《幸若太夫関連の文(手紙等)(「朝日町誌」等より抜粋)》
◎ 1569年(永禄12年)正月17日「幸若太夫長広、高田郡吉田に赴き、毛利元就らに面拝、幸若舞を舞う」((広島県)厳島野坂1713)。同月廿二日幸若太夫長広書状(「厳島野坂文書」「広島県史」「朝日町誌」)(棚守左近将監とは厳島神社宝蔵管理者房顕)
乍(ながら)恐令啓候。仍今度者永々至在嶋候之処ニ御懇切之段
忝奉存候。随而去十三日ニ至吉田ニ参着候処ニ、則十七日ニ被
成御対面、一番被聞召候。…委細幸松大夫ニ申含候間、不能再
三候。恐惶謹言
正月廿二日 長広 棚守左近将監殿 人々御中
◎ 1574年(天正2年)正月6日「幸若八郎九郎へ織田信長朱印状(朝日町誌)
於越前国米百石宛行候、全可領知候、楢植田播磨守可申者也。
天正貮
正月六日 信長(朱印)
幸若八郎九郎
◎ 1575年(天正3年) 8月29日「越前国相越記」(山田龍治家文書。朝日町誌による)
一、信長へ札出、(中略)次御成之儀候、幸若ト申舞々参候条、御モテ成ニ舞ヲ可申付ロ、此方ヘ可有御座之由被申出間、近此御懇之儀トテ、二階座敷ニ被居所ㇸ参候。(中略)舞ヲ可被成御聞候と申間、次座敷ニ至テ舞聞者也。舞者烏帽子折幸若以上四人シテ舞之。舞過テ菓子一箱幸若ニ信長ヨリ以祐閑出、舞近此之由礼申退出畢(ことごとくおわる) 、未此方可致逗留由申置帰也、・・・」(奈良興福寺大乗院尋憲の自筆旅日記)
◎ 1575年(天正3年) 9月「織田信長朱印状」(朝日町誌)
「ロロ在所」
一、軍勢甲乙人等濫妨狼藉事、
一、 陣取放火事、
一、 伐採山林事、
右条々、堅令停止訖、若於違犯之輩者、速可処厳科者也、仍下
知如件、
天正三年九月 日 弾正忠《織田信長》(朱印)
◎ 1581年(天正9年) 6月2日「幸若太夫ヘ柴田勝家判物」(朝日町誌)
以田中郷京方、重而打出之内、田方壱町三反小并兄弟居屋敷・
脇大夫弥介・同忠右衛門・同五郎衛門居住地子分目録加披見、
右分令扶助之条全領知不可有相違之状如件、
天正九年六月二日 《柴田勝家》(花押)
幸若小八郎大夫(吉信)
◎ 1583年(天正11年) 5月27日「幸若太夫ヘ丹羽長秀諸役免許状」(朝日町誌)
幸若在所守護不入、可為諸公事諸役免除、若非分之族於申
懸者速可処厳科者也、仍状如件、
天正拾一年五月廿七日 長秀(花押)
幸若大夫在所中
◎ 1583年(天正11年) 8月8日「幸若八郎九郎ヘ(幸若音曲集による)丹羽越前守長秀知行宛行状」(朝日町誌)
領知方 一、三百石 以上 朝日内郡之内
右領地方、今度以縄打之上、村切宛行之条、従奉行前打渡如
帳面、全可令知行、但人足免等之儀、相給人令相談、応高頭
可相究之、為一力於申付者、可為越度、并山林葭萱野・浦川
已下相除之条、田畠屋敷之外、不可有競望候也、仍如件、
越前守
天正拾弐年八月八日 長秀(花押)
◎ 1583年(天正11年) 8月21日「幸若小八郎太夫(吉信)ヘ丹羽長秀知行宛行状」(朝日町誌)
領知方 一、百石 権六文 朝日院内村内 以上
右之通為支配宛行之条、従代官前書渡如帳面、全可領知、
浦川用木有之山、如諸給人並相除之状如件、
天正拾一年八月廿一日 長秀(花押) 香若小八郎太夫
◎ 1585年(天正13年) 6月11日「幸若八郎ロ(九郎)ヘ丹羽長秀(長重)知行宛行状」(朝日町誌)
一、三百石 太郎ロロ 朝日内郡ロ
右為支配宛行之条、任去ロ縄打之旨遂糺明、全可領ロ免人足
諸事応高頭ロ付候、依如件、
天正拾三年六月十一日 長秀(花押)
幸若八郎ロロ(九郎)
◎ 1595年(文禄4年) 9月15日「豊臣秀吉朱印状」(朝日町誌)
越前国大蔵庄田村内参百石事、被加御扶助畢、全可領知候也、
文禄四 九月十五日 《豊臣秀吉》(朱印)
◎ 1598年(慶長3年) 7月28日「香若小八郎ヘ豊臣秀吉朱印状」(朝日町誌)
越前国朝日村之内弐百弐拾四石八斗三升・けい(気比)庄内
百弐拾石壱斗七升、合三百四拾五石内三百石本知、四拾五
石出来半分御加増事、今度以御検知之上相改、令扶助訖、
全可領知候也、
慶長三 七月廿八日 《豊臣秀吉》(朱印)
香若小八郎
◎ 1601年(慶長6年) 9月29日「結城秀康黒印状」(朝日町誌)
御朱印従前々如拝領、知行高三百四拾五石者宛行訖、村付之儀者如望之於田中領印内村之内百五拾三石三斗六升八合五勺・同領朝日村之内百九拾壱石六斗三升壱合令扶助所無相違可領知候也、
慶長六 丑 九月廿九日 《結城秀康》(黒印)