勧進帳 (幸若舞「富樫」)

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1 判官一行、安宅に着く
 去る程に判官(義経)殿、山伏の姿を学び(変装し、奥州を目指して北陸道を)下らせ給いける程に。
 十三日と申すには、加賀の国に聞こえたる安宅の松に程なく着かせ給う。判官松を御覧じて、あら遊長なる姿かな四国西国都にてその数松は見てあれど、かほど遊長なる姿なし。
 この国にてこの松に名の無き事はよも有らじ尋ねて参れ武蔵。
 弁慶承って松の辺りを見て有れば、折節童(わらべ)四五人松の葉寄せて添いたりける、弁慶するすると立ち寄って、やあ如何に童よこの国にてこの松をば何の松と申すぞ。
 こざかしき童が進み出て申す、さん候当国は坂を隔てて此方草深き遠国にて人の心も口にしてか程の松に名付ける人も候らわず、さりながら在五中将の眺めには、安宅の松とも呼ばれて候、それのみならず鳥羽院の身内なる佐藤兵衛則清は、うわの空なる恋をして北国修行に出ずる時彼は西行と名乗る、かかる西行の歌には根上がりの松と読まれたりのう山伏(客僧)と申しけり。
 判官聞こし召されて物聞き給え方々、それ勧学院の雀は蒙求(もうぎゅう)をさえずり智者のほとりの童は習わぬ経を読むとは良くこそ是は伝えたれ、それそれ童共に引出物を取らせ、これより奥平泉への道順を問え武蔵との御諚なり、武蔵坊弁慶承って笈の中より色の良い扇四五本取出し童共に取らせ、やあいかに童これより奥平泉へはいづくをどちらへ行くぞと尋ね問う時、中でもこざかしき童が進み出て申す。
 さん候これより奥州へは数多の道が候、上道下道中道とて三つの道が候がいずれも是が難所なり、まず下道の難所を語らば聞き召さるべし黒部四十八ケ瀬親知らず子知らず一部里浄土宇田のわき、二三のはざまも上河姉端の松、亀わり坂と申しつつ四十二所の名誉の是が難所なり、少人もおわしますがいかでかくたり給ふべき。
 さて上道の難所は、都の春は過ぎ行けど越路の雪がまだ消えず、こぞの雪のむら消に今年の雪の降り積もり谷の下水落ち合いて水嵩増さりて鳥ならて通うべきよう更になし
 中道と申すは、道も順道にて人の心も慈悲なるがここに一つの難所有り、鎌倉殿よりもこの国の富樫殿へふれ状が下って城郭を構えつつ山伏の禁制恐くして一昨日の暮れ程に九人通る山伏を判官殿のお連れとて押えて切って懸られたり、昨日の早朝に六人通る山伏を判官殿のお連れとてこれをも斬って懸けられる、夕べも五人斬られ、今朝も三人斬れてそう、か程なる難所をばいや他生劫はふるとも、いかでかくたり給うべきのう山伏と申しけり。

2 富樫が弁慶の顔を知らないと思う
 判官聞召されて、いざさらば行って見んとて五人の童共を先に立て松原に移り御覧ずれば、去年の冬の頃よりも二月下旬まで切り懸けたる事なれば山伏の首百斗がほど、まっしぐら(一直線)に懸る。判官御覧じてあら痛わしや行方も知らぬ山伏達の義経の科(とがあやまち)によって左様に討たれ給いけるや、それそれ武蔵せんほう(懴法・法要)読んで悔い弔へとの御諚なり。
 承ると申して皆々せんほう(懴法・法要)をこそ読れけれ、中にも武蔵はせんほう (懴法・法要)をば読まずして、ここかしこを走り廻って首実験し童共をはったと睨んで、この国の富樫は何も知らぬと言う。
 童聞いて腹を立てこの国の富樫殿の物知ろしめされぬいわれはそう(何が)、武蔵聞いて、いでいで富樫がもの知らぬ謂(わけ)を語って聞かせん乱行不浄の大俗(人)の首を遥かの上に懸け、鬢髪(びんぱつ)を丸め解脱憧相 (とうそう)の種々の法衣を身にまとい法界道場にして弥勒の出世に生まれをなさうす法師(僧)の首遥かの下に掛けたるは、さて物をば知らいで懸けんかれ。
 童聞いて打ち笑い横手をちょうと合わせて、判れたり山伏それを咎め給うか、上に懸ったその首に数多短冊付けられたり、むこう歯そって猿眼こびんの髪の縮んで色の白きをば、鎌倉殿の御舎弟に源九郎義経の御首とこうして(大将は)遥かの上に懸けられたり。
 下に懸った法師の首に数多の短冊付けられたり、こう申してあればとて腹はし立たせ給うな、御坊の如くにあくまで背は高うして極めて色は黒くして眼(まなこ)ににくちを以(もっ)たるか物言うたる聲(こえ)つきの稚(きごつな)き法師をば、判官殿の御内なる膝下そらすの西塔(比叡山)の弁慶と号して(部下は)遥かの下に懸けられたるぞ。
 御坊(僧)と言いければさしもこうなる武蔵坊が、我が身の上と聞きなして膝ふるうて立ったりけり、武蔵心に思うよう、あら嬉しや、さてはこの国の富樫は何がしか面(弁慶の顔)をば良くは見知らざりけるや、その儀にて有るならば、富樫の城を見ばやと思い判官の御前に参り、この由かくと申し上げる。
 いかに我が君聞し召され候へ、それがし一人打ち越え富樫の城の躰を見て参らんと申す。判官聞召されて心変わりか武蔵、心変わりに及ぶならば都の土とはなさずして北国の道芝(草)とならんことこそ口惜しけれ。
 弁慶承って、これは御諚とも存ぜぬものかな、かほど山伏禁制の所を一人ならず二人ならず十三人かわめいて通り怪しまれては何と陳する共叶うまじ、それがし一人うち越えて城の躰を見んずるに、身をふするものならば山伏の法にてある間悦びの(法螺)貝を二つ三つ吹きます。
 また身損ずるものならば最後の(法螺)貝をただ一つ吹くべきなり、貝はし一つ立つならば早武蔵めが最後と思し召し北潟の御曼堂にて清き自害おはしませ、暇申してさらばとて立ち離れんとしたりしが、思えばこれが最後なり、傍輩の人々に名残や惜しく思いけん、亀井、片岡、伊勢、駿河間近き様に近づいて、如何に方々武蔵め一人富樫の館へ打ち越えて城の警固を見損じたらば弁慶が腹斬らふす、君御腹を召されなば死出の山にて待つ申さん、御方々先にも腹を切るならば三途の川にて待ち給へ、暇申してさらばとて名残惜しげに出でにけり。

3 弁慶一人富樫城へ向かう
 さる間弁慶は飛騨の匠が打つ墨縄にてあらねどもただ一筋に思い切って藤つかてとり打ち過ぎてそしも待ちかけたる富樫の館に入ったるは人に変わって覚えたり山伏の法にてある間、例時せんほう (懴法・法要)を読むべきか何とか思いけん武蔵高念仏を申す、面の門よりつつと入って、富樫の城を見て有れば待つ程にこそこしらえたれ、面の矢蔵十三所、脇の矢蔵九の所、二重三重に高櫓を上げさせ東西には鞍置き馬四五十匹ひったてひったて置いたりけり、西の遠侍を見てあけば富樫が若党百人ばかり並み居る引きめくったり矢作りたり碁将棋双六に心を入れたる所もあり。
 着座を見て有れば四十ばかりなる男の平紋の直垂に烏帽子のさしきを満とあけさせ文橦(ふんとう)にかかって若侍に双六打たせ助言していたりしはこれぞこの国のおう富樫の介と覚えて有り、あら口惜しや時こそあれ日こそあれ富樫の出たる所へそれがし来たったるは詰めたる業と覚えたり。
 しのばばやと思いしが見えたる事もなき先にかたきにけこを見えられてはあしかりなんと存ずれば大の聲音を差し上げて熊野山の山伏が仏法修行のその為に出羽の羽黒に通り候、斎領たえとこうたりけり、富樫これ由御覧じて持ちたる扇にて畳の面をちょうと打ってあれを見よ人々愚人夏の虫飛んで火にいるとよくこそ是は伝えたり、心を尽くして待ちかかる西塔の弁慶こそ只今来たったれうてはれからめよ、いや差し縄などとひしめいた。
 元より武蔵我が身の上と知ったれども聞かぬ体にもてなして大木古木の花を詠めうそぶいて立ったりけれ、時刻も移さず富樫の若党百人ばかりまっくろによろい弁慶を真ん中に取り囲みたり、武蔵この由見るよりも、いや早竜の若者共にひたひたと討ち取られては叶わじと存ずれば、大勢の中を押し分け押し分け通って富樫が居たりし縁の端へするすると寄って大の眼に角を立て富樫を張ったと睨んで如何なる野心張行の者を召し置かれ只今参りたる法師までも憂き目を見んするやらんと存じよくよく承って候えばこの法師の身の上と聞きなして候かそら事さうか富樫殿。
 富樫聞いてさては御坊は判官殿の御内なるひさもとさらすの西塔の弁慶にては無きか。
 弁慶聞いて何ここにいる山伏の名は世に常多しと申せども御大将判官はう、ひさもとさらす何という山伏の名は今こそ聞いて候へ。
 富樫聞いて左様に才覚廻って弁舌の明らかなるはさて御身は弁慶にてはなきか。
 その様に仰せられる富樫殿も才覚勝って弁舌の明らかなるがさては御身も弁慶か。
 富樫聞いて何とも陳せよ弁慶という、弁慶余りに陳しかねのう如何に富樫殿、こう申す法師の額にもし弁慶という字はし座って候か、富樫聞いておう字の座ったると同じこと、鎌倉殿よりも絵図の有る故疑いあらじと言う。
 武蔵聞いてよもあらじ方便事ぞと思い支障の有らんば見んと乞うた、富樫聞いてあら無残や弁慶か幾程命長らえんとて絵図をこうつる無残さよ、それ取りい出して見せよ。承ると申して富樫の若党七八人座敷をはらりと立ち、八尺屏風を取りい出し武蔵の前にさっと立て絵図をさらりと打ち駆けて弁慶に見せる。写しもうついたり書きも書いたる絵師かな、武蔵の丈は六尺二分絵図も六尺二分なり色黒く丈高く眼のに口を写いてあり、あまつさえ左の眼先にあざのあるまで写したは逃れつようは無かりけり。
 武蔵心に思うよう、いやいや今は言葉を変えて陳せばやと思い、のう富樫殿、以前にこの法師熊野山の山伏と申して候は御身の心をちっと引見申さんか為なり。これこそ南都東大寺の勧進聖僧よ。

4 東大寺勧進聖の証明
 富樫聞いて、たつ問う候、誠に南都の勧めにて御座有らば勧進帳はおわすらん、それを拝まんと乞われたり。
 あら無愧(悪事を恥じず平気でいる事)や弁慶が南都の勧めとは述べたれども勧進帳はあるらんに、持たぬと言えば棒打ちに打たせられ臥す、持ったと言わんとすれば有らばこそ、是非を武蔵、わきまえかねて立たりしが、いやいや持ったと言わばやと思い。
 愚かなリ富樫殿、三国一の大伽藍のすすめをせうする聖が勧進帳を持たでは如何が候べき、是非見参に入り申さんと笈をひたと下ろし縄ふるふるとひっ解いて上段に手を入れからりからりと探しけれども、都にて入らざる事なれば笈には更に無かりけり、武蔵余りの口惜しさに目をふさぎ、南無や八幡大菩薩源氏の氏子をば百王百代守らんとの御誓と承りて候ぞや。
 ひとつの瑞相を見せしめ給えやとからりからりと探さるる、げにや八幡大菩薩の与えたいけるか都にてこの度入れたるとは覚えぬ自然往来の巻物一巻そうらいけり、おっ取って差し上げ勧進帳はここに有り拝み給えと見せにけり。
 富樫御覧じておうたっとう候、是へ給われ拝まんと乞われたり、武蔵この勧進帳が誠の勧進帳にてあるならば如何にあの富樫殿が拝まじと言う共、押さえて拝ませ伏するが、これは自然の往来なれば弁慶にやがて縄をかけうす、縄懸っては何とちんするとも叶うまじい、おとさばやと思い
 愚かなリ富樫殿、かたじけなくも十善帝王だにもかぶりのこしをかたぶけ拝ませ給う勧進帳を言わんや御身は大俗の身として手に取り拝む者ならば五体すくんでたちまちに立つ所にてあやうししと脅しける。
 富樫武蔵に脅され、さらばそれにてあそばせ是にて聴聞申すべし。
 武蔵この勧進帳を読みおおせんことは不定、読み損ぜん事は治定、読み損ずるものならば人手にはかかるまじい、あれに引いて立ちたる白えの長刀をひんはうて飛んでかかる兵者を思うままに追っ払い、あれに引いて立ちたるあし毛なる駒の爪かたそふて、如何に駆け足の速かるらん牝馬打て打ち乗り御曼堂に参り君に此れ由を申す。
 一の刀にて御前害し奉り武蔵の腹を切ら臥す、君御腹を召されなば十一人の人々も皆々腹を切ら臥す、生きては功をなさずとも死んでは功をなすべきなり、日々我が君の七生までと契りをかせ給いたり。
 愛宕の山の太郎坊(大天狗)、比良の山の次郎坊(大天狗)、山々の小天狗、天の夜伊神、八将神、牛頭馬頭阿房羅刹(らせつ)異形異類の鬼どもを引くし候いて、本望なれば関東へ刹那の間に乱れ入りて箱根山の峠より黒雲をたなびき電光を飛ばせ玉を磨く鎌倉に車軸の雨を降らし谷七郷を洗い流し憎くからし梶原をさうなくば殺さずして百鬼神に仰せ付け、熱てつの湯を沸かし口の中へ流し入れ六腑五臓を焼き払い七代子孫を取り殺して本望を遂げるならば、管丞相(菅原道真)にてあらずと現人神と武蔵めがあふかれんする事共は安の内と思いければ、ちっとも騒ぐことは無し。
 武蔵この勧進帳を高く持って読むならば後なる人に読まれるし、又低く持って読むならば、紙が薄くて字が通り前なる富樫に裏読みされては叶わじと思い六尺二分の弁慶が七尺ゆかたに伸びあがり白打ちての笠を頭甲にきっと着なし字ならば二くだり三くだり笠の内にてそっと開いて左右眼に押し当て何とは知らぬ共敬白と上げたりけり。

5 弁慶、勧進帳を読みあげる
(1) 東大寺伽藍の起こり
 うやまって申す。勧進の沙門、請件(こくだん)の知識の状(結縁の為の寄進を願う状)にいわく、和州山階 (大和国興福寺) の里、東大寺の勧進の事、ことに十方檀那の助成(各方面の信者の援助)をこうむらんと欲す。
 右の旨趣如何(何故か)というに、かの伽藍の(東大寺伽藍の起こり)濫觴(らんしょう)は、聖武天皇の后、光明皇后と申は、大職冠(藤原鎌足)の御娘、生身(仏菩薩が衆生済度のためこの世に生れ出た)の観音なり。
 しかるに有漏(煩悩から離れられない一生であの世に去って行かれた)の生涯は、歩みを他界にかくる。釈尊また双林の煙と上り給う。
 しかるに御門、后の御別れに堪えずして、雲上に曇(宮中が涙にくれているので)あれば月卿(公家)光を失へり。
 かの追善(死者の冥福を祈る供養)のために、一宇の伽藍を建立し給う。
 今の大仏殿これなり。
 御堂の高さは二十丈、本尊の御丈十六丈、遠く異朝を尋ねるに大唐四十八ケの大伽藍に勝れ、天竺祇園精舎(インドの僧院)にも越えまして、我朝に並びなし。
(2) 東大寺度重なる災難に遭う
 されば、荘厳(仏像を飾る天蓋)七宝をちりばめ、光耀(キラキラと輝く)鸞鏡を磨き、御堂の内に珠玉を飾り、瑠璃(るり)の壁、硨磲(しやこ)の垂木、瑪瑙(めのう)の行桁、玻璃(はり)の柱、本尊は金銅廬舎那仏、並に四天(持国天、広目天、増長天、多聞天)は黄金を延べ(金で覆い)、十一重の瓔洛(やうらく)虚空無我の風に乱れ(仏の装身具が風にはためく)、花上苑(漢武帝が長安に作った名苑)の玉の幡、かかる無双の大伽藍に雷火降って火失す(934年西塔が雷火で焼失)。破滅の時に相違わず。
 ここに深草の御門の形像(仏・菩薩の再誕と思われる仁明天皇)、五時の刻に合力(五期に区切って援助)し、ことごとく磨き給う。
 これは、これ王法の繁昌也。王法の繁昌は天下の吉慶たり。
 目出度かりける折節に、東大寺、興福寺、両寺の間に衆徒喧嘩(968年乱闘)を出し、互いに破滅の火を放つ。
 実に魔縁(人を惑わし妨害する悪魔)の所為をなし、煙庭に飛で落、雷火雲を走れば、仏像跡を削り、五智(釈迦の五種の教えを書いた経典)の箱焼け、八教の軸も灰となす(焼失した)。
 ここに、女体の御門の形像(仏・菩薩の再誕と思われる孝謙天皇)、勧進の力を励ますとはいえども、三代(聖武、仁明、孝謙)御願いも、半作なり(御願いにより建立された大仏殿も半分成就である)。
 目出度かりける折節に、ここに平家の大相国(平清盛)、悪逆の下知に従って、本三位中将重衡(平清盛五男、南都攻めの大将)、左衛門友方(夜戦で在家に火をかける)、民部重能(平家の忠臣)、都合その勢三千余騎、治承四(1180)年十二月廿八日に南都へ馳せ向かう(源平の争乱)。
 南都の衆徒防ぎ戦うとはいえども法末世につき、かたじけなくも、二階の惣門(南大門)、手害の門(転害門)に放火をせしむ。
 かの猛火満ち満ちて堂搭、僧房、神社、仏神嫌い(区別) なく、一宇も残らず焼き払いおわんぬ。
 煙有頂天に上がり、雲と成て争ければ、十六丈の廬舎那仏の御首落ちて塚のごとし。
 御身は沸いて山のごとし。
 金人世界の荘厳を写(仏の世界の配置)し奉る東金堂、西金堂、刹那が内に焼き払い終ぬ。
 悲しきかなや恩愛別離の生死の小車(輪廻)、彼を見是を見るに何時をか期すべきぞ。
 御眼、鹿と成て、春日山に飛び入り給う。
 比丘(びく)も比丘尼、道俗、男女の嫌い(区別)なく、大仏殿の名残を悲しみ、焔の中へ飛び入、飛び入り、焼け死する者は数知らず。
 阿難付属(伝来)の霊智の(霊妙な)袈裟、灰燼と成て地に踏まる。
 強呉滅び荊棘たり(焼け跡空し)、姑蘇たへぬ露、瀼々たり。
(3) 僧重源による再建勧進
 たまたま残り留る者、師匠兄弟の門に立寄り、しばらく羽を休める。
 ここに俊乗房 (重源) 聖、せんせい房、春日大明神の御示現をこうぶり、勧進帳を額(ひたい)に当て、恐れ怖れ、法皇の御方(後白河法皇)へ訴状を上らるる。
 法皇、権実(援助)を運ばせ給い、肥後、肥前、筑後、筑前、豊前、豊後、日向、大隅、薩摩、九国を寄せらるる。
 女院の御方(妹皇嘉門院か?)より、伊予、讃岐、阿波、土佐、四国を寄せられたり。
 四国、九国より鍛冶千人、番匠(大工)千人、杣千人、三千人、春日山へ分け入て、材木を取て、淀、木津河へ下す事おびただし。
 かの大物小物を如何にとして地形の面に引着べきと(建設現場に運び入れようかと)、嘆き悲しむ。
 渇仰の(仏を信じる)涙、肝に銘じ、三宝の恵により、大国よりも、智者(仏の化身)の牛が来て、一日一夜に引き着けて、牛大国へ帰りけり。
 日本人喜んで、地形の面(現場)、御堂の高さは廿丈本尊の御丈十六丈、高(台)は八丈、多門、持国、増長、広目、百余膳の文机、鈴、独鈷、花皿、本のごとくに鋳奉る。
 さりとはいえど御堂の供養、仏の供養、鐘の供養、三供養をまだ延べず(三供養をまだ取り行っていない)。
 この供養を延べんため、六十六人のさても小聖、六十六カ国へ、おのおの廻て勧むる所の勧進なり。
 一紙半銭入たらんず輩、今生にては、安穏快楽の徳をこうぶり、来世にては、弘誓の船(生死の苦海から彼岸に衆生を救う仏の誓い)に竿をさし、千葉(せんよう)の蓮華にたわぶれんず事(極楽浄土に往生するであろう事)疑いあるべからず。
 南無帰命稽(なむきみょうけい~仏にすがり礼拝)。
と読み上げてくるくるとひん巻いてほんの笈へ投げ入れたる武蔵坊がありさま人間の業でなかりけり。

《参考》
◎ 源平の争乱により、東大寺は、治承四年(1180)12月28日の平重衡による南都焼き討ちで大仏殿はもとより、寺内堂塔伽藍の大半が焼失した。
 復興には後白河法皇や後鳥羽上皇、源頼朝をはじめ、多くの人々が力を合わせて取り組んだ。
 俊乗坊重源が勧進帳を作り大仏の修理と大仏殿の再興を計ることに活躍。
 元暦元年(1184)源頼朝は、大仏鋳造にあたって鍍金(メッキ料として)砂金千両を寄進。
 元暦二年(1185)3月7日源頼朝は、重源に米一万石、絹千疋、を送り再建を助ける。
 文治元年(1185)8月28日に大仏(銅造盧舎那仏坐像)開眼供養、大仏鋳造にあたったのは宋人陳和卿でした。
 文治二年(1186)重源は、大仏殿造営のため周防国を東大寺造営料国として授けられるが、当時の周防の国(山口県)は、源平合戦の影響で疲弊し、労働力も不足していました。
 頼朝は、材木を切りだす人夫、造営料米について、地頭に命令書などを出すなど重源に出来る限りの援助をした。
 建久元年(1190)には大仏殿が完成。
 建久6年(1195) 3月12日に落慶法要が盛大に営まれた、後鳥羽天皇は公卿等を連れて行幸する、源頼朝もこれに従う。
 正治元年(1199)6月東大寺南大門上棟、重源は南大門の復興の工事を始める。
 建仁3年(1203)には再建事業が完成し、後白河上皇や源頼朝の列席の元、東大寺総供養が行われ、鎌倉時代の東大寺大仏殿として見事に復興を果たします。
◎ 慶長十年1605年10月2日芸能好きで有名な女院(後陽成天皇の生母、勧修寺家出身晴子、新上東門院(1553-1620年))より、明日こうわか舞参候間可参候由廻文有之(言経卿記)。10月4日女院の御所にて舞あり、香(幸)若が子、兄弟十四歳と十歳と奇妙(めずらしい)也、露払いと後祝言、夢大庭が合る事あり、中は八島・鞍馬出・勧進帳・腰越・土佐正尊(堀川夜討)以上巳刻初末に果、少納言局にて各食あり(時慶卿記)。女院へ舞各々参了予早出了(言経卿記)。女院参、香(幸)若太夫舞有之、入夜退出(慶長日件録)。

「幸若舞の歴史」


「幸若舞(年表)と徳川家康・織田信長」

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桃井直常(太平記の武将)1307-1367