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1 大職冠の威光
それ我が朝と申すは、天津児屋根命(あまつこやねのみこと、中臣、藤原氏の祖神)の天の岩戸を押し開き(鹿占いで吉凶を判じ祝詞を奏した神)、照る日の光もろともに、春日の宮(奈良春日大社の天津児屋根の命は、始め河内国一ノ宮枚岡神社に祀られていたが、のち春日神社に鹿島、香取の神々と共に合祀された) と現れて、国家を守り給ふなり。
だからであろうか、かすがを春の日と書く事は、夏の日は極熱す、秋の日は短く、冬の日は寒けし、春の日はのどかにしてよく万物を成長す。
四季にことさら優れ、明日(明るく曇りのない日)になるによりつつ、春の日と書き奉りて、春日と名付けたり。
かの宮の氏子は、藤原氏におはします、藤原のその中に、大織冠と申すは、鎌足の臣の御事なり。
始めは、文章生(大学で紀伝道を学ぶ学生)にて御座ありしが、入鹿の臣を平らげ(大化改新での冠位、七色十三階冠位の最上位階)大職冠になされさせ給ふ。
そもこの官と申すは上代に例なし(その後の受位者は無く)、さて末代に有難き目出度き官(位)となりけり。
これによってこの君をば不比等(本作品では同一視されている)とも申す。
いつも鎌を持ち給へば鎌足の臣とも申すなり。
春日の宮に参籠有りてあまた願いを立てさせ給ふ。
その願いの中に興福寺の金堂を最初に建立あるべしとて、荘厳七宝をちりばめ荘厳堂を建てさせ給ふ、興福寺金堂建立の果報により、国になびき従うことは降る雨の国土を潤し、ただ草葉の風にんびくがごとし(国中の民が大職冠になびかぬものなかった)。
2 唐帝、鎌足息女に求婚
君達あまたおわします。不比等の嫡女は光明皇后と申し奉って聖武天皇の后に立たせ給う。
二女に当たり給うを紅白女と名付けて三国(天竺インド・中国・本朝)一の美人なり、しかるにかの姫君の優にやさしき御かたち例えを取るにためしなし。
桂の(三日月のように美しい)眉を青うして、遠山に匂う霞に似、百の媚びある眼先は夕陽の霧の間に弓張(上弦下弦の)月の入る風情。
翡翠(つややかな)の髪ざしは黒うして長ければ、柳の糸を春風のけずる風情に異ならず。
姿は三十二相(美人の相)にして、情は天下に並びもなし。
かかる優なる御かたちの異国までも聞こえの有りて、七帝(中国七カ国を統括する)の総王、太宗皇帝は伝い聞し召されて、見ぬ恋にあこがれ(聞こえ見ぬ恋にあこがれていた)たので、雲の上(宮廷)もかき曇り月の友(官延人)も自ずから光を失い給いけり。
臣下卿相一同に奏し申されけるようは、玉体の御風情、尋常ならず拝み申して候、何をか包ませ給うべき。
思し召さるる事の候は侍臣の中へ宣旨あれと奏し申されたりければ。
帝、叡覧ましまして、あら恥ずかしや、梅の香りが隠れないように密かに隠していた思いも漏れて人に知られてしまったのか、今は何をか包むべき。
これより東海数千里、日本奈良の都に住む大職冠の乙姫をそれとなく耳に入っただけなのに見たことのない顔や姿がありありと浮かんで忘れる事が出来ないのはどうしたことだろう。
臣下卿相承って、これは何よりもって目出度き御所望にて候ものかな。
勅使を立てて綸言(勅命)にて迎え取らせ給い、叡覧あれとの重臣たちの詮議の結果、運賀という兵士に勅旨にたて、日本に送る。
運賀は既に太宗の勅書を賜わり、数千万里の海路を過ぎ、日本奈良の都に着き、大職冠の御許にて、朝廷からの書状を捧げる。
大職冠は御覧じて、我はこの日本と言う小国の王の臣下という身分であり、どうして異国の大王を安々と婿に取る事が出来ようかと、一度は勅使を辞退する。
勅使立ち戻って、この旨を奏聞す。
太宗ますます思いが強くなって二度目の勅使を立てさせ給う。
これを聖武天皇が聞し召し、情愛は身分の上下に左右されるものではない、小国の臣下の子なりとも、そのはばかりは有るべからず、私が返事を出そうとて、かたじけなくも皇帝の印判をなされければ。
勅使面目ほどこして、急ぎ立ち戻って返事の書を捧ぐれば。
太宗おほきに叡慮(御意向)あり、吉日を選び早々に迎え船をお遣わしになった (親書に印を押し、吉日を選び、船を整える) 。
3 紅白女の嫁入り
今度の迎えの勅使には、橘の朝臣に右大臣法眼なり。
そも本朝(日本)と申すは小国なりとは申せども智恵第一の国なり、ぶざまな出立は許さない。
十分に支度を整えよとの詮議にて、宗徒の大船三百艘、后の御船をば龍頭鷁首(げきしゅ)と名付けて朱色と赤色の縁取、御朱印船の船尾の一部を赤く塗り、舳先にはおうむの頭をまなび艫には孔雀の尾を垂れたり。
船の内に錦を敷き,沈香と白檀香を交えて薫き、鸞の彫られた鏡を磨ききらきらと輝き、荘厳用の玉を飾った幡は風になびき、黄金の瓦は日に光、極楽浄土のような壮麗な船とも言いつべし。
広袖の衣、天冠は玉を垂れ、身を飾ったる女官侍女三百人すぐって、これは船中での御世話役とて、飾り船に乗せられたりける。
日域よりも唐土まで、数千万里の海上の御慰みのそのために、祝賀祭典に奏する舞いあるべしとて稚児百人すぐって身を飾ってぞ乗せられたり。
すでに文月(七月)の末つ方、とも綱解いて押しい出す。天の川瀬にあらねども織姫を迎えに行く彦星が乗ると言う妻越しの船の帆を上げたり。
かくて波風静にて、船は本朝津の国や難波の浦に着き勅使は奈良の都に着く。
大職冠は請けて、一つは異国の聞こえと言い、又一つは本朝の威光の為ぞと思し召され、山海の珍菓を山と積み五千人の上下をその年の八月半ばより明くる卯月(四月)初めまで持て成し給う、大職冠果報の程の目出度さよ。
卯月(四月)もようよう末になりゆきければ、吉日を選び玉の御輿を奉り難波の浦へ御出であり。
そこから龍頭鷁首の船に召され、順風に帆を上げければ、船は程なく大唐の明州(中国寧波)の湊に着かせ給う。
内裏に聞し召されて、すはや后の御成りよ、いざいざお迎えに参らんとて、左右の大臣、女官の方々、数多くの官吏公卿、雑役下人に至るまで残る所は無かりけり。
そもそも大国の国の数を申すに一千四百四十国、郡の数を申すに九万八千余郡、寺の数を申すに一万二千六ヶ寺、市の数を申すに一万二千八百。
長安の市と申すは、在家の数は百万間、人の数を申すに五十九億十万八千人立つ市なり。
長安城の湊より十の道別れてり。
険路剣難道とは、辰巳(南東)を差していく道三十五に踏み分けり。
奥南道と申すは未申(南西)へ行く道五十九に踏み分けり、
末はただ二つ、東陽道は船路にて末は日本に続くけり。
かかる道々よりも貢物を供え后を拝み奉る。
あら有難やただ一目拝み申す人だにも貧苦を逃れたちまちに富貴の家と成る。
だからであろうか、皇帝も后の顔に親しみ馴れ近付かせ給えば、諸病を癒したちまちに病気治療の名医に会える心地して、世の中は平穏無事で庶民も富栄えた。
4 紅白女、父に重宝を贈る
かくてうち過ぎ行くほどに、后の宮思し召し、われはこれ小国の者と有りながら大国の后に備わりたる。
その名誉を日本に残してこそと思い、御父大職冠、興福寺の金堂、同じき釈迦の霊像を御建立あるべきに、かの御堂の寄進に仏具法具贈って末代の印ともなさばやと思し召し。
揃え給う宝には、まず華原磬(打楽器)、泗浜の石があり、
華原磬と申すは、打ち鳴らしてのその後に声更に鳴りやまず、止めんと思う時には九条の袈裟を覆うなり。
泗浜の石は硯で、かの硯の功徳の力は水なくして墨をすって心のままに使うなり。
梵字で書かれた法華経を多羅樹の葉にて、釈迦の従弟の阿難がお書きになった七帖本、瑠璃の水瓶、赤色栴檀の磬を掛ける台、瑠璃で作った花立、栴檀の脇息、尼狗陀樹の数珠一連、黄虎の虎の皮、金色の獅子の皮、火鼠の皮三枚。
かかる宝のその中に、赤栴檀の御衣木にて五寸の釈迦を作りたて、肉色の御舎利を御身に作り籠めながら、方八寸の水晶の塔の中に納めて無価宝珠と名付けて、これを一つの重宝にし、送り文を別紙に書き、石の箱に納めて贈らせ給いけるとかや。
この玉はすなわち興福寺の本尊、釈迦仏の眉間に彫りはめ給うべきなりと書きこそ送り給えけり。
さて、かかる重宝を誰かは守護して送るべき、能力のある人を選べとて。
兵どもを召さるるに大国の習いにて百人が大将を百戸と名付け、千人が大将を千戸と言い、万人が大将を万戸と名付ける。
向北道の末の雲州と言う国に万戸将軍運宗とて大剛一の兵あり。
これに、劣らぬ兵三百人を相添え、都を立って大唐の明州の湊より一葉の船に竿を差し、追い手の風に帆を上げて数千万里を送りけり。
5 竜王、修羅を頼み宝珠を狙う
海底に住み給う八大竜王の惣王は、玉が日本に渡る事を神通にて知る。
諸々の竜王達を集め仰せられけるは、我らは既に海底の竜王たりと言えど、成仏の妨げとなる五衰(の衰亡相)三熱(三苦に悩まされ)暇もなく、永遠に会うことも出来ない。
赤栴檀の御衣木にて五寸の釈迦の霊仏が、この波の上に御座有るを、いざいざ奪い取りて、我ら完全なる悟りを得て成仏を遂げよう。
もっとも然るべし、とて八大竜王の波風荒く立ち給えば、船は漂って進まず遅れ波路静かならざりき。
されども不思議な霊力を持つ仏がお乗りになっている船であるから、天上界の天人は雲を押さえ、仏法の守護神である八部衆の鬼神の夜叉、羅刹は波風を鎮めさせ給へば、船には何の障害もなくして、三枚羽の矢を射る如く順風を得て快走する。
竜王いとど怒りをなし、波風にて止めずば襲って奪い取るべし。
さあらん時に異国の者定めて強く防ぐべし、竜王の眷属(郎党)に然るべき者はなし。
修羅は(海底に住み戦闘を常に好み)猛き者なれば頼んでみんとの宣いて、阿修羅たちをぞ頼まれける。
かの修羅の大将、魔醯首羅、諸々の眷属(郎党)を引き具してこそ出でられけり。
元より好む闘争なれば、百千若干の眷属どもを異様な姿で出で立たせ、鉾刀杖を取り持たせ、敵は数万騎候ども戦は家のものなれば、玉においては奪い取って参らせんと申して、日本と唐土の潮境のちくらが沖に陣を取り、万戸の舟を待ちいたり。
6 修羅と唐人の合戦
これを知らんで万戸、順風に帆を上げ心に任せて吹かせ行く、日頃ありとも覚えぬ所に島一つ浮かべり。
見れば長い旗の末をひるがえし、鉄の楯の間よりも剣や鉾の稲光刀杖の影共が、雲霞の如く見えければ、あれは何と言える子細ぞや、如何なる事の有るべきぞと心もとなく思われけれど。
素知らぬふりをして船を進めていくと、かの修羅の大将、魔醯首羅、一陣に進み出で天を轟かす大音にて、只今この沖に関所を据えたる兵は如何なる者と思うらん、修羅と言える者なり。
海底の竜王達を助勢するため、目的を何だとお思いか、御船にまします赤栴檀の御衣木にて五寸の釈迦の霊仏余の宝は欲しからず、その水晶の玉速やかに渡され候へ、さらずば一人も通すまじいと申す。
万戸これ由聞くよりも、あらことごとしの勢い候や、さては音に承るこの阿修羅達にてましますよな。
我が大国の習いにて百人が大将を百戸と名付け官人と言う、千人が大将を千戸と名付けて首領と言い、万人が大将を万戸と名付け将軍とこれを言うなり。
頼りがいのあるものではないが一万人の大将なれば万戸将軍運宗とはそれがしの事にて候。
もっとも竜宮よりの御所望にて従いて水晶の玉参らせたくば候えども、我は七帝の中よりも器量の人と選ばれ、日本の勅使を給わる時の日より、命をば我が君の御為に奉る。
されば命を惜しまないのは、君恩に報ずる大義による事であるから、命のあらん限りは玉においては取らるまじいぞ。
げにと玉が欲しくば万戸を討って取れやとてからからとぞ笑いける。
修羅共此の由聞くよりも、さらば手並み見せんとて鉄棒、乱れ紋の入った剣を引っ提げ雲霞の如く攻めかかる。
万戸これを見て叶うようべきあらざれば、船底につつと入って装束を着たりける。
万戸が其の日の装束に、神通遊戯(不可思議な神通を自由自在に発揮できる)の腕(肱)金、三摩耶戒(如何なる苦難も払う)のすね当てし、妙法蓮華(法華経の教え)の綱貫き(沓)を履き、忍辱慈悲(一切の外難を防ぐ)の鎧を草摺り長に着下して、阿耨多羅三貌(あのくたらさんみゃく、仏の悟りの知慧)三菩提の五枚甲(かぶと)を猪首(首が隠れるよう)に着。
忍び(兜)の緒をぞ締めたりける。降魔利剣(不動明王が持つ悪魔を降伏させる剣)の大刀、真十文字に差すままに、大たうれんという剣(阿修羅王が鬼に与えた名剣)、(腰に取付ける緒)足尾長に結んで提げ。
剣明連(一振りすれば千人の首、二振りすれば二千人の首を斬り落とすと言われる名鉾)という鉾持った。
そして、船の舳板に突っ立ち上がった。
三百余人の兵ども思い思いに出で立って、小舟を降ろし押し浮かべ既に駆けんとしたりけり、
唐の戦の習いにて乱に駆くる事は無し、調子を取って楽を打って拍子に合わせ駆け引く。
勢揃えの太鼓は一拍子目を強く次第に弱める調子で、駆けよと打つ太鼓はそうそうと打つなり、引けよと打つ太鼓はおんてうこつと打つなり。
組んで頸を取れとは、つるていこつと打つなり。
かなわぬ時の詮には四方に鉄砲を撃ち、足踏みを乱れ拍子きり拍子、急に及ぶ時には、血を滝と流して首を塚に詰めよと打つ。
修羅唐人の戦いは昔も今も例なし、その上修羅の戦いに火焔の雨を降らし、悪風を吹き飛ばせ、盤石を降らす事は雪の花の散る如く、剣を飛ばせ鉾を投げ毒矢を放す事、真砂を撒くがごとし。
身を隠さんと思う時、芥子の中へ分けて入り、現れんと思う時、須弥にも丈を比ぶべし。
かかる神通名誉を目の前に現じ、ここを先途と戦えば、すでにや唐人心は猛く勇めど、この勢いに押されて逃れ難くぞ見えにける。
7 唐の万戸将軍の勝利
さる間、万戸は味方の軍兵どもを近付けて申す、とても叶わぬ物ならば、修羅の大将四十五人を底の水屑となしてこそ、異国(日本)で取沙汰されても面目を保つ事が出来るのだ。
我と思わん人々は供をしてたべやとて、金剛界の曼荼羅、胎蔵界の曼荼羅、両界諸尊一千二百余尊の曼荼羅を母衣に掛けて吹き反らし、船底よりも名馬どもその数あまた引きい出す。
万戸が秘蔵の名馬に神通葦毛と名付け、馬の丈が四尺七寸八分、明け六歳、尾とたてがみは毛が厚く生え、どっしりとした体の名馬で、尾の付け根、脇腹、爪先の関節、肉付き、骨並、夜目の節、名馬の見本としてこしらえあげたようである。
螺鈿の鞍を置き、蜀の名産の錦の上敷きに金銀塗った瑠璃の鐙、りきじの力革をば猩猩(想像上の動物)の血(を染料として)に染めたりれり。同じき面繋(馬の頭飾り)を掛けさせ、金の轡、がんじと噛ませ、錦の手綱操って掛け、万戸ゆらりとうち乗って、
波に沈まぬ浮沓を四つの足に掛けたれば、波の上を走る事は平路を伝う如くなり。
部下三百余人の兵共、何れも馬に乗ったれども、皆々浮沓掛けたれば、雲居に雁の飛ぶように一群がりにざっと散らし修羅の陣へ切って入る。
修羅どもこれを見て、一疋二疋のみならず三百疋の馬共が、いずれも波を走る事は不思議なりと肝を消して、かほどに勇む修羅どもも、逃げ腰の怖気づいた目になったりける。
大将の魔醯首羅が進み出て言いけるは、のう、ここ候ぞ、以前から申していたことと寸分違わないことだ。
相手の弱みに付け込んで猛々しく振る舞い、面と向かって意地悪げな目を吊り上げ、つまらない争いで無駄な抵抗をするのは合わないことではないか。
本気で戦わないでどうして手柄や失敗がわかろうか、一合戦するぞとて出で立ちたりし有様は、悪行と怒りの鎧を着て、無知で頑固な兜の緒を締め、常に闘争して恥じない鉾ついて、怒りと愚かさの旗差させ、百千若干の郎党どもを相従え、しきりに鬨を作れば。
碧天(青空)破れ波上に落ち、海底を動かし波を上げ、虚空さながら動揺して、月の光も埋もれて、ひとえに長夜と成ったりけり。
このほど音に承る万戸将軍運宗に見参せんと言うままに、万戸を中に取り込めたり。
万戸の兵どもここを先途と斬ったりけり、(日食月食を起こす悪魔である)羅睺阿修羅三百人、からこんら阿修羅五百人、手を砕いてぞ斬ったりける。
万戸は名誉の馬に乗り、海上にて乗る手綱、蒼海浮と竜背浮に乗り浮かべたる馬の足、左手側の者を突く時、横行の手綱きっと引き、右手側の者を突く時は鞭をちょうと打つ、逃げる者を追う時には鐙の鞭を打ち、馬を前後自在に乗り廻した。
西から東へ打って通る時には三百余人が後に付いて、ここを先途と斬りたりけり。
入れ替え入れ替え戦えば、修羅の戦は、け押されて崩れかかり、勝てそうには見えなかった。
総大将の魔醯首羅、八つの顔と八つの肘を振り立てて、剣先八つの鉾を打ち振り、討死ここなりと、喚き叫んで駆けにけり。
万戸、これを見て叶うべきようあらざれば、海水を汲み手や顔を洗い清め、梵天帝釈天などの諸天に深く祈誓する。然るべきは観世音悲願違え給うな。
軍陣中で敵の脅威にさらされて、差し迫る危険におののく時、かの観音菩薩を念じるならば、ことごとく敵は退散する。
この観音の誓願は今でなくては、いつ果たされることか。
修羅が恐るる華鬘の幡(仏菩薩の威徳を表す旗)を只差し駆けよ、いや差し掛けよと下知すれば、華鬘、鸞鳳、玉の幡を真っ先にそそせ、我劣らじと攻めかかる。
(浮き靴を履いた騎兵は海上を駆け、観音への祈誓をして、遂に勝利をする)
万戸の兵勝ちに乗って、追い伏せ追い伏せ切ったりけり。
神力も尽き果て、通力飛行も叶わずし、底の水屑になりにけり。
生き残る修羅ども住家住家に隠れたり。
万戸、勝鬨作り駆け、元の船に乗り、修羅唐人の戦いに勝ちぬや勝ちぬやと勇みをなし、唐土高麗走り過ぎ日本近くぞなりにける。
8 竜王、竜女を遣わす
敗戦を知った竜王達、これをば、さて如何はせんと詮議せられけり、その中にとっても難陀竜王宣まわく、それ人間の智恵を謀らんには、見目良き女によもや勝る者はあるまい。
ここをもって案ずるに(作戦として)、竜女を持ってこの玉を謀って取るべきなり。
竜宮の乙姫に「こひさい女」と申して、並びなき美人たりしを見目いつくしく飾り立て、神霊が乗るという空舟に作り籠め、波の上に押し上げる。
これをば知らで、万戸、順風に帆を上げ、心に任せて吹かせ行くに、海漫、海漫としては、又波上ちぢんだり(海は広く果てなく波もひっそり静まり返っている)。
青空の沖合から吹いてくる風は、広々と吹き渡って、またいずれの木草にか声宿らん。
頭なし、大河原、きとの島、諸味の島、もめい島、薩摩の国に鬼界ヶ島、壱岐のもとほり、対馬の内院、事故なく走り過ぎ、九州を左手にして讃岐の国(香川県)に聞こえたる房埼の沖を通りけり。
流れ木一本浮かんであり、船頭や舟こぎ手が是を見て、この程の大風に天竺唐土の香木が吹かれて流れるやらん、と人々に怪しめたりければ。
万戸、この由聞くよりも、何の怪しめ事ぞただ取り上げよと下知をなす。
御諚に従い端舟降ろし取り見るに、香木ではなく、怪しや割って見よとて、この木を割ってみると、何と言葉に述べがたき美人一人居わします。
船頭や舟こぎ手が是を見て、斧まさかりを投げ捨てて、あっとばかり申す。
万戸、これ由見るよりも、いか様にも御身は天魔波旬の化現にて妨害しようとするそのためだな怪しや如何にと言いけれど。
何と物をば言わずして只涙ぐみたるばかりなり。
万戸重ねて言いけるは、いやどのようにして騙そうとなさっても、何としても怪しい、ただ海底に沈め水屑に成せと勇みをなせば。
荒けなき兵、女の御手にすがり海へ入れんとす。
竜女は、ひどく慌て気が気でなく、あら恨めしの人の言葉や、野に伏し山を家とする虎狼野干の類でも情けはあるとこそ聞け、自らの名前は契丹国(モンゴル族の一部族)の大王が大切に育てた姫であるが、ある后(継母)の讒言により浮舟に作り籠め広大な青海原へ流された。
たまたま珍しく不思議にも人間に出会ったので、或いは助けてくれるかもしれないと思ったのに、何の罪にて憂き海底に沈めようとするのか恨めしさよとかき口説く。
乱れ髪を伝って涙の露がこぼれるは、貫く玉の如くなり、霜を置いたる女郎花、下葉絞るる風情して、西施(越王が呉王に敗れた時呉王に差し出された美人)がやさうに捨てられて、しとねには袖し、濡れ干す日も無しと悲観するも、今こそ思い知られたれ。
桂をかきし黛、蓮を含む唇、百の媚びます愛らしさ、波と涙に打ち濡れ物思う人の風情かや、弱弱しげな御有様、よその見る目もいたわしや。
そんなに賢い万戸とは申せども、やがて下る負かされ、げにげにそれはさぞあるらん、それそれ同船申せとて同じ船に乗せてやる。
竜王の業なれば、向こうざまに風吹いて船は進まず、房埼の沖に十日ばかり逗留する。
9 万戸、竜女に言い寄りる
そうでなくてさえ旅泊は殊に物憂きに、万戸余りに堪えかねて、風の便りに通い来て、ちょっとした、うたた寝は少しの物音でも大きく響くものだから、目を覚まさせるのも気の毒だと扇の風を控えめにしながら。
月重山に隠れぬれば、扇を挙げて是をたとえ、風太虚に止みぬれば、木を動かしてこれを教ゆ、あひ見る人を恋うるには、文通はねど恋うる習い、君が心を取りに来る、のう如何に如何にと驚かす。(竜女を口説く)
竜女はもとより寝も入らず、さりながら、うたた寝入りたる風情にて。
誰ぞや夢見る折からに、正気とは思われない言の葉は、その場限りのはかないものだから、人の言葉も頼まれず。
変わりやすい人の心に、風の消えたる事の葉の、終わりがどうなるかあてにはならない事だから、浮き名がたったらどうしょうもない。
確かに人には始めから相手にもされない、無視されたという恨みもあるでしょうが、その上、我は生まれてより、この方、戒律の条文を犯していません。
始まりの無いより今に至るまで、多くの生を受けし事、あるいは六欲天の胎生に生まれ、天人の五衰八苦の苦を受け、或いは三途の三悪道に修羅を加えた四悪に堕ち、物質構成の元素、地水火風の業火に遭えり。
係る罪業を経り、今人間界と生まれるる事も、五戒を守って修行した孝徳の力によってなり。
第一殺生戒を保っては心の臓となる、偸盗戒を保って肝の臓と成り、邪淫戒を保って脾の臓となる、妄語戒を保って肺の臓と成る、飲酒戒を保っては腎の臓と是なる。
是に、中国の音楽の音階名いわゆる宮商角微羽の五音に変微、変宮を加え七声あり、中国の五音に対する日本の音調名、双黄平盤一越、これ又計り知れない優れた教えとし、五智の音声是なり。
これに五つの魂あり魂志魄意神なりき、この五つの形を不足なく備わっているを仏と申す。
五の形欠けぬれば、智慧に欠け無智の闇に覆われている畜類たり。
いかにも仏を願わんずる人は、まず五戒をよく保つべし、一つも戒を破りなば、無足の蛇や魚類、多足の虫やむかで類の者となって長く仏になるまじ。
仰せは重く候らえど、第三の戒門をいかにとして破らんと涙ぐみたるばかりにて思い入ってぞおわしける。(竜女は仏教の戒を保っているからと拒絶する)
10 万戸と竜女の仏法問答
万戸も大唐育ち仏法流布の国なれば、あらあら語り申す。殊勝や、さては後生の御為に禁戒を保たせ給うか、その戒文の中に六波羅蜜の行あり、その中にとっても忍辱波羅蜜とは人の心を破らず。
いかに五戒保っても人の心を破りなば、仏と更に成り難し、さればにや、仏には超人的能力の三明の煩悩を取り去る力に二通を加えた六通おわします。
これはひとえに過去として諸波羅密を行ぜし功徳、今に現れて仏と成り給へり。
例え一度は滝の水、濁りて澄まぬ物なりと、遂には澄みて清らかからん。
恋には人の死なぬか、さても空しく恋死なば、ほんの僅かの悪念妄想でも、計り知れない長い生死に及んでその報いを受ける恨み深こうして、ともに蛇身に変身するならば、仏とは成らずして、蛇道に永く堕ちるべし。
戒の品、数多あり、五戒を良く保っては人間と生まれて五体を受けるなり、十戒を保っては天人と生まれて五衰を受けるなり。
二百五十戒は又教えを聞く修行者と生まれて仏にはなり難し、五百戒を保っては悟り者縁覚となる、これも仏にはならず。
菩薩三聚一心戒この戒を保ってやがて菩薩となり仏と更に成り難し。
大乗円頓戒この戒を保つてはやがて仏に成るなり、大乗の戒行は二念をつかぬ戒なり、身体は無相にて我が身もとより自空なり、生死にも繋がれず涅槃に更に住せず。
邪正即ち清ければすすぐべき垢もなし、厭うべき煩悩なし願いて来たる仏なし。
見る一念を法とし聞くことを御法とす、ここを知らんを迷いとす。
陰陽二つ和合の道、妹背夫婦の仲らえこれ仏法の源、愚かに思うべからず。
御なびきあれやとぞ思う、如何に如何にと申しける。(万戸更に口説く)
竜女聞し召されて、それは究極絶対の真理そのものの御法とし、仏法においては秘蔵の所なれども願うことなくしては仏と更に成り難し。
上代は素質や能力が優れており、知恵も大智恵なるべし、末世の今は下根にて、智恵ある人も少なし。
昔上代の大智恵の人だにも家を出て妻子を捨て法の為に難行する。
悉達太子(釈尊の出家前の名)は、高位なる万乗の位を振り捨て、わりなく契り深かりき王妃を余所に見て十九にて出家を遂げ壇特山の法霊、阿羅邏仙人を師事し、霊鷲山の霊峰に焚き木を樵り身を焦がし山谷にむすぶ仏前に、供える水や氷の隙を汲む度に涙は袖のつららとなる。
夜はまた夜もすがら仙人の床の上にし座禅の床の布団となり、かかる辛苦の功を積み正しく釈迦と成り給い。
衆生の生死流転の三界で只一人の尊き聖者、迷いの世界のあらゆる生き物が頼みとする指導者とましまして、釈迦が成道から涅槃に入るまでの一代に説いた尊い教えを広め給うなり。
ここをもって案ずるに煩悩促菩提心、生死即涅槃とて妻子を帯し候て仏と易く成るならば、などや太子釈尊は王の位を振り捨てて、后を嫌って避け給いけり、そのほか悟りを得た聖者たち何れか妻子を帯して仏となりし人やある。
さても仏の御弟難陀太子と申せしは、種々の煩悩によっておこる習性尽きずして、女人を好み給いしをかくては仏に成らじとて、仏方便巡らして浄土地獄の有様を即身に見せ奉り遂に出家遂げさせて難陀比丘とぞなし給う。
いとど好む邪行を良しと教え給うは、盲目に悪き道教える風情なるべし、かように申せばとて、もとより我は仏にてあるなり。
虚空には一切の現象が存在しそのままが仏身である、頭は薬師、耳鼻は阿彌陀、胸は弥勒、腹は釈迦、腰は大日如来なり、その外十方諸仏達、もろもろの菩薩とし、我が体に具足し、十方の虚空に法如として居わします。
来もせず去りもせずいつも絶えせずましますを法身仏と申す、形を作りあらわし浄土を立て住家とし給うを報身仏と申すなり、八相成道し給いて法を説き即ち衆生を利益し給うを応身仏と申すなり、三身をとりわき一身を信ずるは悟りの前の仏なり、仏の三身がそのまま一仏身である。
いずれをも信じるを悟りの前と申す、仏とならんそのためには難行苦行せんもの、いかで善悪乱るべき身はいたずらになさるると叶うまじとぞ仰せける。
万戸、この由聞くよりも、ことの外に腹を立て如何にや如何に聞し召せ、(万戸も仏説を引いて反論)仏を願う人は皆、道と知恵と慈悲心一つ欠けても成り難し。
道といっぱ厳しい修行をする姿、智恵といっぱ悟りの心、慈悲といっぱ一切の衆生を深く哀れみて、人の心に従えリ。
第一慈悲の欠けては仏と更に成り難し(慈悲の心がなければ仏とはなれないと説得する)、あう所詮ものを申せばこそ言葉も多く作れ、今は物を申すまじ。
かくてここに平伏して思い死となってこの世の契りこそ浅くとも、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天に生まれ変わり死に変わり、死後六道のいずれか四種に生まれ変わりくるりくるりと追い巡って、憂さも辛さも後の世に思い知らせ申さんとその後ものを言わず。
11 竜女、宝珠を奪う
長い論争の後、竜女は元よりかように召されんため謀りすませ給い。
玉のように美しい御手で万戸の袂を控えさせ給い、のう、ひどくお恨みにならないでください、真に志のましまさば自らの所望を叶えてください、草の枕のうたた寝の露の情けは夢ばかり契りなん。
万戸、余りの嬉しさに、かっぱと起きて身を抱き、のう、こは真にて御座候か、二つと無き命をも参らせんと申す。
竜女は聞し召されて、いやそれまでも候わず。
本当でしようか、承れば朱栴檀の御衣木にて五寸の釈迦の霊仏のまします由をこの船内にて承る。その水晶の玉は自らに一夜預けさせ給え、ともかくも仰せに従うべしと言う。(女はやっと万戸になびくことになるが釈迦の霊仏を一夜自分に預けることを条件とする)
万戸、この由聞くなり、あら正気の沙汰とは思えない、あきれた事だ、他の望みかと思ったが、この水晶の玉に限ってはまったく考えられないことだと、ふつつと思いけるが、いやいや何程の事の有るべきぞと思い直し、さてもさても御身は何として御存じ候けるぞ、やさしくも御所望候ものかな。
さらばそっと拝ませ申さんとて、鉄錠を鎖し印判を持って封じて有る石の唐物入れの中から水晶の玉を取出し竜女の方に渡す。
傾城(美人)と書いては都かたむくと読まれしも今こそ思い知られたり。
かくて執愛恋慕のわりなき契りと見えつるが、三日も過ぎるに、掻き消すように失せん。
玉はと人に見せければ、取て失せんと申す。ただ茫然とあきれ果て空しく手をこまねいているばかりであった(媚を売る竜女に、万戸はまんまと色仕掛けにだまされ、水晶の玉を奪われてしまう)、あら口惜しや竜宮の都より謀りけるを知らずして取られける事の無念さよ。
さりながら、とかく申すに及ばずとて残る宝を先として急ぎ都に上り、様々の宝物を取り出して大職冠に参らせ上ぐる。
大職冠御覧じて、送り文のその中に第一の宝物、水晶の玉が見えぬは如何にと尋ね問い給う。
隠すべきにてあらざれば、ありのままに申しあげる。
鎌足聞し召されて、考えれば考えるほど無念であるから、せめてのことに私を案内して、その浦の様子を見せよと仰せければ、承ると申して戻りの船に乗せ申して、房埼の沖へ押し出して此処なりと申す、ただ茫々とした波の上を御覧じて空しく戻り給う。
12 大職冠、海女と契る
道すがら思し召す、さもあれ無念なるものかな、三国一の重宝を我が朝の宝とはなさずして、いたずらに竜宮の宝としてしまう口惜しさよ。
よくよくものを案ずるに、竜宮界は六道においても畜生道の内、人間の智恵には遥かに劣るべきものを、さあらん時は何として謀られけん不思議さよ。
我また竜王を相手とする巧みな秘策をねって、何としてでも工夫を凝らして、玉を取り返してみせようぞと思し召し。
都に帰り給いて朝夕案を巡らし、玉を取るべき謀工夫ましましけれども、何と言っても海を隔てるにしても、他の国や遠い島と言うのではないから船の行き来の路があるならばともかくも、そうは言っても自在に何処へでも行ける超能力の神足にて通るなら論外である。
大施太子(釈尊の菩薩修業時代の名)はかたじけなくも竜に奪われた如意珠を手に入れようと、海水を汲み干し取るとの大願を起こして、蛤の貝殻で海水を汲んて珠を得たという話がある。
我も誓いて願わくば、生々世々( 生きかわり死にかわりして生を得た世)の間に、この玉においては取り返すと思し召し、都の内を忍び出で、身なりを目立たなく、みすぼらしくなさって房埼へ下らるる。
かの浦に着き給い浦の景色を見給うに海女共多く集まりて、海中に潜り貝や海藻を盛んに取っていた。
かの海女の中に年二十歳ばかりに見え見目形尋常なるが、流れる水に戯れて漁をするさまはまるで平地を行くようである。
鎌足これぞと目を付けて、かの海女の苫屋に宿を借り日数を送らせ給いけるに、海女にも未だ夫も無し。
鎌足旅の独り寝の床も寂しく事ながら、ここにて日をや重ねけん、寝がたけれども姫松のはや浦風にうちなびき(若い娘の事で素直に従って)難波もつらき浦ながら(何に付けてもつらい暮らしながら)、そよよしあしと言い語りて(難波の浦の縁で有名な藘を導き)二人有ればぞ慰みぬ、浮き寝の床の楫枕(船中の旅寝)波の夜にもなりぬれば、友も渚の小夜千鳥、吹きしほりたる浦風に声を比ぶる波の音、須崎の松に鷺あれば、梢を並の越ゆるに似て、塩屋の煙一結び、末は霞に消え匂い、夢路に似たるうたかたの、波の越し舟かすかにて唐櫓の音の遠ければ、花に鳴く音の雁、我も都の恋しさに声を比べて泣くばかり憂き身ながらも槇の戸を明けぬ暮れぬと過ぎ行けば三年になるは程もなし。
かくて男女の仲らへ、わりなき仲の契りにや、若君出来給う。
今は互いに何事も打解けたりし色見えたり。
鎌足見込め給いて、今は何をか隠そうか、我こそ都に隠れもなき大職冠とは我事なり。心に深き望みのありて、このほどこれに有りつるぞ、出来る事ならば私の願いを叶えて下さるまいか。
海女人承り、なうこは真にて御座候うか、あら恥ずかしや、天下に名声が轟いていらっしゃる、かかる貴人に親しみ申しける事は、もったいなくて、そら恐ろしいことです。
又は白女卑しい身分にて、膚へは波の荒磯、立ち居は磯の流れ木、声は荒磯に砕くる打つ瀬波の音、髪は八潮に引き乱す江浦草のごとく乱れた身にて、都の雲の上人に起き伏し一つ床にしてみ見えぬるこそ恥ずかしけれ、ただもう死んでしまいたい位ですとこそは口説きけれ。
鎌足聞し召されて、死にたいと思うならばその命を我がために与え、竜宮界へ分け入って尋ねる玉の有り所を見て帰れとの御諚なり。
(身分の差を知った海女は、命に代えても玉を探し出すことを決意する)
海女人承って竜宮界とやらんは有りとは聞いて未だ見ず、行きて帰らん事難かるべし。
たとえ如何なる仰せなりともいかでか背き申すべきと鎌足に暇を請い。
一葉の舟に棹をさし沖をさして漕ぎ出で、波間を分けてつつと入り、一日にも上がらず、二日にも上がらず、三日、四日も早過ぎて、七日にこそなりにけれ。
鎌足仰せけるようは、あら無残や彼の者は魚の餌食ともなりけるか、変だ心配だと心を尽くさせ給う所へ死者が生き返った様に元の舟にぞ上がりける。
如何にと問わせ給えば、しばしは物を申さず、やや有りて申しけるは、のうこの土より竜宮界へ行く道は並大抵のことではなく一つの頭を先として暗き所を潜って千尋の底へ分け入るに、潮の流水尽きぬれば、紅の色の水ぞある。
なおし底へ分け入るに、黄金の浜地に落ち着く、五色の蓮華生い伏し青き蛇多くして蓮華の腰を巻きつける。
なをし先を見渡すに美しい川清く流れ、水の色は五色にて双岸高くそびえ立てり、川に一つの橋あり七宝をちりばめ、玉を飾った鉾旗を並べ立て旗先がゆらゆらと風に揺れている。
かの橋を渡るに、歩くにも恐ろしく気絶しそうで夢現ともわきまえず、なおし先を見渡すに高くそびえる楼門には雲がかかっており、玉をちりばめた門扉の上横材は霞の中にかすんでいる。
黄金の瓦は日に光り蒼天魔でも輝きけり、三重の回廊に四重の門の立てたる一つの内裏おわします、竜宮城これ成り。
瑠璃で作った花立を立て、めのうで作られた行桁に玻璃の壁をはめ込んで、四種の満珠の垂れ飾り、玉の簾を掛け並べ帳にも綾織物を掛けつつ、床に錦の褥を敷き、白檀香の香り、なを鳳凰が歳を経るとなる鸞の彫られた鏡を磨きたて、かかる目出度き宮宅に仏法守護の八部衆の沙竭羅竜王始めとし和修吉竜に至るまで、宝座を飾り座らせらるる。
諸々の小竜、毒竜、黄金の鎧を着て四つの門を守っている。
さても尋ねる玉は、別の殿を作って宝の旗を立て並べ香を盛り、花を摘み一日中警備の番が居り、玉の周囲を巡って深く帰依し礼拝する様は大変なものであった。
八人の竜王、時々刻々に守護すれば、この玉を取らん事今生にては叶うまじ、まして未来も取り難し、お諦め下され若君とのとこそ申しけれ。
鎌足聞し召され、そうか玉のありかをしっかりと見届けてくれたのか、有る事さえわかれば必ず取り返される。
竜王も謀を巡らし謀って玉を取りたれば、我も巧みを巡らし謀って玉を取るべきなり。
それ竜神と申すは五衰三熱暇もなく苦しみおおき御身なり、この苦しみを免れることは音楽の妙なる調べに勝るものは無い、竜王を謀るならば舞いと管弦にて謀るべし。
この海の上に極楽浄土を模して舞台を作り、玉の旗竿を百立ち並べ、楽屋を左右に飾って管弦を調べ、見目良き稚児を揃え音楽を奏するならば只天人に似たるべし。
さあらん時に、大僧正が唐鈴を鳴らし上天下界の竜神を驚かし勧進するならば、勧めによって神仏臨み来臨ましまさば、竜宮の都より八大竜王を先として、若干の眷属共を引き具して出でらるべし。
その間は竜宮界に竜は一人も有るまじきぞ、留守の間を窺ってそろりと入り盗み取ってきてくれとぞ仰せける。
海女人承り、あらご立派な殿の計略である事、このような巧みな手立てがなくては取り戻すことはできない、ただし留守の間なりとも玉の警護はあるべし。
例え死んでも玉だけは無事取り戻し殿に献上致しますが、もしも死んだらまだ乳呑児の乳房を離れる事も無し君ならでは、後の世を憐れむ人の有るべきかとて泣くより外の事は無し。
鎌足聞し召されて、心安く思え、もしも死んだなら、教養その為に奈良の都に大伽藍を建立すべし。
また子の若においては未だ幼稚なりと言えど都を具足し天下の御目にかけ、房埼の大臣と名乗らせ藤原氏の棟梁とすることを約束し、こまごまと宣えば、海女人承って喜ぶ事は限りなし。
やがて都に使者を立て舞い主を召し下し、辺りの浦の舟を寄せ、朱色赤色に彩られた舞い台を張り立て、十丈の旗鉾百流立て並べ風に任せてひるがえせば、蒼海はやがて浄土となったり。
左右の楽屋に飾り立てた大太鼓、幔幕を挙げ美しく飾った玉簾、法座を左右に飾って、有験知徳の大僧正が唐鈴を打ち鳴らし、上天下界の竜神を驚かし請ずれば。
八大竜王入来して詮議まちまちなりけり、南瞻部洲(人間界の)房埼の浦にして宝座を飾り招請ある、いざや来臨影向成って聴聞せんと詮議して、若干の眷属共を引き具してこそ出でられけれ。
既に竜神出でたまえば、国中の稚児達身を飾りここを先途と舞い給う、ただ天人の如くなり。
13 宝珠の奪還と海女の死
さる程に竜神五衰三熱たちまち免れ給いける間、何事もうち忘れ舞に見とれ給いて房埼に日をぞ送られる。
さあ今こそ絶好の機会とて海女も出で立を構へける、五色の綾で身をまとい夜行の玉を額に当て、鉄良き刀脇にはさみ布綱の橋を腰に付け、波間を分けてつっと入る。
たとえ男子の身なりとも一人海に入らん事、毒魚、竜、亀大蛇の恐れもあるべきに申さんに、女の身と有って一人海へ入る事は類少なき心かな。
数千万里の海路を過ぎ竜宮の都に着く、夜行の玉に照らされて暗き所は無かりけり、ことさら見置きたりし事なれば、迷うべきにて候はず、竜宮の宝殿に崇め置く水晶の玉思いのままに盗み取って。
腰に付けたる約束の布綱を引けば船中の人々、あわや約束ここなりと手で綱を引きよせ上げる。
海女も勇みて潜りければ、上よりいとど引きにけり
もう少しで船までたどり着くと思われた時、玉を守る警備の小竜。この由を発見し後を求めて追う事はただ三羽の征矢つ征矢を射るごとく、船中の人々、あわや、ほのかに見ゆるは、繰り上げよと下知するに。
海女の跡をついて一つの大蛇追ってくる、丈は十丈ばかりにて、ひれに剣をはさみ立て眼はただ夕日の水に写るが如くなり、紅の如く成る舌の先を振り立てて隙間なく追いかける。
海女叶わじと思い刀を抜いて防ぎ、船中の人々この由を御覧じて手をあがき身を抱き、海女の姿を追って、うつ伏し転んで居ても立っても居られず早く早くと仰せけり。
鎌足ご覧じ御剣を抜き幼児の時に狐に与えられた一つの鎌に取り添え飛び込もうとし給うを、船中の人々鎌足の左右にすがって、何をなされるかと止めにけり。
この綱残り少なく見えたのに大蛇走りかかって情けなくも、海女の二本の足を食いちぎったので水の泡のように海女は死んでしまった。
空しき死骸を引き上げ諸人の中にこれを置き一度にわっと泣き叫んだ。
鎌足御覧じて、約束の玉を取り戻せなかったので夫婦の来世をかけての契りは尽きてしまった。
海女の胸の間に傷あり、大蛇にて裂けるものではなく怪しみ御覧ずれば、傷の中より水晶の玉が出てきた。
さては大蛇に追いかけられた時、刀を振るのが見えたのは、防ごうとしたためではなく玉を隠さんために我が身を切って隠したかと、せめてこの傷、我が身少し傷を負ったなら、かほどにものは思わじきを、女は儚き有様かな (海女は刀で胸を突いて自害し、その中に玉を隠していたのだった) 。
男の命に背かすと命を捨てる儚さよ。
灯火に消ゆる夜の虫は、夫ゆえその身を焦がすなり、(猟師の吹く鹿)笛による(誘い寄せられる)秋の鹿ははかなき契りに命を失う。
それは皆々執愛恋慕の道理には合わない契りとは言いながら、かかる哀れは稀なるべし、夫婦の自分にとっては二世の縁であるから、来世でも逢う事が出来よう。
親子は一世でお前が母親に会えるのは今が最後だ、別れの姿を良く見よとて、いどけ無き若君を死骸に押し添えたりければ。
死したる親と知らぬ子の、この程母に離れつつ、たまに会うた嬉しさに、空しき乳房を含みつつ母の胸を叩くを見て、上下万民押し並べて皆涙をぞ流しける。
海女は死んだが、賢き善功と方便により竜宮界に奪われし無価宝珠を事故なく奪い返し給う事、有難しともなかなかに申すに及ばざりけり。
この玉は、即ち送り文に任せ、興福寺の本尊釈迦仏の眉間に彫りはめ給いけるとかや。
釈迦の生まれながらの姿を刻んだ生身の霊像、赤栴檀の御衣木にて五寸の釈迦を作り、肉色の御舎利を御身に作り籠めながら。方八寸の水晶の塔の中に納め、無価宝珠と名付け三国一の重宝、竜王の惜しみ給いし、理(道理)とこそ聞こえり。
(宝珠を巡る竜と人間との奪い合いと、藤原氏北家繁栄のものがたりである)
《参考》
◎ 天文年間(1532-1554)5月10日、越前一乗谷四代朝倉孝景(1493-1548)の出陣時に幸若八郎九郎三代義継も参戦し祝言に「大織冠」を舞う。
「甲斐の武田信玄公が越前に向けて兵を進めている」との情報を得て美濃の国境まで出陣します。この時、朝倉孝景は、「甲州の敵将信玄は数ある中でも日本無双の名将である。幸若舞曲「大職冠」の曲節の中に万戸個将軍が魔醯修羅王を討ち滅ぼした話がある。我は今、万戸将軍となり、敵を首羅王と呼んで退治する時なり!」と声高らかに叫んだ後、同伴していた幸若太夫三代八郎九郎義継(1489-1556)に幸若舞の「大職冠」を舞わせます。
戦陣では幸若太夫が「大織冠」の曲節を声にだし舞が始まりました。「万戸は順風に帆を上げ心に任せ(吹かせ)行く海漫海漫としてはまた波上ちぢんだり」と謡う所に差し掛かった時咄嗟に幸若太夫は機転を利かし、このところを「海漫海漫(かいまんかいまん)」と謡えば信玄は甲斐の国主であり敵である甲斐勢の勢いがいかにも怒って優勢であるように聞こえてこれでは見方にとって不吉となるからと「海漫海漫(うみまんうみまん)」と変えて謡ったのです。言葉にも魂があります。祝福されればそのものには福運が授かる。幸若太夫の見事な機転を感じ取った朝倉孝景は「この度の我軍は疑いなく勝利たるべし」と大いに喜び後に幸若太夫に備前長光の二尺七寸の太刀を贈る」(幸若家の記録)
◎ 天正十年(1582年)五月十五日「信長公記」に、織田信長は、徳川家康の甲州平定の功績として駿河・遠江国を与えている。この時徳川家康は返礼の為に、穴山梅雪を伴って安土城を訪問しております。信長は家康接待の為の御馳走世話役を明智光秀に命じています。
五月十九日、信長公は、安土城下の惣見寺で、幸若太夫に舞を舞わせてご覧になられました。
次の日は「四座(大和四座は結崎(ゆうざき)観世座・外山(とび)宝生座・円満(えま)井(い)金春座・坂戸(さかと)金剛座)の能では珍しくない。丹波猿楽の梅若太夫に能を演じさせ、家康公がこのたび召し連れて参った人々に見せ申して、道中の辛苦を慰め申すように」というご意向でありました。
安土御山の惣見寺にては、信長公主催による家康に対する饗応の宴で、幸若舞が行われております。
この日、お桟敷には、近衛(前久)殿・織田信長公・徳川家康公・穴山梅雪・長安・長雲・夕庵と、松井有閑(信長に幸若舞を指導した元清洲の町人)らが入りました。
また、舞台と桟敷との中間の土間であるお芝居には、お小姓衆・お馬回り・お年寄衆、それに家康公のご家臣衆が座りました。幸若太夫のはじめの舞は「大織冠」、二番は「田歌」でありました。舞の出来が非常によかったので、信長公のご機嫌はたいへんよろしかった。
「お能は翌日に演じさせよう」とおっしゃっていたが、まだ日が高いうちに舞が終わったので、その日梅若太夫が能を演じ申した。
しかし、その時の能は不出来であまりにも見苦しかったので、信長公は梅若太夫をひどくお叱りになりました。大変なお腹立ちであったわけです。そこで幸若太夫のいる楽屋へ家臣の菅屋九右衛門・長谷川竹の二人を使者に立てました。
この時の幸若太夫に対する使者の口上は、かたじけなくも「上意の趣き、能の後に、(武仕舞として格式上の)幸若舞を仕ることは、まことに本式とは言えないのでありますが、殿が御所望しておりますので今一番舞を所望する」というものでありました。武士舞である幸若舞は、猿楽と言われた仮面舞である能に比べると、当時、格式が格段に上であったようであります。
江戸後期の大名松浦静山の書いた「甲子夜話」によると、江戸城内における年頭(正月)の将軍拝謁御礼席の着座位置は、幸若太夫のほうが、観世太夫よりも二間も上席にあったとの記載があります。また、徳川幕臣の名簿である武鑑の中には、幸若太夫が観世太夫の上席に名を連ねております。
安土城内では、幸若太夫の二度目の舞「和田酒盛」という曲が舞われ、これも非常に出来がよく舞われていました。
信長公のご機嫌もなおり、蘭丸がお使いになって、幸若太夫を御前に召し出され、ご褒美として太夫へ黄金十枚を下されました。次に梅若太夫に対しては、能の出来の悪かったことを「けしからん」とお思いになったが、黄金の出し惜しみのようにとられては世間の評判もいかがかとお考え直しになって、右の趣をよくさとされて、その後、梅若太夫にも金子十枚を下された。
この時の能は散々の不首尾で、信長は大いに腹を立て折檻に及んだだけでなく、明智光秀に対しても接待の仕方が悪いと打ち砕くほどの屈辱を与えております。
これ等が、光秀のそれまでに抱いていた怨念に火をつけ、やがて本能寺の変へと成って行くこととなる。
◎ 1588年(天正16年) 毛利輝元公の上洛日記「天正日記」7月27日「巳刻に森勘八殿へ御招請・・舞有之大織冠一番幸若小八郎(五代吉信)に御太刀一振り布五百疋同座の衆へ千疋宛被遣候。8月14日「午末刻に近江中納言殿へ茶湯に御出候舞有之幸若ノ太夫へ御太刀折紙被遣候」。8月25日末刻幸若八郎九郎弟子参候て舞一のし申し候。
◎ 1613年「駿府記」本5月6日の項に、「幸若八郎九郎を御前にお召しになり、家康公を始め廣橋大納言、西園寺同中将、松本・滋野井少納言等の所望により祝一口、および大織冠・入鹿等を舞う。」とあります。