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1 五郎時宗、工藤祐経に止めを刺す
建久四(1193)年五月二十八日の夜半ばかりの事なるに、曽我兄弟の人々は、親の仇(工藤)祐経を思いのままに討ちおふせ(今、仇討し積年の恨みを晴らすことができ)、小柴(低く細い雑木)の陰へざっと引き(隠れ)しばらく息をつぐ(息をひそめていた)。
(兄)祐成が仰せけるようは、本望をば遂げつ(たので)、いざや、ここにて腹切らん(と言うと、弟)時宗承って、御諚(お言葉)もっともにて候へども、とても(どうせのことなら)御寮(源頼朝様)は祖父伊東(入道祐親)の敵なれば、簾中(奥にある頼朝の寝所)へ乱れ入り頼朝を一刀恨み申し、名を後代にあぐべきなり(あげ、残すべきと答える)。
((伊東入道祐親は、流人時代の頼朝が自分の娘との間に設けた男子を殺害した、後に頼朝が力を持つと追われる身と成り自害して果てた))
(兄)祐成聞し召され、実に実にこれも言われたり(よくぞ言った)、さりながら(仇工藤)祐経に止めを刺してありけるか(確認したのか)
(聞かれた)時宗承って、あれほどになす上(入念に殺したのだから)何の子細の候べきか(問題もないと答えるが)。
(兄)祐成聞し召されて、それはさもなし(それがそうではないのだ)五郎殿、(夜が)明けて実験(検証)あらん時、慌てたるか(慌てていたのか)遅れたるか、あったら親の仇に止めを刺さで(せっかく不俱載天の親の仇を討ちながら)、打捨てにしたるなんどとあらん時(止めを刺さないで切捨てにしただけだったら)、屍の上の不覚たるべし(禍根を残すことになるだろう)五郎殿とありしかば。
さ(で)あらば、それに御待ち候へとて、有りし処へ(元の現場へ)立ち帰り、松明(たいまつ)を振り立てて(照らし、仇工藤)佑経を見てあれば、跡も枕も見も分けず、されども死骸を引き返し、空しき顔をつくづくと見て。
かまいて(決して)冥途黄泉まで我ら恨む事なかれ、日頃作りし罪科(とが)の只今報うと思うべし、我等が父の河津(三郎祐泰)殿(の霊)に手向けんための(供えるための)名刀(名誉ある刀)なり。
さこそ尊霊河津殿、嬉しく思し召さるべき(と)言いもあへず、時宗、腰の刀をひん抜いて、小耳の根(元)に差し立て少し働くようなるを押し動かして言いけるは。
この刀と申すは、御辺(貴殿)が秘蔵せし刀、いつぞや頼朝の箱根詣での有りし時、御辺(貴殿)は時の(丁度君の)お供(衆)にて、誠やらん、この(箱根)山に河津(三郎祐泰)殿の三男に箱王丸(後の五郎時宗)の有るなるに、見参せんと呼びい出し某(それがし)に対面し。
親しきが睦ばぬは(縁者同志が疎遠なのは)愚痴のいたせる所なり(愚かな考え)、他人なれど睦べば(親しくすれば)これまた威勢たるべし(人を圧倒させる力となるのだ)、おとなしくならんまで(大人になるまで)脇差(護身用の刀)にせよとて、この刀を取出し某が(それがしの)腰に差し、早よ帰れと言いし時。
親の仇と聞くなれば他をば求むべからず、この刀にて只中を一刀(心臓を一刺し)と睨(にら)みしを、(箱王丸こと時宗を案内していた箱根権現の)小師の法師(独立前の僧)が、色を見て(殺気と見て)押し隔て、かき抱き本坊へ(連れ)帰りぬ。
さてその後にこの刀、失わず持つ事は、御辺(貴殿)は元の主なれば、返さんがそのために今まで持ちてあるぞとよ。
鉄は兼ねても知つつらん(この刀の切味は元の持主であるので知っているであろう)試み給へと言うままに、馬手(右)の小耳の下(耳許)よりも弓手(左の耳)へ通れ(貫通せよ)と三刀刺す、(抜けた)刀目が重なりて口と一つに成りにけり。
(夜)明けて実験(検証)ありし時、宵の座敷の雑言(前の夜、工藤祐経が十郎祐成に対し、父への殺害を否認し、家来になる様言いたい放題の侮辱した事)に、口を裂かれけるやと、御評定は取り取り也(実験の評価は様々であった)、されども(しかし現場に同席していた)遊女二人が始め終りを語るにぞ(事の始終を語るに)、止めにこそはなりにけり。
2 曽我兄弟の十番切
宵には晴れてありけれど(晴れていたのに)、仇討ちける其の時刻に空かき曇り、五月雨、卯の花を腐しぞ(腐らすほどに)降りに降る、辻々の篝火も一度にぱっと消えければ、東西にわかに暗うなって、落ちん(逃げのびよう)とだにも思いなば(思えば)心に任せて落ちぬべし(何処へでも思いのままに逃げのびることが出来たであろう)、されども思い切る上(ここを死に場所と覚悟を決めている以上これを人々に披露し、我を討てと名乗りを上げる)。
只今御寮(頼朝殿)の仮屋の御前にて、親の仇(工藤)祐経を討って出でる兵(つわもの)をいかなる者と思うらん、伊東(入道祐親の)が孫(で)河津(三郎祐泰の)が二人の子、十郎(祐成と五郎)時宗ここにあり。
当君(頼朝殿)の御内(みうち)に弓取り(武勇の士)は居わせぬか、など切合い(し)て討ち止め、名を後代に上げ給わぬや(名を残したい奴はおらぬか)と声々に呼ばわる。
暗さは暗し雨は降る、御陣にわかに震動し(騒がしくなり)、弓一張、太刀一振に、二人三人(が)取り付いて我人のと奪い合う、繋ぎ馬に乗りながら鞭を打つ所もある、味方同士が(で)斬り合いて敵と思う者も有り、前後不覚にひしめいて上を下へぞ返しける。
(大混乱し、これを聞き集まってきた、十人の武士が曽我兄弟に名乗りを上げ切りかかってくる)
されども、一番に、大楽の兵馬の允と名乗って、夜討ちは誰ぞ珍しや、我々が目の前にて狼藉をばせさすまじ(許さない)、手並みの程を見せんとてお声(叫び声)あげて切って出づる。
(兄十郎)祐成聞し召し、かほどに多き人中に一人名乗って出づるこそ類(たぐい)少なき弓取なれ、曾我の十郎これにあり受けてみよと言うままに、小柴(低く細い雑木)の陰よりつつと出で、持って開いて(一度下がって構えて)ちょうど打つ、弓手(左手)の腕首打落とされて言葉には似ざりけり(敵ながら名乗り程でもなく)、早御内(みうち)を指してぞ引きにける(早々と味方の陣に引っ込んだ)。
二番に、愛甲の三郎と名乗って、(弟)五郎(時宗と)にむずと渡り合い頬(ほほ)先切られて引いて入る。
三番に、御所方(頼朝側仕えの者)の黒弥五と名乗って、(兄)十郎(祐成)殿に渡り合い、肩先切られて引いて入る。
四番に、茂木(知基)殿(は、弟)五郎(時宗と)にむずと渡り合い、膝の口(膝頭)を破られて(切り裂かれ)御内(みうち)をさして引き給う。
五番の度(たび)には、伊勢の国の住人に吉田の三郎師重(が)、(兄)十郎(祐成)殿に渡り合い諸膝ながれ引いて入る(両膝を横から払い切られ引き下がる)。
六番の度には、吉川と名乗りて、(弟)五郎(時宗と)にむずと渡り合い高股を切られて引て入る。
七番には、品川と名乗りて、(兄)十郎(祐成)殿に渡り合い、馬手(右)の小脇を切られて幕の内へぞ引きにける。
八番の度には、甲斐の国の住人に市川の別当太郎忠澄が大声あげて言いけるは、夜討ちと言わんに何程の事のあるべきとお声(叫び声)を上げて切って出る。
(弟五郎)時宗これを聞き、やあ、汝は音に聞こえたる碓氷の峠なんどにて盗みこそ能なりとも(などしかできない者では)、晴れ技(晴れがましい場所で)の切り合いは、これ初めにて有らんに(初めてであろう)、手並の程を見せんとて、持って開いて(一度下がって構えて)ちょうど打つ、細首宙に打ち落とされて、朝(あした)の露とぞ消えにけり。
九番に、筑紫武者臼杵の七郎師重が、(兄)十郎(祐成)殿に渡り合、真向割られ(額の真ん中を破られ)引いて入る。
十番の度には、新田の四郎忠綱が大声あげて言いけるは、何様、東西暗ろうして物の合い色が見えぬに(区別や状況がよくわからないので)、松明出せと呼ばはったり、(兄十郎)祐成聞し召し、かほどに多き人中に松明好みを(要求)する奴に、手並みのほどを見せんとて入れ違えて切り結ぶ。
その隙に松明を我劣らじと差し出す、箙(えびら、背負矢入)、靫(うつぼ、腰付の矢筒)、蓑笠、まして傘なんどをば良き松明と火を作る、万灯会(仏前に多くの火を灯し仏供養する法会)には異ならず。
いとど勇める兵が、此の火の光に力を得、散々に切ったりけり、竜が雲を引き連れ(呼んで昇天し)、虎が風に毛をふるい(逆立てて猛然と向かってくる、中国の勇者)樊噲(はんがん)が鉾を振り、張良が勢いも是にはいかで勝るべき。
その夜、(弟)五郎(時宗)が手に懸け五十一人に手負いする、直ぐに死するは只一人別当太郎ばかりなり。
とても(どうあっても)今夜は過ごすまじ(今夜限りで討死のつもりだが)、罪作りに(人殺す殺生はいたずらに罪となるだけ)と思いて人をばさらに切り殺さず。
名字を名乗って出るをこそ十人とは記(録)されけれ、(曾我)兄弟が手に懸けて闇討ちの捨て刀(闇に紛れて向かってくる敵を、手当たり次第に討つは)数をも知らぬ所なり
3 兄十郎、忠綱に討たれる
さて、(兄十郎)祐成と(十番目に名乗りを上げた新田四郎)忠綱は、しのぎを削り、鍔(つば)を割り、切っ先よりも火焔を出し、追いつ捲きつつ(追掛けたり払いのけたり)戦へど、しばし勝負はなかりけり(勝負がつかず)。
新田(四郎忠綱)如何はしけん、十郎(祐成)の太刀を受け外し、(新田は)少し手負いて(手負い受け)これまでなり、暇申してさらばとて幕の内へ引き退く(下がって行ったが)。
(兄十郎)祐成(が)続いて追っかけ、とても今宵は過ごすまじ、雑兵(ぞうひょう)の手にかけ殺さんよりも(私を名も無い卑しい兵の手で殺さすより)、返し合わせて勝負をせよ(引き返して私と勝負せよ)忠綱とて追っかくる(追いかけた)。
取って返して切り結ぶ、少しの足立片下がり(斜面の所に)上手に成って(立ち踏んばって)十郎(祐成)殿、新田(四郎忠綱)を下へ追い下さんと走りかかって打つ太刀を、新田(四郎忠綱)さらりと受け流し、柄(つか)を突いて(突出して)裾(すそ)を薙(な)ぐ(刀で突いて足を横から切り払う)。
十郎(祐成)の馬手(めて、右)の力足(軸足)膝の口をさし下げて(膝頭から下を)づんと切って落としける、(十郎祐成は)弓手(左)の足ばかりにて(だけで)半時踊って戦うたり。
是やこの(舞楽)陵王の暮日に向かう(って)鉾の手、入日を返し(振り)一踊り。
((昔、竜吟国の竜王と還国の還王が戦争し、竜王側には吟尊と吟落の二人の超人的兄弟が付いており、負けそうになった還王は、美人の馬頭女を養女に迎え、女に目の無い吟尊を還王の婿にし裏切りさせる、弟の吟落も仕方なく還国へ、竜国を滅ぼすなら兄弟に国を譲ると約束、やがて兄弟は、忍び帰り竜王を狙うが、これを知った竜王は、注意すれば討たれる事はないが、今までの忠心に命じ命を与えるが、五体(頭頸胸手足)揃わない者は仏が受け入れない、我が亡体を乱すことなく、金山に廟を築き葬ってくれと胸の間から竜王の魂青蛇を取出し、三巻にとぐろにして吟尊に渡す、命は惜しくないが、汝らは計略を知らない事は気の毒だ後悔する事になると言い残し崩御した。遺言通り金山に廟を築き御体を埋め、還王に竜王の魂の蛇を渡すと二人の仕事は終りと、雲霞の如くの官軍で兄弟を取巻く、竜王崩御後超人的威力も薄れた兄弟は、逃げ竜王の廟の前で悲しんでいると、助けてやる、私の体を掘り起し青黄赤白に彩色された獅子に乗せ、鉾を与えよ防いでやると塚が二つに割れた、竜王の骨を接ぐが下あごの骨が足りず左膝のかわらを取って下あごの骨に差す、これを青黄赤白の獅子に乗せ鉾を与えば拍子に合わせ動きだし数限りなく敵を討つ、日も暮れかかり死者の亡骸がバラバラに離れてはと思い、高い岡に上り入日に、しばし止まれと招けば日光も哀れんで、また巳刻の位置まで戻る、これを見て、怒り怨みも静まり合戦を止めて敵は逃げた。この事は、舞楽羅陵王で舞い人が竜頭を戴き吊り顎の面をつけ金色の桴を持つ舞、左舞(林邑楽)で髪を振り乱した面は養女の姫、吟尊と吟落は、落蹲と納蘇利で右舞(高麗楽)とという伝説の舞い))
後ろを防ぎこす刀(後ろの敵を防ぎつつ、振り上げる刀)、百手(ももて)を砕き戦えど、弓手(左)の足ばかりにて(片足だけで)さの身はいかでこらうべき(どうして持ちこたえられようか)、犬居に(犬のように這いつくばって)どうと転び(寝ころび)。
辺りに(近くに弟)五郎やある(時宗は居るか、兄十郎)祐成こそ只今新田(四郎忠綱)に合て討たれ候え、同じ黄泉路と言いながら、(新田四郎)忠綱に合いて討たるれば、恨みとは更に思わず、や、御辺(おへん、おまへ)は命を全うして君(頼朝)の御前に参り我らが有様申して死ね。
早首取れや(新田四郎)忠綱、新田(四郎忠綱は兄十郎祐成の)首を討ち落とす、満ずる年は二十二、惜しまぬ者はなかりけり。
4 弟五郎時宗、生捕られる
あら無残や、(五郎)時宗、弓杖で二杖三杖程隔て、ここを先途(勝負の分かれ目)と戦しが、(兄十郎)祐成の最後の由を聞き、早打つ太刀も弱り果て、是非をも更にわきまえず(どうすればよいのか判らず)、かくては叶わじと思い(こうしては居られない)と思い、御(館)内をさして(向かって)切って入る。
ここに御所(頼朝近習の大力)の五郎丸と申して十八歳に成りけるが、薄絹取って髪に懸け(女を装し)、とある所にひっそうて(物陰に身を寄せ)今や遅しとあい待っる。
是をば知らで(五郎)時宗、妻戸をばっと蹴破って御内をさして切って入る、五郎丸やり過ごし、得たりやおう(うまくやったぞ)と言うままに、弓手すがいにむずと抱く(抱ききかかえる)。
(五郎)時宗これを見て、女と思い見損じ抱かれぬる(してしまった)と後悔す、されども殊の数にせず(何事も無かったように、五郎丸を)宙にづむと引っ立て(ぶら下げ)て七八間は走りけり。
五郎丸これを見て、叶わじとや思いけん、夜討ちをば組み止めたり(絡め取った)居り合えやつ(皆々加勢に出てこい)と叫ばはったり。
この声に従って(聞いて)折り合う者は誰々ぞ、三戸の九郎源八、須田の太郎と民部の充、我もと思いし大力七八人折り合いて、手取り足取り縄懸けて大将(頼朝)殿へ追っ立つる、あう、無念類(たぐい)はなかりけり。
さる間(あいだ)、(源)頼朝、夜討ち間近く参る由を聞し召し、御腹巻(鎧)を召され小長刀横だえ揺るぎ出でさせ給う。
ここに大友の一法師と申して九つに成りけるが、君(頼朝)の御着背長(大鎧)に縋(すが)り付き、君(頼朝)は既に征夷将軍にておわします、かかる(このような)小(さい)事なんどに(直接)御手を下させ給う事、軽々しくもや候らん(ないでしょうか)と止め申したりければ、頼朝、実にもと思し召し止まり給うところへ、案の如く、夜討(者)絡め取って庭上に引き据える。
頼朝御覧じて、おう卑しくも申したる(適切な進言をした)一法師かな、父の大伴が伝え聞(いたら)さこそ喜び申すべき(だろう)に、烏帽子子にせん(頼朝が親になって元服させよう)との給いて、大伴の左近の将監義直を召され、大隅(鹿児島)、薩摩を下さるる、時の面目、世の聞え何事かこれに勝るべき。
5 源頼朝の五郎時宗への尋問
さる間、頼朝、前の御装束を改め、広廂(ひさし、母屋の外側広縁)まで御出であり、曾我の五郎時宗とは汝が事か、さん候と申す。
親の仇(工藤)祐経を討つは道理といいながら、京、鎌倉の下り上り道の末にても討たずし、頼朝が祝の座敷に血をあえす条(人を惨殺し血を流す事は)いわれなし(無法である)。
また仇ならば(工藤)祐経一人こそ討つべきに、当番の面々に手を負わす条(傷を負わせたこと)謂れなし(無法である)、同じ罪科は限り有(同じ犯す罪、咎でも限度がある)、殺(人)盗の罪と言いながらかかる(このような)重科はためしなし(例がない)、ありのままに申せ。
(五郎)時宗承って、さん候(その通り、工藤)祐経をば京、鎌倉の下り上り道の末にて討ちたく存じて候えども、君の御覚え目出とうて、よき者を数多連れ(鞭)打つときは五十騎、百騎、打たぬ時も(鞭を持たない時でも)二十騎、三十騎には劣り申さず。
(しかも)我らは、君(頼朝公)の御不審蒙り(をかっていて)、身は独身と成り果て(仕える主君も付き従う家来も無く)、兄弟よりほか睦む者も無き間(兄弟だけの浪々の身分になり下がり)付き添い狙い廻れども折を得ざれば討ちもえず、この狩倉(狩場)の人込みを幸いと存じ紛れ入って討って候。
御諚の如く、かねては(工藤)祐経一人をこそ討たんと存じ候処に、当番の面々が、なまじいに名乗り出で、臆病(に)刀使って(びくびくしながら振り回し)逃げ足踏むが憎さに(逃げ腰なのが腹立たしいので)、脅しにそっと太刀風を負うせつるにて候(太刀を激しく振って見たのです)。
(君の)重恩をまさに蒙り、妻子を扶持し身を立て、人となる方々が夜討の入って乱るるに、誰あって(一人)君の御前に立たんと仕る(駆けつけ守護する)者は無し、外様なれども新田(四郎忠綱)と御内の五郎丸よりほか御用に立つべき者も無し。
その外の手負ども皆召し寄せて実験あれ、向う傷は多く候まじ(なく)、かほど臆病なる人々にあったらしき御所領をいたずらに賜ばんより(せっかくの良い御領知を無駄に御与えになるよりは)、我らに少し下し賜び、御芳志にあずからば(御厚意を受けたなら)これほどまでには憎まじや(憎みますまい)。
たとえば祖父伊東(入道祐親)は不忠の者にて候ほどに、子孫我等に至るまで御憎みあるは御道理、さりながら文書には「怒りを絶て、恩に報えば敵も味方となる、親子兄弟なれども欲心内に含めば(欲望が内心に在れば)外に(それが出て周囲は)敵党(敵の輩ばかりになる)」と書かれたり。
先非を悔い後々の処に従へ(以前に犯した過ちを後悔し、その後は善処したところに従え)と古人も教え置かれたり。
祖父伊東(入道祐親)は僻(ひが)事(道理や事実に合わないこと)なし、
昔、源平両家の時、天の下の諸侍、二張の弓に一筋の弦を掛け(裏切心を抱き)、昨日源氏へ引く弓を今日は又引き替えて平家へ引く輩もあり。
かように人はせしかども、伊東は心二つ(裏切)なくきれて(筋を通す人で)弓矢を取りし也、かように弓矢取る者は頼もしき弓取り(武士の道を歩んだのである)、当千(一人で千人に匹敵する価値がある)と是を名付けたり。
それ(なの)に、伊東が(の)子孫を疎(うと)み果てさせ給いて、命を継ぐべき便りもなし(生活を支える方法も無く、士官の口も無し)、籠鳥の雲を恋い(拘束されているものが自由を望み)、壺中の魚の僅かに泡に息を継ぐ(やっと水の泡で息をしている)風情にて生きて甲斐無き憂き身となる。
とても(しょせん)消ゆるべき(消える)露の(ようにはかない)身を親の仇と討死し、名を後の世に挙げんため我が君、とこそ申しけれ。
頼朝聞し召されて、さほど剛なる者が何とて五郎丸には捕られけるぞ、また仇討ってその後、内所を指して切って入り(奥の間を目指して切り込んで)、我に敵なす条謂れなし(理由がわからない)有のままに重ねて申せ。
(五郎)時宗承り、さん候(そのとおり、工藤)祐経は親の仇と申しながら、さして恨みも候わず、責め一人に帰すと申しても余りあり(国の政に関する全責任は統治者ただ一人にある)。
恨み申しても尽きせぬは君の御身に留めたり、たとえば祖父伊東(入道祐親)は不忠の者にて候えども、名(誉)にある者の(家の)子孫をいかでか(どうして根)絶やし果てんと(に出来ようか)と。
二人が中に一人召し出され、懸命後の片端に(命がけの領地の一部の領有を)安堵をなして賜ぶ(承認して賜った)ならば、たとえ(工藤)祐経討ちたくとも本領が惜しさに思い替え慰みても過ぎぬべし。
されば(そういうわけで)弓取り(武士)の命に代えて(かけて)惜しきは懸命の地の本領なり(大切に思うのは主君から知行を認められた相伝の領地である)。
それに(なのに)一つも残さず召し上げらるるのみならず、あまつさえ(あろうことか)仇(工藤)祐経に一円に下し賜び(全てことごとくお与えになり)上見ぬ鷲と(上位の者を恐れる必要のない)振る舞いしかかる恨みの数々の、その源を尋ぬるに君の御身に止めたり。
(命を頂戴するのは、工藤)祐経よりも先にぞと(まで)心をかけ申せしに(決めておりましたから)、それに(その上)、手に立つ者はなし(腕の立つ武士もまわりに居ない)、五郎丸衣被(きぬかづ)き髪ゆり下げて(変装し)居たりしを女と思い見損じて左右なく(そうなく、簡単に)取られて候ぞや(生捕にされてしまったのです)。
五郎丸だになかりせば(さえいなければ)、あっぱれ、君の御命は危(あや)うかりつるものをや(危うかった事でしょう)。
頼朝聞し召されて、あっぱれ大剛の者かな、思いの色を残さず申し上ぐる事こそ神妙なれ(心に思っていた事を隠さず全て言上したことは立派である)、ただし、親の仇討たんとて、継父(養父)曾我(太郎祐信)には知らせけるか、京の小次郎(母の前夫との子)、越後の禅師(曽我兄弟の末の弟)、二の宮(太郎義実に嫁いだ)の姉(小次郎と同じく母の前夫との子)、母には知らせざりけるか。
(五郎)時宗承って、さん候(そうです)、小次郎は本所(本家)に伺候(しこう)仕り、暇なき身にて候えば知らす(せ)る事も候わず(できず)、越後なる(に居る)禅師房は経を読み念仏申し親の後問う(死んだ親の霊を供養する)その子を殺して何にせんと存じ知らす(せ)る事も候わず(せず)、二の宮の姉婿(は)、世になき(世間から捨てられた我々)小舅と組みし(に加担し)一所懸命(大切な相伝の領地)を失わんとよも申さじと存じ(失おうとはよもや言うまいと思い)知らす(せ)る事も候わず(せず)。
母には知らせたくは候いつれど人の親の習いにて若き子供を先にたて年寄り後に長らへ物思わんと云う親の世に有らじと存じ(親より先に旅立つと)知らす(せ)る事も候わず(出来ず)、継父(養父)はなさぬ仲(血のつながりの無い間柄で)、継子継父の(は)昔より仲良き事のあらざれば(仲の良い事はないのです)知らせず(知らせていない)とこそ申しけれ。
6 五郎時宗のくどき
頼朝御涙を流させ給い(て)、今は問うべき子細も無し、早々暇取らせよと仰せ出されける処に、何処よりか来たりけん(現れた)仇(工藤祐経)の嫡子犬坊(工藤祐時の幼名)、(五郎)時宗を見つけ、声も惜しまずわっと泣き持ったる扇にて(五郎)時宗が面をちょうど打つ。
(五郎)時宗ちっとも悪びれず(少しも気おくれせず)、にっこと笑い、おう、ゆゆしくも(手ひどく打つ)犬坊かな、うらやましやな犬坊は、宵に父を討たせ(れ)今手に懸けて打つ事よ、悲しきかなや我々は五つや三つの年よりも父を汝が(の)親に打たせ(打たれ)、十八年がその間、野に伏し山を家とし心を尽くし肝を消し、十九や二十歳に余りつつ討ちたるだにも嬉しきに。
さこそ犬坊が、心も尽くさずおこのけなく(恐れもずに)打つを嬉しく思うらん、是も君の御恩ぞや和殿が(おぬしの)腕に叶うまじ、討つて腹だに居るならば(打つことで腹が収まるのならば)如何程も打てや犬坊と、顔振り上げて打たせけり。
御前に有りし人々、弓取に当座の恥辱を与える事、もったいなしと、犬坊を抱き入るる。
頼朝よりの御諚(御言葉)には、時宗が最後に(兄)祐成が首の見たくやあらんに(見たいだろうから)新田(四郎忠綱)はなきかと仰せければ、承ると申して、群(むら)千鳥の直垂に包みたれし(兄)祐成の首に、討ち損じたる太刀を添え(弟)時宗の前に置く。
あら無残や(弟五郎)時宗、今までは剛の眼を見出し悪びれざりし気色も変わり、涙を流しうつ伏しになり。
あらいたわしや早くも(死相に)変わり給いたるや、竹馬に鞭を打ちしより(乗って遊んだ子供のころから)、一つ所に起き伏し(寝起きし)、少しも見えさせ給わねば、とやあらん(どこに居るのか)かくや渡らせ給うらんと(どうなったのかと、あれこれ気をもんで)心を添えて思いしに(案じたが)
悲しきかなや今ははや、五体分別続かねば(人間として喜怒哀楽の心の働きも無く)ありしかたちも変わり果て(生前の姿ともすっかり変わり果てて)いたづら事となりにけり(何を言っても無駄になってしまったことだ)、とくして我もかくなりて、同じ道へと思いければ、包めどこぼるる涙は、庭の白州(取調べの場)も濡れぬべし。
7 五郎時宗、刑場に引かれる
その後、(五郎)時宗が太刀を取りい出し、これにて切れとの上意(頼朝殿の御命令)なり。
(五郎)時宗、この太刀を見て、あら不思議や、あの太刀は一昨年京へ上り四条町にて買取り、夕べの仇を討つ、又この太刀にてそれがしが(の)首を切られん事の不思議さよと、上らぬ(上ってもいない)京へ上りたると申すは、この太刀の出所を隠さんための言葉なり。
((五郎時宗の太刀は、箱根権現の別当から渡された物だが、昔、源頼光は発作に冒され祈祷でも治らず発熱し七転八倒の苦しみが30日も続いた、頼光の寝所に長七尺の法師が忍び入り縄で絞め殺そうとする、気付いた頼光は枕元の刀「膝切」で切りつけ駆けつけた四天王が室内を調べると屋外に血の跡が続くので追跡、北野神社の塚に着き掘ると四尺大の山蜘蛛が潜んでおり退治し鉄串に刺し河原に晒した、源頼光は「膝切」にて、蜘蛛を切りければ「蜘蛛切」と命名したと平家物語にある。その後、源氏の宝刀として源八幡太郎義家から源為義に渡り、為義は嫡男源義朝に「髭切」を、「蜘蛛切」は婿田辺の別当教真房に与えるが熊野に帰り法師の身となれば剣はいらず源義経に譲る、義経は兄頼朝との仲修復を願って祈り伊豆箱根権現に奉納寄進した「蜘蛛切」が、箱根別当から五郎時宗に手渡された刀である))
縄取り(持つの)は堀の小次郎とぞ聞こえる、頼朝よりの御諚(御言葉)には大剛一の(五郎)時宗なれば鷹が岡(たかがおかの刑場)にて切れとの上意なり、承ると申して(五郎)時宗を引っ立て鷹が岡(の刑場)へ急ぐ。
折節(その時々に)有り合う貴賤群集、ただ世の常の弓取りさえ、最後の体は面白きに、殊更(ことさら、格別に)名にし負うたる(勇猛な武士として名高い五郎)時宗なれば(の事であるから)、最後の体(てい、様子)を見ん(見届けよう)とて、(刑場へ)我先にと急ぐ。
(五郎)時宗、人の多きを見て、あら口惜しや、かほどの広座にて(これほど多くの人々が列席する場で)、縄の恥に及ぶ事よ(罪人としての縄目の恥辱を受ける事よ)。
よしよし、それも(五郎)時宗が山賊海賊をしたる身にてもあらばこそ、父母孝養のその為に付いたる縄にてあるが間、神の前にて御注連縄(しめなわ)、仏の前にて(結縁のため仏像の手などにかけて引く五色の)善の綱、経の紐とも言いつべし、心有らんず弓取りたちは、寄って手掛けて結縁せよ人々と、言うままに、いや、鷹が岡(の刑場)へぞ急ぎける。
8 五郎時宗の説法
鷹が岡(の刑場)にも着きしかば、九品(くほん、観無量寿経に説く往生先、極楽浄土)の松の下に敷皮を敷かせ、西向きに直(座)って申しけるは、幸い(五郎)時宗がこの松の下にて切られん事も、ひとえに九品の(極楽)浄土と覚(おぼ)ふるなり。
いかに、(首切役)太刀取り(人)、縄取(人)、少しの暇を得させよ、末期(まつご)の一句に、浄土(浄土教で重視する経典)の三部経(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)をあらあら説いて聞かすべし。
見聞衆(見物人)の人々も鳴りを静めて聴聞あれ、それ法花(法華経)一乗の功力(教えは真実最高の教えであり、その功徳の力)は尊し、有難き弥陀衣、正法万徳(正しい教法をよりどころにした多くの功徳)の位。
(過去・現在・未来)三世(に出現)の諸仏出世の本懐(本来の願い)は、衆生成仏(衆生を六道に迷わせないで、成仏させる事)の直道也(悟りの道を示す事である)。
経に表す時は、妙法蓮華(経)の五字に約(つづ)め、名に説く時は南無阿弥陀仏の六字に摂する(法華と弥陀一体感の立場の表明)なり。
思惟(しゆい、精神を集中する瞑想)と言つぱ座禅の異名(別称)、座禅修行の田地(境地、心の状態)に至り難き者は(ひたすら座し禅定修行で、その境地に到達することが出来ない者は) 、六字(の各号)を唱して(唱えて)極楽に往生す。
(言っては嘆く)愚痴なる凡夫に至りては、向上の(迷いから悟りの境に入れる)法門(仏の教え)也、一志(ただ一節の志し)を捧ぐるその時は、大千(ありとあらゆる)世界もここに有り、たけをうち、とうをみて悟道す(仏の教えの真髄を悟)ること分明(明らか)なり。
(中国唐代の学僧の)妙楽大師の御釈にいわく、諸教の讃ずる所、多く弥陀に在り、西方をもって先とせり、唯心(心だけが真の存在だと考える事)の弥陀(阿弥陀如来も極楽浄土も外にあるのではなく)、己身の浄土(自分の心の内に有る)なれば(人は迷い中に生きていても仏の心になれば)、本来(ここには)東西もなく、何所有南北(南北もない)と観ずべし(果てしない自由が広がっているだけである)。
それ六字の名号を集める経論は、
華厳経(万有は素晴らしい花で荘厳された毘慮遮那仏の身そのものであると説く大片広仏華厳経)にて「南」の字を作り。
(釈迦の説法の時期を華厳・阿含・方等などの五期に分けるが、その二番目の)阿含経にて「無」の字を作り。
(大乗経典の総称である)方等経にて「阿」の字を作り。
(経、般若ようするに智恵によってみれば万有は皆空であると説く)大般若にて「弥」の字を作り。
法華経(妙法蓮華経)をもって「陀」の字を、
(これら合わせ)作って、南無阿弥陀仏と申すなり。
(阿字は如来と釈迦を総じて)十万三世(の諸)仏(なり)、(弥字は)一切諸菩薩、(陀字は)八万諸聖教、皆これ阿弥陀(仏)と説く時(に)は、聴聞の老若も頭(こうべ)を地に付け、(五郎)時宗を拝まぬ人は無かりけり。
かの(五郎)時宗と申すは、幼かりける時よりも勤行(ごんぎょう)怠らず一心三観(空観・仮観・中観の三観を一念のうちに同時に観ずる)の月は無常の(心の)闇を照らし、観念の(座禅を組んで精神を集中させ観察思念の修業に年月を過ごす時)窓の前には、眉に八字の霜をたれ(八字の眉が白くなるほど長い年月がたった)。
一実中道(一乗の教えのみが絶対真実で、この一乗に対立する二乗も三乗も無い)の車(乗と同じ意味で仏の教法)は、無二無三(仏になる道はただ一つ、他に道なし、わき目もふらずにする事)の(法)門に轟き。
一乗菩提(一乗真実の悟りに立って無差別の立場を表明する時)の駒は、平等大会の園にいななく。
等覚一転(仏になる平等一如の悟りから一転した時)のほととぎすは、妙覚大乗の(不可思議無上の大悟り(妙覚)に入り衆生を救済する)峰に鳴き。
入重玄門(菩薩が仏に成る前の修行の階位で)の鶯(うぐいす)は下化衆生の(その菩薩の行をいい、この迷いの世界にあって真理をみずに惑い苦しむ者を教化し救済する時)谷にさえづる。
諸行無常の(万物はいつも流転し変化・消滅がたえない時)春の花は、是生滅法(あらゆるものは常住不変でなく生滅するのが真理である時)の風に散り、生滅滅已(生死の世界から超脱した悟りの境地時)の秋の月は寂滅為楽(寂滅の境地を本当の楽しみとする時)の雲に隠るる。
万山にふんぶんし、かくの如くとあるものを、ただ念仏を申すべしと、及ぶも及ばざりけるも、皆念仏を申しける。
これは鷹が岡(刑場)の事(集また群衆への箱根山仏道修行に励んだ五郎時宗の説法は素晴らしく皆が感じ入った)
9 五郎時宗の最期
さても君の前には、和田(義盛)・秩父(畠山重忠)・北条(時政)殿とりどり訴訟(嘆願)申されけるは、かの(五郎)時宗と申すは、大剛一の兵(つわもの)、または名にある者の子孫なれば助けも御置き候へかしと各々申されたりければ、頼朝も内々助けたく思し召される折節、三人の訴訟を嬉しく思し召し、自ら(本領)安堵の御状を遊ばし、新平の右馬の充に賜ぶ(御教書を持たす)。
さても鷹が岡(刑場)には、(五郎)時宗を敷革に直らせ、太刀取り後ろへ廻る時、新平の右馬の充、堅文(正式の御教書)を持って走り、やあその(五郎)時宗な切つそ(切ってはならぬ)、安堵の御状ここに有り、これこれ拝み候えとて(五郎)時宗が膝(ひざ)に置く。
小手の縄を許され(後ろ手に縛った縄が外され)、高らかにこそ読んだりけれ。
下す状(命令を下す書状)、相模の国の住人、曾我の五郎時宗、はやく寛宥す(既に罪を許す)、それ(罪)科を転じて忠(義)と(み)なす、信仰は人に有って(仏に深く帰依する事は人間であって)、しかも冥の知見たり(初めて成しえる事であり、そして神仏は霊威の働きによってそれを知るのである)、親に孝の深き者は天道の与えあり、是によって頼朝も憐愍(れんみん)を励まし(哀れみの心が強く起こり)、非を出し理になせリ(非をはっきりさせ、それを道理と認定した)。
天下ここに感応す、若干の弓取、刀剣をさし置き、涙袖を潤し、遠近に聞くもの悲涙肝に銘じたり。
これを更に誅罰し、死罪に成し終えんなば、箕裘(ききゅう、先祖代々の相伝してきた家業)の家絶え、弓矢の道は長く廃(すた)りなん、仰ぎてもなを余り有。
樊噲(はんかい、中国の勇者)に比べれば、(五郎)時宗は勝りたり、張良(ちょうりょう、中国の勇者)に合わすれば、高祖のなせし威勢たり、一天四海が其の内に隠れぬ剛の者なれば、先の日をかえし(誤りを入れ変え)今より後は頼朝に忠臣たるべし。
本領なれば(工藤祐経が本領としていた祖父伊東佑親の元領地)宇佐美、楠美、河津、三ヶの庄、永代安堵の御状、かくのごとく源頼朝、判、とぞ読み上げたる。
貴賤上下の見聞衆、一度にあっと感じつつ、ゆゆしの人の果報やと(すばらしい五郎時宗の幸運なリ)と喜ばざるは無かりけり。
さる程に(五郎)時宗、(将軍の御意を記した)御教書を頂き、涙を流しつつ。
あら有難たや、同じくはこの御状を舎兄(十郎)祐成諸共に拝むとだにも思いなば、いかがは嬉しかるべきに。
惣領の(十郎)祐成、今は憂き世におわせねば、(五郎)時宗一人(命を)長らへ、惣領を継ぐとも、生きたるしるし有るまじ。
ただただ、切らせ給えと申し請うてぞ、切られける。
(頼朝の深い慈愛に感謝しつつも、積年の恨みを抱いていた頼朝の傘下に入り、安堵と生きながらえるのを潔しとせず、凄惨な最期を遂げた兄に殉ずるべく、これを辞退し穀然と処刑を望み、仇を討った時に使った太刀にて斬首された)
見る人目を驚かし、聞く者もこれを感じけり、君も哀れと思し召し、かほど剛なる兵(つわもの)、上古(昔)も今も末代もためし少なき次第、荒人神に斎へ(いわへ、御霊神として祭祀せよ)」とて富士の裾野に社(やしろ)を建て、兄の宮、弟の宮と申して斎(いわ)わせ給いけるとかや。
今、当代に至るまで、親の敵(を)討つ人は、この社(やしろ)にて祈れば、たちまち叶へ給いけり。
《参考》
天正8年(1580年)閏3月13日自至十一日於下御霊幸若八郎九郎(六代義重)舞之相談月読写了。曽我十番切、次切終。閏三月十五日舞之跡、於下御霊勧進能。(兼見卿記)。
織田信長が、天皇に即位させようとしていた誠仁親王が住まいしていた、二条御所で働いていた京都吉田神社の神主吉田兼見の日記からである。