《幸若丸と足利義視、細川勝元》

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《幸若丸と足利義視、細川勝元》「寛正六年(1465)に許され」の記事から

1 幸若丸の活動
◎ 「管見記」の1442年(嘉吉二)5月8日「当時諸人弄翫せしむるくせ舞あり。家僕等勧進によって今日南庭においてこれを舞う。音曲舞姿尤も感激あり」と公卿西園寺邸を大夫が訪れ南庭での舞が披露された。西園寺公名を感激させた曲舞は、その音曲・舞姿が素晴らしかったことでこれが評判になり、次に推参し披露(5月22日)された時には「見聞の衆前に満つ」見聞衆が満員の有様であった。その後(5月24日)幸若太夫が礼参りに来てその名が知れ渡った「幸若太夫先日の礼と称して来たる」とある。
◎ 「康富記」の1450年(宝徳二年)2月18日「越前田中香(幸)若太夫室町殿(足利義政邸)に参り久世舞これを舞う」。1451年(宝徳三年)3月7日千本炎魔堂越前香(幸)若太夫舞曲舞。
◎ 「織田劔大明神盛衰記」の1454年(享徳三年)9月22日越前織田にある劔神社の法楽に、幸若太夫・猿楽諸太夫が出演。
◎ 「嘉吉記」「応仁別記」の1459年(長祿三年) 「此事山名金吾本意なき事に思われ石見太郎左衛門尉が所為也とにくみ或時三条殿にて幸若舞のありしに貴賤群集しその帰るさに山名郎徒を遣し辻切の様に切らせける」

2 足利義政と幸若丸
◎ 一時は室町幕府八代将軍足利義政の勘気を被ったが寛正六年(1465)に許され足利義政と義視(1439-1491)に仕え細川勝元(1430-1473)に扶持されたのち越前に帰り朝倉氏の保護を受けたとあります(日本歴史大辞典、日本肖像大辞典)。
◎ 寛正六年(1465)8月7日「幸若丸御免可参于今出川殿(足利義視)之由被仰于伊勢守也云々」、8月8日「幸若丸参于今出川殿而可為上首之事。先職可有扶持之云々」、8月9日「幸若丸如元。自細川右京太夫(細川勝元)被加扶持而被進今出川殿(足利義視)。可為御小者之中上首之由伊勢守奉之云々。」(蔭涼軒日録)
◎ 今出川殿は足利義視のことで、将軍義政はこの前年に義視を嗣子としている。細川右京太夫は細川勝元のことで、勝元が幸若丸を扶持して義視の近侍に差上げたのである。寛正六年(1465)には幸若丸は六十三歳である。幸若丸御免とあるから、何か将軍の旨にかなわなかった事があったのであろう。(「幸若舞曲研究の課題」吾郷寅之進)
◎ 細川勝元は、足利義政によって足利義視の後見役に定められていた。「蔭涼軒日録」寛正六年(1465年)8月7・8日条に、足利義政が某「幸若丸」を足利義視に仕える「小者」の「上首」とし、細川勝元に同人(幸若丸)の「扶持」を命じたことがみえる。しかし、「蔭涼軒日録」寛正六年(1465年)12月8日条には、伊予を巡る大内氏との戦いを理由として、細川勝元が「幸若丸」の「扶持」を辞退したことがみえる。細川勝元は積極的でなかったが、足利義政細川勝元に対して足利義視を庇護せよと強いていたらしい。
 足利義視の後見役に定められていた細川勝元は、実際には足利義視との関係に消極的だった。これに対して、山名持豊は自発的に足利義視に結びつこうとする挙動を示していた。斯波義廉も足利義政が義廉廃嫡の意思を固めたころから、朝倉孝景を介して足利義視に結びつく。(「足利義視と文政元年の政変」家永遵嗣)


「幸若舞の歴史」


「幸若舞(年表)と徳川家康・織田信長」

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幸若舞曲本 - 小.jpg 越前幸若舞
桃井直常(太平記の武将)1307-1367