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1 箱王、仇工藤祐経を探す
文治元年(元歴二年(1185))正月十三日に鎌倉殿(源頼朝)箱根(神社)詣とぞ聞えける。
さる間、箱根(神社では)には、鎌倉殿(源頼朝)の御参りとて、大衆衣を用意し稚児の衣装を結構(支度し整える)す。
その中に、(箱根山神社の稚児で)河津の三男(伊東祐親の)三男(河津三郎祐通の二男)箱王殿(後の曽我兄弟の弟助五郎時宗)、衣装の事をば思わずし(考えないで)、(三歳の時に父と死別し)幼稚で離れし父御(親)の御事、今のように思われて忍びの涙塞(せ)きあへず、小師の式部(受戒して十年に満たない小僧)を近付けて、鎌倉殿の御参りに我は出仕を申すまじ。
それを如何にと申すに、祖父伊東(祐親)殿が、不忠の者として(頼朝殿の命を狙って)御憎み有りし事(憎まれていることは)、世に隠れも候はず(世間に知れ渡っている事です)。
式部この由承(うけたまわ)り、さも候へ(そうでもありましょうが)、これほど稚児、大衆結構あるに(準備を整えているのですから)、よそながら御見物候べかし。
さらば見物申さんとて、(寺の経典講義を行う)講堂の庭に出で鎌倉殿の御参りを今や遅しと待ち給う。
かくて鎌倉殿(箱根山に)御登山ましまして講堂に移らせ給う。
さるほどに、箱王殿式部太夫を供として、本尊(を安置する内陣)の(その外側の)格子の際まで出で、さもあれ(父親の)仇の(工藤)祐経と名のみばかりは聞きけれど、その姿をば未だ見ず(見たことはなく顔も知らない)、仇を問はで(仇を尋ねないで居られようか)と思し召し。
鎌倉殿はいずくにまします式部殿とぞ問うたりける。
式部これ由承り、大紋(大型門入り)の指貫(直衣の袴)に立烏帽子を召されたる(人)こそ鎌倉殿にておわしませ。
箱王聞し召し、愚かの人の教え事や、さればとて、鎌倉殿を見損ずべきにてあらねども、仇を問わんが為ぞかし、(工藤)祐経はと問うならば。
式部太夫が心得て、あれよと教える事あらじ、(関東)八か国の大名小名(支配権を持つ土豪)の名字を問いて見んずるに、(工藤)祐経という者に問い当たらぬ事よもあらじ(よもやあるまい)と、まだ幼き心にも、案を廻すぞ恐ろしき。
さて君の弓手(左手)の脇に直られたるは誰候ぞ。
あれこそ武蔵に隠れなき秩父の(畠山)重忠と申す人にておわしませ。
さてまた、馬手(右手)の脇に直られたるは誰候ぞ。
相模の国の住人、和田の義盛と申す人にて候。
又君の御前に中座に着きましますは何処の国の誰候ぞ。
伊豆の国の住人北条の四郎時政とて君(頼朝様)の為には御舅。
その次なるは誰候ぞ。
田代の冠者(十一歳から伊豆の頼朝に近侍した)信綱とてこれも伊豆には大名なり。
その次々は誰候ぞ。
逸見光長(甲斐源氏武田信義の兄)、(以下甲斐源氏の)武田(信義)、小笠原(長清)、一条(忠頼)、板垣(弥二郎)、南部(光行)、下山、皆(席に)着いたりと言いけれど、なを(工藤)佑経と(名を)聞かざりけり。
さてまた外陣の格子を北向きに、はらりと居流れたる(ずらっと並んで座っているの)は誰候ぞ。
あれこそ相模大名に、(相模国の武士)座間(と)本間、土肥(次郎実平)、土屋(三郎宗遠)、遠江の国の住人に設楽(しだら、三河国の武士)、長山、皆(席に)着いたりと言いけれど、なを(工藤)祐経と(名を)聞かざりけり。
さてまた外陣の格子を西向きに、はらりと居流れたる(ずらっと並んで座っているの)は誰候ぞ。
あれこそ信濃大名に、仁科、高梨、海野、望月、犬養、諏訪殿原、小森、白鳥、服部党、みな御伴と言いけれど、なを(工藤)祐経と聞かざるは箱王に包むかおぼつかなし(隠すのか気がかりである)。
さては、(工藤)祐経この度のお供をば申さざりけるや(居ないのか)、お供申して有るならば伊藤の大将にて有る間、末座にはよもあらじ(末席の方に座っているはずがない)、されば帰らんと思いしが又立ち帰り問うたりけり。
さてあの礼盤(礼拝壇)の際に、薄香(薄黄色)染の直垂を着、さもゆゆしげなる(如何にも立派に見える)大名は、何処の国の誰候ぞ。
式部この由承り、今まで知ろし召されぬや(知らなかったのか)、あれこそ御身(あなた)の為には、眼前の従兄弟(確かなる血のつながった従兄弟の)工藤一郎祐経と申す人にておわしませ。
箱王殿は聞し召し、よくこそ立ち帰り問うたりけれ。
幼稚にて離れし父御に少し似てや有らんと思えば、敵ながらも懐かしく見取れて、ここに箱王殿呆然としてこそおわしけれ。
2 工藤祐経との対面
(その見つめる箱王のまなざしに気づいた工藤)祐経何とかしけりけん箱王殿を見つけ、扇を上げて是へ是へと招きけり。
箱王殿は御覧じて仇の呼ぶが嬉しさに、大勢の中を乗り越え乗り越え通って、(工藤)祐経が傍へぞ寄ったりける。
(工藤)祐経(は)箱王殿を膝の上にかき乗せ申し、いかに箱王殿それがしも御一族の片端と召し置かれ工藤一郎祐経と申す者にて候。
箱王殿この寺にまします由承って候へども(聞いては居ましたが)、公方暇なきゆへ(公務が多忙であるため)御目にかからぬなり(御目に懸ってはいない)、見参の初めに何をがな参らせん(何かを差し上げましよう)。
少人の御為には(子供にとっては)似合わぬ引出物なれども、家に伝わる重代(家宝)とて赤木の柄(つか)に銀(しろがね)の目貫、銅金打ちたる小刺刀(短刀)を、取り出て箱王殿にぞ引きにける。
箱王この由御覧じて、あら嬉しや敵の手よりも刀を得たること、ひとえに箱根の権現の出でさせ給う剣なり。
取って引き寄せ一刀と思い切ってはあるけれど、(工藤)祐経は古兵(ふるつわもの)、箱王は生年十三なり、腕が細くして(力が弱くて)、着込めの上を通すまじ(下に鎖帷子や鎧腹巻を着こんでいる直垂の上からは、到底刀を突き通す事は出来まい)。
通さぬものならば鎌倉殿の御目の前、(関東)八か国の大名小名の御覧ずる所にて、親の仇を打ち損じ、冥途にまします(父)河津(三郎祐泰)殿、末代曾我の浮き名を下さん事の無念さよ、とやせんかくやあらまし(どうしたものだろうなど)と案じ煩うその時刻に(思い迷っている時に)。
鎌倉殿の御下向とて大名小名一度に座敷をはらりと立つ、(工藤)祐経も座敷を立つ、目の当たり成る敵を討たで(眼の前の仇を討たんと)過ごす無念なる(さよ)。
それよりも(それからは)箱王殿学問所に立ち帰り、ただこの事をぞ案じける、寝れば仇が夢に見え、起く(き)れば身に添う心地にて、学問心に入らず。
3 敵討ちの心を秘め下山
かくて年月を送るほどに十六になる(日夜仇討ちを考えて箱根山で十六歳になる)は程もなし、さる程に別当、(稚児から僧に成すための)箱王殿の御髪下ろさんとて、吉日(を)選び曾我(の親元)へ案内を申されたり。
母上聞し召されて明日(には)箱王(を)法師(僧)に成すべしとて、袈裟衣(けさころも)を用意し箱根へ上らせ給う(と準備する)。
(箱王の兄)十郎(祐成)殿は(これを)聞し召し、(母の命で僧法師となる前に)稚児の姿を今一度見ばやと思し召し箱根(権現)へ上り給いけり。
箱王斜めに(大変に)喜んで一間所(狭い部屋)へ請じ(招き)申し、さて箱王は法師(僧)になるべく候や(べきなのでしょうか)、箱王、(母の命で僧)法師になるならば、御身に類(たぐ)ふ者あらじ(仇討ちする兄の貴方に寄り添う者が居りますまい)。
ただし法師になるならば(僧になってしまえば私)一人は寺の住居をし(住まいし)、(兄)祐成は里にましまさば、仇の工藤佑経を何としては(どのようにして)討つべきぞ十郎(祐成)殿、と掻き口説き泣くより外の事は無し。
(兄)祐成双眼に涙を浮かべ、あわれげに世の中に兄弟(皆に)に縁なき者は祐成にて止めたり。
それを如何にと申すに、京にまします小次郎殿(母が父河津三郎祐通に嫁ぐ以前、源仲成に嫁して儲けた一腹の兄)は、都の住居とましませば、身の本望をも語り慰(なぐさ)む事も無し(相談もできない)。
越後なる(に居る伊東九郎祐清に養育され僧となった兄弟の末の弟、伊東)禅師房は国遥々にて音信なし。
二宮(太郎に嫁いだ)の姉御(母が父河津三郎祐通に嫁ぐ以前、源仲成に嫁して儲けた一腹の姉)は、女性の身有るしるしもましまさず(いらっしゃっても頼りにはならない)。
箱王さえ(までが僧)法師に成り、祐成(兄)は友も居ない渚の虚貝(うつせがい、二枚貝ではなく一人だけで打ち寄せる波に空しく)砕けて物を思うとも、(嘆き悲しんでも)誰が哀れと問うべきぞ(声をかけてくれるであろうか)箱王殿、と語りつつ又はらはらと泣き給う。
その義ならば箱王も(僧に成らずに元服して一人前の)男に成り、(兄)祐成のお供申すべきが、ただし母上の御不孝(勘当)もや候べき。
御身男に成りて(成人して)後、たとえ母上御不孝候(勘当)とも、それがし(兄が)良き様に申し直すべし
さらば、思い立たんとて(決心し箱王は)常の所に立ち帰り詳しき事を書きとどめる(置手紙、箱根の山に住んでいたことを形見として残し)。
「名残りおば、名残りおば、箱根のお山に留め置き、二つと無き命をば冥途にまします父河津(三郎祐通)殿に奉る、師匠同宿人々に名残の数は多けれど、思い裁ち(立ちに掛け)ぬる旅衣又こそ着て(来てに掛け)も会うべけれ(決意して旅立ちますが又再会もあるであろう)、返す返すも名残惜しの式部太夫」と書き留め、夜の間に忍び出にけり。
(小田原の)浜辺の宮を筋違に、野径の露にそぼ濡れて曽我の里にぞ下りける。
4 北条時政を烏帽子親に頼む
(兄)佑成仰せけるは、やがて男に(成人)なすべきが烏帽子親(元服時の擬制的親子関係を結ぶ)には如何なる人を取るべきぞ。
伊豆の北条を取るべし(伊東氏と北条氏の間には以前から婚姻関係烏帽子親子の関係が成立していた)、さりながら徒歩にて如何行くべきぞ。
佑成馬を用意すが(したというものの)さすが馬は一疋なり、馬を引き回し乗れや箱王。
召され候へ十郎(祐成)殿。
佑成聞し召されて、あら愚かの言う事や、稚児を徒歩にて歩ませ、大俗(全くの俗人)の身として馬に乗り、路地を行こうずほどの逆なる事の候べきか。
如何なる御事候ぞ、舎兄を徒歩にて歩ませ申し、弟の身として馬に乗り、路地を行こうずる程の逆なる事の候べきか、召され候へ十郎(祐成)殿。
早乗りや箱王と兄弟馬を色代す(しきだいす、譲り合い馬に乗るのを遠慮した)。
時刻移りて夜明けなば、大方殿(母上)に漏れ聞こえ留められては叶うまじ、箱王殿も乗り給え祐成も乗らんとて馬一疋に兄弟乗り曾我の里をぞ出でにける。
上古(昔)も今も末代も例(ためし)少なき次第なリ。
駒を速めて打つほどに(伊豆の)北条の舘に着く、馬場ずえ(乗り止める所)にて馬より降り門外にこそ佇みけれ、折節(ちょうど北条時政の子)江間小四郎(義時)出で会いて、何処への御通りぞ(行かれるか)。
佑成聞し召し、ここへ参ること別の子細にて候わず、是なる童(わっぱ)に烏帽子が着せたく候て、これまで参りて候。
江間殿聞し召し、安き程の事にて候、さりながら父北条に申し聞かせんとて内に入り(父)時政にかくと申す。
北条(時政)聞きあへず、涙をさっと浮かべ給い、それ昔は六十六か年を一昔とし、中頃は三十三か年、当代は二十一か年を一昔とす。
あら無残や(気の毒なことよ)この人々世が世にて、烏帽子親を取るならば、源氏にては鎌倉殿、平家ならば小松殿 (清盛嫡男重盛)の御前にて烏帽子を着うずる(着けるはずの)人々が、時代に従う習いとて傍輩を頼み(仲間を頼り)来たる哀れさよ、それそれここへ請ぜよ(招き入れよ)とて、なけれど出井(接待用の座敷)の塵を取り破れねど簾(すだれ)駆け直しひきつくろえば。
既に早時移り返事も無かりけり、箱王大きに腹を立て、いかにや(兄)十郎殿、不思議やな江間殿は何とて遅く見ゆるぞ(どうしてなかなか出てこないのか)。
やがて心得たり(直ぐに判った)、昔は伊東、北条とて鳥の二つの羽交(はがい、車の二つの輪の)ごとくにて、劣り勝りはなかりつるに、当君の御代と成りて我々兄弟は世になし者(世間をはばかる日陰者)にて有る間、北条が卑しめて烏帽子を着せじそのために、さてばし遅く見ゆるか。
その義にて有ならば、諏訪(明神)も八幡(大菩薩)も御知見(ご覧)あれ、今生この世にて親の仇は討たずとも簾中に乱れ入りて、北条と刺し違え死のうずるにて候ぞや、そこの程をば(兄上)十郎殿も御用意あれ(御覚悟なされよ)とぞ申しける。
(兄)祐成聞し召されて、よしよし北条もさは(そうは)思われ候まじ、心を静めて待たせ給へと制し給う所へ、江馬殿立ち出で、雑餉構え(ざっしょうかまえ、もてなしの酒肴の準備をしていました)候とて、遅く参り申して候、こなたへ御出で候へとて兄弟を請ず(招き入れた)。
その時箱王色を直し(機嫌を直し)兄弟連れてぞ入にける。
5 元服の祝言
一には稚児、又客人なれば箱王を弓手(左手)の脇に直し、(兄)祐成を馬手(右手)の脇に請ぜらるる(招き入れる)。
その他、江馬の小四郎を始め一族家の子若党車座にはらりと(ずらりと)居直り、三献の酒過ぎて後、北条座敷を立ち給い、烏帽子一頭取りい出し、箱王殿の髪生やし(忌み言葉を避けて切る事)鬢掻き(びんかき)すまし、着せ申す。
名をば、北条の助五郎時宗と名付け、いかに面々聞き給え。
それ烏帽子を着る事は、私ならぬ事にて有り、清和天皇の御代の時、異国よりも我が朝へ作り物を渡されたり。
公卿(三位以上の人)、殿上人、納言、宰相以下、(御所の警護武士)北面、有官無官、関白殿下さし集まっての詮議なり。
帝、叡覧ましまして、これは男の魂、名をば烏帽子というものなり。
(烏帽子各部分の説明として)縁は大海、粒は星、櫛形は半月、尖るは国の猛き相、風口の広き事は命の長き相にてあり、(烏帽子を結ぶ組糸の)小結いを結いて着る事は、さながら須弥の半腹の学びなり(須弥山の中腹の真似たる)。
この烏帽子を着る人は命も長く名も高く、寿命長遠、徳自在、富貴の家に生まるるなり。
この烏帽子召されて末繁昌と祝いつつ、(時政は長い口上を述べて箱王の元服を祝福し引き出物として)太刀と刀を取り出し箱王殿に引き給う。
(兄)佑成御覧じて、嬉しやとは宣はで涙をさっと浮かべ給い、あら恥ずかしや昔が今に至るまで烏帽子子の方よりも烏帽子親の方へこそ、(本来は)引出物をば申す習いの候に(送るべきものであるから)、かえって給わる事の(何も持たない疎外感と貧困とに苦しむ自分たちの境遇が)恥ずかしさよと思えば、汗も涙も諸共に止どめかねたるばかりなり。
北条(時政)殿御覧じて、あら無残や佑成、弟が烏帽子を着るほどに、有りし昔を思い出し涙の風情の哀れさよ。
(時政は、)佑成が心をも慰めばやと思し召し、酒たぶたぶと控え給い(手元に置いて)。
うけたまわれば秩父には(畠山重忠の二男重保)六郎殿、三浦に朝比奈(和田義盛の子義秀)、曾我に十郎(祐成)殿、一師に(同じ師匠)付いて舞習わせ給うが中にも、十郎(祐成)殿の御舞優れたる由うけたまわる。
是は箱王殿の祝言ならば、ただ一奏(ひとかなで、一舞い舞ってください)と請われたり(時政が舞を所望する思いやりを示した)。
(十郎)佑成聞し召し、舞わじものとは思われけれども、舞わでば座敷の興も無し、舞わばやと思し召し一声をこそ(最初の声を)上げにけれ。
しずやしず、賤(しず)の苧環(おだまき)繰り返し、昔を今になす由(よし)もがな、昔を今になさばや
(栄えていた昔を今に繰り返す方法があってほしい、昔を今にしたいものだ)
((伊勢物語32段「いにしえのしずのおだまきくりかえしむかしを今になすよしもがな~もう一度以前の関係を取り戻す方法はないものでしょうか」を本歌とする歌である))
と、やや暫く謡いしが。
あら何ともなや、これは無常の体(世の生滅・転変の様を嘆く内容の歌)ぞかし、(これを謡うは有るまじきこと)舞い直さばやと思いて、和歌の体(舞の前後で謡われる祝言的要素の濃い和歌を詠吟するような形式の歌)をぞ上げにける。
君を始めて拝むには千代も経ぬべし姫小松、姫小松
(君に始めて御目通りしたことで、姫小松も千年の長寿を保つでしよう)
((平家物語巻第一「祇王」に、「君を始めて見る折は千代も経ぬべし姫小松、御前の池なる亀岡に鶴こそ群いて遊ぶめれ~君に始めてお会いする時は千年も命が伸びるであろう私姫小松、御前の庭の池にある亀岡に鶴が群れて遊んでいるようです」から引用か))
と三返踏んで舞われば(舞廻れば)、北条を始め奉り、列座に有りし人々一度にあっと感じ(感激)けり。
その後、舞も過ぎければ暇を乞うて、(十郎祐成と五郎時宗)兄弟(は)曾我故郷に帰りけり。
この続きは