幸若舞と徳川家康
【幸若舞曲一覧(リンク先)】
1 はじめに
前回は、「人間五十年」という題名で織田信長出陣の舞は幸若舞であるという話を書かせていただきました。
2 徳川家康と幸若舞
今回は、徳川家康を中心に見た幸若舞について紹介します。
《徳川家の歴史記録の中で、幸若舞の太夫の事が初めて出てくるのは…》
○ 1560年桶狭間の戦の後、岡崎城の徳川家康(19歳)は織田信長と同盟します。その後三河一帯を治めた家康は、1570年に遠江の浜松城を拠点と変えます。
○ 1572年の武田信玄との三方ケ原の戦いでは徳川家康(31歳)が大敗します。
○ 1575年織田・徳川連合軍3万8千人で武田軍に長篠の戦では勝利します。
○ 1578年徳川家康に変わり嫡男信康が、岡崎城主になった頃の三河岡崎にいた徳川家臣松平家忠の「家忠日記」本のこの年5月6日の項には、「岡崎城へ越前幸若太夫越候(こしそうろう)」とあります。これが幸若太夫と徳川家の初めての歴史記録となります。
《幸若舞「満仲」と嫡男信康(岡崎三郎君)を思う徳川家康の逸話》
織田信長は、徳川家康の嫡男に嫁がした徳姫からの文で、徳川家と武田家の通謀を理由に家康に対し妻子(築山殿・徳川信康)の処刑を命じました。
この時、徳川家老酒井忠次は、安土城に呼び出され、織田信長から「嫌疑十二条」を示されたにもかかわらず弁明することなく、その内の十条を素直に認めます。
家康は、しかたなく二股城主大久保忠世に対し嫡男信康(岡崎三郎君)の監視を命じ幽閉させます。
○ 1579年(天正七年)岡崎三郎君こと家康嫡男の信康は、自らの無実を大久保忠世に改めて強く主張しましたが、結局、服部正成の介錯にて21歳で自刃しました。
歴史書「常山紀談」本の「岡崎三郎君の御事」の中には、徳川家康が幸若舞「満仲」を鑑賞した折の逸話が記録されています。
幸若舞「満仲(まんじゅう)」の曲の内容は、源満仲の子で寺一番の悪童であった美女丸が、忠臣藤原仲光の子幸寿丸の身代により一念発起し、やがては円覚という高僧になっていくという大変劇的な物語の曲となっています。
家康が幸若太夫の舞「満仲」の曲を家臣たちと共に熱心に鑑賞中の事です。音曲の中では、源満仲が自分の息子である美女丸の殺害を家臣である藤原仲光に命じました。
命じられた藤原仲光は主君の心境を察して我が子幸寿丸の首を斬り落とします。そしてその首を主君の子美女丸の身代りとして、主君源満仲に差し出します。この場面に音曲が差し掛りました。
その時、涙を流しながら幸若舞を鑑賞していた徳川家康は、後ろで同席鑑賞中の酒井忠次と大久保忠世の方に振り返り「おお、二人ともあれを見よ。あれをどう思うぞ」と舞っている幸若太夫の方を指さして言われました。
家康のこの言葉に、酒井と大久保の両人は身を震わせて顔を上げられなかったということです。
また、後年(関東に入った時に)、酒井忠次(隠居)の嫡男酒井家次は下総・臼井三万七千石しか与えられなかった、井伊直政十二万石、本多忠勝と榊原康政の十万石に比べ少ない事を、酒井忠次が機会をとらえて所領に対する不満を訴え出た折にも、徳川家康は「そちも、子はいとおしく思うのか」ときつい嫌味を交わしたということです。
《高天神城戦場で舞われた幸若舞》
○ 1581年3月21日、徳川方属城の高天神城を武田軍から奪い返す戦の時、幸若八郎九郎太夫は徳川家康に供奉していました。(「常山記談」栗田刑部幸若の舞所望の事「附記」時田が首実験の事)
城を取り囲まれた武田方の城将栗田刑部は、徳川家康宛てに「幸若太夫が御陣中にお供していると聞き、今では城兵の命も今日明日、哀れ願わくば、これを今生の思い出にいたしたく幸若太夫の舞を一曲所望賜りたい」と文を書きました。
(前号の「人間五十年」織田信長と幸若舞の中で紹介済みの為詳細は省略)
幸若舞「高館」が舞われ、敵味方全員が涙を流し鑑賞しました。舞が終わると城中より茜の羽織を着た敵将最愛の小姓である時田鶴千代が馬で幸若太夫の所まで来て絹、紙、指添等を贈り礼を述べました。
翌日、城門が開け放され武田方全員が討死にし、時田鶴千代の首が取られましたが余りにも美しい顔なので「女の首だろ」と人々は疑いました。徳川家康はこれを聞いて「目を開いてみよ。殺されるとき女ならば恐怖で目を背けるので白眼になっているはずだ。」と言いました。そこで目を開いて見ると黒眼があったので更に幸若太夫に確認してもらい時田の首だと確定されました。
この年の春、幸若八郎九郎浜松城へ出仕御礼以後度々御用(類例略要集の幸若御礼参上の条)
○ 1582年2月甲斐に侵攻した徳川勢の案内役に武田家一族衆の筆頭穴山梅雪がなり、裏切られた武田勝頼は天目山の戦いで自害し武田家が滅亡します。
《安土城で舞われた幸若舞》
天正十年(1582年)五月十五日「信長公記」に、織田信長は、徳川家康の甲州平定の功績として駿河・遠江国を与えている。この時徳川家康は返礼の為に、穴山梅雪を伴って安土城を訪問しております。信長は家康接待の為の御馳走世話役を明智光秀に命じています。また、五月十九日、信長公は、安土城下の惣見寺で、幸若太夫に舞を舞わせてご覧になられました。次の日は「四座(大和四座は結崎(ゆうざき)観世座・外山(とび)宝生座・円満(えま)井(い)金春座・坂戸(さかと)金剛座)の能では珍しくない。丹波猿楽の梅若太夫に能を演じさせ、家康公がこのたび召し連れて参った人々に見せ申して、道中の辛苦を慰め申すように」というご意向でありました。安土御山の惣見寺にては、信長公主催による家康に対する饗応の宴で、幸若舞が行われております。
この日、お桟敷には、近衛(前久)殿・織田信長公・徳川家康公・穴山梅雪・長安・長雲・夕庵と、松井有閑(信長に幸若舞を指導した元清洲の町人)らが入りました。また、舞台と桟敷との中間の土間であるお芝居には、お小姓衆・お馬回り・お年寄衆、それに家康公のご家臣衆が座りました。幸若太夫のはじめの舞は「大織冠」、二番は「田歌」でありました。舞の出来が非常によかったので、信長公のご機嫌はたいへんよろしかった。「お能は翌日に演じさせよう」とおっしゃっていたが、まだ日が高いうちに舞が終わったので、その日梅若太夫が能を演じ申した。しかし、その時の能は不出来であまりにも見苦しかったので、信長公は梅若太夫をひどくお叱りになりました。大変なお腹立ちであったわけです。そこで幸若太夫のいる楽屋へ家臣の菅屋九右衛門・長谷川竹の二人を使者に立てました。
この時の幸若太夫に対する使者の口上は、かたじけなくも「上意の趣き、能の後に、(武仕舞として格式上の)幸若舞を仕ることは、まことに本式とは言えないのでありますが、殿が御所望しておりますので今一番舞を所望する」というものでありました。武士舞である幸若舞は、猿楽と言われた仮面舞である能に比べると、当時、格式が格段に上であったようであります。
江戸後期の大名松浦静山の書いた「甲子夜話」によると、江戸城内における年頭(正月)の将軍拝謁御礼席の着座位置は、幸若太夫のほうが、観世太夫よりも二間も上席にあったとの記載があります。また、徳川幕臣の名簿である武鑑の中には、幸若太夫が観世太夫の上席に名を連ねております。
安土城内では、幸若太夫の二度目の舞「和田酒盛」という曲が舞われ、これも非常に出来がよく舞われていました。信長公のご機嫌もなおり、蘭丸がお使いになって、幸若太夫を御前に召し出され、ご褒美として太夫へ黄金十枚を下されました。これは、当人の名誉であることは言うまでもなく外聞もまことにすばらしく、ありがたく頂戴申し上げたことであります。次に梅若太夫に対しては、能の出来の悪かったことを「けしからん」とお思いになったが、黄金の出し惜しみのようにとられては世間の評判もいかがかとお考え直しになって、右の趣をよくさとされて、その後、梅若太夫にも金子十枚を下された。過分なお取り扱いでかたじけないことであった。と記録されています。この時の能は散々の不首尾で、信長は大いに腹を立て折檻に及んだだけでなく、明智光秀に対しても接待の仕方が悪いと打ち砕くほどの屈辱を与えております。
これ等が、光秀のそれまでに抱いていた怨念に火をつけ、やがて本能寺の変へと成って行くのであります。
《本能寺の変前夜に堺で舞われた幸若舞》
○ 1582年5月21日(信長公記) 武田家を滅ぼした恩賞として信長から駿河一国を与えたことへの御礼言上に安土城を訪れた家康への接待では「このたびは、京都・大坂・奈良・堺をごゆっくり見学なさるがよい」との御上意で、案内者として長谷川竹を添えられ、さらに信長公は「織田七兵衛信澄・惟住五郎左衛門の両名は、大坂で家康公をおもてなしせよ」と命ぜられました。
6月2日未明、明智の一軍が京に侵入。信長宿所である本能寺を包囲。この変で織田信長が自刃しますが、その前の晩に徳川家康は堺で茶会を開いた後に幸若舞を鑑賞しています。
その事は、本願寺坊官宇野主水の「宇野主水日記」や「宗及他会記」本の記録されています。
5月29日の項に「徳川堺見物として入津(にゅうしん)」とあり、これは家康一行が堺の湊(みなと)に入ったという意味で、大坂から船で海路をとって来ています。同日晩、家康一行は友閑の代官屋敷で歓待されました。紀州の鷺(さぎの)森(もり)御坊にいる本願寺顕如・如春夫妻からも贈り物が届けられ、振る舞いの座敷で家康に披露されました。
6月1日(本能寺の変前日)の項に、友閑が堺商人たちに「請取〈 いた」すよう命じていた。つまり商人たちが次々と持ち回りで家康一行を接待せよということであった。
「朝は宗久にて茶湯朝会、昼は宗牛(天王寺屋宗及)にて同断、晩は宮内法印(松井友閑)にて茶湯。其後宴会が開かれ幸若太夫に舞を舞わせた」とあります。
朝はまず今井宗久の屋敷で「茶湯朝会」が、「今井宗久茶湯日記抜書」には前夜の友閑邸での接待の時6月3日に「私宅において御茶差し上げぐべきの由申し置」いたとあることから予定が早まったか、あるいは軽い朝餉(あさげ)たけだったのだでしようか。
昼は天王寺屋宗久(津田宗久)邸で茶湯がありました。家康・梅雪・長谷川秀一の三人が招かれました。茶湯を振る舞った後宴会になり、その半ばで家康が宗久の接待への謝礼の為、宗久の息子である隼人に糟(かす)毛(け)の馬を贈りました。
夜は前夜に続いて友閑邸で茶湯が行われ、その後で宴会があり幸若舞を鑑賞し、その夜家康一行は堺市中の寺院に宿泊しています。
堺では信長派である、鉄砲火薬を扱う商人で茶人の薬屋宗久こと今井宗久と、中国貿易に従事する堺の豪商で茶人の天王寺屋宗及こと津田宗及と、信長の家臣で茶人の松井友閑の三人が、徳川家康の接待に当たりました。
松井友閑とは、宮内卿法印(正四位下)の官位を当時授かっており、信長主催の茶会では茶頭を務めたほどの人物で、1575年(天正3年)には織田信長の側近として堺の代官に、信長死後も豊臣秀吉から堺の代官に任用されています。
信長公記の記事には、武田信玄の前で尾張清州の僧天択が織田信長に幸若舞「敦盛」(人間五十年)を初めて指導したのは松井友閑であると紹介しています。(信長公記)
また、本願寺顕如は。織田信長との敵対関係で、武田,浅井,朝倉各氏などの同盟者と連絡をとり,毛利氏の援助を受けて10年の戦(石山合戦)を継続していましたが,天正8(1580)年に天皇の仲介により和睦,紀伊国(和歌山県)鷺森に退去していました。
徳川家康は堺での宿泊先を妙国寺としましたが、翌朝、毛利討伐出陣前の信長への挨拶の為家康一行が本能寺に向け堺を出発、枚方の手前で入魂(じっこん)であった京の豪商茶屋四郎次郎の早馬で一報を受け信長自害の事を知らされ取る物も取りあえず伊賀越えで無事駿府に逃げ帰る事が出来ました。
堺の「妙国寺」は、江戸期の『和泉名所図会』(いずみめいしょずえ)に、「ソテツは大枝22本、小枝78本、総まわり25尺、高さ22尺余り、枝葉6から7間は一面の蒼色ですいらんの如し」と記され、古くから堺の名木の一つとして知られています。その昔、織田信長がこの木を安土城に移植したところ、毎夜「堺へ帰ろう」と泣いたため、ソテツに霊があるのであろうと妙國寺に返したという伝説をもっています。
○ 1583年(天正十一年)4月賤ヶ岳の戦で羽柴秀吉に敗れた柴田勝家とお市の方が自害した越前(福井市)北ノ庄城には、丹羽長秀が入りました。織田信長により幸若太夫に認められた越前の幸若在所(天正二年幸若領知行領地の織田信長朱印状)は、翌5月27日付の「丹羽長秀諸役免許状」により守護不入地と確認されました。(福井県朝日町史)
《小田原征伐で舞われた幸若舞》
○ 1585年徳川家康(44歳)は駿府に築城し、翌年駿府城に入城します。
○ 1590年豊臣秀吉は小田原征伐に自ら出陣し途中秀吉の軍勢が駿府の城に入り、徳川家康の接待を受けます。この関東攻めで長期戦を覚悟していた秀吉は、小田原西郊外に築いた城に側室の淀君を呼び、本阿弥光悦、千利休、幸若太夫を招き、戦いの合間に遊興を催しました。
この年、徳川家康は、豊臣秀吉により駿府から関東への国替えを命ぜられました。
○ 1592年山科言經の日記「言經日記」本の3月5日の項に「江戸大納言殿(徳川家康)罷向了…夕食後幸若三人参り舞う。その舞は新曲「夜討曽我」等が舞われ戌の刻(午後八時ごろ)に幸若太夫が帰った」と記録されています。
《貴族山科言経(ときつね)『言経卿記』の幸若舞》
1597年 (慶長二年)正月十五日次黄門(秀忠)へ罷向了、内府(家康)へ御出也云々、次内府へ罷向了、対顔了、カウ若舞有之、半ニ罷向、胎内探也、次常ノ座敷ニテ暫雑談了、次薪ノ間ニテ鶴ノ料理、内府自身之拵也、相伴衆、内府・同黄門・予・冷泉・冨田左近将監(知信)其外大勢有之、
(次に秀忠の所に行った。家康の所に行ったと言われた。次に家康の所に行った。会った。幸若舞をしていた。舞は半分進んだところだった。胎内探であった。次の常の間で暫く色々話した。次に薪の間で鶴の料理が出た。家康が自ら用意した。鶴の料理を共にしたのは、家康・秀忠・私(言経)・冷泉為満・冨田知信、その他大勢である)
貴族の山科言経(やましなときつね)が残した『言経卿記』には徳川家康のことがよく書かれている。家康は、秀吉没後に天皇から勅許をもぎとられた言経に公卿の地位、所領を取り戻してやっている。言経は、家康の所によく通い、家康と「雑談」をした。そのため、『言経卿記』には政治や戦とは関係ない、徳川家康の日常の姿が度々垣間見える。家康は好きな「幸若舞」を何度も楽しんでおり、正月で客人も多く来ているから、張り切って鶴の料理でもてなしている。
十五日、山科言経は冷泉為満とともに伏見へ向かう。家康はここでまた幸若舞を見ている。能は付き合いで演じたり見たりしているが、自分で楽しんで鑑賞するのは幸若舞の方だったようである。
《武器を持って防御に当たる幸若太夫》
○ 1598年7月28日太閤検地で越前の幸若領地の内、幸若小八郎領地加増(桃井雄三家文書)。同年8月豊臣秀吉は朝鮮征伐策の途中で亡くなります。徳川家康は、豊臣政権の「五大老」の一人として大坂あるいは、秀吉の遺言により伏見に居ることが多く、江戸城の秀忠に関東の支配を任せていました。幸若八郎九郎、幸若小八郎、幸若弥次郎の三人の太夫は、徳川家康に随行して山城国伏見に滞在していました。
豊臣家臣団は、国内で行政に当たった文治派の石田三成等と、朝鮮出兵で奮闘しなから冷遇された武断派の藤堂高虎等に分裂し、藤堂高虎は徳川家康に接近します。
○ 1599年3月8日徳川家康(58歳)が病気の前田利家を見舞う為大坂に出向いた際、石田三成等が徳川家康を襲撃するとの噂があり、徳川家康は信頼する藤堂高虎に万事を任せることにしました。
この噂を聞きつけた幸若太夫三人は直ちに武器を手に取り藤堂高虎の館に駆けつけ防御に当たります。これを見ていた同輩の全阿弥が事実をつぶさに徳川家康に告げたところ徳川家康は大いに喜んだと幸若桃井家の記録にあります。藤堂高虎邸は厳重に警護され、それを知った石田三成等は襲撃を諦めました。
《関ヶ原の戦の年の幸若舞》
1600年の関ヶ原の戦いが済んでの事です。徳川家康は、関ヶ原の戦いで秀忠が遅参した折に嫡男信康(岡崎三郎君)の死を痛く悲しんだことを思い出し、「信康が生きていればこんな思いをしなくて済んだものを」と周辺に漏らしました(東照宮実記)。関ヶ原の戦が起こった9月15日は奇しくも信康の21年目の命日でした。
九月十八日に家康が近江にまで来ていると聞いていたからか、廿日に大津城に着いた家康の所に冷泉為満と山科言緒が出向いている。そして、廿四日には秀忠が伏見へ来る。家康は大坂へ向かった。『言経卿記』
十一月大、十三日、癸丑、天晴、巳刻ニ冷同道大坂西ノマル内府(家康)ヘ罷向了、予饅頭一包、折ニ入レ、冷ハ蜜柑等進上了、種々雑談共有之、申下刻ニ帰宅了、内府御内村越茂介(直吉)ヘ生鯛二ツ遣了、近江國稲垂村知行分事折帋所望、則到来了、
十四日、甲寅、天晴、内府(家康)ヘ冷同道罷向了、雑談了、次幸若九人同被罷向了、舞有之、安宅・景清・十番切等有之、次奥之座敷ニテ種々雑談了、草子共・手本共等御見せ有之・次夕食相伴了、戊(戌)下刻ニ帰宅了、『言経卿記』
(翌月の十三日に大坂に向かい、言経は饅頭、為満は蜜柑を家康に進上している。言経はその日のうちに京に帰ったが、為満は翌日も家康の所に行って幸若舞を見ている。こうも続くということは、家康の「幸若舞好き」はよほどと思われる。
◎ 1601年9月29日幸若小八郎太夫には345石の「結城秀康黒印状」が交付されています。結城秀康は、徳川家康の二男で子供の時に秀吉に人質に出され関ヶ原の後、越前(福井市)北ノ庄の67万石の城主になります。
○ 1601年9月29日幸若小八郎太夫には345石の結城秀康黒印状が交付されています。
結城秀康は、徳川家康の二男で子供の時に秀吉に人質に出され関ヶ原の後、越前(福井市)北ノ庄の67万石の城主になります。
○ 1603年に徳川家康(62歳)は征夷大将軍となり江戸で徳川幕府を開きます。
○ 1605年幸若太夫は徳川家康に召し出され「幕府音曲役」を仰せつけられる(角川日本地名大辞典、越前編)。この年、徳川家康は将軍(征夷大将軍)の座を息子秀忠にゆずり駿府に隠居。駿府での大御所政治の始まりです。
《家康徳川幕府を開いた時の幸若舞》
1603年(慶長八年)に徳川家康(62歳)は征夷大将軍となり徳川幕府を開きます。
家康の参内のために三月も山科言経は忙しい。参内が終わった後、家康は二条城で能を上演させている。『言経卿記』
参内の後の能はこの後、恒例化していくこととなる。秀吉もよく能を楽しんでいたが、参内の後に上演させていたのだろう。関ケ原の後までは家康が楽しむのは幸若舞の方であった。宮中でも度々能が上演されているように、この当時、能を催す事は支配者としての義務というか、ステイタスと化している。家康の好みが変わったのではなく、征夷大将軍という立場が変わってしまったが故の能の上演固定化であろう。
《年幸若太夫幕府音曲役となる・女院(天皇の母新上東門院)の御所で幸若舞》
◎ 慶長十年1605年幸若太夫は徳川家康に召し出され「幕府音曲役」を仰せつけられる(角川日本地名大辞典、越前編)。この年、徳川家康は将軍(征夷大将軍)の座を息子秀忠にゆずる。1607年駿府城が完成、伏見より移り隠居、駿府での大御所政治の始まりです。
◎ 慶長十年1605年10月2日芸能好きで有名な女院(後陽成天皇の生母、勧修寺家出身晴子、新上東門院(1553-1620年))より、明日こうわか舞参候間可参候由廻文有之(言経卿記)。10月4日女院の御所にて舞あり、香(幸)若が子、兄弟十四歳と十歳と奇妙(めずらしい)也、露払いと後祝言、夢大庭が合る事あり、中は八島・鞍馬出・勧進帳・腰越・土佐正尊(堀川夜討)以上巳刻初末に果、少納言局にて各食あり(時慶卿記)。女院へ舞各々参了予早出了(言経卿記)。女院参、香(幸)若太夫舞有之、入夜退出(慶長日件録)。
◎ 1608年幸若弥次郎太夫は徳川幕府から部屋住まいにて江戸城に召し出されます(朝日町史)。
《幸若太夫の従者が越前への逃亡事件を起こす》
○ 1607年幸若八郎九郎太夫は、駿府の徳川家康の元に伺候し大御所の御意に入って長勤となりました。
幸若八郎九郎太夫が越前から召し連れた槍持ちの甚助や、若党または下人の与兵衛・太兵衛・彦衛門の四人が、余りの長勤に耐えられず、家族の待つ越前に逃げ帰ってしまいます。
このことが上聞に達し、その命を受けた越前城主の結城秀康の家臣により、越前に逃走した四人が召し取られるという事件が起きました。
江戸時代には、将軍に御目見えできるのは、大名か三百石以上の旗本となっており、戦の折や登城する際には馬に乗り槍持ちをお供に付けなければなりません。幸若太夫家(三家他)も徳川幕府から直参御本丸旗本同格若年寄御支配という身分にて越前に幸若領(幕府直轄地)一千百九十石を得ていました。(最終頁に写真添付)
○ 1608年幸若弥次郎太夫は徳川幕府から部屋住まいにて江戸城に召し出されます(朝日町史)
○ 1611年「駿府記」本12月12日の項に、駿府の大御所の元に「今夜幸若弥次郎太夫召し出され舞曲有り」とあります。
○ 1613年「駿府記」本5月6日の項に、「幸若八郎九郎を御前にお召しになり、家康公を始め廣橋大納言、西園寺同中将、松本・滋野井少納言等の所望により祝一口、および大職冠・入鹿等を舞う。」とあります。
○ 1614年「駿府記」本には、4月朔日「幸若の舞曲有り」。同年6月朔日「早朝幸若太夫による舞曲を観賞」。同年9月15日「幸若小八郎太夫が江戸参府に従う。於いて御前で烏帽子折を舞う。」とあります。
同年10月11日家康は軍勢を率いて駿府を出発。11月徳川家と豊臣家との戦である「大坂冬の陣」の始まりです。
《幸若舞「堀河夜討」三人の法師武者と徳川家康の逸話》
徳川家康(73歳)が大坂城攻めした時の出来事です。
将兵の疲れを心配した家康は、大坂までの行軍の途中「全員に具足を付けさせるな」と命じ、将兵らの行軍が大坂に近づいたところで全員に具足の着用を命じました。この時、陣中に供していた金地院崇伝ら二人の僧と、丸坊主頭の儒学者林羅山までもが人並みに鎧を着て徳川家康の前に現れました。これを見た家康は突然笑い出し、幸若舞「堀川夜討」の曲の中に「我らが手に三人の法師武者がある」との一節を思い出し「我が陣にも三人の法師武者ありだな!」と、おおいに笑ったことが「徳川実記」の中に記録されています。
《年江戸幕府二代将軍徳川秀忠と幸若舞》
「台徳院殿御実記」卷三九の元和元(1615)年7月5日の条に、「二条にて(中略)幸若舞御覧じ給ふ。烏帽子折、和田酒盛、俊覚」と、幸若大夫が将軍の京都上洛に際して随従し幸若舞を上演したことがわかる。
また、「徳川実記」では、元和二(1616)年の記事として正月三が日の儀式の次第と用いられた御殿について詳細に記録されている。
○ 元旦 ○大広間
将軍(下段間)出御。次の間との間の襖を老中が開く。
次の間には譜代大小名・諸番頭・近習・三千石以上の
外様・法印と法眼の医師、扈従(こしょう)人等、拝謁。
将軍、上段に着座。盃。
松平和泉守家乗、松平主殿頭忠利、松平伊豆守信吉
を始め初太夫法印と法眼の医師等迄、御流・時服頂戴。
板縁で幸若・観世等、御流頂戴。
将軍、入御。
さらに、幸若庄兵衛家八代長明の「長明書留」では、「秀吉公が居られた御時世の頃は小八郎吉音(五代吉信)が「名人」の号を頂き天下にその名を発せられましたが・(中略)・将軍秀忠公は安信(小八郎六代)の音曲を特段愛好し、自らも御稽古あそばされ「幸若小八郎の音曲は天下の音曲技を並べても右に出るものはないであろう」と仰せにより「二代名人」号を頂いた時分は脇連れとして甥の少兵衛正信のほか弥助の子で喜之助三信との三人で勤めていました。」と書き残されている。
《年徳川家康は75歳(1616年)でこの世を去る。》
幸若太夫家(弥次郎家・八郎九郎家・小八郎家等)は幕府音曲役として、家康の死後も徳川代々の将軍に仕え、江戸初期の大奥でお江の方(二代将軍秀忠の妻)が幸若舞を鑑賞(寛永2年1625年1月9日)等、徳川幕臣として庶民の前に出ることなく、格式を重んじすぎために徳川幕府崩壊とともに幕臣を解かれ、織田信長が舞った越前(福井県)の幸若舞は完全に消滅し、現在では幻の舞(芸能)となってしまいました。