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歴史物語「江戸城(幸若の舞)」大倉桃郎著(1879-1944)~香川県生の小説家・明治文学
1 幸若の舞《抜粋》
頃は後花園天皇の御宇、康正二年の暮春、所は武蔵国川越(埼玉県川越町)の城中である。
城は鎌倉両管領の一、扇谷上杉公の所領で、公の老臣太田資清入道道真が守っている。
道真去る年までは扇谷公の執事であったが、今はその職を長子備中守持資に譲って閑散の身、まだ四十六歳の分別盛りで老いを養ふというにはちと早きに過ぐるが、ともかくも表向きは病とやら世に出やうの望も無いらしく、無事な月日を嗜みの歌道に暮らして風流自在、今日は親しい人々を招いて花見の宴を張ったのである。
舞う少年は中村小太郎重種といふ、入道道真の長子備中守の学問の弟子として前からこの家に養われている。
父の治部少輔重頼は元は京家の者であったが世にあはずして関東に下り、今は扇谷の扶持を仰ぐ、武に秀で文の道にも暗くないといわれ、入道道真とは交じりも深く、今宵も客の一人として我が子の舞を座に見ている。
「 朝夷心に思うやう、あふ酔いたるも道理、また飲うだるも道理、その上弓取は、今日は人の身の上、明日は我身の上なるべし、流石名ある弓取りに如何にして恥を見すべきぞ―――」
連れもない脇もない小鼓大鼓も入らない、開かれた宴の紫縁の畳の上をそのままの舞台として、太夫になったのは十六歳の美少年独り謡って独りで舞ふ。
その頃の世に始て起った幸若の舞「和田酒盛」の曲である。
京では既に位高き人々の間に行われ、もてはやされているとか、天さがる鄙のここでは人伝にその趣を聞及んでいただけ、見るは今宵が始めてである。
少年の姿は優しかった、軽く運ぶ歩み、手にした扇の冴え、真の太夫が舞ふ様も実にがうあらうかと、京を知らぬ一座の関東武士には思はれた、それのみでない舞う人が真の太夫でないだけに、打物取っては他に劣るまじき若武者だけに、優しい中にも自づと弓取りの雄々しさが現れて昔の朝夷を今まざまざと見るかにも思はれた。
「 げにやこのもの藤原兄弟は魚と水との如くにて兄が酒を飲む時は弟が飲まず、弟が飲まば兄が飲まず、互いに用心すると聞きつるもの、今もや弟の五郎が内にあるらんに悪しう懸かって座敷をば立損じ真向う破られ悪しかりなんと存ずれば人も囃さぬ舞を立ってぞ舞うたりける 」
声は清く滑らかに漂った、声の絶間には風吹き過ぐる松の余韻を残すかと聞こえた、立舞う影は淡くのび濃く畳まって連ねた燭の光を辿る。
「―――薄折敷のそばを取ってその頃海道にはやりし硯わりと云う歌のたいをはったと揚げ半時ふんでぞ舞はれける 」
これより前に一座の若武者は、思い思いの隠し芸に天晴自慢、座興を添えた、今様歌も小唄も出た、「 一里けんちゅう二けんちゅう 」古めかしい童謡にあっと一座をどよめかせたのもあったが、少年の舞はそれらの比ではない、今宵の興これが随一と称賛の声も座に満ちた。
軒近の桜は今が盛りである。落花庭を彩り縁に迷ふ、いささかの風に風情も添うて黄昏の小雨も庭篝火を消す程でない火は花の梢の裏を照らして夜の空に艶なる雲の映えを見る。
小太郎の舞は鮮やかに和田一門の宴の様を偲ばせてやがて。「 草摺り切れてのきけれど立つところを去らずして、ふんじ立った曽我の五郎時宗を大力と申してあぢぬ人こそ無かりけれ―――」と静かに舞ひ収めてひれ伏した、賛美の声はどっと起こった、頬に紅をさした小太郎は恥じた面色に座の末に退いた、今宵の興もこれ限りとしてひとしきり回る盃と共に招かれた人々は暇を告げる治部少輔重頼も座を立った。
人去った後しめやかな夜となって入道道真は奥の明書院に酔後の舌に好みの茶を味わう。
京の華奢を学んでの茶事ではない、さればまだ茶室とても無いが道真は風流人である、ちと法には違うが明書院に炉を切って、ここに密かに閑かに心を養うのを例としている。侍るのは小太郎一人である、外はしとしと雨になって庭木に注ぐ音、優しいものの忍び歩きとも聞きなされる内には釜を漏るる松風の響き「 どりや 」と加減を試て手前見事に快い一服を小太郎にも興れる。
赤ら顔の殊に肥え太って目尻に笑むが如き皺を湛へる、剃り丸めた頭に微酔の艶がある。
「 更けたの 」と錆のある声、打ちくつろいだ様に小太郎の顔を愛しげに見て「 疲れつろに 」
「 何しに 」と小太郎の言葉も隔てない語調、京を下って以来此家に養はれた小太郎は道真を第二の父とも思ふのである。
「 大儀であったよ殊に今宵の舞は鮮やかにようしたよ、其方何時の程にか学びつる 」
「 学ぶとて 」と面伏せなげに首を垂れて「 小太郎其道の者にてもおざりませぬ何とて閑のあろう京にある日に見まいたをただおぼろげに覚えまいたばかり今宵とても舞はでもの事を人々に誘はれ酔いに慎みも忘れて浮々と立ちまいた、小太郎恥ぢまする 」と且、口籠る。
「 恥ぢずともぢゃ人々も賞めつるに 」
「 否 」と顔を振って今宵のように身を窄めて。
「 賞めらるるもものにこそ馬上の三つ物兵法なんどの功名ならば身の面目とも思ひまする、舞が何の功名、酒の上の舞ならば舞そこねてあるべきに舞ひそこねてこそ興にもなれ、なまじい仕遂げて賞められて天晴れ功名めかすかと思はるるも恥ずかしい、と舞うた後にはつくづく思ひまいて 」と言葉尻も自ずと淀んで彼は褒められた舞を今更深く悔いるのであった。
道真は気もなく微笑した「はて頑固な小太郎のう何にまれ人に優れたが、ほまれとは思わぬか」
「 さりとて幸若舞が弓取りの道とも覚えませぬ数ならずとも小太郎弓取の家にも生れまいたに成すべき事の疎かにして例から舞に心を寄せつるかと云わるるも心苦しう 」
「 実に然うではある 」とはたと膝を打って「 今云うた言葉は忘れまいもの、ぢゃが其方の事なりや今宵の舞を誰が誹謗つかう可えわ心にかけずともぢゃ、ハハハさばかりの事を 」道真は高く笑った。
其の折から室の外に人があってほとほとと訪れる。「 父上図書之助おざります 」「 源八郎おざりまする 」清しい声と太くたくましい声。―――
《以下省略》2 曲者 3 花一枝 4 入道道濯 5 妖怪 6 美少年 7 飛将軍 8 7年後 9 當滅亡