白山権現

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《白山権現と幸若丸》
 幸若丸は帝から給わった草紙三十六冊に「節・詰・言葉」を付け、内容に従って「サシ・色・クドキ」十六節の章句を付け、これを「三十六番の曲折集」と名付けた。(屋島軍)から節付を始めたが、その中の「けいけいほろろの鳥の声」に節付ができないので、日吉神社に参籠して神に祈った。七日目の晩、内陣より神の御声が聞こえた。「越前国の白山権現へ参社せよ。三社の中の社は雉子神である。この神から相伝あるであろう」そこで白山に参り中の社の前で「けいけいほろろ」の句を唱えた。すると童子が現れ「「けいけいほろろ」の句はこのようにせよ」と言って空中に立ってお示しになった。さらに、「末の代に汝の子孫に無理非道を振る舞う者があれば神罰を下す。これを家の重宝とせよ」とおっしゃって、黒く茶色の紙に白く「罰」と書いたものを下された。これが幸若の家宝である。(桃井豁蔵「幸若家系図」)
《平泉寺白山神社(白山権現)》
 平泉寺白山神社は、福井県勝山市平泉寺町平泉寺に鎮座する神社。明治時代までは霊応山平泉寺という天台宗の有力な寺院だった。
 司馬遼太郎の『街道をゆく』に描かれたように、境内一面を覆う苔の見事さで知られます。36歳の泰澄が白山を目指しこの地へ来たとき、木立の中に泉が湧き出ているのを発見し、神託によって神社を建てたのが始まりと伝えられます。最盛期には、僧兵8千人が暮らし、現在も宗教都市の面影を偲ばせる石垣などが残されています。
 養老元年(717年)、泰澄によって開かれたという。中世以降比叡山延暦寺の勢力下に入り、霊応山平泉寺として知られるようになり、豊原寺と双璧をなした。白山信仰の越前側の禅定道の拠点(越前馬場)として山伏僧兵が集まるところとなり、朝倉氏の保護を受けていた室町時代後半の最盛期には、48社、36堂、6千坊、僧兵8千人の巨大な宗教都市を形成した。
 『平家物語』には、平家と木曾義仲方との燧ケ城の戦いで、平泉寺の長吏斎明が木曾義仲を裏切り平家側についたことが書かれている。斎明はその後の倶利伽羅峠の戦いで捕らえられ処刑されているが、一方で義仲はその戦いの後に藤島七郷を平泉寺に寄進している。
 鎌倉時代の初めには、源頼朝に追われた義経主従が、山伏姿に姿を変えて奥州に落ちる途中で平泉寺に立ち寄ったといわれ、義経や弁慶に関する伝説も残っている。
 戦国時代には朝倉氏と肩を並べる越前国の一大勢力であったが、織田信長に攻められたことによる朝倉氏滅亡後の1574年(天正2年)、一向一揆が勃発、逃れてきた朝倉景鏡をかくまった為4月、一向一揆に焼き討ちされて全山を焼失した。その後、豊臣秀吉などの崇敬を受けて顕海が復興し、江戸時代には福井藩・越前勝山藩から寄進を受ける。明治時代に神仏分離令により寺号を捨て神社として残されて現在に至る。
《三馬場と禅定道》
 もともと山は神の聖域として仰ぎ見る存在でしたが、6世紀に大陸から仏教が伝わると、山の霊気に触れ、超人的な力を身に付けようとする修行の場として開拓されていきました。
白山においても、泰澄の開山後、山岳信仰の高まりから修験の霊場として登拝する修行僧が増え、修行登山路=「禅定道」として発展していきます。
 『白山記』(白山比咩神社所蔵)によれば、泰澄が白山を開山してからおよそ115年後の天長9年(832)には、越前、加賀、美濃に登拝の拠点となる「馬場」が開かれたと記されています。馬場という呼び方には、白山へ登る際、馬でそこまで行き、馬をつなぎとめておいた場所、あるいは馬がそれ以上進めない神域への入口だからそう呼ばれたという説が残っています。
 越前馬場(福井県)は現在の平泉寺白山神社、加賀馬場(石川県)の中心が現在の白山比咩神社、美濃馬場(岐阜県)が現在の長滝白山神社で、山伏のみならず白山の水の恵みを受けて生活する農民から霊峰に憧れる都人まで、多くの人が馬場から白山を目指しました。
 泰澄は「泰澄和尚伝記」によると越前国麻生津(現福井市)の出身で、14歳のとき十一面観音の霊夢をみて、越前国丹生郡の越知山で修行を積み、しだいにその呪験力が世に知られ、大宝二年(702年)に鎮護国家の法師に任ぜられた。霊亀二年(716年)はじめて貴女(白山神)の夢告があり山頂を目指すが途中、道に迷い白山権現の使者三足の白雉子に衣の襟をくわえ山頂の方角を教えられ翌養老元年、泰澄は白山に登拝する。養老六年護持僧となり、禅師の位を許されて神融禅師と号し、天平九年(737年)、流行の疱瘡を十一面法によって終息させ、大和尚位を許され、泰澄を号する。天平宝字二年(758年)以後、越知山の大谷に籠り、神護景雲元年(767年)八六歳で同所に没した。
 越前馬場平泉寺を起点とする禅定道は、まず北東にそびえる三頭山に登り、尾根伝いに児卒塔婆を横に法恩寺峠(法恩寺山)を上り、急坂を下って滝波川上流追分で、小原峠越の道に出る。小原村(現勝山市)の出小屋早内森から、泰澄が白山開闢の折、白山権現の使者三足の白雉が山頂の方角を教えた所と伝える雉子神の地を経て川上峠(小原峠)へ出、さらに三ッ谷(現白峰村)を過ぎて、手取川沿いに一の瀬(市ノ瀬)に至る。この地には平岩という所があって、白山禅定の人々の一の垢離をとる所という。さらに六万部山(現六万山)・剃刀宿・慶松平・別当坂・畜生谷・殿ヶ池・真砂坂・蛇塚・弥陀ヶ原を過ぎて、室堂から頂上に至った。


「幸若舞の歴史」


「幸若舞(年表)と徳川家康・織田信長」

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桃井直常(太平記の武将)1307-1367