「三条殿での幸若舞」の時の出来事

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 室町時代の公卿三条実量 (さねかず1415-1484)は、赤松氏の遺臣による主家再興の動きにかかわり,吉野の旧南朝方にある神璽 (しんじ)をうばって朝廷に献納するようにすすめ実現させた。
 この頃、赤松次郎(政則)家の家中に石見太郎左衛門という者がいた。この者がまず三条内府(実量)の元に奉公に出た。宮仕えの労を尽くしたので内府の御意もよかった。
 時々、赤松家の事も申し上げた。赤松家の赦免の事も何とかならないかと申し上げた。
 内府もそれを聞き「さて、何か嘉吉の悪逆を埋めるほどの功を立てられないものか、それならば赦免のこともかなうであろう」と思い、内々に室町殿(足利義政)に申されたところ「勅命を請うのが良かろう」ということになった。
 そこで、天奏をもって伺ったところ「我が朝の御宝が入洛することになれば赦免は子細あるまじ」との勅命であった。
 < 嘉吉三年(1443)南朝の遺臣が内裏に侵入して、三種の神器のうち神璽と宝剣を奪う事件が起きた。宝剣は間もなく清水寺で発見されたが、神璽は吉野山中に持ち去られたままになっていた。 >
 これを聞いて石見は喜び、赤松一族の間嶋と被官の中村太郎四郎と相談して、同志ら十人余りで南帝に奉公することを望み申し上げ接近し、ある夜、忍び入って三種の神器を奪ったところ、吉野十八郷の者どもに気付かれ追いかけられて中村太郎四郎は討たれてしまったが、神璽を奪い返し無事紫宸殿に帰すことができた。
 この事で長禄三年(1459)赤松家は赦免の綸旨に御教書を添えて加賀半国を下された。
 これを聞いた山名金吾(持豊)はこのことを不本意に思われ、石見太郎左衛門尉が三条殿の幸若舞が終わって混雑する中を帰る時、辻切りのようにしてこれを討たれた。
 赤松次郎(正則)の赦免の事を山名が不満に思ったのももっともなことである。
 結局、武衛(斯波家)の騒動から天下の乱が始まって、畠山両家の矛盾から細川・畠山・山名の間に宿意が生じこの一乱が起こって赤松は本国安堵となった。(応仁記38)


「幸若舞の歴史」


「幸若舞(年表)と徳川家康・織田信長」

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幸若舞曲本 - 小.jpg 越前幸若舞