和田酒盛(全文版)曽我物語③

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1 虎御前、和田義盛の酒席に出ない
 相模国の住人、和田義盛は一門九十三騎を引き具し(連れ)て,山下宿河原(神奈川県平塚市山下付近)の長者の宿(芸能を演じる遊女を束ねた屋敷)に打ち寄って、夜日三日の(三昼夜に及ぶ)酒盛は面白うこそ聞こえけれ。
 長者もかねて期したる(約束した)事なれば、(遊女の)幸定、春女、善菊、愛と申して、虎(御前)に劣らぬ遊女を十八人選って(よりすぐって)、和田殿と(を)持て成せど。
 されども、和田(義盛)の心ざす(目当てで評判の)虎(御前)は、座敷になかりけり。
 使いを立てて召さるるに一度の使いに参らず、二度の使いに返事せず、三度にも成りしかば和田(義盛)大き(い)に腹を立て、異国を見ねばそは知らず(知られなくとも)、本朝(日本)においてをや、武州に秩父(畠山重忠)、 相州(相模国)に義盛なんどが打ち寄って酒盛りをせんずるに(する時には)。
 人は呼ばずと出会い酌をも取り(遊君なれば呼ばれなくても顔を出し相手し)、今様をも歌い推参せんこと本にてあるべきに(はやり歌の一つも歌い、指名せずとも参上すべきであるのに)、かほど召すに出会はぬ(これほど呼んでも出てこない)虎(御前)は不思議の者かな(けしからんやつだ)、山下内を出でよと言え(山下宿の中から追い出してしまえと我が子)朝比奈(義秀)とこそ怒られける(𠮟り付けた)。

2 母の長者の説教
 母の長者この由聞し召し、いやいや悪かりなん(和田様のお相手をしないのは良くない事だ)と思し召し、虎御前の居たりける一間所(狭い部屋)へ立ち入り障子を隔てて宣わく。
 如何に虎御前、たとえ万々の(色々な)事有とも(事があるとしても)、只今(すぐに)出て和田(義盛)の前にて酌取って三浦(相模国三浦郡和田の里)へ返(帰)し給え、それ普天の下に生を受け王土にその身を置く事は大事にてあらずや(天の下に生まれ国王の支配する地に生きている以上その権力者の命令に従う事が大切ではないか)虎御前、とぞ仰せける。
 虎(御前)はこの由を聞くよりも、あら、うたての(情けない)母御の仰せや(お言葉です事)、(節義を重んじた)賢臣は二君に仕えず(妻の有り方で)貞女(は)両夫にまみえずと申す、本文(確かな根拠のある文言)こそ候へ。
 (十郎)祐成(曽我兄弟の兄)に契約し(と契り約束し)、又(今回十郎)祐成を(に)引き換えて和田(義盛)に契約(契りを約束)有らんとや思いもよらぬ事なるべし。
 (つい先日まで)虎(御前)は是に有りつるが(ここに居ましたが)世になし者(不遇の者)の十郎(祐成)と契りを込め鎌倉の方へ(行きました)と(で)も申させ給え母上と(答え)、召せども虎(御前)は出でざりけり。
 母の長者至極の腹に据えかねて(ひどく腹を立て)、如何に虎御前聞き給え、昔も親に孝ある輩(ともがら、連中)を和御前(わごぜ、あなた)に語って聞かすべし。
 それ(漢の)伯瑜(はくゆう)は、母に打たれ打つ杖をば悲しまで、弱る杖に音(ね)をぞ泣く。
 晋の孟宗は、母の願い物とて時ならぬ師走に筍(たかんな、たけのこ)を求むるに、雪空山に降り積(もり)み筍(たかんな、たけのこ)更に無かりけり、諸天(欲界・色界・無色界に住む天上界の神々)はこれを憐(あわ)れみ給い雪の中に竹の子三本まで育(てた)つ、喜び是を取りて帰り、八十に余りたる母の願いを満(たす)てけると承る。
 (後漢の人)郭巨(くわっきょ)は、母を養いかね我が子を土に埋(めん)まんと、打ちける鍬(くわ)の下よりも黄金(こがね)の釜を掘りい出し、二度長者になると聞く。
 さればにや(されば)人の子の、胎内に宿り胤を下ろす謀は(親が子を作り産むまでには)、梵天よりも糸を下ろし大海の底なる針の耳を通すよりなを受け難うて儲けたり(針穴に糸を通すほど難しくして妊娠し)、二百七十余日は胎内に宿り、神仏にも忌まれ(見はなされ)申す九品の浄土へ参る事もなし(阿弥陀如来の極楽浄土に行くこともなく)、たまたま人に生まれくる(出る、その)時の苦しみは、生きたる牛の皮を剥ぎ、せんからたち(いばらからたち)の其の中へ追い入るより堪え難し(がたさである)。
 玄冬(玄は黒の事、五行説で冬は黒)素雪(白い雪)の冬の夜はふすまを重ね育(はぐく)めり、九夏(夏の九十日間)三伏(陰陽道で酷暑の期間)の夏の夜は松風に戯(たわぶ)れて空吹く風を招き寄せ(夏の夜は風を招き寄せ)およそ産子を育めり(大変な思いをして育て上げ)。
 三歳になるまで(に)飲みける乳味、凡夫いかで知るべきぞ。
 かたじけなくも釈尊は壇特山(インドガンダーラにある山)の傍らにて静かに算段(計算)して見給ふに(一人の子が成長するまでに飲む母乳の量)およそ百八十石(一石は約180リットル)にしるさるる。
 この理(ことわり)を聞く時は白き骨は(報じても報じがたき)父の恩、肉叢(ししむら)は(身肉は感謝しても謝しがたし)母の恩、報じても報じがたき父の恩と説かれたり、謝(しゃ)しても謝し難きは母の恩と説かれたり。
 慈父恩高如須弥山(じふおんこうにょしゅみせん、両親の恩の高く深いこと)、非母恩深如大海いずれを報じ尽くすべきぞ(どうやってその恩に報いをするというのか)。
 やあ虎御前、只今(直ぐ)出でて和田(義盛)の前にて酌取って三浦へ返し(帰し)給へ、それさなきものならば(そうできないならば)、総じてあの(曾我)十郎(祐成)殿の馬鞍見苦しき(貧弱な)体にて、曾我より(から)もこれまでの宿通いを思い止まり給え(止めてもらいなさい)と荒らかにの給いて(荒っぽく言い)、長者座敷へ直られ(戻れ)しは、十郎(祐成)殿の為には面目なうぞ聞こえける。

3 十郎祐成、虎御前を説得 
 (十郎)佑成(は)、双眼に涙を浮かべ、それ天人の五衰(天人が死期に近づいた時に現れると言う五つの衰相や)、人間の八苦(生老病死、愛別離、怨憎会、求不得、五陰盛の八つの苦しみと言われる)とて、八つの苦の有るその中にあわれ、ただ貧苦ほど物憂(う)きことは、よもあらじ。
 貧苦とだにも成りぬれば、親しき仲も疎う(うとう、嫌い遠ざかる)なり、疎き人(嫌い遠ざかれた人)には賤(いや)しまれ、旦暮の衣を染めざれば(朝夕仏道に心を向けなければ)仏法僧をも供養せず、朝夕乏(とも)しければ三宝の布施をも行わず(食べ物も充分でないので仏法僧にお布施を差し上げることも出来ない)。
 日遣り俊士に交わらねば(時間つぶしに才知の優れた人と交際したりできないので)慰(なぐさ)む方もなし。
 たまたま末座に連なって、心は高尚に人に優(すぐ)れて思えども、(貧乏で)重ねの衣を身に着ねば肩身詰まりて恥ずかしし(上着下着の整った衣服もないので肩身が狭く面目もない)。
 今日この頃(今)、(十郎)佑成なんどが頼みたらんずる(頼むだろう)遊君を、恐らくは、あの殿原が分として(殿達の分際では)、遊君出せ酒盛りせんなんどと言わじなれども(言わないだろうが)、世に従えば(成る様に任すは)力なし、侍が侍に向かって腕首を握り詰飭(きちじょく、なじり正す)するは(今の世の)習いなり。
  世をも人をも葛の葉の葛の葉の(葛の葉の裏から恨むを導く修辞)恨むべきにてなしや
  (世の中も人の事も恨むべきではない、和田義盛に比べて貧者の身である自分の立場を恥じる)。
とて、(漢の勇将)樊噲、猜ねむ(はんかいそねむ、樊噲にねたまれるほど勇猛な十郎)祐成も、我が身の程を感じつつ、袂(たもと)を顔に押し当てて泣くより他の事はなし。
 虎(御前)この由聞くよりも、十郎(祐成)殿は何事を仰せ候ぞ、昔の人が目に見え給うか(でも見えているのですか)。
 東方朔が九千歳(という長寿を保ったと言う)。
 (((中国で不老不死の薬があるのは東の蓬莱山と西の崑崙山で、崑崙山の主人西の王母(西王母)は、不老不死の薬や三千年に一度しか実を結ばない桃を持つ、これを漢の武帝に愛された文人で仙術に長けた東方朔が三度も盗んで八百歳の長寿を保ち、その罰で人間界に落とされたという伝説がある、不老長寿仙人のおめでたい画題として狩野永良『西王母・東方朔図屏風』がある)))
 鬱頭藍弗(うずらんほつ)の八万歳(という)、龍智和尚の二万歳、浄名居士の翁の一千歳、二千歳を経るとは(長生き)申し候へど名をのみ聞いて今は見ず(見た事などありませんよ)。
 ((「鬱頭藍弗(うずらんほつ)は、古代インドの思想家にて釈迦が出家後に師事した人物の1人で 寿命は八万劫 (歳)といわれている。」また「密教では、空海までのインド・中国・日本八代に及ぶ正統の祖師を真言八祖として祀り、第二祖と言われる龍智菩薩は南インドを中心に活躍、修行の結果、超能力を有し不可思議な力は想像もできないほどと言われ、伝説では長寿を保ち、西遊記の玄奘三蔵に中観論などを教え伝えたといわれる。」、更に「浄名居士は、中インド毘耶離城の長者で釈迦在世当時、大乗仏教の奥義に通達し、仏教流布に貢献したといわれる。」))
 明日を知らざる心にて今日の楽こそ嬉しけれ。
 轟々(とどろとどろ)と鳴る神も思う仲をばよも裂けじ(誰にも恋仲を裂く事なんかできません)。
 ((古今集の恋4には、「あまの原ふみ轟かしなる神も、思う仲をば裂くるものかは」とある))
 一人まします母の不孝は(勘気を)蒙(こうぶ、受ける)るども、座敷へは出づまじき十郎(祐成)殿と語りけり。
 (虎の貞節を尽くす事に感激するが、十郎)祐成聞し召されて、あら優しの女の言葉や、か程優しき遊君を座敷へ出さぬものならば、長者の恨み深かるべしと思し召し。
 如何に虎御前只今の言葉は、山ならば須弥山(七つの山海に囲まれた世界の忠心に聳える大山)、海ならば蒼海よりも、なを頼もしく候が、ここに違う言葉の候。
 親の不孝(勘気)と仰せらるる事は私ならず(私も親孝行は大切であると思う)。
 三界(欲・色・無色界の迷いの世界すなわち大地)を戴いてまします仏の御名を堅牢地神(大地を固める神は孝行者を守る神)と申す、釈尊、よって問い給う。
 「三界を戴いてましますは、いか程重きぞ」と問い給えば、(この)地神答えていわく。
 須弥の山に灯心を一筋置きたる譬(たと)えよりも、なを軽く候が、ここに重き物有り。
 親の不孝(勘気)を得て主の勘当を蒙むり(受け)たる者の通る時、大地が割れて身が入れば、辺りの草木も枯れ果て、河を渡れば瀬絶えし、底の鱗も生を滅し、地神が頭に七尺の剣を立つるより堪え難しと宣えば。
 釈尊も阿弥陀仏、(過去現在未来に千体ずつ出現する)三世の諸仏達、舌を巻いてぞ怖じ給う。
 また(女の成仏を妨げるという)五障と申すは、(法華経第)五の巻の提婆品(だいばぼん)に、一者不得作梵天王、二者帝釈、三者魔王、四者転輪聖王、五者仏身(女性は五障の為これらの仏には成れない)と、説かれたり。
 三従と申すは、幼き時(は)父母の家とて(であり)家を持たねば親に従う苦一つ、若く壮んなる時は夫の家とて(であり)家を持たねば夫に従う苦一つ、さて老して(は)その後子供の家とて(であり)家を持たぬば子に従う苦一つ(の三従をいう)。
 されば仏の説かれたり、三界(大地)に垣もなし(隔てる垣根がなく)、六道(輪廻転生する天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)に辺りなし(輪廻の途中で休息する所がない)、女に三の家なし(女には娘・妻・母となっても身を置く家がない)と、ここを仏の説き給う、係る謂(いわ)れの候ぞや(と、親孝行への仏の教えを説いて虎を説得した)。
 ただ今出でて、(権勢を誇る)和田(義盛)の前にて酌取って、三浦へ返(帰)し給へ、それさなきもの(そうしない)ならば、名残惜しくは候えども(十郎)祐成は曽我へ帰るべし。
 虎(御前)この由聞くよりも、母御の不孝(勘気)と仰せらるるをさえ御身に替えて思いしに、御身(あなた)も不孝と仰せあらば、さらば(それでは)出んと言うままに十二単衣(ひとえ)の衣(きぬ)の褄(つま)を取って、(ようやく和田義盛の)座敷へこそ出でられけれ。
 積もる年は(虎御前はこの時)十七歳(で)、海道二番の遊君(といわれていた)。
 大人げなくも(和田)義盛の虎(御前)に心を懸けられしは理(ことわり、道理)とぞ聞こえけれ。

4 和田義盛、十郎祐成を酒席に呼ぶ
 虎御前出て、和田(義盛)殿と持て成せども盃の交代心に染まず(を嫌がるので)、(これを見た和田)義盛御覧じて、いかさまにも(どうみても)虎御前が盃の交替(こうたい、やり取りに)心に染まず見ゆるは(気乗りしないのは)、夫の十郎(祐成)が内に有るか(屋内に居るのか)、居たならば出でて酒飲めと使いを立てよ虎御前。
 虎(御前)、斜めに(特別に)喜んで十郎(祐成の所)方へ使いを立つる、(十郎)祐成聞し召されて、出る事はしまいと思し召すが、只今出ぬものならば臆したり(臆病になった)と思し召し、我が事にて有る間、烏帽子にぞ(頭に懸けて)着たりける、夏野の草尽くし(模様)の直垂、九寸五分の鎧通(よろいどおし)、彩たる(だみたる、彩色された)扇押っ取り添え前半(分出して腰帯)にぞ差したりける。
 (挑戦ともとれる呼び出しに入り口の)大幕(を)掴んで打ち揚げ、(十郎)祐成これに候とて、座敷をきっと見渡せば、着座には(和田)義盛を始め虎(御前)も長者も一門九十三騎(の人々が)車座にはらりと(ずらりと)居流れ、(十郎)祐成が居うずる座敷は無し(座ろうと見まわすが、十郎祐成の席の用意もない)。
 ここに、和田(義盛)の右座に畳が一畳空いた、和田(義盛)は三浦の大将とて恐れて直る人もなし(大将席の右座には恐れをなして一畳空いているところがある)。
 (十郎)祐成御覧じて、あらことごと(仰々)しいや、和田(義盛)と言うに三浦の大将、(十郎)祐成は伊東の大将、まず(名門豪族の嫡流として)互角なる侍(同志)が、和田(義盛)が居うずる座敷に(座る席に並んで十郎)佑成座せで(座らずに)有るべきかと怖めず臆せずはばからで(恐れず臆せずはばからずに)右席にむんずと直る(座る)。

5 母が虎御前に思い差しを強要
 かくて盃三献通って(交わした)後、母の長者、居たる所をずんと立って帳台(納戸等奥の部屋)へつつと入り、蒔絵の盤(盆)に紅葉(色)の土器(素焼きの盃)据えて出で、いかに虎御前(よ)この盃(さかづき)一つ飲んで、何方(いずかた)へなりとも(どちらでも好ましく)思うずる方へ(盃を)差し給え。
 虎(御前)この由を聞くよりも、あらむずかしの(むずかしい)母御の仰せや、和田へならば義盛へ、十郎ならば祐成へ差せとは仰せもなくして、いず方へなりとも思うずる方へ差せとは。
 和田(義盛)に差すならば十郎(佑成)の恨み有り又、十郎(祐成)に差すならば和田(義盛)の恨み有り、とやせん(どうしよう)、かくやあらましと(こうしよう)案じたりし有様を物によくよく例えれば。
 明石の浦の人丸の硯(すずり)と筆と料紙を傍に置かせ給いて、出る船入り船、立つ波吹く風によそへて、三十一(文)字の言の葉に漏らさじと案じ給いしも(古今集の「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島がくれゆく舟をしぞ思う~かすかに明るくなってゆく明石の浦の朝霧の中で、島の影の中に消えてゆく舟のことを思う」に基づいて柿本人麻呂が歌を案じている姿)、これにはいかで勝るべき。
 深く物にたとえるに、大国(中国)の事なるに帝一人おわします、帝御名を玄宗皇帝と申す、しかるに皇帝に三千人の后(きさき)在り、第一の后は虞氏君(ぐしぎみ、元献皇后)と申し、さてその次の后(きさき)を弘農郡(こうのう、河南省)の楊玄琰(ようげんえん)の御娘(の)楊貴妃とこそ申けれ。
 然るに楊貴妃三国一の美人たり、帝の寵愛ななめならす(特別で)公卿詮議まちまちたり、賤しき婢侍(侍女)の子供、楊貴妃が一の妃に備わらば百敷(ももしき、宮廷)や大宮人を振り捨て、我々内裏を罷(まかり)出でんと奏聞す。
 右をくだりに(右に同じく虞氏君も楊貴妃と同じ行動するので)、楊玄琰(楊貴妃の父)の一党(は、帝に)、「虞氏君が一の妃に備わらば、百敷(ももしき、宮廷)や大宮人を振り捨て、我々内裏を罷(まかり)り出でん」と奏聞す。
 帝此の事を叡覧ましまして、様々しの有様や(如何にも子細の有りそうな様子である)、あなたを斎えば(いわえば、大切にすれば)こなたの恨み有り又こなたを斎えばあなたの恨みあり、いずかた(方)の恨みをも負わぬようにと思し召し。
 (唐の年号の)天宝十二年七月七日の日、紫宸殿の額(を掲げた)の間に二人の后(きさき)召されて、瑠璃(で作られた双六)の盤に白石(と)黒石の投子(とうづ、双六)に水牛の角の賽(さい、さいころの事)を銀の筒に入れ、早く三番一得勝負に懸けて(三回勝負して二回勝った方を勝者とすることで)位を争い給え后(きさき)達と宣旨ある。
 后は聞し召されて、恨みも恋も残らず、さらば打たんとて賽の目を合わせられる。
 始めの勝ちは楊貴妃、その次は虞氏君、手詰めの勝負になりて、下際(おりは)になりければ(両方ともに十二個の駒を持ち、二個の賽を筒に入れ、振り出した賽の目の数だけ駒を取り合い、多く取った方を勝とする)。
 楊貴妃の請目(こいめ、出てほしい目に)は重三を請われたり、虞氏君の請目に(は)重四を請われたり。
 両の心(さいころは筒の中で両者の心知ったれば)、幾ばくぞ、重三にも、重四にも片切って下りずし(一方に偏って目を出さず)
 筒の内でこの賽二つづつに割れては四つに成ってぞ(偏らず二っづつの四個に割れて、いずれもの目にも)出でにける。
 楊貴妃の請われたる重三も下りてあり、虞氏君の請われたる重四も下りてあり。
 帝叡覧ましまして、おう(何と)優しの賽や、汝は牛の角なれど、人の心を千々に知って左様に振る舞うかや(と感心し)さらば官を成せ(位を与えよ)とて。
 賽の目に朱を注いで、その時までは重一、重二、重三、重四、重五、重六と申せしを、朱三、朱四と申す事、この御代より始れり。
 その賽と申すは者の心知ったれば二つに割れ四つで出で二人の后備わる。
 その如く(虎御前)自らも差したき方は両方なり、盃は一つ(のみ)、二つに割れてのけかし(ほしいものよ)と千種(ちぐさ、様々)に物を案じける(思い乱れ)、虎御前の心中たとえん方はなかりけり。

6 和田義盛と十郎祐成の盃争い
 母の長者これ由を御覧じて、あら遅(い)や虎御前、さらば(さっさと決められないなら)その盃一つ飲んで、いづ方へなりとも(先の話とは逆に、どちらの殿へでも)思はざらん(思いを寄せない)方へ(盃を)差し給え。
 虎(御前)この由聞くよりも、母御はさりながら物に狂はせ給いぞや(なされたか)、この言葉のなかりせば、老人なり(年配で)客人なり(の)和田(義盛)へこそ差すべきに(出したものを)。
 この言葉を聞きながら(聞いてから)和田へ差すならば(東)海道七カ国(近江・美濃・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆)の遊君の名折たるべし(不名誉となるであろう)。
 何でう(何がなんでも)この盃をば和田へは差すまじもの(差し出されない)、夫の十郎(祐成)に(盃を)差し出そうず。
 男なれば取って飲まうず、飲むほどならば(飲んだなら)、朝比奈(義秀、和田義盛の三男)か古郡(左衛門尉保忠、和田義盛の配下)が座敷を立てぞせんずらん(十郎祐成を座敷から退出させるだろう)。
 その時(には)、自ら上こそ女なりとも心は男子に違うまじ(我は女なりとも、心は男になって)、あら情けなしよ和田(義盛)殿、色ある人に色無きは(愛する人に情愛の心を示さないのは)、花見で枝を手折るかや(花を見ないで枝を折るようなものかや)。
 ここをばひたすら自らに許させ給えと、障(さゆ)る体にもてなして(邪魔をするように見せかけて)、朝比奈(義秀、和田義盛の三男)の馬手(右手)の脇に差いたる刀ひん奪(い取)って、和田(義盛)の心許(心臓)に差し立て、返さん刀にて、自ら自害し。
 夫の十郎祐成に腹切らせ、死出三途の大河を(十郎)佑成諸共に手に手を取って行かばやと、ただ一筋に思い切り。
 いかにや御一門の人々、母御の思い差しせよ(決めた相手に盃を差す)と仰せ候うほどに、余所の希望(けまふ)も候ふまじ(他の人からの盃所望も無いでしよう)と、夫の十郎(祐成)に盃をむ(ん)ずと差す。
 (十郎)祐成御覧じて、いやいや飲んでは事悪(あし)かりなん、如何はせんと思し召すが、只今飲まぬものならば臆したり(臆病者になってしまう)と思し召し、あら珍しの御盃やともって三度ぞ酌んだりける。
 (和田)義盛(は)毛色(様子)変わって、やあ十郎祐成、只今の盃は飲むまじき盃なれど、まさしく(よくも)義盛を下げて取って飲うづるものかな(見下げて盃を取り飲んだものだな)。
 それ、盃は飲む法があるぞ。
 自然(偶然に)若き殿原(殿達)の川猟狩倉(狩場から)うち過ぎ、遊君の許へうち寄って酒を飲むに、酒盛り乱舞になりて後、思わじき遊君が一つ酌んで(から)、是をば、あれにまします人へと差い(し)たるを、取って飲んだるをこそ、時の面目なれ。
 差すは日頃の女、飲むは日頃の男、二人の者が立ち出で(出て行き)、また座敷に人も無きように、盃を差し通わし飲ふずる所は、(和田)義盛が存じには抜群違うて存ずる(わきまえている事とは全く違っているように思う)。
 それ老いたるを持って敬(うやま)うを父母の如し、若きを持って愛するを師弟の如し、知るを持って人倫(人の道)、知らぬは鬼畜木石(鬼畜生や人間らしい感情のない者である)。
 傍輩(ほうばい、仲間達)の懲らしめに座敷を取って追つ立てよ、早立てよ(早よ座敷から追い払え)と怒らるる。
 上(かみ)を学ぶ下なれば、下(しも)座なる若者(が)傍になる(ある)打物(刀や長刀)を引っ倒し倒し、鎺元(はぎもと)を寛(くつろ)げ(刀を鞘から少し引き出し威嚇する)、仰せにて候ぞ、立てと追っ立つる。
 いたわしや(十郎)佑成、唐の鏡に身は一つ(貴重な命は一つしかない)立つもさすがなり(命も大切だが、そうは言っても退出するのも面白くない)。
 遺文三十に至って(中国の詩人の元稹の書遺した詩は三十巻)、軸々になを金玉の声あり(その一軸一軸は、今なを金玉の響きを発して名声は朽ちていない、御名をば腐さじを導く)。
 河津(父、三郎祐泰)殿の御名をば腐さじものと存ずれば(勇猛なる大将としての父の名誉を汚すまいと思えば)、如何に和田(義盛)殿、大名なれど三浦の大将、(十郎)祐成は身こそ貧なれど伊東のこれは大将、先ず互角なる侍に、当座の恥を与え給うものかな。
 只今座敷を立てうず者は、そも(下野の国の)乙畑に孫太郎、糸久に源八、荏(え)柄の平太胤長、朝比奈(義秀)ぞ有らんに、ただ一人が立たされば後ろの体も寂しきに、(和田)義盛も立ち給えと、刀の鯉口(こいくち、鞘口)を三寸ばかり寛げ(くつろげ、緩め)袂(たもと)の下に隠し置き、半時こうて待ち居た(座は殺気立ったまま一時間ばかり睨み合いが続いた)。
 (十郎)祐成の心中は、深淵に臨んで薄氷を踏むが如くなり(一か八かの危うい状態で臨んでいた)。
 (十郎)祐成、心に思い返す、弟の五郎時宗が、度々誓文(忠告)しつるものを。
 それ宿通いと申すは有徳の人の宿通いをば人が羨み(金持ちが宿場の遊女の所に通うのは人がうらやむが)、貧なる者の宿通いをば必ず憎み候(貧しい身で宿場通いをすると必ず憎まれることとなる)。
 馬の乗り合い笠咎めにても(目上の者への下馬や、その時の笠をかぶったままでいる無礼をとがめられたりして、十郎)祐成討たれ給うならば、(弟の五郎)時宗一人残り居て、親の仇と申し御身の仇と言い、何としかは(どのようにして)討つべきぞ。
 理をまげて宿通いを思い止まり給えと度々誓文しつるものを用いずし打ち越え(宿通いだけは止めてほしいというのを聞かず)、朝比奈(義秀)か古郡(左衛門の)が手にかかって討たれんことは治定なり(討たれる事は必定だ)。
 死せん命は露塵ほども惜しからねど(惜しくはないが)、年来の(親の仇工藤)祐経、親の仇を討たずして、生涯を失い何かせん。
 朝比奈の三郎(義秀、和田義盛の三男)が座敷を立て(出て行け)と言うならば、立たばや(素直に出て行ってしまおうか)とこそ思われけれ。

7 五郎時宗、兄の危機にかけつける
 かく思い給いけるが、曾我へや通じけん(通じたのだろうか、その頃)、弟の五郎時宗は、古井と言つし所に(という場所で)、矢の根(矢じり)を磨いて居たりしが、あまり(の)眠さに碁盤を引き寄せ枕とし、豊かなこそ伏しにけれ(のんびりと午睡にふけっていた)。
 かかりけるところに(するとその夢の中で)、舎兄(の十郎)祐成枕上に立ち寄らせ給いて、やあ如何に(どうした五郎)時宗、それ張良(中国前漢の功臣で太公望の兵法秘術書を黄石公より、授けられている)が四十二ヶ条の兵法の巻物を学したりと言えども、酒を過ごしぬれば(酔っていれば)何にも劣れり。
 千日したる(してきた)用心も目を強く寝れば(熟睡、深く眠れば)一夜に無になるぞ、かほどの白昼に(そのように真昼間から)さように豊かに臥すものか(眠ていてはだめだ)、やあ(さあ早よ)起きよ起きよと、二三度四五度起こさせ給うと夢に見て、かっぱと起き(上がり)、辺りを見るに人は無し不思議(な事だ)よと思い、下女を近付けて(呼んで兄)十郎(祐成)殿はと問えば。
 下女承(うけたまわ)って、宵よりも大磯(の方)にて(出かけ)是には留守と申す。
 (弟の五郎)時宗聞いて、さては疑うところなし、仇工藤祐経が一騎打って通るを、五郎(時宗)だにもあるならば恥ある(恥を注ぐ)矢をも一筋射て腹切らばやと思し召すが、かく(夢の中)面影に立つか。
 さらずば坂東海道十五ヶ国の人々の打って通らせ給うが、(兄)十郎(祐成)殿は只一騎と下目にかけて睨むるが(軽蔑して睨みつけるが)、かく(夢の中)面影に立つか、その義にて有るならば諏訪(神社)の上(社)下(社の神々)も御見知りあれ(ご理解ください)、舎兄祐成の影をば人に踏ますまじものを(踏みつけられるような目には合わせまい)と言うままに。
 帳台(納戸等に用いた奥の部屋)へつっと入り十文字打ちたる(紋所を付けた衣類武具等を入れる)唐櫃の蓋を開け、伯父伊東の入道殿より伝わったる逆沢瀉(逆三角形を色違いの糸で縅した)の腹巻(小型鎧)、四人して持ちけるを綿噛(両肩に掛かる部分)掴んで引き立て草摺長(めに)にざっくと着、刀と申すに(これは)仇工藤祐経が(源頼朝一行の)箱根詣での有りし時、(箱根権現の稚児であった箱王、後の五郎時宗が)見苦しげなれども(見るに忍びなくども)とて得させ(手に入れ)たる、赤木の柄に銀にて目貫銅金打ちたる小刺刀(腰に差す小刀)をそ差しいたりける。
 太刀と申すに(これも父)河津(三郎祐泰)殿(が)奥野の狩場の帰り足に(帰りがけに)、(伊東荘を巡る所領争いから工藤祐経の命令で一の矢を射った郎党の)大見の五藤太、(二の矢を射った)八幡三郎が十二(ヶ所)の射翳(まぶし)を固め(待ち伏せ兵を固めて)放ちける矢に当たって、闇々と(むざむざと)討たれさせ給いし時、是をば箱王(五郎時宗)に取らせよと形見に下し給いたる(もの)。
 四尺八寸有けるが(この太刀)抜けば玉散るばかりなるを白き手綱にて真ん中むずと結いて輪束(わっそく、右肩から左下に背負い)にぞ掛けたりける。
 御馬屋へ走り入りて、見て有れば折節(ちょうど)鹿毛なる駒(馬)に湯洗いしてぞ置きにける。
 鞍置かん隙があらざれば端綱(はずな、馬の口に付ける引き綱、馬の)腹掛け引きちぎって、洗い轡(厩でつないでおく用の簡単な轡)をはめさせ、引き寄せゆらりと打ち乗り。
 廻れば三里(まっ)直ぐに打てば五十町、廻らば時刻も移りなんと思い、曾我中村に差し掛かり、駆け煽(あお)ってはしとと(勢いよく)打ちしとと打てば駆け煽ち(必死に馬の腹を蹴って鞭を打ち駆けあおり)、駒に白泡噛ませ、ただ一打ちにと急いだる。
 (弟の五郎)時宗が心中、明日は無間(地獄)果羅国(重罪を犯した者が流される国)の(須弥山南方の)閻浮の塵(えんぶのちり)とも成らば成れ(命のはかなさのたとえ)、今日において(五郎)時宗ああ頼もしくぞ見えにける。
 刹那が間に(短い時間で)長者の宿所に着き、門外を見て有れば鞍置き馬いくらも有り、さればこそと思い、大御門(おおみかど、表門)より入らんは、大腹巻(鎧)に大太刀、座敷の体も殊なし(入るのは異常な姿である)と思い。
 小御門(こみかど、裏門)に廻る、ここに下女一人行き会うた、やあ此の館の内に何事か有り(無かったか)と問うた。
 下女承って、さん候(ありましたよ)、宵よりも和田(義盛)の一門九十三騎打ち寄らせ給いて、酒盛(している)の座敷へ、十郎(祐成)殿も虎御前も出させ給いて盃の口論、只今半ばなり(真っ最中)と申す。
 (弟の五郎)時宗聞いて、さてその盃をば和田(義盛)へ差ひたるか、(それとも)十郎(祐成)へ差ひたりけるか。
 下女承りて、虎御前の優しくましまして、十郎(祐成)殿に差させ給いて候ぞ。
 (弟の五郎)時宗聞いて、さてその盃を臆して取って飲まざりけるか。
 のう御心安く思し召せ(とんでもない、御心安く思し召せ、盃を)取りて参りて候ぞ。
 (弟の五郎)時宗聞いて、からからとうち笑い、日本六十六ヶ国に大剛の兵(つわもの)また二人ともなかりけり、舎兄(十郎)祐成にてましますよな、賢人なる女世に多しと言うども虎(御前)にましたる賢女(は)世もあらじ、虎(御前)なればこそ差ひたれ、十郎(祐成)なればこそ、あれほど多き敵の中にて臆せで取って飲んであれ、飲んだりや十郎(祐成)殿、差したりや虎御前と太刀の柄を叩いて一人感じて(感心して褒めたたえ)立にけり。
 さて、いずくから行くぞ、こなたへ入らせ給えとて、面廊(母屋への長い廊下)、(建物を取巻く)回廊、孫廂(まごひさし、廂の間の外側にある部屋)を差し(通り)過ぎ。
 障子を一間隔てて、あれになるは(和田義盛嫡男の)新左衛門(常盛)、古郡左衛門、海老田兵衛、葦田兵衛、州崎の孫太郎、是なるは十郎(佑成)殿といちいちに教えけり。
 (弟の五郎)時宗是を見て、例え何者なり共、舎兄(十郎)祐成に取って掛かる者あらば、障子の一間(いっけん)ものものし(隔てられた一間がこしゃくである)、はらはらと踏み破って大将とかしづく(皆が大将として仕える)和田が(義盛の)細首中にづんと打ち落とし、朝比奈が(義秀の)眉間唐竹割というものに二つにざっと斬り割り。
 残りの奴原年にも足らぬ初冠ども(元服間もない若者たち)物の数にて数ならず、将棋倒しをする如く、散々に斬って捨て、舎兄(十郎)佑成と刺し違えて死なんは案の内(考えの内思いのまま)と存ずれば、踏んじかって立たりしは(両足広げ構えて立った姿は)、(帝釈天の下で仏法を護持する四天王のうち北方を守護する)多聞(天、東方を)持国(天、南方が)増長(天、)作り据えたる二王(寺門の左右に置かれ伽藍を守護する金剛力士像)にちっとも違わざりけり(勇猛な怒りの形相をなす)。

8 五郎時宗と朝比奈義秀の力比べ
 (その時、怒り狂った和田)義盛が御覧じて、やあ如何に朝比奈(和田義盛の三男義秀)、汝は日頃の自称には似ぬものかな(お前は常日頃自負していたのと大違いでの臆病者か)、十郎(祐成)を取って追つ立てよ、早立てよ(追い出せ)とぞ(命じ)怒られける。
 朝比奈(義秀、しかし)心に思うよう、おう、(盃を)差したるも道理また飲んだるも道理、その上弓取りは、今日は人の上、明日は我が身の上なるべし、さすが名ある弓取りに如何にとして恥を見すべきぞ、げにやらん(本当にそうだろう)。
 この者、殿原(上級武家血筋)の兄弟は、魚と水の如くにて、兄が酒を飲む時は弟が飲まず、弟が飲めば兄が飲まで、互いに用心すると聞きつるもの、今もや弟の五郎(時宗)が内に有らんに(ここに向かう予感を感じ)、悪しうかかって(下手に斬りかかって)座敷をば立て損じ(座敷から追い出し損ねて)、真向割られ悪しかりなんと存ずれば(額の真ん中を打ち割られてはかなわない、なんとか殺気立ったこの場を治める為に)。
 人も囃さぬ(はやしたてる)舞を立てぞ舞うたりける(立って舞い披露した)。
 薄折敷の祾(そば、角)を立て(檜作りの角盆の縁を立て)、その頃海道に(白拍子が歌い)流行りし硯破りという歌の題をはったと上げ、半時踏んでぞ舞わりけり。
  よしや、あししとて、切り捨てられし呉竹も呉竹も、本に一夜はある物を、よしや、あししとて、つき捨てられし庭草も、本忍とてあるものを
  (良いとか悪いとか言って切り捨てられた呉竹にも節(よ)があるように私にも夜があるものを、良いとか悪いとか言って突ついて捨てられた庭草の忍草にも偲ぶ思いの種はあるものを)
 (和田)義盛(父上も)、この事を御腹居させ給うべし(歌の題にことよせて怒りを治めて下さるだろうし)、十郎(祐成)殿も虎御前も心に懸け給うなよ(気になされないでください)、一向(すべて)この(朝比奈)義秀に(免じて)許し給うべきなり(許し下さるがよい)と、半時、踏んでぞ舞わられける。
 朝比奈(義秀)が心ざし、生々世々に至るまで(永遠に)忘れ難くぞ覚えける(人々はこれを見てようやく収まった)。
 舞いも過ぎ時分になりし(ころあいになった)時、障子の内に金物の音がからりと鳴った。
 さればこそ(案じた通り)と思い、ここはちっと御免なれやと言うままに、間の障子をざっと開け内をきっと見て有れば、何は知らねども六尺豊かなる大男の胸板見れば真白なるが五尺余りなる太刀を七八寸寛(くつろ)げ(抜きかけ)、懸らば切りよげに見えしかば、鬼の様なる朝比奈(義秀)もただ膝震うてぞ立ったりける。
 如何にや御身(あなた)は五郎(時宗)殿にてましますか、舎兄(十郎)祐成も座敷にましますに、など出て酒盛りをばし給わんぞとありしかば。
 (五郎)時宗聞いて、仰せ畏(かしこ)まって候(そうら)へども、御覧ぜられ候ごとく白衣(上着もつけず人前に出られる姿になく)で候とて出でもせず(出られず)。
 朝比奈(義秀)、心に思うよう、実(げ)にやらん五郎(時宗)は、蛇に綱を付けたりとも(どんなに恐ろしい暴れ馬でも)、馬ならば乗らんと広言(放言)すると聞きつるものを、座興ながら実に力の程を試さばやと思い。
 実に御辺(あなた)は出まじいか(出てきませんか)と言うままに走り懸って、腹巻(鎧)の草摺り二三枚かい掴んで胴の板に引つ締め前へ、えいやっと言いて引けれどもちっともさらに働かず(少しも全く動かない)。
 実(げ)に、これは強かるけるぞや、三浦一門は九十三騎、(同志が誓いを固める)連判は四百八十余人が中に小林の朝比奈(義秀)とて名にし負うたるそれがしが(有名である自分が)、五郎(時宗)を只今座敷へ引き出さぬものならば、生害なり(自決しなければならなくなる)と思って。
 朝比奈の三郎(義秀)が力の出るしるしに、左右の腕と肱(かいな、ひじ)に力筋と言うものが十四五、二三十ふつふつと出でにけり。
 胸を生うる(に生える)力毛、碁盤の面に銅の針を磨り(鋭く研いて)並べたるが如くなり、胴の筋が額へ上がり、額の筋が胴へ下がり、物によくよく例えれば、九重の(幾重にも折り重なった)藤が松を(の枝に)絡んで麒麟が友を恋うたるに、ちっとも違わざりけり。
 おう、仰々しの(すさまじい)有様や、(伊豆の国の)宇佐美,楠美、河津の三ヶ庄の内にして、荒馬乗っての大力の五郎(時宗)と呼ばれ、朝比奈(義秀)ほどの小男に、闇々と(むざむざと)引かれて座敷へは出まじもの。
 げに強く引くならば、三枚の(鎧)草摺が切るるか、膝の節が違うか、踏まえた板(床板)が大地へ落ち着くか、三つに(どれか)一つは定のもの(必ずなる)と思いて踏んじかって(ばって)立った。
 ばっしんを苛(いら)げ(全身に鳥肌を立てて必死に)、えいと引いた、後へえいと退いた、(五郎時宗の鎧の)草刷切れて(引きちぎれて)退きけれど立ち所を去らずして、ふんじかって(ふんばって)立った曾我の五郎時宗を大力と申して怖じぬ人こそなかりけれ。

9 和田義盛に対面した五郎時宗の意地
 三枚の草摺を持って(朝比奈義秀は)父の御前に参り、これこれ御覧候へ五郎時宗の内に居られて候、是を肴にて今一つ酒盛りし給えと有りしかば。
 (和田)義盛気色引替え(機嫌をなおし)、何、五郎時宗殿の内にましますか、舎兄(十郎)祐成も座敷にましますに、など(さあ)出でて酒盛をし給わぬぞとありしかば。
 (五郎)時宗承って、仰せ畏(かしこ)まっては候えども白衣(上着もつけない)で候とて(じっとして)音もせず。
 さるほどに、(舎兄)十郎(祐成)殿、弟の五郎時宗が内に有るとだにも聞ければ、ただ鬼万国の鬼王(八面大王)と羅千国の羅王を欺(あざむ)くほどの兵(つわもの)を千騎万騎持ちたるより、なお頼もしゅうぞ思われける。
 なに五郎(時宗)が内に有か、おとな(年長の)侍の召しのあるになど(何で)出でて御酌を申さぬぞ。
 (五郎)時宗承(うけたまわり)て、白衣(人前に出るのに上着もつけない)にて候。
 御免(お許し)あるぞ只参れ。
 承ると申して大腹巻(鎧)を着ながら、大太刀を持ちながら、しどけなげにて(無造作に座敷へ)出で、(和田義盛嫡男の)新左衛門(常盛)の馬手(右側)の対座(向かい合った席)に詰め座にちょうど直る(一杯に詰めてぴったりと座った)。  
 新左衛門(常盛)は御覧じて、これ程広き座敷にて、詰め(座で)酒盛りは支用(つまらない)候ぞ、ここをちっと(少し)寛(くつろ)げ給え、酒盛せんと有りしかば。
 (五郎)時宗聞いて、なん候(どういうことですか)新左衛門(常盛)殿、参れと仰せあればこそ参りたるに、座敷を立てと仰せあらば只今立たんと言うままに、腹巻の草摺二三枚膝の上に揺りかけ、なお詰めかけて直った(座った)るは興覚めてぞ見えにける。
 (和田)義盛御覧じて、如何に五郎(時宗)殿、御身は幼少より箱根(権現)に上り、別当に(行実に師事し)学問し、その後伊豆に下り北条(時政)を烏帽子親に頼み、助五郎時宗と名乗らせ給うとは承れども(聞いているが)、見参(面会するの)はこれが初め、それそれと有りしかば。
 (若い者が)承ると申して(引手物としての)萌黄匂の腹巻(鎧)に太刀を取り添えて引きたりけり。
 (五郎)時宗これを見て、只今の引出物を取らばやと思うが、待てしばし我が心、明日になるならば坂東海道十五ヶ国の人々の伝え聞こし召されて、あら無残や曽我殿原(上級武家血筋の)兄弟は、身の貧なるに従って(貧しさの余り)引手物に目がくれ(くらみ)、遊君(虎御前)を和田(義盛)へ奪われたなんどと在らんずる時は、後難なり(後々のわざわいとなる)と思い。
 いかに(和田)義盛、只今の引手物を賜わりたくは候へども、後日に三浦(相模国三浦郡和田の里)へ参って給わるべし、その間はあれにまします若き人に預け申さんと言うままに、太刀の帯取りと腹巻(鎧)の綿噛(わたがみ、肩に掛ける部分)かい掴んで、下座へがらりと投ぐる(投げた)。
 (和田)義盛御覧じて、只今の風情は料簡候か(今のやり方は思慮の末の事か)、座興候か(それとも、その場限りの戯れか)。
 (五郎)時宗聞いて、有徳(うとく、金持)なる人の上にこそ料簡(りょうけん、思慮分別)、座興は候へ(金持ちの人には料簡と座興の両方があるでしよう)。
 貧なる者の座興は知らぬで候(しかし貧乏人の私には座興などの余裕はありません)と申す。
 (和田)義盛聞し召し、良う候(よく分かった)五郎(時宗)殿。
 暇申して長者とて(すっかり座は興ざめしてしまい)座敷を立たせ給えば、九十三騎はらりと立て、(一党を引き連れて宿を出て行こうと)ここかしこに駒引き寄せ引き寄せひらりひらりと打ち乗る。
 その中に、和田(義盛)殿大将でましませば(大将なれば)、縁(側)の端へ馬引かせ乗らんとし給う(乗馬しようとした)。
 (五郎)時宗これを見て、以前舎兄(十郎)祐成に小目を見せた如くに(屈辱を味あわせたのと同じように)脅さばや(脅してやりたいものだ)と思いて、四角なる眼を五角にくわっと見開き、いかに和田(義盛)殿、此の館と申すは和田殿も建てられず(の建物でもなく)、十郎(佑成)殿も建てられず(の建物でもなく)、また(五郎)時宗が建てたる事も候はず(何れが建てた建物でもない)。
 坂東は八カ国、海道は七カ国、十五ヶ国の人々の辻酒盛のそのために(道筋での酒盛りのために)建て置かれた館なり、これからの乗り打ちは尾籠(びろう、館に直接馬を付けて乗るのは、礼儀をわきまえないことですぞ)候ぞ、和田(義盛)殿(馬から)下りさせ給い候え、下りられぬものならば諏訪八幡も御知見(見知り)あれ、時宗が只今下ろすべし(下ろしましょう)とぞ脅しける。
 (和田)義盛聞し召し、いやいや彼奴(きやつ)ばら身をふつる者に寄せ合わせ(命がけの者に関わり合って)、ここにて事をし出し(騒ぎを起こして)若党討たせ悪しかりなん(若い者を討たれてはかなわない)と思ぼし召し、良う候(わかった)五郎殿。
 (そこで言い訳し)年は寄りつつ目は見えず(年寄は目が見えず)、日は暮方になり候づ鞍具足見んために(鐙の位置を確かめるために)引かせてこそは候へ、それそれ若党馬引けやと有りしかば。
 承ると申して(一党率いて)十間坂まで(逃げるように)引きたるは、五郎(時宗)に怖じた所なり。
 (十郎祐成と五郎時宗の)兄弟の人々、袴の綾(そば、折り目)を高く取り、弓矢の(武士として)礼儀(を尽くして下馬しているのは)是まで候(この辺までで良いでしよう)、早く早く召され候え、とくとく召され候えと(宿前のいざという時には板を外せる)引橋までぞ送りける。
 その後、兄弟館に帰りて、もしも三浦より(報復のために)夜討ちに寄せやせんとて(夜討ちを仕掛けてくるのではないかと用心し)、夜回り、辻(々の警護を)固め(彼らが、宿の守りを固めた)、用心厳しかりけれど、一門の中なれば、(討ち)寄する事こそなかりけれ。
 この人々の心中をば、貴賤上下押し並べ、感ぜぬ人はなかりけり。

《参考》
 天正十年(1582年)五月十五日「信長公記」に、織田信長は、徳川家康の甲州平定の功績として駿河・遠江国を与えている。この時徳川家康は返礼の為に、穴山梅雪を伴って安土城を訪問しております。信長は家康接待の為の御馳走世話役を明智光秀に命じています。
 五月十九日、信長公は、安土城下の惣見寺で、幸若太夫に舞を舞わせてご覧になられました
 次の日は「四座(大和四座は結崎(ゆうざき)観世座・外山(とび)宝生座・円満(えま)井(い)金春座・坂戸(さかと)金剛座)の能では珍しくない。丹波猿楽の梅若太夫に能を演じさせ、家康公がこのたび召し連れて参った人々に見せ申して、道中の辛苦を慰め申すように」というご意向でありました。
 安土御山の惣見寺にては、信長公主催による家康に対する饗応の宴で、幸若舞が行われております。
 この日、お桟敷には、近衛(前久)殿・織田信長公・徳川家康公・穴山梅雪・長安・長雲・夕庵と、松井有閑(信長に幸若舞を指導した元清洲の町人)らが入りました。
 また、舞台と桟敷との中間の土間であるお芝居には、お小姓衆・お馬回り・お年寄衆、それに家康公のご家臣衆が座りました。幸若太夫のはじめの舞は「大織冠」、二番は「田歌」でありました。舞の出来が非常によかったので、信長公のご機嫌はたいへんよろしかった。
 「お能は翌日に演じさせよう」とおっしゃっていたが、まだ日が高いうちに舞が終わったので、その日梅若太夫が能を演じ申した。
 しかし、その時の能は不出来であまりにも見苦しかったので、信長公は梅若太夫をひどくお叱りになりました。大変なお腹立ちであったわけです。そこで幸若太夫のいる楽屋へ家臣の菅屋九右衛門・長谷川竹の二人を使者に立てました。
 この時の幸若太夫に対する使者の口上は、かたじけなくも「上意の趣き、能の後に、(武仕舞として格式上の)幸若舞を仕ることは、まことに本式とは言えないのでありますが、殿が御所望しておりますので今一番舞を所望する」というものでありました。武士舞である幸若舞は、猿楽と言われた仮面舞である能に比べると、当時、格式が格段に上であったようであります。
 江戸後期の大名松浦静山の書いた「甲子夜話」によると、江戸城内における年頭(正月)の将軍拝謁御礼席の着座位置は、幸若太夫のほうが、観世太夫よりも二間も上席にあったとの記載があります。また、徳川幕臣の名簿である武鑑の中には、幸若太夫が観世太夫の上席に名を連ねております。
 安土城内では、幸若太夫の二度目の舞「和田酒盛」という曲が舞われ、これも非常に出来がよく舞われていました。
 信長公のご機嫌もなおり、蘭丸がお使いになって、幸若太夫を御前に召し出され、ご褒美として太夫へ黄金十枚を下されました。次に梅若太夫に対しては、能の出来の悪かったことを「けしからん」とお思いになったが、黄金の出し惜しみのようにとられては世間の評判もいかがかとお考え直しになって、右の趣をよくさとされて、その後、梅若太夫にも金子十枚を下された。
 この時の能は散々の不首尾で、信長は大いに腹を立て折檻に及んだだけでなく、明智光秀に対しても接待の仕方が悪いと打ち砕くほどの屈辱を与えております。
 これ等が、光秀のそれまでに抱いていた怨念に火をつけ、やがて本能寺の変へと成って行くこととなる。
この続きは曽我物語④「小袖曽我」

「幸若舞の歴史」


「幸若舞(年表)と徳川家康・織田信長」

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桃井直常(太平記の武将)1307-1367