決戦大いに戦い猛攻をかける。顕家軍は一、二陣とも破られ数万騎の兵は散り散りとなり顕家も所在不明になる。尊氏未だその功を録せず、京に戻った桃井直常喜ばず。
 【 男山八幡の合戦 】 暦応元(1338)年二月、顕家の弟顕信散卆を収集して男山(八幡山)に陣を取って京を伺う。高師直大軍を率いて八幡山を取り囲みこれと戦うも利あらず、尊氏諸将を遣はして之を撃たんと欲す、将士桃井直常らの賞なきを視てあえて往く者なし、桃井直常これを聞いて「われ命を受けずというも座してこれを見るに忍びず」とひそかに馳せて男山に至りて戦うこと一昼夜、殺傷多く死者枕籍す・京童(きょうわらべ)達はその奮戦の地を桃井塚と名付けたという。
 五月桃井直常若狭守となる。北畠顕家は和泉の阿倍野で討死する。 七月越前守護斯波高経軍は、桃井直信・能登守護吉見頼隆らの援軍を得て、新田義貞を越前藤島で討ち取る。 八月十五日桃井直常次男直知生れる、幼名徳千世丸、父桃井駿河守直常、母桃井遠江守尚義女。九月桃井直常駿河守となる。
◆1339◆ 暦応二年 桃井直常播磨守となる。
◆1340◆ 暦応三年 桃井直常伊賀守となる。
◆1341◆ 興国二年三月将軍足利尊氏重臣高師直は塩谷出雲守高貞の妻の美貌に迷い高貞を讒訴、尊氏は桃井直常・太平出雲守と山名伊豆守時氏を呼び寄せ「高貞が西国へ逃げ下った、討ち取られよ」と下命。直常も太平も宿所へは帰らずそのまま丹波路を追い播磨の陰山で高貞女房・若党と戦う追い詰められた塩治方は家に火を放ち自害、焼けただれた首を取って帰るまでもないと桃井も太平もそのまま京都へ帰る。一方山陽道を追った山名伊豆守は出雲国へ下り着いた塩治判官の首を討ち取る。
◆1344◆ 康永三年越中國は建武中興の際、少将中院定清を以って國司に任ず。明年名越時有の子時兼・乱を州内に作す。朝廷は桃井播磨守直常をして伐って之を平げしめる、これに因って桃井直常は越中國守護を賜る。井上俊清が南朝勢力に内応したため能登守護職吉見氏頼と新たに越中守護職に任じられた桃井直常が井上俊清の籠もる松倉城(新川郡・魚津市)を攻撃
◆1346◆ 貞和元年に桃井直常は、能登国に移った吉見頼隆とともに、新川郡で前越中守護松倉城主井上俊清と交戦、高月(滑川市)で勝利する。
◆1347◆貞和三年七月井上俊清挙兵、尊氏の命で桃井直常が南党井上俊清討伐のため越中に下向、桃井直常は、能登の得田素章・吉見氏頼の支援を受け、井上俊清を松倉城及び水尾城(魚津市)に攻める。
◆1348◆ 貞和四年井上俊清が松倉城にて再度挙兵、足利尊氏は越中守護桃井直常と能登の吉見氏頼に、井上俊清討伐を命じる。十月十二日松倉城を攻略し、井上俊清は内山城(下新川郡宇奈月町)に逃れ松倉城は桃井直常の属城となる。
◆1349◆ 貞和五年七月二十五日付桃井刑部大輔直常宛御教書を奉って署判し、上杉重能が高師直に代って執事となる。能登守護桃井義綱(兵部大輔盛義)が南朝討伐に赴く。 八月十日尊氏は丹波篠村八幡に詣で、土御門高倉の新館に移る。同十二日師直の屋敷へは山名時氏・今川範国・吉良貞経・二木頼章・桃井義盛・畠山国頼・細川清氏・土岐頼康・佐々木秀綱等が集まる。直義は尊氏の館に入る。同十四日師直兵尊氏の館を囲む。直義は政治に口入れを止め足利義詮を鎌倉から呼び寄せることで和睦。
◆1350◆ 観応元年六月高師泰は足利直冬追討の為京都出発。 七月桃井左京亮は直冬の命で師直・師泰討伏の兵を召す。足利尊氏・弟直義と隙を生ず。 十月十五日夜大友氏の代官が京都を退出、少弐氏の在京代官が逐電、桃井直常ひそかに意を直義に通じ都を退出し越中に帰る。越中守護桃井直常は南朝方勢力と組んで度々能登に乱入するなど松倉城を拠点に活発な軍事行動を開始。 十一月直義方桃井直常に続いて弟の桃井刑部大輔直信が数千騎で能登に乱入、街道筋を占拠し高畠宿に布陣、金丸城に拠る尊氏派の能登守護桃井義綱(兵部大輔盛義)と激しい攻防戦を繰り広げる。 十二月十三日直義再び吉野に帰順す。直義が吉野側についたことで足利側の畠山国清も直義軍に参加、都に残っている足利義詮は尊氏に急使を送るが尊氏や師泰が反転して都へ戻るより早く直義は天王寺・八幡へ進出。直義は桃井直常・石塔頼房・山名時氏・斯波高経らを加えて陣営を強化。
◆1351◆ 観応二年正月八日桃井越中守直常も直義に呼応して越中を立って能登・加賀・越前の勢を相催し七千余騎にて夜を日に継いで京に上る、折接雪おびただしく降り馬の足も立たなければ兵皆馬より下りて橇を懸させ、二万余人を前に立て、道を踏ませて過ぎたるに、山の雪氷で如鏡なればなかなか馬の蹄を不労して七里半の山中をば馬人容易越して、近江阪本に進撃。同十三日桃井直常兵叡山から雲母坂を下り松ヶ崎辺に放火。同十五日留守を守っていた足利義詮はしだいに包囲され、ついに京を放棄して尊氏と合流するため中国筋へと逃れた、代わって桃井直常入京し高師直・師泰の館を焼く。同十七日直義は京都の警衛を斯波高経に命じる。足利義詮は、西国へ落ちのび尊氏と合体後、尊氏と京に入る。
 【 秋山光政・阿保忠実の賀茂河原一騎打 】 観応二(1351)年正月、足利直義方の桃井直常は足利尊氏勢の軍と四条河原にて戦う。尊氏側の第一軍高師直が大宮通り四条河原へ出たければ、これに対して桃井直常は東山から下り賀茂川を境に赤旗一揆、扇一揆、鈴付一揆各武士団二千余騎を三箇所に分散布陣、射手を前戦に進め垣盾に三百帖つき並べて両軍が相対しにらみ合いが続く中、やがて桃井軍の扇一揆武士団の中から身長七尺黒髭に血を注いだような眼、火威しの鎧に五枚シコロの兜の緒を締めくわがたの間には太陽と月を描いた紅色の扇を全開、夕日にその扇が真っ赤に染まっている手には一丈強の長さの八角形で両端に金具を付けた樫棒を持った一人の男が、口から白泡ふく白瓦毛の太くたくましい馬にまたがり、たった一騎最前線に現れ大声で「我は清和源氏の後胤で秋山新藏人光政なり我こそはと思う者は名乗ってこれへ出られよ、いざ勝負、華々しい打物をして見物の衆の眠りを醒まそうではないか」、すると高師直軍の中から丹党(武蔵七党の一つ)武士団の阿保忠実が馬を進めて前線に出てきた、連銭葦毛の馬に厚い房を掛け唐綾威しの鎧と龍頭の兜の緒を締め、四尺六寸長カイシノギの太刀を抜いて鞘を川に投げ入れ三尺二寸長の豹皮の尻鞘かけた金造りの小刀を腰にはき唯だ一騎大勢の中から駆け出で「事珍しくも承る秋山殿の御詞、我は将軍家執事(高師直)の家臣阿保肥前守忠実と申す者なり、忠実の手柄を試みた後にこそ広言を吐き給へ」と声高に叫んで馬を歩ませた、両軍の兵あれを見よと数万の兵が戦場にも関わらず息を凝らして見入る中、三回戦って三回引き離れ、見れば秋山の棒は先五尺が折り切られ無くなり手元部分を残すのみで、阿保の太刀も鍔元から打ち折られ腰の小刀のみになった。全く見事な戦いであった。高師直これを見て「忠実は力量では叶うまい討たすな秋山を射落とせ」と下知、精兵七、八人が河原に立ち並んで矢の雨を降らす、秋山は体の正面に飛び立つ矢二十三本を棒で打ち落とし、阿保も武士の情けと矢面に自分を置き双方引き分けとなった、万人が目を見張る壮絶な一騎打ちとして後日神社仏閣の奉納絵馬にも描かれるようになった。
 その後桃井直常軍七千余騎と高師直側の仁木頼章・細川清氏軍一万余騎が白川一帯で七、八回衝突戦死者三百で両軍が疲れ兵を休める所へ。尊氏側第二軍の佐々木道誉七百騎が中霊山の南方から桃井軍の後方を急襲。桃井直常・直信兄弟は馬から飛下り敷皮の上に座して大に呼びて曰く「死生は天に存り汝曹一歩も退く勿れ」と戦うこと数刻、尊氏、義詮其の帰路を扼す桃井直常三方に敵を受けて兵士皆疲る遂に敗れて一旦桃井直常は粟田口(左京区)から東山を越えて山科へ退き、その夜は逢坂山(大津市)に陣を取り大篝火を焚いて留まる。直義側が対決の構えを崩さないので尊氏は都を放棄し丹波に退く。
 【 打出浜の合戦 】 観応二(1351)年二月十七日摂津の打出浜で尊氏軍と直義軍の両軍が対峙した。桃井直常は七千余騎の大将として尊氏軍を攻め破る。ついに尊氏軍二万騎の軍勢が千騎足らずにまで打ち滅ぼされ師直・師泰が重傷を負うなど直義軍の前に完敗を喫す。直義は打出浜勝利の後、義詮の政務を後見。二月二十六日尊氏・直義と和睦。人事が改まり桃井直常は幕府引付頭人となる。  
  三月三十日には評定衆斎藤利泰が足利直義の院参に従っての帰途何者かに刺され死亡。 五月桃井直常従五位上の位階を得る。 五月四日には桃井直常は直義邸を訪問しての帰途武士に襲撃される。細川頼春・赤松貞範・佐々木道誉ら京を出て領国へ帰る。 七月尊氏・義詮ら一担京都を直義派に渡す。 八月一日尊氏勢の軍による近江・播磨両方からの京都攻め策略を知った直義は、桃井直常らの進言により身の危険を感じ側近桃井越中守直常・山名若狭守時氏・上杉越後守憲顕らを集め夜中に京都を出、大原路を通り越前敦賀・信濃を経て鎌倉へ逃れる。尊氏は直義追討の宣旨を受ける。 八月十五日桃井直常の越中勢一万騎が、能登赤藏寺(田鶴浜町)に楯篭る尊氏側吉見氏頼軍八千を攻撃、足利尊氏が穴水城主長国連らの応援軍を各地から送り込み、三十五日間の激戦となる。 
 九月十二日近江八相山にて尊氏側桃井義綱(盛義)は直義側桃井直常と一戦交える。九月二十一日能登足利尊氏党の吉見氏顕軍は、桃井直常軍の本営三引御敵城(大塚山)を攻撃、桃井軍の勇将小山田遠江掃部助が夜襲に失敗、高田・垣吉方面に後退し桃井軍はついに荒山峠を越えて越中に引上げる。直義と尊氏との和睦交渉で桃井直常一人が反対し成立しなかったため細川顕氏・畠山国清らは怒って尊氏側に属すなど味方勢の離反により 十月直義は鎌倉に下る。越中の井上一族は足利直義と結ぶ、桃井直常能登へ進行、またこの前後に足利尊氏は吉見頼隆の能登守護を罷免し、桃井兵部大輔盛義を守護に任命、二十三日桃井直常氷見湊を制圧。 十一月四日尊氏は直義追討するため京都を発った。 十二月鎌倉の直義は、宇都宮氏の押さえとして桃井直常に長尾左衛門尉ら北陸道七カ国の軍勢一万を与え上野国(群馬県)へ派遣。一方直義は伊豆国府に控えた。直義軍五十万に対する尊氏軍三千は下野(栃木県)の宇都宮氏綱勢の来援を頼みとしていた。
【 那和庄の合戦 】 十二月十九日上野国(群馬県伊勢崎市)那和庄駐在の宇都宮氏綱勢千五百騎に佐野氏・佐貫氏ら五百騎が加わった所へ、桃井播磨守直常と長尾左衛門尉の軍勢一万余騎とが行合う。宇都宮勢は平々とした野中の小川を前に敵に対し、宇都宮有力家臣団の紀・清両党七百余騎が大手に向けて北の端に控え、中央に氏家太宰小弐周綱隊二百騎、搦手に対し南に薬師寺入道元可・義夏兄弟勢五百騎が陣を張り構えた。両陣互に相待て半時計りを移す処に桃井直常勢七千余騎が時の声をあげて宇都宮勢に打て懸る。桃井側搦手の長尾左衛門尉勢三千余騎が魚鱗に連なり薬師寺勢に打ち係る。長尾勢の一部隊である長尾孫六・長尾平三勢五百余騎が皆馬より飛び下り徒立ちになって射向の袖を差しかざし太刀・長刀の切っ先をそろえてしずしずと小走りして駆けて追いつ返しつ半時ばかり戦うたるに長尾孫六が下立ちける一揆の勢五百余人縦横に駆け悩まされて一人も残らず討たれ全滅すると、桃井・長尾方の軍勢はにわかに浮き足立ち総崩れ、この激しい合戦で多く血が流され戦の終わった後四、五ヶ月も周囲二、三里は血のにおいが漂っていたという。また武蔵高麗郡(埼玉県)でも直義方の武蔵守護代吉江氏が高麗氏・津山氏・野與氏に討たれ上野・武蔵の直義派は一掃されてしまう。こうして薩堙山を囲む直義方にも上野・武蔵の戦況が伝えられ動揺した直義軍は逃亡して直義の命運は尽きる。桃井修理亮盛義能登守護を解任される。
◆1352◆ 文和元年一月直義は、尊氏に降伏し 二月鎌倉で急死四十七歳、毒殺の風聞。尊氏は観応の擾乱で終始足利直義方にあった桃井直常の守護を解任、乃ち斯波高経を守護とする。 閏二月十五日足利直義方に付いた新田義宗(新田義貞の子)が上野で挙兵、武蔵国金井原(埼玉県所沢市)で尊氏と合戦し一時鎌倉を占拠。 四月二十七日越後の新田義宗七千余騎で津張(新潟県中魚沼郡)を出発、放生津(富山県新湊市)に到着、桃井直常三千余騎と合流し能登へ進撃。 六月能登守護吉見氏頼勢が、前越中守護桃井直常討伐のため越中に発向芝峠(一刎城)に陣を置き、水谷城・木谷・三角山城・獅子頭城(氷見市)を攻め打撃を与える。松倉城にある桃井直常は越中守護を罷免されたとはいえ未だ勢力を保つ、越中守護に復帰した井上俊清も桃井直常に協力する。 七月桃井直常再び上野武蔵を攻略。 九月桃井直常越後の新田義宗と共に能登に入り石動山などで戦う。 十二月足利直冬が南朝に帰順を申し入れ和議成立、それを伝え聞いた直義派の桃井直常・山名時氏・斯波高経らも直冬を大将に仰ぎ幕府方と戦うことを誓う。
◆1353◆ 文和二年四月五日桃井直常・直信兄弟が軍勢を率いて越中芝峠に現れる、吉見氏頼が応戦、桃井勢を撃退。 八月能登守護吉見氏頼嫡男修理亮詮頼を大将とする軍勢が、南朝方の桃井兵庫介・能登島西方地頭長伊勢守胤連らを討伐するため、胤連の居館や城砦の金頸城を攻撃、落とす。桃井直常越中立山芦峅寺の衆徒の協力を求めるなどして軍勢を整える。
◆1354◆ 文和三年四月南朝は、柱石の北畠親房が死去すると足利直冬に京都奪回の望みを託した。 十二月二十四日足利直冬が桃井直常三千騎らと京都を攻めようとしたため、尊氏は後光厳天皇を奉じて近江武佐寺へ逃げる。
◆1355◆ 文和四年正月十六日南朝軍の桃井直常・斯波氏頼ら北陸勢六千余騎が直冬に呼応して入京。七条から九条までの家々の小路に陣を張る、桃井直常の臣は秋山臣藏人、阿保忠真等。二十日には足利直冬も山名時氏ら中国勢を従えて入京し東寺実相院に陣を据えた。これに対し尊氏は東坂本(大津市)に、義詮は神南(高槻市)の山に陣取り、山名時氏・師氏父子の山陰勢五千余騎は淀、鳥羽、赤井、大渡に点々と布陣し、淀川の南、八幡の山下には吉良満貞、石塔頼房・和田・楠木の吉良勢三千余騎が陣を張っていた。直冬は、戦いに先立ち東寺に願文「父なる将軍(尊氏)は敵陣に坐します。・・・」を納め戦勝を祈願。戦は二月六日から京の内外で終日続く。
【 二宮兵庫助と細川清氏の一騎打 】 二月八日比叡山から京に突入した足利尊氏の先頭細川清氏軍千余騎が四条大宮で桃井直常軍八百余騎と激闘し、追いつ返しつ終日戦いやがて日が暮れかかった頃、桃井軍から紺糸威しの鎧に紫色の母衣をかけ黒瓦毛の馬に厚総かけてまたがった四十歳位の一人の武将が進み出て「進む時は士卒に先じ引く時は士卒に遅れ退くお方は細川相模守殿であろう、我こそは桃井播磨守直常ぞ一騎打ちにて雌雄を決せん」と挑撥、人から声をかけられ黙っていられない性格の細川清氏は本物かどうかも確認しないまま一騎打ちを始める、しばし激戦ののち清氏は敵将を自分の馬上に引きずり込み首を打った「細川相模守清氏が敵の大将桃井播磨守を討ち取ったり」、雄叫びと共に勝ちどきがあがる、清氏は将軍尊氏に首を届けさせるが、尊氏が確認すると母衣に「越中国の住人二宮兵庫助、屍を戦場に曝し名を末代に留むる」と書かれていた。そこで尊氏側に降伏した八田左衛門太郎に確認させると「この首は桃井直常家臣の二宮兵庫助という者で京に向かう途中の越前敦賀気比大明神前に着いた時敵陣に仁木か細川殿に居合わせたら桃井殿を名乗って勝負を挑むと起請文を書き誓いを立てていたと証言、名を末代まで残すために桃井直常の名を騙って一騎打ちを申し入れたものと判明。
  三月十三日幕府方は七条西洞院に押し寄せる、さらに七条堀川に出撃、油小路が主戦場となる。連合軍を突破した幕府軍の一手が七条大宮に迫り、桃井直常の立て篭もる戒光寺(九条・東洞院)が落ちるに及んで、足利直冬はその夜雨のなかを八幡に退く。入れ替わり尊氏が東寺に入る、尊氏は諸将の前で戦勝記念として功第一の細川清氏に東寺の仏舎利一粒奉請するよう命じる。直冬のあとを追い五万余騎が八幡に落集。直冬は最後の一戦を試みることなく堺浦に落ちた。それを聞き諸将は直冬を大将にしては尊氏を撃てぬと見限りそれぞれの国に帰る。桃井直常弾正大弼となる。
◆1358◆ 延文三年足利尊氏病没 五十四歳
◆1361◆ 康安元年越中守護斯波義将は松倉城主桃井直常に対抗する。
◆1362◆ 康安二年正月十三日足利義詮は反幕府最強の硬派越中桃井直常討伐を決意し、能登の吉見氏頼等北陸武士団に追討を下知。宮方(南朝方)桃井直常嫡男桃井直和越中に蜂起、五月能登石動山城に立て籠もる桃井勢と武家方の吉見氏頼と合戦。桃井直常兵を信濃国(長野県)にあげる。越中國守護斯波高経子義将職を龍ぐ。越中守護斯波高経の代官鹿草出羽守に背き、越中の不満を持つ豪族野尻・井口・長倉・三澤氏らの武士達は信州の桃井直常を引きて馳せ参じ集まり一千余騎にて越中の府中を攻めしむ。さらに桃井直常が加賀に押し出す勢いを示したので、能登・加賀・越前の三か国の軍三千騎が先に越中に進攻し三か所に陣を張る。桃井直常は敵陣が形を整える前に蹴散らす得意の戦法でまず越前勢の陣を崩し、続いて能登勢・加賀勢の陣も崩し、退散させる。桃井直常軍功を得て本営に居し夜軍事を議せんと欲して誰にも言わずに密かに陣を抜け出し越中國新川郡井口城へ行きし間に、能登・加賀の兵三百が桃井軍に投降してきたので越中勢が降参人を大将直常の見参に入れようと桃井の陣へ連れていったが大将を探してもいなかった。「さては桃井直常殿は落ちられたか」と外様の兵は取るものも取らず散った、その為降参人の兵三百が桃井直常の陣屋に火を放ったため本営失火、この時越中勢で生虜となった者百人、切り伏せられたもの二百人。桃井直常は井口城に着く前で味方陣から火の手の上がるのが見え引き返そうとしたが逃げてきた武士達が叫んで曰く「事敗れり請ふ速かに走らんことを」と、直常帰営すること能はず井口城に留る。                               
◆1366◆ 貞治五丙午年九月、桃井直常・井口城(越中国東蛎波郡井口村)に在るの處、斯波義将の為に攻められ、よりて直常は越中國新川郡(富山県魚津市)松倉城に保む。
◆1367◆ 貞治六年正月桃井直常次男直知は越後(新潟県)國府へ出張し奥州國司と合戦数ヶ月に渡る。 四月鎌倉の足利基氏の死によって桃井直常は後髪を剃り出家し上京して義詮に帰順を示す。桃井直常幕府復帰と共に桃井直常弟桃井直信は越中守護に任ぜられる、直信は反幕府国人から土地を没収する。 五月十八日松倉城にて桃井直常病死・越中國新川郡野々市村光国禅寺葬、六十一歳、月真院殿崇光慈仙全源大居士。 七月二十八日中原家領の越中吉積荘を藤懸弾正が押領、そこで幕府の命で桃井直常弟の越中守護桃井直信に止めさせた。
◆1368◆ 応安元年八月桃井直信は越中守護を解任され、代わって斯波義将が越中守護に復帰、早速松倉城の桃井討伐を開始。
◆1369◆ 応安二己酉年四月桃井直常嫡男桃井中務少輔直和等の徒・能州(能登)へ乱入の處、北朝方吉見氏の本拠、金丸城(吉見左馬介頼顕)及び能登部城(吉見伊代入道義頼)に迫る。連日激戦。六月桃井直常嫡男桃井直和は石川郡の平岡野(金沢市内)に陣を敷き、富樫城(加賀守護富樫昌家)を攻略。 八月桃井勢は、加賀の野々市(石川郡)で、能登国守護吉見氏頼率いる得田章房・得江季員らと連日合戦。九月七日桃井勢が北加賀の要港の大野庄湊(宮腰津)を占拠。吉見頼顕の軍勢は桃井直和の平岡野(金沢市)の陣へ攻め攻略。 九月十二日吉見氏頼の能登勢は桃井勢の大野庄湊の大野宿と宮越を奪回。桃井直和は一乗寺城(越中国津幡町)に籠もるも追撃を退けられず、さらに千代ヶ様城(東礪波郡庄川町)へ退く。九月二十四日千代ヶ様城は井口城(越中国東礪波郡井口村)と共に落城し桃井直和は越中国松倉城へ落ち延びる。 十月二十二日能登の吉見氏頼軍は越中守護となった斯波義将とともに、桃井軍の松倉城攻撃に出陣。
◆1370◆ 応安三年三月十六日桃井直和等越中の長沢(婦中町)に出張し斯波義将・加賀守護富樫竹童丸らと戦うが桃井直和討死。徳晶寺誠誉全翁大居士。 
◆1371◆ 応安四辛亥年桃井勢は再起をかけ飛騨国司姉小路家綱等の支援を受け、飛騨から越中礪波郡へ進出し、能登吉見勢と五位荘(高岡市)で戦うが苦戦。 秋七月、桃井の残党蜂起して、松倉城に據りしことあり、足利義満しばしば兵を遣してこれを撃つ・州人多く離散して松倉城陥る、この時の戦で桃井軍は氏族桃井民部丞直弘(桃井直常の弟)、桃井左京進直氏、桃井小次郎氏義、桃井治部少輔義通、掘口弥三郎直満、秋山兵庫介常忠、井口主知近原刑部入道頼當等が討死にする。直常の老臣早馬で越後国府へ注進により桃井直常次男桃井直知合戦を止める、さらに越中帰陣の前奥州勢数萬騎に攻められ僅に十七騎に相成。勢い失って桃井直知は越前國丹生郡の傍にて隠住。
◆1393◆ 明徳四年幸若舞初代太夫桃井直詮生まれる、幼名幸若丸後宮内少輔、父桃井直知死の時僅に十歳で孤に成執事二宮三郎左衛門政長が隠置き幸若丸は比叡山光林坊にいた桃井直常弟直信の子詮信を頼って出家し武芸を修めた、平家物語の八島軍記という草子に節句を附けて歌う、その名吟はついに応永十余年、後小松天皇の叡聞に達し参内、音曲を奏して幸若音曲(幸若舞)と称すよう言葉と桐菊の御紋を賜る、文安五年(一四四八年三月八日)後花園天皇に召され参内奏す叡感の余り従五位上宮内少輔に任ぜられ采地数十町・大小の鼓・幸若右大夫の号を賜り末代まで諸大夫(幸若舞太夫)に列す可き勅命あり。大名としての桃井氏は没落したが、桃井直常の孫桃井直詮は「幸若舞」の創始者である。


「幸若舞の歴史」


「幸若舞(年表)と徳川家康・織田信長」

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幸若舞曲本 - 小.jpg 越前幸若舞
桃井直常(太平記の武将)1307-1367