夜討曽我(全文版)曽我物語⑥

【幸若舞曲一覧(リンク先)】
1 富士野の巻狩
 さる程に、(源)頼朝、信濃の国三原野(浅間山山麓)の御狩過ぎ(終え)、それよりして、相沢の原(富士山東簏)の射取狩(弓矢による狩猟)、三日過ぎ、駿河の富士の裾野(西簏)へ御出と聞こうる。
 御寮(頼朝殿様)のその日の御装束(は)、青狩衣に立烏帽子、尾花(銀灰色した尾の)栗毛(白黒茶の混色)の逸物(名馬)に、白鞍(美しい銀飾り鞍を)置かせ召されける。
 御馬添へには五郎丸(大力童で究極の馬乗り)、赤地の錦(で作った)の(鎧)直垂を下し給いてこれを着る、八十五人が力(大力)なり、萌黄(薄緑色の糸で縅した)の腹巻(略式鎧)を(上着の下に)着籠めにし、君(頼朝)を守護し奉る。
 秩父殿(畠山重忠)の射装束(狩衣、烏帽子、弓籠手姿)、鷹据えてお供なり。
 和田の義盛(も)狩装束(狩衣、行縢むかばき、綾藺笠を着けた狩装束)、鷹据えてお供なり。
 ((行縢むかばきとは、腰に巻く鹿の夏毛革の覆い、綾藺笠あやいがさは藺で編んで造り裏に絹をはった巾子のある狩用の笠))
 千葉(胤正)、小山(朝正、宗政、朝光)、宇都宮(頼綱)、何れも狩場の出で立ちにて鷹据えてお供なり。
 総じて鷹は五十もと(羽)、犬は八十四疋、犬の鈴、鷹の鈴、轡(くつわ)の音がさざめいて(賑やかにざわめいて)、上下六万六千余騎、さしもに広き富士の裾野に駒の立て処はなし(馬を立たせる場所もない)。
 ((建久四年の春から夏にかけて那須野、三原野に続く富士野の巻狩りは、源頼朝の全国制覇と幕府の長としての祝祭の場の意味を持つ大イベントであった))
 そもそも彼の富士山と申すは、仁王(神代に対し人代の天皇)二十七代の帝、継体天皇の御代の時、善記三年三月十五日の一夜が内に、金臨際(こんりんざい、大地を支える第一層金輪の底、大地の底)より湧出したる山なり。
 あら面白の名山や、南は田子の浦(の白)波や、焼かぬ塩屋の(塩焼きの)煙たつ(煙が立つように見えると例えて言う)、西は海上漫漫として際も無し(広く水平線も遥かに見える)。
 されば、余の(他の)山を下に(山々を下にする、すると駿河を掛け)駿河の富士なれば、雲より上の八葉は皆金銀の砂子(いさご)にて、真砂(まなご)に積もる白雪の、所々は村消えて(まだらに消えて)峰には煙絶えもなし、麓に霞たなびきて山の帯かと疑わる。
 山は八葉八尊(富士山の八つの峰を胎蔵界曼荼羅の中台八葉院の蓮華と、そこに坐す大日如来と四如来・四菩薩の九尊に見たて、霊山富士を密教世界の表象ととらえる)にて、両界(金剛界と胎蔵界)を表せリ。
 嶺には孔雀明王(毒蛇を食す孔雀の神格化、四本の腕を持ち金色の孔雀の背に乗る)の住み給える池あり。
 麓に浅間大菩薩(木花開耶姫このはなのさくやひめを祀る社)の甍(いらか)を並べて立ち給う。
 清浄堅固の霊地として殺生戒を禁断し(生き物の狩猟・殺生を禁止し)、猟師の入らぬ山なれば、鹿(かせぎ、角が桛木かせぎに似ているから)の数は多かりけり。
 三千余人の勢子(せこ、獲物を駆り立てる人夫)の者、三日かけて以前より、峰へ分け登り、禅定(頂上)を真っ下りに岩を起こし枯木を叩き、喚(おめ)き叫んで狩り下す。
 多くの鹿(かせぎ)、獣、裾野をさしてぞ落ちにける、鹿が射手に打ち交って駆け乱してぞ入り組んだる(入り混じっている)。
 すは早、射てこそ取りたりけれ。
 弓手次(すが)ひ(騎射方法の一、右前方から左へ斜めに走るものの左を射る)。
 馬手切れ(めてきれ、騎射方法の二、向かいから右方に筋違に行くものの右を射る) 。
 次(すが)ふ弓(獲物狙う弓)、送り矢、手先任せの向かい鹿、表五寸の木の上を中にて返す橋戻り、蛾々たる山の岨伝い(そばづたい、切断った急斜面沿い)、ここを先途と(せんどと、狩の成否の分かれ目と見えた)見えたりけり。
 今日三日の巻狩りに、鹿の数を留むる事は三千七百余頭なり。
 天竺(インド)、晨旦(しだん、中国)はそは知らず、秋津島(日本国)が其の内にも、かほどの見物世に有らじと、諸人興を催しけるは理(ことわり)とこそ聞こえけれ。

2 曽我兄弟、仇工藤祐経を狙う
 この度、富士(野)の巻狩に東八か国の大名小名、あるいは鹿の四頭五頭留め(狩取って)、御所領給わって皆所知入り(新しくもらった領国に入)と聞こえる。
 あら、いたわしや曽我兄弟の人々は、鹿に心の入らざれば(関心なく)、鹿の子の一つも留めず、いかにもまして(なんとしても、親の)仇工藤祐経に巡り合わで(巡り会わずにおかない)と巧みけるに(工夫を巡らして)。
 ここに弓手の岨(そば、左側急斜面の)柏木原の中を見るに、射手の数多ある中に、四十歳ばかりなる男の平文の弓籠手(弓手ゆんでの袖に弦の当たるのを防ぐため肩から手先まで包む金銀模様を塗り込めた布帛製の袋)さし、夏毛の行縢(むかばき、乗馬用の夏鹿毛皮製の腰から足までの覆)踏んごふだる(踏みしめた者)が、三つある(居る)鹿に目を懸けて、雁股番って(かりまたつがって、二股矢じりの矢をつがって)追つ駆くる。
 (曾我兄弟の弟五郎)時宗、誰ぞと見るに、あわ(あれは、仇の工藤)祐経と思い、気もそぞろき身震いて(気が気でなくそわそわして)、優曇華(うどんげ、待ちに待った機会が思わぬ所に生じたか)も海中に開けるかと嬉しくて、鹿矢(狩猟用の矢)をばそろりと捨て、頼みし中差し(矢入れ箙えびらの表側に差した戦闘用の矢を)抜き出し、弓を伏せて打ち番(つが)い、矢壺(矢の狙いどころ)多しと申せども。
 我らが父の河津(三郎祐泰)殿(が)奥野狩場の帰り足に、鞍の前輪の外れ行縢(むかばき、鹿毛皮の乗馬用の腰から足までの覆)の引合わせを射られ給うと聞くものを。
 報い(仇討ち)の矢なれば、(仇工藤)祐経をも同じ矢壺を射て落とし、河津(父三郎祐泰)が矢目に違わずと諸人に見せ、十八年の遅速は同じからざれど、狩場と矢目は違わずや。
 打てば響き叩けば鳴る(即座に対応するたとえ)、思いはよそになかりけり。
 身のせし科(とが、過ち)の報いぞと知らせばやと思いて、早、現れて出でけるが、待てしばし我が心、五郎一人無念を晴れ(らし)、(兄)十郎(祐成)殿を空しくせば、今生の恨みのみならず、黄泉までも晴れ難し(現世のみならず冥途までもこの恨みは晴れる事が無い)。
 父母孝養の矢なれば、兄弟して一矢づつ弔(とぶら)ふにぞと思いて、辺りを見ければ、幸いに(小高い)尾(根)一つ隔て、(兄)十郎殿よそ目してこそ居わしけれ。
 (弟)五郎(時宗)余りの嬉しさに、鹿こそ通れ、(兄)十郎(祐成)殿は御覧ぜられて候か、鹿ぞ(目当ての仇が居るぞ)と言うに心得、東西をきっと見る。
 尾(根)を隔てたる敵なれば、見付け(られ)んも一つ道理、五郎(時宗)余りに堪えかねて。
 夏山や茂みの鹿は射にくう候、その尾(根)に上がって勢子(せこ、狩用人夫)に会いて行方を問わせ給へと申す時。
 さては此の尾(根)のあなたに(あちらに)仇の有るぞと心得て、岨(そば、急斜面)を上ぼりに駒駆け上げて、向かいの原をきっと見るに、げにも(仇工藤)祐経ここにあり。
 しかも、辺りに人は無し、天の教え仏神の与え給うと嬉しくて、十郎(祐成)は兄なれば、一の矢をば何者か妨ぐべきと思いて。
 靫(うつぼ、矢全体を入れる細長の筒)の底の秘蔵の(大切な)止め矢を取って、からと打ち番(つが)い(矢を弓に懸け)、矢先を支え筈返し、定(必殺)の矢をと心得、敵の矢壺(矢所を狙い定める事)ばかりに目をかけて(気を取られて)、馬の足は見ざりけり。
 心ははや(るが)れど、人に色を悟らじと(相手に気づかれまいと)、小駆けに進め歩ませ(やや速足で馬を進めて)行くに、乗ったる馬は、国元よりも飼うは稀なリ(国元から餌をやる事も稀で乗ってばかりいた)、乗り繁(しげ)し、弱き馬に強く手綱を乗る程に、とある伏木(倒木)に胸を突き、屏風を返す如くにはや真っ逆さまにどうぞ落つ。
 (これを見ていた弟)五郎(時宗)余りの悲しさに、急ぎ駒より飛んで下り、(兄十郎)祐成を取って引っ立て申し、馬起こさんとひしめく(馬を押したり引いたり慌て果てる)間に、(仇工藤)祐経、名馬に乗りたれば、谷峰隔てて打ち延びぬ。
 行方知らねば、いずくを指して尋ねて行くべき方もなし、兄弟の人々宝の山に入りながら、空しく帰る風情し討たで止みぬる兄弟の心ざしこそ無念なれ。
 (兄十郎)祐成仰せける様は、あら、ゆゆしの仇の果報や(大した仇工藤祐経の運の強さよ)、うたてしの(情けない)我らが運命や候、果報いみじき(強運の仇工藤)祐経を狙へど更に叶わず、ここまでの際なれば(もはやこれまで、我々の運は尽きたのだから)、いざや人目をつつみて(忍んで)腹切らん。
 ((富士野の狩は本日で終わり明日には全員が鎌倉に帰ってしまう、この好機を逃し仇討ちに失敗した以上、ここで自害を決意する))
 (弟五郎)時宗承り、仰せの如く、(戦場で)弓折れ矢尽きるとやらんも(弓矢が使えなくると言うのも)、かようの(このような)事をや申しつらん(言うのであろう)。
 さりながら、ここは人目も繁く(人目にも目立ち)候えば、閑所(かんじょ、人目に付かない静かな所)を求めて御自害あるべきなりと申して、兄弟連れて帰る。

3 畠山重忠と和田義盛の支援
 かかりける所に、秩父殿(畠山重忠)と和田(義盛)殿、この由御覧じて、(畠山)重忠仰せける様は、あれあれ(和田)義盛御覧ぜよ。
 (亡き)河津(三郎祐通)が子供の有様は、孤児(みなしご)と成り果てて、なかなか遁世籠居もせで(中途半端に出家もせず謹慎もしないで)、親の仇や(を)討たんとて年来(としごろ)付き添い狙うぞや。
 此の狩倉(狩猟場)へも見え隠れのお供申してありつるが、お供の為にてはよもあらじ(ではないだろう)、便宜よくは(うまくいけば親の)仇に流れ矢一つと志す望みにてこそ有らめと思いつるに違わず(流れ矢の一本でも射かけたいと願っているに違いない)。
 ただ今の有様は、目も当てられぬ風情なリ、秋の雁に雁股を逆さにはむる習いは候へど(秋に飛来してくる雁を哀れんで雁股の矢を逆さまにつがえる習慣はあるけれど)、弓矢取る身の心ざし誠に優しき者かな。
 あの殿原が分として(あの兄弟の今の分際で親の仇工藤)祐経を狙う事は、蟷螂(とうろう、かまきり)が斧(おの)とかや(斧を振り上げて大きな車に向かい)、蜘蛛が網に相同じ(網を張って鳳凰を捕えようとするのと同じである)。
 我等にも若き子供の候えば、明日は身の上にてや候らん、いざや彼らに心を添え(応援し)、夕さり夜討ちにせさせん(今夜、彼らに夜討ち決行をさせよう)。
 もっとも然るべしとて、行縢(むかばき、狩時の足覆)を鼓打ち(鼓のように叩いて)鳴らし、(畠山)重忠発句をこそい出されけれ(連歌の前句を発句した)
  「夏山や思い繁みのこがるるは」
   (二人の仇討ちの思いがしきりで焦がれるように、夏山の繁みも色ずく紅葉が焼けているのは)
 (和田)義盛やがて付け給う(続いて、付け加えて詠う)。
  「今夜富士野に飛ぶ火燃え出づ」
   (今夜この富士野に燃え出ずる烽(のろし)火であった)
かように詠い給えば、曽我兄弟承り
 狩場の庭の言い捨ては、事騒がしき御事かな(狩場での即興の連歌とは落ち着きのない事だ)。
 されども此の(書き留め無き)言い捨ては、我らを訪い(とぶらい、激励)給うぞや。
 (和田)義盛の「今夜富士野に飛ぶ火燃え出づ」と遊ばしたるは、「夕さりの暮れ程に夜討にせよ」との言葉成り。
 それを如何にと申すに、飛ぶ火と言える心は、昔大唐に諸国の武士を召さんため、町の鼓と申して、町に一つづつの太鼓を掛け、烽火(ほうか、のろし)を添えて置かれたり。
 内裏にに事あらんとては(緊急事態起こる時には)、烽火を上げ太鼓を打てば、遠島遠国までも一度に起こり、即時に都へ馳せ上り、帝都を守護し申すなり。
 この烽火(のろし)をば、名付けて(和田義盛の歌)「飛ぶ火」とこれを申すなり。
 兵革の時の篝(合戦の時屋外に焚くかがり火)、我朝にて夜討ちの時、松明(たいまつ)と言う事、此の御代よりも始まれり。
 異国の事を語り出し、我らを訪い(とぶらい、激励)給うは、狂言(連歌などの詩歌)ながら誠なるべし。
 (仇討に失敗した我らへの夜討ちを進める歌と解いて、)いざや我等も連ね歌(連歌)申さんとて。
 (兄)十郎(祐成)殿(が)とりあえず
  「上もなき恋の煙の現れて」
   (この上もなく熱い恋心(夜討ちを乞いと恋を掛)に、焦れたかのように煙が立ち上り)
 (弟五郎)時宗がやがて付けにけり(続けて加えて詠う)、
  「天の岩戸を開けて問へ君」
   (天照大神の籠った岩戸を開けた時のように、夜が明けたら、菩提を弔って下さいと今宵討死する覚悟を付けて詠んだ)
 (畠山) 重忠(と)、(和田)義盛聞し召し、さては今夜を限り、明けなば跡を弔へとや、哀れなリいたわしし。
 世(の中)にはばかりのなかりせば(差し障りがなければ)、訪(とぶら)い矢をも射つべし(加勢の矢を射るはずの所だが)と涙を流し、日が暮るれば野営(の宿)に帰り給いけり(御帰りになった)。
 この人々(曽我兄弟)も嬉しくて、柴折結ぶ草屋形(柴で屋根を葺いた粗末な小屋)に泣く泣く帰り給いけり。
 (曾我兄弟の下人の鬼王丸と道三郎に)馬よく飼え鬼王丸、道三郎と人なみなみに下知し給えども(人なみにお命じになるが)、野辺の草よりその外は何をかさして食わすべき(野辺の草以外何を食わせればよいのか)。
 酒、肴、椀(に盛った)飯(などの御馳走は)、余の(他の)館には満ち満ち足りと申せども(足りていても)、曽我兄弟の屋形には水より他はなし。
 夕さり仇に会うべき身が、疲れ(を)直さでいかがせん(直しておかないでどうしょう)、町屋(宿場町)へ出でて宿を取れ道三郎。
 承ると申す(答える)所へ、長持二枝舁(か)いて来た(二長持の贈答品が担がれて届いて来た)。
 これはどれより(送り先は何処より)。
 秩父殿(畠山重忠)、三浦殿(和田義盛)より曾我殿への御雑餉(ざつしよう、御馳走)と申す。
 おう目出度し目出度し、かき(担つぎ)入れよ、この間、人の酒を得て飲んで(ばかりで)、その振舞いのなかりつるに、還礼(かんれい、返礼、お返し)ここにて有るべしと、曾我と秦野(父方の従父聟)は隣家(隣の館)、招き寄せて芝居に居(芝生に座り)、三々九度五度七度、情けを掛けて盛り流す、元より(十郎)祐成(と五郎)時宗(の兄弟は)用心なれば酔わざりけり(酔うまでは飲まない)。

4 家々の幕紋を見る
 馬飼い(は)疲れ(も)直して酒も過ぎれば、(兄)十郎(祐成)殿(は、弟五郎)時宗に暇乞い、けご見んために(館々の様子を見るために)出で(出かけ)給う。
 太刀脇(に)はさんで立ち出で、仇のけご(館の様子)を静かに見て(探して)ぞ通りける。
 ある館を見て有れば、明日は鎌倉入りあるべしとて(へ帰るので)、馬の湯洗い(清め)、庭(で)乗り(慣ら)しひしめく(騒々しい)館もある。
 また、ある館を見てあれば、大鼓、小鼓、六つ緒(琴)の調べ立おうせ(の音に伴奏して)、ど(よ)めいて遊ぶ館も有り。
 かく見て通れば、余り虚空に存じ(余りにも取り留めなく感じたので)、東へ廻って、家々(館々)の(前に掲げた)幕の紋をぞ見たりける(見て回る)。
 (幸若太夫が幕紋の名前を次から次へと列挙していく曲のおもしろさを狙った趣向の場面)
 まず一番に、釘抜(引掛け釘を抜く鉄環図案)松皮(松皮の形をひし形に重ねた図案で)木村濃(きむらさき色)、この木村濃(色の家紋幕)は、(相模の)三浦の平六兵衛義村(北条氏に次ぐ豪族の三浦義澄の嫡男)の紋なり。
 石畳(白黒の石畳型どった図案の紋幕)は信濃の国の住人(豪族)根井の太夫大弥太。
 扇(図案の紋幕)は浅利の与一(壇ノ浦合戦で遠矢を射た那須与一こと甲斐源氏の源義成)。
 舞たる鶴(図案の紋幕)は庵原(いはら)左衛門(駿河の国庵原郡の豪族)。
 庵(いほり)の中に二つ頭の(鶴)舞たる(図案の紋幕)は駿河の国の住人(遠江の豪族で)天智天皇の末孫、竹の下の孫八左衛門身。
 伊多良貝(いたらがい、浅海に住むイタラ貝を図案化した紋幕)は岩長党(藤原北家の岩永左衛門尉宗連)。
 網の手(漁網を干した図案の紋幕)は須賀井党。
 追州流し(川をせき止めるための蛇籠じゃかごを図案化した紋幕)は安田の三郎(義定、清和源氏武田氏流)。
 月に星(北斗七星の妙見信仰による三日月に星の図案の紋幕)は千葉(千葉常胤嫡男胤正)殿。
 傘(からかさ、図案の紋幕)は那古屋(橘次頼時)殿。
 団扇(うちわ図案)の紋は(武蔵の国の七党の一つ)小玉党。
 裾(すそ、下部分)黒に鱗(いろこ)形(三角形三個)は北条(時政)殿の(旗指し)紋なり。
 繋(つな)ぎ馬紋は、相馬(相馬の豪族千葉常胤の次男師常)。
 折烏帽子立烏帽子紋、大一大万大吉(山内氏の紋)紋、白一文字黒一文字は山の内(鎌倉山之内の豪族)の紋なり。
 十文字は島津(九州の名族)の紋。
 車は、浜の竜王(竜神の依頼を受け竜宮城に趣き百足を退治した俵の藤太の話)の末孫(ばっそん)、佐藤(氏)の紋。
 ((御伽草子に、朱雀天皇の時代、瀬田唐橋に大蛇が寝そべり通れない、勇敢な俵藤太秀郷が踏みつけて通ると、その夜美しい娘が現れ、私は瀬田川に住む龍王の娘で大蛇に変身し、勇敢な人を探していた、三神山に住む大ムカデが琵琶湖を荒らすので退治して欲しいと頼まれ、藤太が大ムカデ退治に向かう。しかし三上山を七回半も巻く怪物で藤太の放った矢は跳ね返り最後の矢先に唾をつけ、南無八幡大菩薩と祈り射ると大ムカデの眉間に命中し無事退治した。龍神の娘はお礼に織っても尽きぬ絹、食べても尽きぬ米俵と鍋を置いて帰る、数日後再訪し琵琶湖深底の龍宮城に案内され酒宴し龍王から黄金札の鎧、太刀一振り赤銅の釣鐘を贈られたとある))
 竹笠(図案の紋幕)は高橋党(高橋大九郎)。
 亀甲、輪違、花靫(うつぼ)、三本傘(からかさ)、雪折竹(図案の紋幕ら)。
 二つ瓶子(図案の紋幕)は河越(武蔵の国の豪族河越重頼)、
 三つ瓶子(図案の紋幕)は宇佐美の左衛門。
 二つ頭の右巴(図案の紋幕)は小山の判官(下野の小山朝政)。
 三つ頭の左巴(図案の紋幕)は宇都宮の弥三郎朝綱。
 鏑矢(かぶらや図案の紋幕)、伊勢(豪族)の宮方(久留氏)。
 水色(無紋の紋幕)は土岐(三郎)殿。
 四つ目結(図案の紋幕)は佐々木(盛綱、義清)殿。
 中白(上中下の中が白い図案の紋幕)は三浦(義澄、義連)の紋。
 秩父殿(畠山)は小紋村紺(図案の紋幕)。
 割菱(図案の紋幕)は武田の太郎(甲斐源氏の武田五郎信光か)。
 梶原(景時一族)は矢筈(図案)の紋。
 真白(源氏の白旗で無門の白)、御所(源頼朝)の御紋であり。
 ここに庵(いおり)の中に木瓜(もっこう)ありありと打たる(描いたる)は、我らが家の紋ぞ(兄弟の親の一族、仇工藤祐経の紋でもある)と思し召し、今一入(ひとしお)なつかしくて、十郎(祐成)殿(は親の仇工藤祐経の屋形の前で)時を移して立たせ給う。

5 工藤祐経、十郎祐成を屋形に招く
 かかりける所に、仇(工藤祐経)の嫡子(である)犬坊(工藤祐時の幼名) が、幕の内より一目見て、父の御前に参り、十郎のお通り御申しあれ(お通りです何かおっしゃいませ)と申すと。
 (工藤)祐経(これを)聞いて腹を立て、やあ十郎とは誰が事ぞ、(駿河)相沢の十郎か、豊後に臼杵の十郎か、遠江に勝間田の十郎か、この度(の)富士野への御供に十郎の仮名(俗称)その数を知らず、汝(なんじ)は虚空なる(訳の分らぬ)事を申すものかなと父に叱られ。
 時ならぬ顔に紅葉をさっと散らし(失態で顔を赤らめ)、さん候(そうそう)、いつぞや三浦殿にて乱舞させ給いたる(宴席で楽器に合わせて即興で歌い踊り舞うたる)相模の曾我の十郎のお通り(です)と申す。
 (工藤)祐経、聞いて、おう、この者共が祖父伊東(入道祐親)こそ、人の栄うるを憎み滅びるを喜び給いし人の子孫なれば、あのように成り果てて候ぞや。
 昨日も、某(それがしが)谷越しに見て候えば、地体(ぢたい、元来)曾我殿は、不足の人(所領不足の貧乏人)と覚しくて、痩せたる馬に腰張(粗末な)鞍(を付け)、雑人のその中に打ち紛れ居たる有様は、山田の畔(あぜ)の案山子(かかし)も、これにはいかで勝るべき。
 国よりの用の物はなし(国元よりの金銭援助も無く)疲れには臨んづ(疲れ果てたあげく)、推参の為か(無礼にも押しかけてきたのか)、呼んで一つ盛れ(盛ってやれ)。
 犬坊 (嫡子工藤祐時)承って、幕掴んで打ち上げ、十郎(祐成)の袂にすがり、父の仰せにて候、御入りあれと申す。
 (十郎)祐成聞し召し、見れば仇の嫡子犬坊なり、もっともと同じ(どうじ、答えて)、犬坊と打ち連れて幕の内へぞ入りにける。
 (工藤)祐経、片膝を押し立て忍びに刀の柄に手を掛け、わざとか(それとも)便宜候(目的が有って来たのか、それともついでに立ち寄ったのか)、是へ是へと請ず(招き入れた)。
 備前(岡山県吉備津彦神社の同席していた神官) の王籐内(おうとうないが、工藤)祐経の色代ちっとも様有る人よと思い(挨拶が尋常には思えず何か事情の有る客だと察し)、ただ(さあ)、客はこれへと請ず(こちらへと招き寄せる)。
 (十郎)祐成、御覧じて、あなたへ直らばやと思し召すが(王籐内をはばかり、そのように座ろうと)、思し召すが。
 いやいや、あれは他門にて以前より座上(ざしょう)す(いやあの王籐内は一門以外の者で前から来ている)、こなたは一門の事苦しからじ(こちらは一門であり失礼ではないだろう)と思し召し、(工藤)祐経が馬手(右)の座敷に直らせ給う。

6 工藤祐経、父河津の死因を語る
 未だ(十郎)祐成の左右の膝も直らざりける(座る前にもかかわらず)に、(工藤)祐経が初対面の言葉こそ何よりもって無念なれ。
 誠や承れば(曽我兄弟の)面々は、それがしを親の仇と宣いて狙い給うと承る、それはもっての外の僻(ひが)ごとなり(とんでもない間違いだ)。
 御身の父の河津(三郎祐泰)殿、由なき事によって討たれさせ給うを、長々しくは候へども(死の原因)語って聞かせ申さんに、よくよく御聞き候て、常は御入り給えとよ(何時でもこちらへ御出でなさい)。
 たとえば、この君(源頼朝)十三にて(の時、平治の乱で捕えられ)、伊豆の田中へ配所あり(に流罪となり)。
 伊豆、相模の人々寄り合いて評定する様(相談する事に)は、誰かこの君(を)父左馬頭(源義朝)殿の御恩に与からぬ人やある(恩を感じない人は無いだろう)。
 世に有る人を慰め申すは、それ時の綺羅(威勢ある)、花をかざす習い世になき人を慰め申すこそ、侍の本意にて候へ(現在時めいている人をお慰め申す事は時流に乗ろうとする人の常である)。
 尤(もっとも)と同じて。
 山越えよりも(蛭が小島から亀石峠を山越えして)、頼朝を伊東の館へ入れ参らせて、三日三晩の酒盛は、殊にふれたる遊びかな(けた外れの遊興かな)。
 挙句(あげく)には若侍が庭の懸り(かかり、蹴鞠場)へ下り立て、大声を上げて鞠を蹴(ける)、君の御目に掛る時、頼朝南を御覧じて、南にあたって山の高く見えたるはいかなる山(あの山は如何なる山かと問い給う)。
 若侍承って、山の見えて候は(見える山は)柏が峠(静岡県)と申し候、たぎって滝の落ちるをば松ヶ枝が淵とも申すなり、伊東川の川上は鎌田が淵とも申し候、大善寺山に続いて候、名誉の鹿の通い所、鹿を狩らせて御見物(でも)、我が君と申されけり。
 頼朝聞し召し、鹿は所望とありしかば、伊豆、相模の人々(は)、(伊東の)赤沢山にて三日の狩倉(狩猟)は心言葉も及ばれず、挙句には人々名残惜しみの酒盛りする。

7 真田与一と俣野五郎の力比べ
 芝居のことなれば、ここに座敷中に青めな(青緑色の)石の丈(たけ)五尺ばかりに見えたるを、相模の国(愛甲郡)の住人に本間(義忠)が年は十九(歳)、憎い石の有様かな、座敷のわずらい(邪魔だ)捨てん(捨ててしまう)とて、この石を追っ立て持ちは持って候へども保つ所を知らずして(置き場所もなく)、元の座敷に直しけり。
 かかりける(そこの)処に、同国(相模の国)の住人大庭(景親の)が舎弟(で)俣野の五郎景久この由見るよりも、居たる所をつつと立って、直垂脱いでふわっと捨て、この石を追っ立て宙にづんと差上げ、座敷を二三度持って廻り候て、これ程の石をば世の常の礫(つぶて、投げ石)にこそ打べけれ、持たぬは(相模の)国の名折り(不名誉)とて遥か東へ捨てん(よう)とす。
 かかつし(そんな)所に、同国(相模国大住郡)の住人、岡崎の悪四郎義実が嫡子、真田の与一義貞その頃年は十三なり、父の代官に(て)優しく見ゆる(優雅な)花(柄の)靫(うつぼ、背負う矢壺)、戯(れる)蝶を配した直垂に、茜(色)の弓掛(皮手袋)、紫(色の)竹の鞭、足が斑(ぶち模様)なる駒に乗って遥か東を(鞭)打って通る。
 俣野(五郎景久)きっと見て、のう、ここ元通らせ給うをば、真田(与一義貞)殿と見申したるぞ、この石を参らせんず。
 馬の上にて召されうずか(この石を御受け止めできましょうか)、又下り立て召されうずか(それとも馬から降りて受け取られましょうか)、のう真田殿とぞ(声を)かけたりける。
 真田(与一義貞)聞いて、あら、どこともなや(ああ、どこでもない)、嵩より投げる石を下にて給わるお烏滸(おこ)の者、やはか候べきと(高所から投げ落とす石を下で戴く馬鹿者はよもや居りますまい)と笑って通る。
 俣野(五郎景久)、これ由を見るよりも不覚成りとよ(卑法であるよ)真田殿、(相模八郡の一つ)三浦にとっては古郡(左衛門保忠)、逸見の七郎、岡崎の悪四郎、おうとう、三崎一門、九十三騎が中に、真田(与一義貞)殿は聞こうる器量の人(評判の器量の人物)と承る、この石召されぬものならば、それは三浦の名折りにては候わぬか、如何に如何にとぞ(けし)かけたりける。
 真田(与一義貞)、無念にや存知けん、駒よりも飛んで下り、竹笠、直垂はらりとかなぐり捨て、それほどの石をば、二つも三つもとく投げよ取らん(取って見せよう)と申す。
 めのと(主君守役)の文蔵が、御袂(たもと)にすがり付き、是は如何なることを仰せられ候ぞ
 めのと(主君守役)親、御伴申し、この石召されて(石を御受け止めになって)、召され損ずるもの(受け損ないでもなされた)ならば、大殿よりの御不興(お叱り)をば、ひとえに文蔵めがこうぶらんずるにて候、如何なる事と教訓す(と教えさとす)。
 真田(与一義貞)聞いて、やあ教訓も事によるぞ(事の次第によるものだ)、三浦の難とかくるは無念なり(名折れとだと難くせをつけられたのは無念だ)、そこ放せと言うままに、控ふる(える)袂を振り切って、この石(が投げ飛んでくるのを)待ち立りけり。
 地体(もともと)俣野(五郎景久)は烏滸(おこ)の者(乱暴者で)、えいやっと言って投ぐる(投げつけた)。
 五尺余りの大石が花の如くな(る、真田)与一(義貞の)が上へひらめいて落つるを、弓手(ゆんで、左手)に相付けきっと取って、馬手(めて、右)の肩にとうど置いて、なんぼう取ったるぞ俣野(五郎景久)殿、いでいで、この石やがて返し申さんに、侍の本領に付いて召せや(この石を代々相伝の領地に託して御受取なさい)と、えいやっと言うて投げる。
 俣野(五郎景久)弓手(ゆんで、左手)に相付、取りは取って候えども、力の落つるしるしか、かしこへがはと捨てたりけり。
 伊豆相模の人々はこの由を御覧じて、俣野(五郎景久)十人が(分の)力を真田(与一義貞)は持って有るやとて、一度にどっとぞ笑いける、時にとって、真田(与一義貞)殿は、あっぱれ弓矢の面目かな(武士として名誉なことである)。

8 俣野五郎景久、河津に相撲の遺恨
 さる間、(相模の国)俣野(五郎景久)はどっと笑われ、ちっとも咎(とが)も無き四方をはったと睨み廻し。
 面々は何を笑い給うぞ、かかる力業(わざ)は時による(ぞ)、相撲を取って伊豆(の人々も)相模の人々を相撲の相手に持つならば、(私は)片手を放って(片手だけで)百日百夜うつとも(相撲を取るとも)、やはか笑われ申すべき(よもや笑われ申すようなことはないだろう)。
 伊豆の人々これを聞き、是は無念なる次第かな、同(じ)国(相模同志)の者が渡り合い石を投げ取り損じ(たからと言って)、他国(伊豆)をかくるはいわれぬところ(他国を引き合いに出すのは許しがたい事だ)。
 おう、心得たり、伊豆は四郡(田方・君沢・那賀・加茂)、相模は八郡(足上・足下・愛甲・高座・鎌倉・三浦・大住・余綾)、小国と思いなし(相模より小国と思い込み)伊豆をかくるは道理(伊豆を引き合いに出すのももっとも)。
 伊豆(対)、相模は根切りの相撲たる(徹底的に最後まで相撲で争う)べし、相撲を召されぬほどなれば(相撲をおとりにならないと言うならば)、弓矢を参らんとひしめかるる(弓矢を交えて戦おうといきり立つ)。
 伊豆方には(田方郡豪族)狩野の工藤介茂光、相模方には(足下郡)土肥の次郎実平、(この)二人の人々の(を)行司に立たせ給えば、既に相撲は始まりけり。
 先ず一番に宇治河の十郎、よき相撲九番打って入り、岩屋側の弥二郎、十七番打ち、根府川二十三番、くぬいの太郎九番打つ。
 (相模の国)俣野(五郎景久)これ由見るよりも、君の御座にて候に(源頼朝様が御臨席されているのに)、何時まで(も)某(それがし、私が)出でざるべき(出ないでおれようか)、只今(今すぐ)罷り出で独(ひとり)転びし遊ばん(一人で転んで遊んで来よう、自分の強さを誇り)と言うままに。
 紺の手綱(たづな)に白き帯二筋ゑ(え)つて辻に止め(繰り合わせて十文字にまわして締め)、場中へ踊り出で、実にと自称の如く(なるほど自慢した通り)、よかつし相撲がつつと出れば突き倒し、つつと出ればはたとは(ぽんと)蹴倒し、はや手にもためずして(あっという間にわけも無く)五十九番打って入る。
 俣野(五郎景久)申しける様は、今は緒方の(もはや両方の)相撲が付きて候はぬか(力士が出尽くしたのではないですか)、相撲が尽きて候はずは(出尽くして居ないのなら最後を飾るのは私俣野五郎景久である)と申す。
 かかりける所に、土肥の次郎実平は相模方行司にてましませば、するすると立ち寄って、あっぱれ相撲や、取手利いて目早き相撲、心も利いたり(技が鋭く相手をよく見た相撲だ、気か利いている)力も強し、実にや相撲尽くれば行司出て転ぶ由承れど(相撲力士が出尽くしたのなら行司もと弱い者まで引っ張り出されるところだが)。
 (伊豆方行司の)狩野(工藤介茂光)殿も、年寄らせ給う、あわれ土肥(次郎実平、相模方行司)が年を十も二十も取って捨てたらば、(相模の国)俣野(五郎景久)殿と花々と一番参らぬかとて、からからと笑い給う。
 さる間、(相模の国)俣野(五郎景久)は大人の返事をこわく申す(年長者への返事を頑固に申し上げる)、なん候(何事ですか)、土肥(次郎実平、相模方行司)殿、座敷座上にて盃取って召されんこそ大人にてましますども、かかる力技は(このような力比べには)老若をきらわぬ習い(老年も若年も区別しないのが習わし)。
 たとえ土肥(次郎実平、相模方行司)殿にてもましませ御出で候へ、花々と一番参りて(華々しく一番相撲取って倒し)、老いの波に(御老体にこの)柏が峠の赤土を付け申さん(お付け申しましょう)と申す。
 土肥(次郎実平、相模方行司)殿聞し召し、若き奴に言葉を掛け恥かいたり(若者に不用意に言葉をかけて思わぬ恥をかいてしまった)と思われけれども、ものの上手にてましませばさらぬ体にもてなし給う(巧みな対応で何でもない様子でやり過ごされた)。
 その頃、土肥(次郎実平、相模方行司)の姫を伊東(入道祐親の子息河津三郎祐泰)に置かる(嫁がせる)、伊東(入道祐親)の姫を土肥(次郎実平相模方行司の子息弥太郎に)置かる(と再婚していた)。
 伊東(入道祐親、伊豆国伊東の豪族)殿御覧じて、この辺に河津(三郎祐泰、伊東入道祐親の子息で土肥次郎実平の婿、曽我兄弟の父)はなきか(居ないのか)。
 土肥の次郎実平(相模方行司、舅殿)の腹立て給う色を見ぬか、是非河津(三郎祐泰、曽我兄弟の父)出でて取らずば、伊東(入道祐親、父が)出て転ばんとぞ狂われける。
 河津(三郎祐泰、曽我兄弟の父)承って、詮無さよ(せんなさよ、仕方がない)とは存ずれども、父の仰せにてある間、おつと答えて御前を立ち、相撲のこしらえ思うように仕り(支度を十分にして)、俣野(相模国の五郎景久)を引っ立て連れて場中に出る時には、引たつる所にて人の力は知るものを、むげに(思った通り)俣野(相模国の五郎景久)は弱わかりける(疲れ弱っている)と心の内に存ずれば、片手を放って場中で打って、伊豆、相模の人々の瞋恚(しんい、恨み)の怒りを止めばや(ねば)と思うが。
 いやいや名人に不覚をかかするは(恥をかかせることは)かえって河津(三郎祐泰、曽我兄弟の父)が不覚なり(自身の恥にもなる)。
 取手の様(相撲の取り口)を人々に見せばやなんど(見せんなどと)思いつつ、はらりと開き、手先を取ってくるりと回る、相撲の手に、向こう突き(頭を付けまわしを下から引く)、逆突き(向突き体制でまわしを上からとる)、鴨が入れ首(お互い脇の下に首を入れ倒す型)、水車(水車が回るように相手の手を取って振り回す)、掛くればはずし入れれば余す(かけ技を掛ければ外し、掛けられればそらす)。
 桃花の節会の鶏合わせ(桃の節句に鶏蹴り合わせる闘鶏)、勇む心は春駒の立ち留めぬが風情にて(奮い立つ二人の心は春駒が跳ねるように抑えようがない様子で)、四十八手の(相撲技)取り手をば百様に乱したれば、伊豆、相模の人々は面白やとざめかるる(ざわめかるる)。
 何時までと存ずれば、俣野(相模国の五郎景久)を人際へかつぱと突き倒し(見物人の方へ激しく突き倒し)、取って引き立て送る時、かくても入りたらば、いしかるべき事どもを(このまま退場すれば神妙な事であるのに)打てたる(場外に投げ出された)跡をきっと見て。
 只今の相撲には負くまじき(負けない)相撲なれども、ここなる(にある)木の根に消し飛う(ん)で、俣野(相模国の五郎景久)は一期の不覚をかいて候ぞ(一生の不覚を取ったことであるぞ)。 
 (納得のいかない俣野五郎景久の)兄の大庭(景親)が、これを聞き、相撲の勝ち負け知らねども、木の根はこれに在りと言う(物言いをつけてきた)。
 伊東(入道祐親)殿御覧じて、やあ如何に河津(三郎祐泰、曽我兄弟の父)、世の常の辻相撲なんぞこそ(素人が辻などで行う草相撲)人際(見物人)なんどと申す事は候へ、既に俣野(相模国の五郎景久)は坂東国に聞こえたる相撲の上手、物その数にてなけれども、関より東三十三ヶ国が其の内に相撲を取って名人と、呼ばれ申すは身の不運(身の不運)。
 真鼻白に(真正面から鼻と鼻を突き合わせ)勝負を付けよ河津(三郎祐泰、曽我兄弟の父)とこそ怒られける。
 河津(三郎祐泰、曽我兄弟の父)承って、人の情けのある時こそ我も情けをこめられる取る所(人情を介する相手の時は自分も情をかけることができるが、今はそんな相手ではない、さあ相撲を取ろう)と思って、はらりと開き手先を取ってくるりと回る。
 俣野(相模国の五郎景久は)、河津(三郎祐泰、曽我兄弟の父)に不覚をかかせんそのために、組み入りにつつと入る(組み合おうと体を入れてくる)、余して(あまんじて)、後(おくれ)れをむんずと取って(背後にむんづと組みつき)、前の辻一締め締め(前まわしをつかみ)、片手を放して続けて二番、どどうどうと打ったる(俣野五郎景久を投げ飛ばしたの)は、おう、なかなか生きたる甲斐ぞなき。
 (俣野五郎景久の)兄の大庭(景親)がこれを見て、相撲を取るのは常の事、片手を放って打つ法か(片手を放して投げ飛ばす技があるのか)、それは相手を卑しむところ、生きては帰るまじと言う。 
 土肥次郎実平殿(相模方行司)と伊東入道祐親(河津三郎祐泰の父)が一つになって、よう、な言わせぞ、ただ打ち殺せとひしめかるる(人々がひしめき合って殺し合いになりそうになったところで)。
 (源)頼朝御覧じて、如何なる事と御教訓あれば(何たる事かと厳しく注意したため)、御諚背き難きによって弓矢は止まりぬ(その場は収まった)。
 この相撲の遺恨(勝負の恨み)によって、御身の父の河津(三郎祐泰)殿をば、いおう山(静岡県伊東市)のこなた(此方)なる赤沢山の麓にて、兄の大庭(景親)が討ったとも申す、又弟の俣野(五郎景久)が討ったとも申す。
 その頃、某(それがし、私仇工藤祐経)は都にて伝え聞き、こ(れ)は無念なる次第かな、その儀にて有るならば、急ぎ国に下って大庭(景親の)が館に押し寄せ、一矢射って腹切らんと思いしに。
 御身の祖父伊東(入道祐親)殿(は)、某(それがし、私)が代官の仕業なりと宣(のたま)いて、国の留守に留め置く(私配下の)大見(小藤太、伊豆田方郡)、八幡(三郎、伊豆田方郡)を召し捕って理不尽に斬られ申す。
 恨みの矢をも射た(り)けれども(射たかったが)、一つは(第一)養子の父母、二つには(第二)烏帽子親、三つには(第三)伯父、四つには(第四)舅(伊東入道祐親は、工藤祐経の義理の叔父であり)、思いながらもさたありぬ(思い続けながらもそのままにしていた)。
 それをこそあらんめ(それを事も有ろうに)、科(とが、罪)も無き(工藤)祐経を親の仇と睨(ね)めん(憎しみの眼を向ける)より、常は差し入り給いて(出入りして)、駒に水桶さするならば(馬に水をやってくれるなら)郎党とはよも言わじ(従者の郎党とは呼ばず)、家の子とこそ言うべけれ(一族の家の子と呼ぼう)。
 馬なくば(無いなら)面々境に多き荒馬を一匹とって乗らぬか(乗ってみるか)、直垂なくば(息子の)犬坊が(の)脱ぎ替えを取りて着給へや。
 今日よりしては(からは)、(十郎)祐成と、(工藤)祐経と中に意趣は有まじい(二人の間に遺恨はない)、和融(わゆ、仲直りのしるし)の盃差すぞ(杯事)とて、盃に一つ受け十郎(祐成)殿に差ひ(し)たるは、 (工藤祐経の自分は無関係との物言いや、家人に抱えてやろうという身勝手な言葉に、十郎は黙って耐え)、座敷の( 宴席での)恥と思われて(思い)無念類(たぐい、無念さは)は、なかりけり(たとえようもなかった)。

9 十郎祐成、雑言に堪える
 あら口惜しや問うに辛さの勝るとは(問いかけられ思い出したために、かえって辛い思いが募るとは)かようの事をや申しつらん。
 恩して置かん家の子にせんなんど(扶持を与えて家に置こう従者にしようなどと)言われ、親の仇ならずとも死なでは何の曲有るべき。
 酌んだる酒を(仇の工藤)祐経が面へさっと沃つ掛け(顔にさっと浴びせかけ)、一刀恨み、ともならばや(どうにでもなってしまいたい)と思いしが。
 まてしばし、我が心、(弟五郎)時宗一人残し置き、同じ黄泉路と言いながら(一所に冥途へ行こうと約束しながら)、(弟時宗には)本懐を遂げさせで(遂げさせずに)、雑兵の手に、掛け憂き名流させん事の無慚さよ(殺され汚名を残させる事も痛ましい)、とやせんかくやあらまし(ああしょうか、こうしょうか)と酌んだりし酒をば乾(ほ)しかねてぞ見えにける。
 二人の女は色を見て(手越しの少将と黄瀬川の亀鶴の二人の遊君達は、十郎祐成の様子を見て)、御盃の長持は御肴の所望かや、座敷に女の有りながら、いざや歌いて参らせん、もっとも然るべしとて、今様(いまよう、当世はやり歌)なんど歌いけり。
 (十郎)祐成思い直して、時は変わると日は変わらじ、すなわち今夜二人連れ夜討ちにせんず仇なり、この世の中の思い出に、何とも申せ咎むまじ。
 されども心苦しきは、(神官の)王藤内が(の)見る目あり、(かっては)西国武士(に仕えていた事も有り、武士の)の見(つめ)る目なり(である)。
 二人の女の聞く耳(聞いた内容)は、東国の人々の聞し召されん所にて(すぐに坂東八か国の武士達の耳に入り)、現在親の仇を目の前に置きながら、かかる自賛を言わせつつ(言いたい放題に自慢させながら)、聞き長らえて立ちぬる(聞いていても何もせず席を立っ)と、言わん後日の口惜しき(後日臆病者のように言い触れられるのは残念である)、よしよし、それも夕さり今の恥をば雪(すす)ぐべし。
 かくて座敷に長居し無念度々重ね成り、所々の死にをして(ここで敵を打って一緒に死ぬことが出来ず、弟)時宗に恨みられん(恨まれる)よりも疾くして立つにこそ(早々にこの場を立ち去る事こそ最善なり)と思し召し。
 三献酌んで受け流し、夕さりはこれにて御番申したくは候へども(ここで宿直したいとは存じますが)、北条(時政、烏帽子親)殿の方様へ申したき子細の候。
 明日、(弟)五郎(時宗)を伴い参りて御目にかからんと、座敷を立って出でさまに、敵のゖごを思う様に見すまして(敵陣やの様子を十分に検分して、この時、王藤内に真偽を尋ねられた工藤祐経は、河津三郎祐泰を殺したことを認め、南無阿弥陀仏と念仏を唱えるのを、十郎祐成は立ち聞きして後)、我が屋形にぞ帰られける。

10 十郎佑成、館の位置を語る
 あら無残や、(五郎)時宗(は)草屋形にあるけるが、(兄十郎)祐成を待ちかね申し、太刀おつ取り屋形を出る。
 いたわしや(兄十郎)祐成しほしほとして、い出来給う、(弟五郎)時宗見参らせ(て兄十郎)祐成の御涙の風情は何事を思し召しい出されて候ぞ(どうなされたのですか)。
 (兄十郎)祐成聞し召されて、某が(それがしの)涙の風情は別の子細ならず、仇(工藤)祐経に対面し、初対面の言葉の強(こわ)かりし時(厳しさに)、(仇と)差し違え(て)とにも、いかにもなるべかりつれども御辺に名残惜し(どのようにでも意趣を晴らそうと思ったが、お前との別れが惜しまれた)、つれなく(無事に)命長らへ二度会うたるが(お前に再び会えた)嬉しさに、さてぞ涙がこぼるらん(こぼれるのだろう)
 (弟五郎)時宗承って、あら有難やの御諚や候、慈悲は上より下るとは(目上の者から下されるものだと言う事は)、今こそ(只今)思い知られて候へ(知らされたことです)。
 かく申す(私五郎)時宗ならば、たまに会うたる親の仇ぞと思い、座敷に直(座)らぬ間に差し違え共にいかにもなるべきものを、五郎(私時宗)の事を思し召しい出され、これまでの御出(帰られたの)は返す返すも有り難くこそ候え、同じくは仇の館の体(てい、様子)御物語候へ、承りたく候。
 (十郎)祐成聞し召されて、易(やす)き間の事、いでいで語って聞かせん。
 さても我が君(源)頼朝は、御果報いみじく(めでたく)御座あるによって、伊豆北条殿の給わりにて、薄檜皮十八間に真白の幕を打って、富士下ろしに揉(も)ませたるは(富士山から吹き下る風にはためかせている様子は)、ただ白雲立ちたるが如し。
 内の陣を相見るに、君(源家)の御家の子、宍戸安芸の四郎殿が前後を守護し申さるる。
 外の陣を見て有れば、(上総の武士)伊北、きほう、斎院の次官(中原)親能(が)前後を守護し奉る。
 さて国々の大名には、駿河の国に吉川、船越、高橋党、遠江の国に横地、勝間田、(遠江の武士)井の八郎、参河の国には足助、(三河の武士)中条、星野、行明、尾張の国に本部、海東、熱田の大宮司(頼朝の祖父藤原季範)、山田の左衛門、美濃の国に土岐、遠山、平野の平次、蜂屋の冠者、あししの次郎、近江の国に錦織、佐々木、山本、柏木、木村の源蔵業経、館を並べびっしりと幕を打って君を守護し奉る。
 伊勢の国には加藤の弥太郎、伊賀の国には服部党、大和の国には宇野(七郎親治の)が一党三千余騎、筑紫(の)大名に大伴諸卿、菊池、原田、松浦党、惟任(これとう)、惟住、戸次、山住、館を並べひっしと(びっしりと幕を)打つ。
 丹後の国には田那部の小太夫、大内の季武、若狭の国には安賀の高傔仗国正が末子青の太郎、鳥羽の兵衛、越前の国には天夜、白崎、堀江、本庄、
 加賀の国には富樫の文盛、林の六郎、井上左衛門、能登の国には土田、建部、越中の国には石黒、宮崎、南部の殿原、むくだの兵衛、宮路の左衛門、越後の国には五十嵐の小文治、
 信濃の国には仁科、高梨、海野、望月、くはらきの安藤次、安藤内、根津の甚平惟行、(諏訪神社)上の宮の諏訪の祝(神官)、下の宮の諏訪の祝(神官)、深山隠れ(奥深い山の)の甲斐源氏、一条、板垣、南部、下山、逸見、武田、小笠原、下野の国には那須、塩屋、宍戸、佐竹の人々、
 上総の国には伊北、伊南、長北、長南、あひろ、河上、うさ、山の辺、下総の国には安西、かなきり丸、東条、
 武蔵の国には横山党、平山党、私の党、丹の党、西野党、児玉党、(武蔵)七党、これ(ら)党を全て合せて四十八党の人々は、館を並べひっしと(びっしりと幕を)打って君(頼朝様)を守護し奉る。
 相模の国には土肥、土屋、座間、岡崎、さても懐島、山之内の人々、ひた、はらきの者共、件の(くだんの、例の仇工藤)祐経。
 君の間近き館には我らが一族に、武州に(の)秩父殿、相州に和田殿、所司(侍所)別当(長官)に梶原平三景時、その外は奈子田、星田、井田、富田、諏訪氏の人々は館を並べ(びっしりと幕を)打つけて君を守護し奉る。
 仇(工藤祐経)の館は八千八流れなり(遥かはずれに有り)、馬は築地(土塀)人(間)は乱杭(馬と人とで立ちはだかり障害物と成り)、(たとえ、)鬼万国の鬼王と羅千国の羅王、鬼を搦(から)めし白駝(はくた、古代インドの)王、(渡辺の)綱、(坂田の)公時(きんとき)、養由(中国の弓の名人)、(坂上の)田村(麻呂)、(藤原)利仁(鎮守府将軍)、余五将軍(武勇伝の多い平維茂)、(外面から内面の)二相を悟る人なりと(鋭い洞察力の持ち主であっても)、たやすくこの陣で親の仇を討ってやすやすと出でん事、思いもよらぬ事なれど。
 和殿(おまえ五郎時宗)と某(それがし私十郎祐成)が心一つであらふぞ(心の持ち方次第であろうぞ)と、弁舌は足らふつ(よどみなく巧みで)言葉に花を咲かせ、二時(ふたとき)ばかり物語奥ゆかしうぞ聞こえけり(仇工藤祐経の館等の話を興味深く話した)。

11 故郷への遺言
 弟時宗承って、大息ついて聞きいたり、さては案内曇りなし(それで仇工藤祐経の館の中の詳細がはっきり分った)、夜更けば思い立つべし、宵の程の慰みに文どもを書きしたため故郷へ言伝(ことづて)ん。
 もっとも然るべしとて、矢立(硯)、巻物取出し油火すごく掻き立て(明るくし)、有りし昔の思いより、今の憂き身の果てまでを細かにこそは書かれけれ、(兄)十郎(祐成)殿は、ともすれば大磯の(長者の娘)虎(御前の)が名残りを書かれけり。
 (弟)五郎(時宗の)が筆の遊(すさ)みには、(稚児の時に預けられた)箱根の別当の御事、さてその外はいずれも同じ文章なり。
 (弟)五郎(時宗の)が喜び申しけるは、不思議に最後の時、大方殿(母様)に参り不孝許され申す、父母孝養の命をば、富士の裾野に捨て置きぬ。骨を野外に埋めども、名を万天(世の中全て)に上げる事、父が子たれば取り伝ふ(え)、家引き起こす弓矢の名。
 竜門に骨は朽ちながら家門の名を埋めまず、金玉の声は、三十軸、遠島まで曇りなし(竜門山の塚原に骨は朽ちてしまっても伊東の家の名は埋もれることなく三十軸の詩の金玉の響きのように遠島まで明らかである)。
 密かにこれを惟(おもんみ)る(よく考えてみる)に、刀を握り剣を帯びし弓馬の道に携わり、戦場に出でて命を捨つ(捨てる)、これ後名の為なりき、ほぼ終年の嘆きには(一生涯の嘆き悲しみと言えば)、悲しみを三五の時是を受け(父と死別の悲しみを三歳と五歳に味わい以後)、十八歳の愁嘆は(十八年間の嘆きの歳月は)ただ二人のみ嘆きあり。
 年たけ月日去って後、時に建久四年五月の末の八つ(二十八日)の夜の天(空)は暗しと申せども、思いは今夜晴れるなり祐成、判、時宗、判と書き留め。
 次第の(それぞれの)形見を取り集め、筆を捨ててぞ泣きいたり。

12 忠実な郎党との別れ
 (兄)祐成には鬼王丸、(弟)時宗には道三郎とて、二人の者を召され、文をば御(母)上へ参らせよ。
 弓、靫(うつぼ、矢入れ)をば曾我殿(養父曾我太郎祐信)へ、鞭(むち)と弓懸をば二の宮(太郎義実に嫁いだ)の姉御前の御方へ、膚の守りと鬢の髪をば箱根の別当の御方へ、馬と鞍をば和殿ばら(貴方達)、恩無い(何の手当てもくれなかった)主(人)の形見ぞと思いい出さん折々は、念仏申して得さすべし(念仏を唱えながら形見を受け取ってくれ)。
 わざと文には書かぬぞ(が)、御(母)上にて申すべき事は、給わる御小袖参らせたくは候えども、最後に着て死なんため参らせず候、その恐れ是多し。
 さは言いながら、御小袖を身にまといて死なん事、生きての面目死しての名、只最後に母上を拝み申す心地してと、かように着て出ずると語り申せ、と言いながら又はらはらと泣きいたり。
 鬼王(丸)も道三郎も、涙にくれて御返事を申しかねたるばかりなり、さのみ涙にむせびても憚(はばか)り多き事なれば(それほど涙にむせんでいても畏れ多く失礼なので)、笏(しゃく)取り直し申しよう(威儀を正し改まった態度で言うには)。
 いづくにて、いか程見貶(おと)され参らせて、かかる御諚の候ぞや(どんな理由でこんなに我々をお見下しになってこのようなお言葉を下さるのですか)
 兄弟の人々のあれほど多き(中で)、仇討たんと出で立ち給うところに、ただ二人ある下人が見捨てて帰る法や候(見捨てて帰られましょうか)、恨めしい殿の御諚かな。
 たとえば、仰せに従い形見の物を賜わりて曾我(の)故郷に下りつつ(帰って)、初めて人を頼むとも(改めて人に仕えても)、譜代の主(代々仕えた主人)を見捨てて死なぬ程の言い甲斐なし(一緒に死なないような臆病者)は何の用に立たんとて誰やの人か目をかけん(誰が目を掛けてくれようか)。
 例え入道仕り世を厭(いと)う身となりたりと(出家して世を厭う身と成りとも)、恩を知らぬ奴ばらが道心如何有るべきと後ろ指を指さるるならば(主の恩義を感じない奴らの信仰心など、どれほどの事が有ろうかと陰で非難されるならば)、出家しても面目有るまじい(出家したところで人に合せる顔もありますまい)。
 上臈(貴人)も下臈も死ぬべき時に死なねば、生き甲斐は更に候わず、いかにや殿、
 鬼王丸例え夜討ちのお供をば申さずとも、臆病至極の冠者(召使)ばらが腹切る様を見せ申さんに、ここへ寄れやと言うままに、大肌脱ぎに肌脱いで(着物の上半分もろはだ脱いで)腰の刀を引き抜いて差し違えんとぞしたりける。
 (兄)祐成も(弟)時宗も慌てて中に割って入り、二人を左右に押し退け、おう(待て)思い切りたり汝等、されば栴檀(せんだん)の林は荊棘(けいぎょく、いばら)まで香ばしく(香木である栴檀の林ではいばらまで香ばしくなり)、王地の砂子(いさご)は皆金玉と成る風情(立派な王の治める土地の砂は黄金宝石となるように、優れた者のよい影響を周囲の者が受けるたとえ)。
 我ら(兄弟)が思い切りければ、汝らも思い切りけるぞや、見貶(おと、下)す事は亡きぞとよ、心ざしにただ下れ(我々の切ない思いに免じて何も言わずに下ってくれ)。
 国へ形見を届けずは(届けなかったら)、時の椿事(ちんじ)一旦の口論にも死したりと(不慮の事故で争い死んだのだと)人も思い、母上の思し召されん口惜しさに態(わざと)下すぞ、ただ下(ってく)れ。
 例え味方に千騎万騎有りと言うとも(言えども)この富士野にては思いもよらず、ただ一人なりとも(になってでも)忍び入らば討ち得なん。人、数多にて(あまたにて、多いからと言って)叶うまじ。
 早とくとくと(下れと)仰せければ、飽かぬは君の御諚(無理難題でも聞かねばならない主人の命令)とて、形見と文を給わり主無き駒の口を引き行かんとすれば五月闇涙にくれて道見えず(ただでさえ五月雨が降って暗いのに涙にくれて道が全く見えない)。
 思い(物思いする)駿河の富士の嶺の(たなびく)煙は空に(広がり)横折れて(主人との間を)隔ての雲と成りにけり。
 裾野の草は露茂く、まだ秋ならぬ道の辺に蛍かすかに飛び連れて(主人と別れた我々の)身より思いの余りに(その火で)虫さえ胸や焦がすらん(焦しているのだろう)。
 いとど涙の多かるに(いよいよ涙があふれるのに)、何と蛙の泣き添いて(どう云う事か蛙まで鳴き声を合わせ)、井出の屋形(頼朝が狩場の宿を儲けた場所)を別るらん。
 馬も(故郷を想う)心があればこそ北風に嘶(いば)ひけめ(うな鳴き声を上げる)、実に心なき畜類も馴るれば慕う習いあり、ましてや言わん人倫(人間)に(故郷を恋う気持ち)形に影の添う如く譜代相伝召し仕え(先祖代々主家に仕え)明くれば(明ければ)鬼王(丸)、暮るればまた道三郎と召し使われ申せしが、今夜離れて明日よりも(兄の名)祐成とも(弟の名)時宗とも誰をか申して慰むべき。
 同じ憂き世に生まるると曾我の十郎(祐成)、時宗の、その殿人でなかりせば、かほどに物は思うまじ、我らばかりと思えども、昔を伝えて聞く時は。
 悉逹太子(しだらたいし、釈迦の出家前)は十九にて王宮を忍び出で、(インドの)壇特山の法霊、阿羅羅仙人を師と頼み御出家ならせ給いし時、玉の冠、石の帯(玉の飾りのついた帯)、御衣もろともに脱ぎ捨てて、金札(国王の勅書)を書き添えて、こんでい駒(金泥と言う名の馬)諸共に、王宮へ返し給いけり。
 こんでい駒(金泥駒、出家前の釈迦が、出家のため王宮を去るときに乗った白い馬の名馬)も車匿(しゃにく、馬の付人も)、君の別れを悲しみて、山谷に嘶い(いななき)、悲涙涕泣せし事も、今の我らに相同じ。
 それは仏の済度にて(仏が衆生を涅槃へ救う事)、(次の世で)遂には巡り会い給う、かの祐成や時宗(兄弟)に今宵離れて明日よりも又も会うべき君ならず、名残惜しどもなかなかに申すも愚かなりけり。

13 仇工藤祐経、寝所を変える
 (曽我)兄弟の人々、あら嬉しやこの者(召使)共、今ははや富士の原をば過ぎぬらん(見送った)、いざや最後の出立(準備)せん。
 もっとも然るべしとて、(兄)祐成のその夜の装束、肌には御(母)上より給わったる小袖(左前に)引つ違え着るままに、上は群千鳥(模様)の直垂、下は紺の袴の稜(そば)高らかに(股立ちを上に上げ帯に)さし挟み、(弟時宗が稚児の時預けられた箱根の)別当よりも給わったる黒鞘巻きの刀を差し、三尺五寸の赤銅作りの太刀を佩(は)いて、薪(割木松)の松明一尺二寸に束ねたるを弓手(左手)の脇に掻い込んで、火は持ったるか時宗とて、先に進んで出でられたり。
 弟時宗が(の)その夜の装束、これも肌には御(母)上よりも給いたる小袖(左前に)引つ違え着るままに、上には貲布(さいみ、織り目の粗い麻布)に墨絵に(で胡)蝶を三つ二つ所々に付けさせ、下は紺の袴の稜(そば)高らかに(股立ちを上に上げ帯に)さし挟み、(稚児の時工藤祐経から貰った)赤木の柄(つか)の刀を差し、(稚児の時預けられた箱根の)別当より給わったる二尺七寸の(銀の)兵庫鎖の(付いた)太刀佩(は)いて、(竹)筒(に炭を籠めた)の火持って出でにける。
 忍びて仇を狙う夜は暗きに及(し)くはあらねども、辻々の篝火は天をも照らすばかりにて、草の下なる細道までも隠るべき様あらざれば、ただ日中の如くなり。
 されども舎人(とねり、雑役が)草刈り馬飼う体にもてなし(馬に餌をやる風をして)、館々の前を通り過ぎる、怪しや誰ぞと咎がむれば、これは御内の草刈りなりと答え、御寮(頼朝様)の仮屋の御所中へ忍び入るこそ危なけれ。
 殊(特)によっく静まりて人気も更にせざりけり、おう、心憎しいぶせし(怪しく気がかりだ)、用心は誰(で)もこうこそする物をや、定めて人の待つらんに(恐らく相手も待ち構えているだろう)。
 咎め(られれ)ばやがて乱れ入って、目貫を限りに(刀の目貫が折れるまで)討ち合うべし、それまでは忍べとて、松明に火をつけて静かに振って見たりければ、あら何ともなや(ああどうにもならない仇工藤祐経は)館を変えてここに寝ず(場所を変えここには居ない)。
 総じて(全く)人を置かざれば(警護の者もいなく)、二人ながら(で)あきれ果て、さて如何になりなん(一体どうなっているのだろう)、弓手(左の方)はやがて御所なり(すぐ御所の館になる)、馬手(右の方)は秩父(畠山重忠)、前は和田(義盛)、後ろの陣は横山。
 警固の武士は篝(火)焚き矢先を揃え盾を突き(立て)、御用心と呼ばわるは只鳴る神の如くなり、運が尽きて覚られ、仇(は)館を変えにけり、兄弟の人々(は)羽抜けの鳥の中空に立ち煩(わずら)うぞ哀れなる(羽根の抜けた鳥が飛び立てないように、途方に暮れ立ち尽くす姿は哀れである)。

14 本田親経、兄弟を案内する
 かかりける所に、腹巻(鎧)着た男の長刀持つて寄りければ(寄ってきて)、兄弟の人々あわ敵ぞと思い太刀抜き掛り合う、されどこの男太刀取りも直さずし、小声になって言う様は、いや苦しゅうも候はず秩父殿(畠山重忠)の後見本田の次郎親経と申す者にて候。
 昨日狩場の庭の言い捨て(連歌)の弓矢(武士)の情け問わんため(で様子を見舞うため、この)本田をい出し立てられて候(遣わしました)、宵までは(工藤)祐経此の館に候いしが(居りましたが神官の)王藤内に諌められ、御所(頼朝様)の左の妻戸の脇に宿して候、まず松明をも踏みしめし(踏み消し)太刀をも鞘に納めよ。
 誰ぞと問うと(問われた時は)物言うな(黙っていて下さい)、(この本田次郎)親経に言わせよ、こちへこちへと手をぞ引く、嬉しさ類(たぐい)限りなし。
 (頼朝館の南庭に通じる)中門、(二つの建物をつなぐ)渡り廊下、馬の前を行き過ぎ、怪しや誰ぞと咎むれば、秩父殿の後見、本田の次郎親経、(見張り)日番なりと言いければ、さらに咎める人は無し。
 和田(義盛)の手の人々、(主人の)義盛(から)かねて「今夜はひそかなれ(騒がず静かにして居ろ)」と示され、人をもさらに咎めず。
 御舅北条(時政)殿、五郎(時宗の)が烏帽子親なれば、色かねて覚り(夜討ちの気配を以前から察していて)、何事ありと(あっても)今夜は左右なく(勝手に)走り出ずるなと忍び忍びに触れらるる。
 心得たる館には東西ひっそ(り)としたりけり(実は畠山重忠・和田義盛・北条時政らがひそかに仇討ちが成功するよう手配していた)。
 かくはすれども(しかし)外様(他門)の者、何事も有れかし(事件が起これば)時の高名仕り御感に罷り預からん(手柄を立てて主君のお褒めに預かろう)なんどと思う者共、入れ違いて廻れど(なったとしても)、されども本田(次郎親経に)付き添い引き回し通れば、更に子細は無かりけり(問題なかった)。
 (仇工藤)祐経が臥したりし(寝所の)妻戸(両開き板戸)の脇へ教え入れ(案内し)、「人数に親経も御伴せん(味方の頭数として私も御伴しましょう)」と申す。
 (兄)祐成聞し召されて、誠の時の心ざし、秩父殿の御芳志、本田殿の御情けとかう申すに及ばれず(何とも申し上げようがない程有難い)、もしもこの事しおふせて雑兵の手に掛からん時御手に掛け(打たれそうな時、貴方に殺していただき)、亡き跡を取り隠して賜らば(死体を隠していただければ)最期の供には勝りなん(夜討ちの味方に勝る事です)。
 人数多にて叶うまじ(夜討ちは多人数では成功しないでしょう)、早とくとくと(さあさあお帰り下さい)と仰せければ。
 実に実にこれも言われたり(おっしゃるとおり)とて本田は、早帰りぬ。
 互いに取り伝えたる弓矢の情けここまでと、(兄弟)二人、目と目を見合わせて、風はいつも吹けども今宵の風ぞ身に染みる、名残りはいつも惜しけれど今夜ことさら惜しきなり、一日が間に一千歳を経るとは言うも万年が其の内にも、兄弟となる事難かるべし、七度契りて兄と成り六度睦びて弟となる(兄弟の縁は何代も遠く前世からの深い因縁によって成り立っている)。
 今夜離れてその後に未来の契り定め無し、未だ仇に会わぬ間に別れの姿よく見ん、父(の)幽霊が見たくば(兄)祐成を見給へや、母高相(気高い顔立ち)と思いて(弟)時宗を見んとて、松明ぱっと振り立てて、互いに顔を見合わせて、もろきは今の涙なり。

15 首尾よく宿敵工藤祐経を討つ
 かかりける処に、風も吹かぬに妻戸がきりきりぱっと開いた、兄弟の人々、あわ仇ぞと思い左右の脇に引つ添いて(引き隠れそっと)澄まいて物を見れりければ女にてこそ候いけれ。
 誰なるらんと思いしに、大磯の虎(御前、十郎祐成の恋人の)が妹に(黄瀬川の)亀鶴と申して十六歳、(頼朝と結縁の侍)宍戸の安芸の四郎殿に最愛(寵愛)せられ申し御所内に在りけるが、曾我殿原(殿方)の夜討ちの由を夢ばかりほの聞き(ほんのわずか噂に聞いて)もしさもあらば(その時には)、妻戸の掛金(錠)はずさんために、(王藤内の相手をして)宵よりも待つこそ久しく候いつれ(待っていました)。
 のうこなたへ(さあ、こちらへ)入らせ給えとて掻き消すように失せにけり(いなくなる)、妻戸は開いつ人は無し。
 さらば松明を立てよとて、松明に火をつけ静に振ってみたりければ、郎党どもは恐れて寄りも付かざる座敷に、(神官の)王藤内と(仇工藤)祐経ただ二人(が)宿したり(眠っていた)。
 (兄)祐成御覧じて、敵を見るに二人、我らも兄弟なれば(二人)、御辺(お前)は側に伏したる王藤内を切れ、某(それがし、私)は(仇工藤)祐経を切べしとこそ仰せけれ。
 (弟)時宗承って、こ(れ)は口惜しき御諚(残念な言いよう)かな、五つや三つの年よりも十八年間心を尽くし、狙いたる親の仇をばさて置きて行方も知らぬ(素姓も知らぬ)やせ男を切っては、何の曲有りべき(やさ男を切っても何の意味がありましょうか)
 惣領にてましませば(嫡男として)一の太刀を遊ばせ、二の太刀においてはそれがし仕らんと申す。
 (兄)祐成聞し召されて、おう思い誤って候、ただし(しかし)、寝入りたる者を切るは死人を斬るに似たるべし(のと同じ)、あったら(せっかくの事だから)親の仇の生顔見て(から)いざ斬らん。
 もっとも然るべしとて、兄弟の人々が太刀を逆手に取り直し、跡(足元)や枕(元)に近寄って申しける事こそ哀れなリ。
 三千年に一度花咲き実のなる西王母の園の桃、桃花の節句、優雲華(うどんげ、千年に一度現れると言う珍しい物のたとえ)。
 ((中国で不老不死の薬があるのは、東の蓬莱山と西の崑崙山(こんろんさん)で、崑崙山の主人西の王母(西王母)は、不老不死の薬や三千年に一度しか実を結ばない桃園を持つとという伝説。また優雲華(うどんげ)とは、インドの想像上の植物で三千年に一度その花の咲く時は古代インドの伝説上の理想的国王の転輪聖王が出現するという、きわめてまれな事のたとえをいう))
 親の仇に会うは稀(まれ)なリと言えども思えば易(やす)かりける(簡単)ぞや、いかにや(工藤祐経)殿、祐成、大事の敵を持つ者がかく不覚に見ゆるか(このように油断した寝姿を見せて良いものか)。
 起き合いて尋常に死ね、(立聞きするに、王藤内に真意を聞かれ河津三郎を殺したことを認め念仏唱えていた時の)宵の念仏の一念は、ただ今の十念か、申されよ聴聞せん、王藤内がさかしら(差し出口で言った事を)今こそする所よ(今まさに実行するのだ)、起き合うへやつと言うままに歩みの板(床板)をとうど踏む。
 (工藤)祐経が最後もよかりけり、さ知ったり(心得た)と言うままに、驚き様(目覚めると同時)に枕(元)なる太刀をつ取りずばと抜き、起きんとしけね所を、「祐成これにありや」とて持って開いて(後ろに引いて構えて)ちょうど(強く)打つ、弓手の(仇の左)肩から馬手(右)の乳の下へはらりづんと切った。
 「時宗これにありや」とて持って開いて(後ろに引いて構えて)ちょうど(強く)打つ、腰の番(つがい、関節)を切り放す、(弟)五郎(時宗の)が太刀は剣(諸刃)にて、畳三畳裏返し(切り開き床に届くほどの鋭く)歩みの板に切りつけ「えいやつ」と言うて引く間に、(十郎)祐成(も)又はたと切る。
 (弟)時宗鍔を返して取って直してちょうど(強く)打つ、「せめて切って慰め日頃の念や晴るる」と踊り上がり跳び上がり、三刀づつ切る程に、果報いみじき(並々でない幸せ者工藤)祐経も空しくなって果てにけり。
 側に臥したる王藤内、太刀(振る)風に目を覚まし、かっぱと起きて逃げけるが、逃げばただも逃げもせで(逃げるにしても只では逃げないで)「夜討ちは曾我の殿原(殿方)、明日の所見(現場検証の証人)王藤内」とののしって揉みに揉んで逃げにけり。
 (兄)祐成御覧じ、憎いやつが只今の言葉かな、逃げば逃がさんと思いしに、所見(現場証人)と言うが憎げに、人と契るはそはないぞ(人と信義を結ぶと言うのはそんなものではないぞ、工藤祐経と)供に連れて、獄卒の呵責の責めの所見に罷り立て(地獄の責めの証人として冥途へ行け)と宣いて。
 (兄十郎)祐成の太刀にて高股(たかもも、股の上を)切って落とされ、のっけに返す(仰向けに倒れる)所を、「時宗これに在りや」とて持って開いて(後ろに引いて構えて)ちょうど打つ細首宙に討ち落とす。
 一昨日、(王藤内は所領を)安堵賜わり、詮ない人に語らはれ(工藤祐経の仲介で御家人となれた事に謝意を表すため、帰途中に引替えし立ち寄り)、非業の(まきぞえに合い)死をしたりし(備前岡山県吉備津彦神社の神官の) 王藤内が最期をば、貴賤上下押し並べ憎まぬ者はなかりけり。

《参考》
◎ 1592年山科言經の日記「言經日記」本では、3月5日の項に「江戸大納言殿(徳川家康)罷向了…夕食後幸若三人参り舞う。その舞は新曲・夜討曽我等が舞われ戌の刻(午後八時ごろ)に幸若太夫が帰った」と記録されている。
この続きは曽我物語⑦「十番切」で


「幸若舞の歴史」


「幸若舞(年表)と徳川家康・織田信長」

幸若舞曲(幸若太夫が舞い語った物語の内容)一覧を下記(舞本写真をクリック)のリンク先で紹介中!
幸若舞曲本 - 小.jpg 越前幸若舞
桃井直常(太平記の武将)1307-1367