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1 祐成、母に弟時宗の小袖を乞う
さる程に曾我兄弟(十郎祐成と弟五郎時宗)の人々は富士野への(源頼朝主催の狩場に父の仇工藤祐経を討つため出立するにあたり、今生の別れと)暇乞いのために、母上(の所)に参らるる。
(兄の十郎)祐成仰せけるようは、いかに五郎(弟時宗)殿、御身は暫く待ち給え(貴方ははそこで控えていてもらいたい)。まず某(それがし、私)一人参り(母上の)御機嫌を伺い申し、御身の訴訟申さん(勘当許しの嘆願をしよう)とて母上に参り(面会し)、富士野への暇乞いをぞ申されける。
母上聞し召されて、富士野とは音に聞こえたる雪のある(多い)所なれば、定めて夜(は)寒なるべし(だろう)とて御小袖を下さるる。
(十郎)祐成、謹んで(かしこまって)申さるる、哀れ同じくは(同様に、弟五郎)時宗にも下され候へかし(小袖を頂けないでしようか)。
母上聞し召されて、何、時宗とは誰が事ぞ(知らない)、自らが子供の中に時宗という者覚えず(などと言う名の子は記憶にない)。
京の(に居る)小次郎(河津三郎祐通に嫁ぐ以前、源仲成に嫁して儲けた一腹の兄)は名乗らず(親の一字をもらえず名乗っていない)、越後の(伊東)禅師房(曽我兄弟の末の弟)は、法師(僧)の身なれば(同じく親の一字を)名乗るまじ。
おう、さる事あり(思い出した)、幼くて箱王とて童(わっぱ)の一人候ひしが(そうらいしが、居ったが)、父(河津三郎祐泰)の菩提を問わせんために(箱根権現の)別当(責任者の行実)に契約し(約束し預け)箱根へ上せて候へば、母が命を背き箱根の寺を逃げ下り、伊豆の北条(時政、父河津祐泰のおば婿)を烏帽子親に頼み、助五郎時宗と名乗ると聞く。
その時宗とやらんが事、申しい出したらんには(口にしたならば)、今生後生不忠の者(将来に至るまでの親不孝者)にてあるべしと仰せもあえず御涙にむせばせ給う。
(十郎)祐成承り、その御事にて候(弁解し申します)、無残やな(五郎)時宗、十六の春の頃、法師(僧)になると申して里へ人を下す(知らせてきたので)、稚児の姿を今一度見ばやと存じ箱根へ上りて候へば、箱王斜めに(特別に)祝(よろこび)て一間所(狭い部屋)へ引き入れ、さて箱王は法師に成るべく候や(と尋ねると)。
稚児は法師になりぬれば、三年は山籠もり(俗界との交渉を断って寺に籠って修行することが決まっている)と申して、左右なく(そうなく、簡単には)里へ下らぬ由を承る。
その上、老少不定の習い(人の死期は老若とは無関係で予測しがたいのが普通であり)、このまま御目に掛らぬ事もや候べきと、深く嘆き候ほどに、(十郎)祐成、不憫に存じ、その儀ならば里に下り男に成れ(元服しなさい)と申せば。
定めて(きっと)母上の御不孝もや候べき(勘気を受けることになるでしょう)と申す。
御身、男になりて(元服して)後、たとえ母上の御不孝候とも(勘気を受けたとて)、(必ず)良きように申し直すべし(取り成してやろう)と、とかく勧め夜の間に箱根(山)を逃げ下り、これへ参らん事を恐れと存じ、直ぐに伊豆に下り北条(時政)を烏帽子親に頼み、あれにて元服せさせ、北条の助五郎時宗とは、それがしが名乗らするにて候ぞ。
(弟五郎時宗に対する)御不審(勘当)の無慚さよ(不憫な事よ)、箱王常に嘆くよう、母上の御不審(ご不興)は十郎(祐成)の御徳(少し皮肉めいて、おかげですと言い)候と、明け暮れ恨み候程に、弟ながらも面目なし。
あわれ同じく候わば、五郎時宗が御不審を十郎(祐成)に御免(じて箱王の勘当の許しを)候べかし、心安く(兄弟)召し連れて、駿河の富士へまかり上り候わん(行をさせてくださいと)、重ね重ね申す(懇願すれ)ども、つやつや(全く一言の)返事もましまさず(母の怒りは深く、取り合おうとしない)。
2 弟の時宗勘当の許しを嘆願
(座敷の外で聞いていた弟五郎)時宗、物越しにて承り、さては(今は)、いかようの人の口入なりとも(口添えでも)、叶うまじ(母からの勘当を解く事はできないだろうから)、まず帰らんと思いしが、今申さでは(申し上げなかったら)何時の世に申すべきぞと思い。
障子の間をば震い震い立ち出で、震える声を差し上げ(座敷より一段落ちた)落縁に手うちかけ(着いて)、落ちる涙を押し留め二時ばかり(長い間熱心に)、口説くにぞ(意中を訴え謝り許しを乞うに)、上下涙を流しける。
そもそも、それがしが身の咎(とが)を何事やらんと只今承って候へば、男に成りたる(かってに元服したる)御不審なリ、それは何よりも安き程の事にて候。
男になりては候へども(母の許可を得ず元服はしましたが)、五百戎を保ち給う(厳重に戒律を守っている)御僧の身にも劣り申さず。
(普通男性の出家者の守るべき戒律は二百五十戒、女性であればは三百四十八戒とされている)。
魚、鳥をも服せず、寺へ上りたるしるしには、父の孝養のその為に紙付けの法華経(写経)を五百部(紙に)書かかんと大願を立て、去年の秋の頃二百七部、形の如く書きたて、箱根へ籠めて候らへば、その御経の功力もなどかは無うて有るべき。
それのみに限らず日夜に経は怠らず、父の為には孝養、さてまた母の御祈祷と刹那(せつな、一瞬たりと)も更に怠らず、勤め行する身なれども、申し上げる人無うして明け来れば、御勘当、また暮れるば御不孝(親不孝者)と承るぞ悲しき。
その身、男の体なれども(成ったと云えとも)、道智津師(道珍禅師)と言つし人は池を詠じて往生す(池を観じて往生の宿願をとげ)、くわかい比丘(唐の五台山の僧の海雲比丘)と言つし人は海を詠じて往生す(海に向かって浄土因を往生する)。
(中国唐の詩人の)白楽天はまさしく竹を愛して往生し、えんろう琵琶を弾き、きんおう琴を弾じつつ(弾きながら)、一身に迷わん事を悲しめば
(ひたすら自分が悟れないことを悲しんだので)、素懐は遂げん事は疑いあらじと承る(往生の宿願を果たしたであろうことは間違いないと聞いている)。
また仏に四部の御弟子有、比丘、比丘尼、優婆塞(うばそく、在家の男信者)、優婆夷(うばい、在家の女信者)とて尼、法師、男、女も御弟子にて、しょう、阿弥陀、薬師、御髪青くして糸をわぐるがごとし(まげて輪にしたようである)。
天道(界に住む梵天・帝釈天等の仏教の守護神、欲界の六天、色界・無色界の総称)仏のその中に、羂索(けんさく、衆生を救済するための鐶と独鈷を付けた綱)、剣、宝棒、弓矢を帯し給えども、救世の願(苦しむ衆生を救おうという、仏、菩薩の願い)浅からず、菩薩たちも皆、ながら男の体にてましませど、柔和の慈悲これ多し。
十方薩埵(あらゆる菩薩)のその中に、地蔵菩薩(釈迦入滅から弥勒出間までの間六道の衆生を救済する菩薩)はいわれあり髪をば持たせ給わず。
されば法然上人の一首の歌にかくばかり(このようにある)
「染めばやな心の内を墨染に、衣の色はともにかくにも」
(衣の色は墨染めでなくても、心の中は信心の色で染めたいものだ)
と詠じ給いけるとかや、また布 袋和尚の十無益に
「行学杜絶にて僧形無益」
(修業と学問を途中でやめて、姿だけ僧でいるのは無益である)
と述べ給う。
我が朝(国)の開闢(かいびゃく、明け始めから)伊勢神明の御前へ法師を迎え給わず(太神宮と魔王との約束で僧が社殿に近く参らず経も持たず)。
ここをもって、まさしく身体髪膚を父母に受け、赤白(肉骨)の二体は、胎(蔵界)金(剛界の)両部の仏にて、髪、髭、肉叢(ししむら、肉体)は母の与える生得、骨は父の与ふる。
((大峰山修行者が先達の口伝えを峰中宿で記した教義書として、最も古い建長六年(1254)の大峰山三十六正大先達衆筆頭の内山永久寺の旭蓮がまとめた「峰中濯頂本軌」に「赤色阿字は母の情、衆生の肉と成る也白色阿字は父の情衆生の骨と也、二ノ阿字胎金両部の大日…とある。胎(蔵界)金(剛界の)両部の仏は真言密教の慈悲を表す胎蔵界と知徳を表す金剛界の諸尊をいう))
父の与ふる骨をば身の終わるまで捨てず、母の与ふる髪、髭(ひげ)を剃り捨つる事迷いなれと、ここを(伊勢)神明戒めて、法師(僧)を迎え給わず。
長長しくは候へどもここにたとえの候。
3 香姓婆羅門の母の事
天竺(インド)の事かとよ(故事を引いて、五郎時宗は勘当の許しを嘆願、母を説得する、その昔)。
せんならと申して弓取り一人おわします、しかるにせんなら、ふ女と契りを籠め給いて二人の若を儲けさせ給う。
兄が名をば、けんしょう、弟が名をば、香姓(こうしょう)婆羅門とぞ申しける、彼ら成人程もなし。
((婆羅門はインド四姓の最高位で梵天の裔とされて尊敬された、又しょうめつ婆羅門は千度の殺生で悪王転生探勝の願いを立て父の命日に亀を殺そうとして命乞いの母に刃物を向けた時無間地獄に落ちたと言われている))
七月十四日に、(この兄弟)相撲の場へ(技を争う場に)出で事をしい出し多くの人を滅ぼし、朱に染めたる打ち物(血糊の着いた刀剣)を弓手(左側)の肩に投げかけ、我が家を差して引いて入る。
父せんならは御覧じて、こは、そも兄弟には、物か憑(つ)いて狂わするか。
二季の彼岸卯月(四月)の八日、七月十四日は一年が間の六斎日に、さされたるに、今日人を害する事いかが有るべき(殺生を慎む日)と大きに怒らせ給いければ。
((毎月の八・十四・十五・二十三・二十九・三十日の六日は四天王の監視や悪鬼の活動を恐れて持斎し殺生を慎んだ))
兄弟承り、それを(今日その日に当たる事を)誰が知らぬ事ぞ(知らずにいるものか)、親気色(父親図らを)してかかる教化は無益かな(このような説教をしても無駄な事だ)、手並みの程を見せんとて父せんならの御首を水もたまらず討ち落とす(すぱっと斬り落とした)。
母のふ女は御覧じて、あら浅ましの事どもや、過去の身も不可得(ふかとく、仏の考え等が人間の思慮を超えていて認識できない)、現在の身も不可得、未来の身も不可得、三世不可得に(三世の身はどうして、こうなるのか一切は理解することも認知する事もできない)。
何れの身が親となり子の手にはかかるぞや、何れの身が子と生まれ父の首をば切るやらん、何れの身が当母となり跡にて物を思うぞや、かように(このように)深く嘆かせ給う。
兄弟の者承り、とても父せんなら(は)我らを良かれと思し召さるまじ。
いざや父の孝養(追善供養の為)に、(無関係の人々を)千人斬りして遊ばん(殺して楽しもうという無慈悲な者たちだった)。
ここの辻かしこの門にて、切る程に九百九十九人切って、今一人たらずして善法堂(帝釈天の善見城外の堂)へぞ参りける。
かの堂の庭に蓮の池あり、折節(ちょうど)万劫(非常に長い時間)を経たる亀が甲(羅)を干いてぞ居たりける。
(兄の)けんしょう申しける様は、如何に婆羅門、亀は万劫(長い年月)を経たぬれば仏に成る(成仏する)と申す、いざやこの亀を害し千人の行に達せん。
尤(もっとも)と同(どう)じて、この亀引上げ害せんとせし時、亀も生ある物なれば文(もん、呪文)を三度唱ふ(唱えた)、我八十三(歳)、亀八万劫必生安楽国に亀成仏と唱える。
母のふ女もこの度(夫の)せんならに離れ給い、これも又(兄弟の罪を償うために)、千の生き物の命を助けて廻り給いしが、九百九十九助け今一つ足らずして善法堂へぞ参り給いしが。
亀の声を聞し召し、如何に兄弟、只今の亀の声ばし聴聞しけるか。
いや聞かぬなりと申す。
あう(おう)、なんじらが聞き知らざるは道理、いでいで語って聞かせん。
「我八」というは、腹に七つの子を持って我が身共には八つなり、七つの子を弓箭(矢)に懸けん事を悲しみ唱えたる文(もん、呪文)にてある。
「亀八万劫必生安楽国に亀成仏」と唱うるは、亀は万劫(非常に長い時間)を経ぬれば必ず仏に成ると申すに、只今弓箭(矢)に懸り仏体を破らん事を悲しみ唱えたる文(もん、呪文)にて有り。
されば人の子の胎内に宿り胤(たね)を下ろす謀り事は、梵天よりも糸を下ろし、大海の底なる針の耳を(針穴に)通すよりも受け難ふて生まるるなり。
白き骨は父の恩、肉叢は母の恩、父の恩が卑しくは四苦と名付けて(体)中なる骨を抜き捨てよ、母の恩が卑しくは八苦と名付けて(身の)赤き肉叢(ししむら)を削ぎ捨てよ、この理(ことわり)に任(まか)せて(分ったなら)、その亀を助けよ。
兄弟承って、我行をば達せんとや(自分の修業を達成するために)、人の行をば破らんとや(人の修業は妨げようとするのか)、ああ、それはもっとも謂れなし(それでは全く筋が通らない事だ)、ただ害せん(さあ殺してしまえ)と言うままに、この亀を引き上げて害せんとせし時。
母これ由御覧じて、自らが目の前にて亀を害するものならば、九百九十九助けたる生物が無にならん(なってしまう)と思し召し、やあ、己らが行には自らを害せよ(お前たちの修業としては母を殺せ)、自らが行には(私の行では)その亀を助けん、兄弟とこそ仰せけれ。
兄弟承って、誰もさこそは存ずれ(皆がそう思うでしょう)とて、亀をば池に放って、打物(刀を)抜いて懸りしに(母に斬りかかったが)、いかがはよかるべき(どうしてそんな事をしてよいはずがあろうか)、抜いたる太刀が三つに折れて退けにけり、刀を抜いて掛りしに二つに折れて退きにけり。
心得たりと言うままに大手広げて懸りしに、眼に霧降って母の姿も見も分かず(見えなくなり、天罰が下ったのか)大地が左右にきっと裂け兄弟の者どもは早、奈落を差してぞ沈みける。
母は御覧じて、なをも母の御慈悲に助けんと思し召し(それでもこの母は最後まで、我が子を助けようとして)、兄弟の者共が髻(たぶさ、もとどり)を掴んで引き上げんとし給えば、空しき髻(たぶさ、もとどり)手に留まり、兄弟の者共は遂に奈落に沈みける。
母は御覧じて、この髻(たぶさ、もとどり)を何にせんとの給いて、虚空(青空)をさして投げ給う。
(これが)我が朝(我国)に飛び来たり、大和の国とかや(三重県の間違いかも)髻(もとどり)山とこれがなる、残る(もう一つの)髻(もとどり)は路頭に留まり、道芝となって人馬の蹄にかかると承って候ぞ。(五郎がこうして母親の慈悲を説く)。
4 五郎時宗、母を恨む
かかる子をだにも(子供でさえも婆羅門の母)、親の御慈悲には助けんとし給うに、ましてや申さん五郎(時宗)めが男にこそ(元服)成りたれど、四恩(この世で受ける父母、衆生、国王、三宝、四種の恩)の重き事存知(知っています、だからこそ)。
酒肉五辛(辛みや臭いの精力増強効果の強い食品)を禁戒し、子(ね)に伏し寅に起き(夜中に寝て深夜に起き)、金鳥(太陽が)東に輝けば長夜の眠り早覚め、(明けを告げる)鐘つくづくと座をしめし寡(やもめ)烏の浮かれ声かうぞと鳴いて告げ渡る(寝ていた鳥が浮いた声で、かあかあと鳴いて渡って行く)。
いとどむじょうをさえぎれば、眠りも覚め肝消え、八声(夜明けに時を作る鶏)の八度鳴く、愛別離苦(愛する者との別離の苦しみ)の八苦告げ渡る鳥の声ならば、ああ、物に別れあり。
盛んな物も衰え光陰更に留まらず、偕老(かいろう、誰でも同じ老いを迎える)の身を持ちながら、若き時に勤めずは老いての後に悲しまん。
今生で嘆かずは未来を誰か助けんと(今の世で我が身の罪障を嘆いて、仏に救済を願わなければ、来世を誰が救済してくれようか)。
かかる謂(いわ)れを存じ、ひめむすに(朝から晩まで一日中)経を読み、夜すがら仏念仏怠らず、行住座臥(ぎょうじゅざぐわ、日常の動作の全て)にしては、又父のためには御菩提、さてまた母の御祈祷と刹那(せつな、一瞬たりと)も更に怠らず。
勤め行する身なれども、申し上げる人無ふして、明ければ御勘当、又暮るれば御不孝と承るぞ悲しき。
大地を戴いてまします仏の御名をば、堅牢地神と申す。
大地は重き事なくて、親の不孝の者の踏む下ごとに剣となり御身に立つと承る。
((堅牢地神は、大地を固める神で孝行者を守る神である、この地神いわく、ここに重き物有り、親の勘気を得て主の勘当を受けた者が通る時、大地が割れて身が入れば、辺りの草木も枯れ果て、河を渡れば瀬絶えし、底の鱗も生を滅し、地神の頭に七尺の剣を立つるより堪え難し))
咎(とが)有りての御勘当申すとも叶い候まじ、咎無くしての御不審は不憫の至り是なり。
明日も(私十郎)祐成の富士野へ御出あるべきに(向かうが)、なかなか(仇の)伊東(荘)のなにがし(工藤祐経)とて見知らぬ者もなきもの(顔も知らず)を、影と形に(顔知ったる五郎)時宗も御伴申して出べきに(ご一緒したいのに)、狩場の小野の習いにて尾越谷越しの流れ矢にも当たり、もしも空しくなるならば(もし兄ひとりが亡くなれば)、ついに不孝の許(ゆ)りもせで(勘当を許されない弟の)未来の業をいかがせん(未来で受ける応報はどうしたらよいのでしょうか)。
哀れ世の中に親に縁なき者は(五郎)時宗にて留めたり、それを如何にと申すに、
父河津殿には三つの歳離るれば(時に別れて)夢とも更にわきまえず(全く知らない)、今生にまします(居る)母上には七歳の春(に箱根の)寺に上りし時、見参らせしまでに(時以来会っていない)罷り下る事もなし。
稚児にて有りし時にこそ、よそよそなり(合わない)と申すども、男になりて(元服し)候はば、ただ一人の母上には添い参らせんと思いしに。
案に相違仕り、男になったる(かってに元服した)咎により、やがて不孝との給えば、母上の御姿を拝み申す事もなし情けなやの御事や。
例え不孝は許されずとも、姿をなどや見せ給わぬ、とにかくにこれも思えば罪ぞかし(結局考えてみれば自分の犯した罪によるもの)。
(これにて)暇申して女房達、御暇申して母上と、涙を押さえて罷り立つ(立ちあがる)。
5 母、勘当を許して小袖を与える
心強気(頑なであった)母上も間の障子(しょうじ)をさっとあけ、五郎(時宗の)が袂(たもと)を控えつつ(すがり付いて)。
道理なり(その通りだ)、箱王(五郎時宗)よ、憎しと更に思わぬぞ、親の身にて我が子を何しに憎しと思うべき(どうして我が子を憎くなんか思うものか)、これも汝(なんじ)を思うゆえ、今まで不孝有りつるぞ、今日よりしては勘当を許すなりとの給いて御涙にむせび給えば。
(五郎)時宗も、母上の御袂にすがり(付いて)今は又うれし泣きに泣きければ、(兄十郎)祐成も、ともに喜びの涙は更にせきあへず(我慢できずに泣いた)。
御前(側使いの女房や取次の女房)、仲居の女房達、あら目出度や(五郎)時宗の御不審(勘当を)許させ給う事よとざわめき合い(がやがやとはなやいで)御盃を参らせらる(準備がなされた)。
母上盃を取り上げさせ給いて、(兄十郎)祐成に差し給う、(兄)祐成は(弟)時宗へ、(弟)時宗は(兄)十郎祐成殿へと、やや暫くの色代なり(やや暫くの間お互いに礼儀を正しく盃の譲り合いをした)。
母上御覧じて、箱王(五郎時宗の幼名が)法師(僧)になるならば先に飲むべけれども(飲ませるが、元服し)男になる上(からは)、まず(兄である十郎)祐成(から)飲めと宣(のたま)えば、三度汲んでぞ(飲み)干(ほ)されける。
母上(は、兄十郎)祐成の盃を取り上げさせ給い、盃を控えげにやらん(盃を手に持って、本当だろうか)、五郎(時宗)は父に劣らぬ舞の上手と聞く、一拍子歌え、(それを酒の)肴にせんと(舞うように)仰せければ。
(五郎)時宗承って、母上の御前にて舞舞うべき事ども(舞うことも)これが最後と思いければ、いついつよりの(いつもの時の)舞よりも心細くぞ(さびしく)舞うたりける。
((劇中劇と言う言葉があるが、この場面でも、幸若太夫は、幸若舞の中にて話の筋の舞を舞うという趣向である))
「しづやしづ賤(しず)の苧環(おだまき)繰り返し、昔を今になす由もがな、昔を今になさばや」
(苧環を繰り戻す様に、栄えていた昔を今に繰り戻す方法がないのだろうか、昔を今にしたいものだ)
とやや暫く歌いしが、落ちる涙に目がくれて、舞いをば中で舞い止むる(途中までしか、舞われかった)。
母上つくづくと御覧じて、実に実に、父にも劣らぬ舞の上手にてありけるぞや、同じくは此の舞を、(そなたの父)河津(三郎祐泰)殿諸共に見るとだにも(見れたならと)思いなば、いかがは(どんなにか)嬉しかるべきと御落涙は暇もなし。
涙を留め、御盃を(五郎)時宗にさし給う、(五郎)時宗御盃賜わり、三度戴き(飲み)干さんとせし時、母上御覧じて、しばし盃を控えよ、自らも肴取らせんとの給いて、唐綾の御小袖を(五郎時宗にも)下さるる。
(五郎)時宗給わる(頂いた)小袖を着、着たる小袖を脱ぎ、とある所に(着ていた古い小袖を脱いで隅に)押し寄せ(置き)、是なる小袖、垢つき(汚れ)見苦しく候へども、誰か女房たちへ参らせ候。
母上御覧じて、子供の着たる(着ていた)小袖を女房たちへは叶うまじ、それこなたへ(それをこちらへ)と仰せければ、恐れながら母の御手に参らせ上げる。
母上、此の小袖を取り回し取り回し何(度も)と御覧ぜられけるぞや、御顔に押し覆い(押し当てて)しばしは物も宣(のたま)わず。
不思議や是は、(かって)過ぎし弥生(三月)の頃、(兄)十郎(祐成)に貸したる(与えた)小袖でなり(であった事に気づき)。
(十郎)祐成は常に来て(弟の所へ行ってやり)、自らに小袖を借りるほどに、(弟に)貸すとのみばかりにて、返すという事更に無し。
はかなや自ら思うよう(浅はかで愚かであったよ母、私の考えたのは)、若者にて候へば(ならば)遊びの女、色好み(遊女)にも取らせけるかと思いしに、貧なる(貧に苦しむ)弟(を密かに)育み(はぐくみ、養っていた)ける、心ざしこそあわれなれ(十郎祐成の心情を思い遣る)
かほどに(これほどに)思い合う仲を、不審なせる(疑った)自らは、我が身ながらも恨めしや、しほれたる(よれよれの)小袖や。
かほどしほるる(よれよれの)小袖を、自らこそは不孝するども、三浦(義澄に嫁いだ伊東入道祐親の娘、曽我兄弟の父の姉に当たる)の「やえ」の伯母御(おばご)は、などや濯いで取らせんぞ。
伯母御が濯(すす)がぬ物ならば、二の宮の姉御(母が前夫との間に出来た娘で二の宮に嫁いだ)は、などや(なおさら)濯いで得させぬぞ、姉御が濯がぬ物なれば、御前、仲居の女房達などや(なおさら)濯いで賜(た)ばぬ(くれぬ)ぞや。
濯ぐと自ら見たりせば勘当の子なりとて上(うわべ)には叱り候とも内心嬉しかるべきに、親の憎む子供をば一族内の者までも憎みけるかや無慚さよ。
母上、涙を留め、如何に(五郎)時宗、去年の五月ごろ、二の宮の姉御が方よりも小袖ばし得たるか。
(五郎時宗が)給わって候、
それも姉御は取らせぬぞ(姉御が取らせたものではないぞ)、勘当の子なれば、さぞあるらめ(そんなこともあるだろう)と思い、これ(母)より取らせたる小袖なり。
また三島(神社、静岡)の放生会の頃、三浦の伯母御の方よりも直垂ばし得たるか。
(五郎時宗が)給わって候。
それも伯母御は取らせぬぞ、これ(母)より取らせたる直垂なり。
(五郎時宗が)その後は給わる方も候わずと申す。
(以前時宗のもとに届けられた小袖や直垂の送り主も実は自分であった事を告げる)
母はこの由聞し召し今一しおの御涙、(一族の冷遇に涙する)やる片無うぞ見え給う。
如何に(十郎)祐成、(五郎)時宗よ、たまたま逢うたる事なれば(思いがけず対面したことであるから)、何と語ると尽きすまじ(どんなに語り続けても尽きる事はあるまい)、今宵は留まり給へかし(泊って行きなさい)。
(十郎)祐成と五郎(時宗)承り(兄弟はうけたまわり)、いたわしや母上の親子わりなき仲なれども(親子は理性の適用しない情の中だが)最後を知ろしめされずし(母上は自分たちが最後の別れだと言う事を御存じなくて)、かように留め給うとよ、母の心のいたわしさに忍び忍びの涙なり。
6 親子の今生の別れ
十郎祐成、(威儀を正して)笏(しゃく)取り直して申す。
我が君(源頼朝)のこの度、富士野への御出は、日本国の侍の名字、名乗りを知ろし召されんためなり、人数に罷り出で、逃げ鹿の一つも止め、伊東が子孫に去る者有りと知られ申す(こういう者がいると知って頂き)。
懸命の地の片端に安堵をなし(賜わった領地の少しでも公認保証してもらい)、出入り姿を今一度見せ申さんがためにて候と、とかく偽り(嘘をつき)、様々にお暇を申し御前を罷り立つ。
是を最後と思われければ、形見の為と思い(辞世の歌と思い)、矢立、巻物取りい出し(十郎)裕成の歌にかくばかり(詠んで門出をすることに)。
(十郎祐成の句)
「今日出でて又も縫わずば小車の、このは(木の葉、此の輪)のうちになしと知れ君」
(今日家を出立して二度と逢うことがなければ、小車の輪がめぐるように輪廻するこの世には居ないと知って下さい)
(五郎時宗の句)
「秩父山(父)おろす嵐の烈しきに、木の実(兄弟の身)散りなば葉は(母)いかがせん」
(秩父山を吹き降ろす嵐が烈しいのに、兄弟の身が散ってしまったら、残った母はどうなるであろう)
か(此の)ように二首の歌を詠み、障子(しょうじ)の間に押入れ、駒引き寄せて打ち乗り、門外差して打って出る。
(五郎)時宗も馬場末まで馬引かせ、しずしずと二陣に続く、あらいたわしや母上数(多)の女房たちを引き具し(連れ)中門に出で、あれあれ見給え女房達、兄弟の者共が馬打ち(乗馬作法)の礼儀の正しさよ。
(十郎)祐成は、兄なればさぞ隈みしと思いしに(きっと更けているだろうと思ったが)、弟にいつきかしづかれ(大事に面倒を見る)心安くも有りやらん。
色も白く、尋常なるや(立派であるよ弟)五郎は、箱根育ちの者なれば、さぞ有らめと思いしに(若々しかろうと思っていたのに)、兄が供をするほどに月日に照らされけるやらん。
色も黒隈みたるなり(顔色が黒く更けて見える)、あったら若きものどもに、宇佐美(伊東の北方)、楠美を取らせ置き出でいる姿を今一度見るとだにも思いなば、如何は嬉しかるべきと御涙にむせび給いけり。
げに誠忘れたり、弓取りの(兵士が)物への門出に後を見隠す事は無し(戦場に出発する時に見送りながら見送らない振りをするのは良くない事だ)、皆こなたへとの給いて、常の所に入り給う。
是を最後の別れとは、後にぞ思い知らされたる。
7 伊豆箱根権現の由来
(こうして母の元を去った兄弟は)、兄弟の人々駒を速めて打つほどに、(箱根権現の別当に別れを告げに行くその途上)、鞠子川(相模湾に流入する酒匂川)に着きらけり(差し掛かる)。
折節(ちょうど)水嵩増さる(その水が五月雨に増水して濁っていたので、十郎)祐成、御覧じて。
「(不安に思い、あら)不思議やこの川のか程に(こんなに)濁れる事はなし(ないのに)、親の仇に逢わんために兄弟が渡る(のに)程に、水も心があればこそ、澄まで濁れる色見ゆれ(澄まずに濁ってしまう色見せる)」
(これを聞いた箱根育ちの五郎時宗が、伊豆箱根権現の由来を兄十郎祐成に語り聞かせる)
時宗承り、さては十郎殿は伊豆(山神社と)箱根(神社)の権現の由来を知ろし召されぬや(知らないのですか、そもそも)昔、天竺(インド)のきやうし国のあるじをば、きんくわ大王と申し承る。然るに二人の姫宮おわします。
(此の姫君が)五つや三つ(歳)の御時、母の后崩御成され給い、初めて后を供(そな)うるに、昔が今に至るまで継子継母の中程にうたてかりける事はなし(仲ますますひどくなり)。
有る時、后の宮(継母が)仕丁(宮中の雑役下人)官人らを招いて(申し付け)、二人の姫宮を輿に乗せ、そせうが湊へ下し、桑の木の空(うつぼ)舟に作籠め、(鬼神が住むという)塩満つ島の方へ流し失い(風にませて突き流せ)と有りしかば。
飽かぬは君の仰せなれば(限度の無いのが主君の御言葉であるから)、いたわしや二人の姫宮を輿に乗せそせうが湊へ下し、桑の木の空(うつぼ)舟に作籠め、塩満つ島の方へ風にませて突き流す。
先世この君果報の勝劣ましましけるにや(この姫、前世での行いが良かったのか)、塩満つ島へは寄り給わで(の方ではなく)、日本秋津島、伊豆の国妻良(めら)が崎へ寄り給う(に辿り着いた)。
浦人これを見て寄り船有りやとて(発見して)舟を解(ほど)いて見てあれば、さも優長なる姫君の(とても優れた素晴らしい美人の姫君が)一人ならず二人迄(も)泣き泣きし垂れておわします(出てきた)。
浦人肝を消し(冷やし)東西へばっと逃げ散りけり、(姫)宮たち御覧じて、ここは塩満つ島かと問い給えば、(いいえ)日本秋津島、伊豆の国妻良が崎と申す。
(姫)宮達、聞し召しさてこれは嬉しき物かな、いざやさらば上(陸しよう)らん、とて船よりも上がらせ給い、姿を見奉れば、翠黛(すいたい、緑の眉墨で描いたような眉)、紅顔(血色の好い顔)、妙にして(非常に美しく)桃季(とうり、桃や李の花のような姿の美しさはこの上もない)の装い斜めならず。
瞼は芙蓉にて(目もとは蓮花のようにぱっちりと涼やかで)、胸は玉に異ならず、まがきの菊の露を含み、楊柳の枝弱く(中国の美人)西施が装いもかくやと思い知られたり(このようであったかと思われた)。
(姫)宮達仰せける様は、これを菩提の種とし世を遁(のが)れんとの給いて、(姫たちは)丈なる髪を剃り落とし、日本秋津島を修行し(周り)給いけり。
姉御の霊在(りょうざい)御前(は、修行)三年三月と申すに伊豆の山に上がって伊豆の権現と現れて、衆生を済度し(生死の苦海から救って彼岸にお導き)給えり。
妹の霊鷲(りょうじゅ)姫も、(修行)三年三月と申すに箱根山に上がって箱根の権現と現れて、衆生を済度し(生死の苦海から救って彼岸にお導き)給えり。
かほど霊験あらた成る御神とは申せども、五つや三つの年よりも物を思わせ給いし也(幼少の頃から、継子の苦悩を味われたのだ)。
いわんや我々兄弟も五つや三つの年よりも、親の仇を請取て、今また仇に合わんた(打たんため)、この河を渡るほどに、権現の哀れみて流させ給う涙が、涙の雨と成り水の色は濁るなり。
その上、この河は伊豆、箱根の権現の御手洗にて候へば(拝殿前の清めの水なれば)、何かは苦しく候べき、一首連ねてお通りあれや(供詠を捧げて渡る事にしましょう)十郎(祐成)殿とぞ申しける。
(そこで、十郎)祐成聞し召されて、あら殊勝や候(良い事を聞かせてもらった)、伊豆、箱根の権現の由来を只今承って候へと水を掬んで手水とし、伊豆、箱根を伏し拝み、
(十郎)祐成の歌にかくばかり
「渡るより深くぞ頼む鞠子河、あすは敵に逢瀬ならまし」
(鞠子河を渡るに際し、水かさの増している河に、深く頼みをかけることだ、明日はこの河は浅瀬になるだろうが、我々は仇に逢う瀬(機会)になるだろう)
(これを聞き、五郎)時宗もかくばかり
「鞠子河かたきの枝に蹴かけつつ、かかり悪しくは切りて流さん」
(鞠子河の水を足で蹴ってかたき(仇・木・枝)にぶっかけてやり、それがうまくかからなかったら、斬ってこの川に流してしまおう)
と、かように二種の歌をよみ、(唱和し、兄弟二人は駒を)馬を速めて打つほどに、年来(ついに)五郎(時宗)が(幼少期を過ごし)住み慣れし箱根の寺に着き給う(たどり着いた)。
兄弟の嬉しさたとえん方もなかりけり。
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