百合若大臣(全文版)

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1 百合若の誕生
 そもそも昔、我が朝に嵯峨の帝の御時、左大臣公満(きんみつ)と申して比類なき立派な家臣が一人おわします(居た)。
 しかしながら公満には御代を継ぐべき御子がなく、そこで大和の国初瀬の寺(長谷寺)に詣でして、悲願尽きせぬ観音の利生を仰ぎ(無限の慈悲心を持つ観音の御利益を得るため参詣して)三十三度の歩みを運び、子宝が授かることを祈願した。
 観音への願掛けが早くも叶ったのか、程なくして御子を授かり、しかもそれは男子であった。
 夏の半ばの若なれば、(疫病を鎮める呪力を持つ)花にもよそえて育てよとて、百合若殿と名付け申し、大切に養育された。
 七歳にて御袴をつける儀式を行い、十三にて冠を付け元服し、四位の少将と申され、十七歳にては、程なく右大臣になり、御童名にそって百合若大臣と名付け、三条壬生の大納言あきとき卿の姫君を御台所に迎えて幸せに暮らしていた。

2 蒙古の侵寇と百合若の出陣
 そも我が朝と申すは、国常立(くにのとこたちの)神よりも初めて、さて伊弉諾と伊弉冉は、彼の国に天降り二柱の神と成りて、第一に日(天照大神)を産み給う、伊勢の神明にて御座ある、その次に月を産む、高野(和歌山県丹生都比売神社)の丹生の明神月読みの御子これなり。
 その次に海を産む、摂津の国に御立ちある蛭の宮(西宮の大明神)夷三郎殿にておはします。
 その次に神を産む、出雲の国素戔嗚は大社にておわします、その外末社の部類等は皆この神の総社たり。
 神の本地を仏とは、よくも知らざる言葉かな、根本的な神こそ仏と現れて衆生を教化救済するのである。
 それはともあらばあれ、そも我が朝と申すは欲界(食欲色欲等を強く持つ世界)よりもまさしく、魔王の国となるべきを、神自ら開き仏法護持の国と成す。
 大魔王、(欲界の最上位の)他化自在天に腰を掛け、種々の方便めぐらして、いかにもして我が朝を魔王の国となさんと巧むによりて、すわわち天下に不思議多かりき。
 この度の不思議には、む国(蒙古の国)の蒙古(むくり)人が軍を起こし、四万艘の船どもに多くの蒙古人を乗せ、東夷の稜糟と魁師、飛ぶ雲と走る雲の四人が大将となり、筑紫の博多に船を寄せ攻めてきたと聞こえてきた。
 国に有りあう弓取りが防ぎ戦いけれども、彼らが放つ毒矢は降る春雨の如くにて、四方鉄火砲放ち駆け天地を動かし攻入れば、叶うべきようあらずして皆中国指して引き退く。
 そも我が朝と申すは、国は粟散辺土(栗粒のように小さい辺境の地)にて、小さしと申せ共、神代よりも伝われる三の宝これあり。
 一つには、神璽(八尺瓊勾玉)とて第六天の魔王の押し手(印判)の判これあり。
 二つには、内視所(鏡の保管場所)とて天照神の御鏡なり。
 三つには、剣宝剣とて、出雲の国簸上の山の大蛇の尾よりも取りし霊剣なり。
 これみな天下の重宝にて、代々の御代に、異国より九つの異民族国興って欺けども、神国たるによりつつ亡国となす事も無し。
 今も天照大神の五十鈴川の末尽きず(流れが続いていて)伊勢へ奉幣奉り、内侍所の御託宣で、討手を遣わすべしとて全国の神祇に祈願の幣を奉り、臨時の御神楽参らせ給いけり。
その中にとっても内侍所の御託宣は、かたじけのうぞ聞こえける、七つにならせ給いし乙女の袖に託して鈴振り立て神託ある。
 蒙古が向かう日よりして天下(日本中)の神たち高天原に集会して戦評定とりどりなリ(戦略を練った)。
 しかし、蒙古軍大将稜糟(りょうそう)が諸国の国衛庁舎に放つた毒矢が、軍神である住吉の神が乗られたる神馬の足に当たり、その傷を癒している間、神の戦は延期された。
 この間に蒙古が攻めてきたが彼らの振る舞いは風前のともしび、急ぎ人間の戦いを早めよ、その大将には左大臣の嫡男百合若大臣が向かうべきなり、かの人討手に向かうならば、その時には諸神が合力して金剛力士のような力を与えよう、もしさも有りて下向せば、鉄の弓矢を持って急いで出陣しろとの神託があった。
 御父左大臣は、御子の百合若大臣を召して下向せよとの御諚なり。
 神託と申し、天子の仰せごと、父の命令なりければ、吉日を選び都出と風聞す。
 さて神託に任せて鉄の弓矢を持つべしとて鍛冶の上手を召し寄せ、一所を清め鍛冶屋と定め精魂込めて作り立てた。
 弓の長さは八尺五寸、周りは六寸二分、矢束は三尺六寸、矢数は三百六十三、根には八目の鏑を入れ、弓も矢も鉄にて引いては返すべからずと人魚の油を差し給う。
 国に有り合う弓取り皆当千の兵にて一騎も残る所はなし。
 すでに選ぶ吉日は弘仁七年庚申(813)二月八日に都を立つ。
 大臣殿の御勢は三十万騎に記さるる、その外以下の軍兵は百万余騎とぞ聞こえける。

3 蒙古軍の退却
 都を立ちて其の日は石清水八幡宮の御前に陣を取り、明くれば摂津の国難波潟昆陽野(現伊丹市)に陣を取り給う。
 さる程に王城(帝都)の鎮守を始め奉り、衣冠を脱ぎ替え鎧を召し清らかで美しい色の上には夜叉羅神の形を表し雲に乗り霞に乗り、一つは国家を守らんため又氏子を守護せん為我氏子わが氏子、形に影の添う如く先に立ってぞ守らるる。
 さて神々の加護によって神風が吹き、筑紫に陣取る蒙古軍は、この由を承って、今度はまずまず引けやとて四万艘に取り乗りて蒙古国に退却した。
 さてこそ天下も穏やかに国も目出度くおわしけれ。
 大臣殿は、この由奏聞申されたりければ、内よりの宣旨には大臣のこの度の恩賞は筑紫の国司を取らするぞ急いでまかり下れとの宣旨なり。
 大臣殿は九国に住まんもの憂さに辞退申されけれども、国の守りの為なれば住まなければならないと重ねての勅使に力及ばず御台所と共に急ぎ筑紫に下り、豊後の国府に、さながら都に劣らず住まい給う。

4 再度蒙古追討に出陣
 また都では公卿の会議で意見は様々であった、蒙古の大将は四人と聞こえるを、せめて一人討ち取ってこそ戦に勝ちたるしるしはあるべけれ。
 九夷は超能力持ちなれば、何とか思いて引きつらん、心の内も悟り難し。
 まず高麗国へうち越え七百六十六国を責め従え、その大勢を卒し百済国を責め靡け、その後、む(蒙古)国を攻めん事何の問題も無いと詮議して、筑紫へ勢をぞ越されける。
 大臣殿も吉日を選び御出でとこそ聞こえけれ、新造の大船百余艘、従う小舟数知らず、その外浦々の漁船、高瀬船総じて船数は八万艘、蒙古は四万艘にて向かいけるに、一倍増してぞ向かわれける。
 さて大臣殿の御座船をば錦をもって飾り立て、艫舳に斎う神々六十四州の霊神たち斎垣、鳥居、榊葉雲に光を交えつつ、のろし、太鼓を奏すれば身の毛もよだつばかりなり。
 卯月半ばに大臣は早御座船に召されけり。
 御台名残を惜しみて同じ船にと宣へども、とんでもないと宣いて押しこそ止め給いけれ。
 さて船どもの艫舳には五色の幣をはぎたてて、神風涼しく吹きければ魔閻魔界も恐るべし、昔のたとえを引く時は、神功皇后の新羅を攻めさせ給いし時、神集めして向かわれしもかくやと思い知られたり。
 む(蒙古)国に陣取る蒙古ども、天の色をきっと見て二相神通の者なれば、討手の向くと悟りをなし、知こう寄せては叶うまじ、潮境へ打って出で防いでみんと詮議して四万艘の船どもに多くの蒙古取り乗り、唐と日本の潮境とくらが沖に陣を取る。
 大臣殿の御座船をも、ちくらが沖へ押し出す、彼も恐れて近づかず、互いに恐れて寄りもせで、五十余町を隔てつつ三年の春をぞ送られける。
 蒙古の大将稜糟一陣に進み出で天を響かす大音にて、我らが戦の手立てには霧を降らせる習い有り、霧降らせよと下知すれば、承ると申して、きりん(新羅)国の大将、船の舳板に突っ立ち上がって、青き息をつく、如何なる術をか構えけん霧と成りてぞ振りにける、始めは薄く振りけるが、次第次第に厚くなって月とも日とも見え分かず、虚空長夜の如くにて、一日二日にて晴れもせで百日百夜ぞ降りにける。
 さしもに猛き弓取りも、霧の迷いに悪びれて弓の上下も分らなく引くべきようこそなかりけれ、この霧ばかりに冒されて蒼葉の水屑とならん事優かりなんとぞ嘆きける。
 大臣殿は無念至極に思し召し、今ならでは、何時の時、神の力を仰ぐべきと思し召されける間、潮を結び手水とし南無天照皇太神宮その外六十余州の大小の神祇、この霧晴らしてたび給えと祈誓を申させ給いければ、あらありがたや祈誓の験はや見えて伊勢の国荻吹く嵐に霧も程なく、住吉の松吹く風も涼しくて迷いの闇も白山の雪より早く消えければ、いつしか鹿島楫取も喜びの帆をぞ上げにける。

5 苦戦の末の勝利
 大臣殿は大変喜び、さらば戦を早めんとて端船降ろさせ給い、わざと大勢は無益、思う子細のあるぞとて十八人を引き具して蒙古の船にぞかかられける。
 稜糟と魁師これを見て身の程をわきまえなくやつと、勇みつつ鉾を飛ばせ剣を投げ四方鉄(火)砲放ちかけ天地を動かし攻めけれども、大臣ちっとも御騒ぎなく蒙古の船にぞかかられける。
 船の舳先に着かせたる鉄の楯の面には般若心経、観音経、金泥にて書かれたる尊勝陀羅尼の中よりも社耶社耶毘社耶という文字が三毒(三種の煩悩)不思議の矢先となって蒙古の眼を射潰したり。
 不動の真言に唅鏝二つの文字が、剣と成って飛びかかり多くの蒙古の首を切る。
 観音経の名文に於怖畏急難という文字が、金の楯と成って蒙古の矢先を防げば、味方一騎も手も負わず。
 さてこそ諸人力を得、鎮護の合戦手を砕く、大臣殿は御覧じて、この時こそ使うべきと鉄の弓の弦音すれば雲の上まで響きあり、三百六十三筋の矢を残り少なく遊ばせば稜糟は討たれん、魁師腹切りん、飛ぶ雲と走る雲の彼ら二人は生け捕られん、その外の蒙古ども、あるいは討たれ腹を切って海へ入って死するものもあり。
 四万艘に取り乗りたる蒙古多く打たれてわずか一万艘になる。
 これ以上の殺生は罪作りと神仏に誓約させ助け本国へ戻させ給いて、日本は戦に勝ちぬとて八万艘の船内の喜び合う事限りなし。

6 別府の裏切り
 大臣殿はこのまま御帰朝有るならば目出度かるべき事どもを、この間の長陣に精力を使い果たし、後見役の別府を召して仰せけるは、いずくにか島や有る上がりて身を休めんとの御諚なり。
 別府兄弟承って端船降ろし尋ねるに、波間に一つの小島あり、玄海が島是なり、味方の船をば忍びやかに上げ参らせ、虎の皮を敷き岩の角を枕にさせ申し睡眠ならせ給う。
 大力の癖やらん寝入ったら起きない夜日三日ぞまどろみ給う。
 さる間、別府兄弟は退屈のあまり物語を始めた。
 弟の別府の臣が申しけるは、あらめでたやこの君、先度は筑紫九ヶ国を賜わらせ給い上見の鷲のように襲われる心配も無く、あまつさえこの度多くの蒙古を攻め滅ぼし給えば日本国を他の妨げなく賜わらせ給はん事の目出度さよ、人間としての幸運みなこの君のようにと申す。
 兄の別府がこれを聞き、さればこそとよ、その事よ、君は左様に富給はば我ら兄弟は元のままにて朽ち果てん事こそ口惜しけれ、いざこの君を討ち申し、主なくして御跡を知行せんと申す。
 弟がこれを聞き、あら勿体なの御巧や候、この君の御恩を天山にこうぶり人と成りし我等ぞかし、古の御恩を忘れ申す、我等が手にかけ申すならば、天命いかで逃るべき御思案有るべく候。
 兄の別府これ由聞くよりも、さては汝は君と一体よな遂にこの事漏れ聞こえなば我一人が咎たるべし。
 お前以外に敵はいないぞ、和殿と合うて死なんとて刀の柄に手を掛け飛んでかからんとする。
 弟がこれを見て、げにと左様に思し召し給わば、例えば手に懸け殺し申さずとも生きながらこの島に捨て置き申して帰るならば、所は僅かの小島にて十日ばかりも御命の何に長らえ給うべき。
 兄の別府がこれを聞き、こは面白くも申されたるものかな、さらば作用に仕らんとて、いたわしや君をば玄海が島に捨て置き申し元の船に上がり、味方の軍兵どもを近付けて申しけるは、いたわしや君は蒙古の大将稜糟の放つ矢を大鎧の合わせ目に受け止めさせ給いて候を軽い傷との期待の甲斐も無く、ついに空しく(御亡くなり)ならせ給いて候、御死骸をも陸に挙げ御台所の御目にかけたくは存じ候へども、諸神を斎いたる御座船にて有る間、いたわしながら海底に沈め申して候。
 何時までもこうしているべきではなく船出せよと下知すれば、味方の軍兵どもはひとえに夢の心地して我等劣らじと押しい出す。
 一艘二艘の船ならず総じて船数は八万艘、一度に帆を上げ梶を取れば天地も響くばかりなり。

7 孤島に残された百合若の悲劇
 この声どもに大臣は夢うち覚ませ給いて、誰かあると召さるれどお返事申す者はなし。
 一体どうしたことかと思し召し、かっぱと起きさせ給いて、辺りを御覧有ければ人一人も無かりけり、召したる船を見給えば帆を上げてこそ押しい出せ。
 さては別府が心変わりを仕るか、例えば別府こそ心変わりをするとも、などや以下の軍兵ら、我をば連れて行かぬぞや、あの船こちへと宣へども、皆船どもの音高く聞き付け申す者も無し、せめて思いの余りにや海上に飛び浸って息の続く限り泳がせ給えども、船は浮木の物なれば風に任せて早かりけり。
 力及ばず大臣は憂かりし島に又戻り、そなたばかりを見送りてあきれて立たせ給いけり。
 早離と速離の兄弟が、古、継母によって海岸波頭に捨てられ、父に発見された時白骨化していたという(観世音菩薩浄土本縁教の説話)、これに似たりと申せども、せめて其れは二人にて語り慰む方もあり、所は僅かの小島にて草木も更に無かりけり、蒼天広く遠うして月の出づべき山も無し、朝の日は海より出また夕日も海に入る。
露の身は頼みなや夜更けて聞くも波の音、岩間の宿を頼めてや、うち伏す方も濡れ勝る。
 稀にも言問うものとては波に流るる群鷗、渚の千鳥鳴く時は猶又友も恋しくて、いとど明け行く夜も長く暮れ行く日陰も遅かりけれ、露の命を草の葉に宿すべき様なけれども、なのり(ほんだわら)ぞ摘みて命を継ぎ、憂き日数をぞ送らるる、いたわししども、なかなかに申しばかりも無かりけり

8 御台所の悲劇と別府の栄
 さる間、別府兄弟は筑紫の博多へ船を寄せ喜びの帰朝と風聞す。
 豊後の国府に御座有る御台所は珍しき曲共を用意させ給い、御出遅しと待ちさせ給う所に、さはなくして別府兄弟うち連れて先ず御所様さして参る。
 御台所は御覧じて、あれはいつものように殿御到着を前もって申しに来たのであろうと、人して聞し召すべき事を遅く思し召し。
自身御簾間近く御出有りて、珍しの兄弟や何とて君は遅く見えさせ給うぞ。
 兄弟しばしご返事申さず、重ねて如何にと尋ねさせ給へば、その時兄弟涙を流す真似をして、申さんとすれば涙落つる、申さずは知ろし召さるまじ、いたわしや君は蒙古の大将稜糟と申す者と押し並べ組ませ給い二人ながら海底に沈ませ給いて、その後又も見えさせ給わねば、殿が亡くなった悲しみばかりが深くて戦に勝ちたるかいもございません。
さりながら御形見の物をば給て候と御着背長と鉄の弓御剣を添えて参らせ上ぐる。
 御台この由御覧じてこれは不思議の事どもかな、敵を組ませ給はんに何時の隙に御形見を止めて海に入り給うべきぞや、つじつまの合わない事を申すものかな。
 哀れこの者兄弟を取って押さえて拷問し召し問はばやとは思えども、はかなき女性の御事なれば、心の中の疑いとして、簾中深くはいり給い形見の物を召し集め抱きつかせ給いて激しく涙を流し悲しみ給いければ、御前中居の女房達一度にわっと泣きければよその袂に至るまで絞るばかりに哀れなリ。
 その後別府兄弟打ち連れて急ぎ都に上り喜びの帰朝と風聞す。
 天下の繁昌世の聞こえ何事かこれに勝るべきと身分上下の人々も皆騒然とどよめかれた。
然りとは申せども大臣殿御帰朝なき間天下は闇の如し、御父左大臣、御母御台所年たけ齢傾き盛りの御子に後れる事は、枯れ木に枝の無き風情つれなき命に替えばやと嘆き給えど叶わず。
 内よりの宣旨には、大臣が帰朝するならば日本国をと思いつれども討たれぬる上、力なし、誰に勧賞を行うべき、別府兄弟には筑紫の国司を取らするぞ、急ぎまかり下り後家に仕え故大臣の供養を懇ろに行えとの宣旨なり。
 別府承って、期待外れの勅命かな日本国をと思いてこそ君をば振り捨て申したれ珍しからぬ筑紫へとて叉こそ下りけるとかや。

9 別府に言い寄られた御台所の決意
 別府、道々案じけるは、さもあれ我が君の御台所は天下一の美人にてましませば、風に伝達してもらい承知なさるならそれでいい、背き給うものならば簀巻きで水中に投げ入れようと玉章(手紙)懇ろにこしらえ。
 これは都よりの御状なりとて捧げければ側近の女房取次ぎ御台所に参らせ上ぐる、御台所は都よりの御状と聞し召し、表書きさえ御覧にならず急ぎ開いて見給えば、思いの外に引替えて別府の方よりの手紙なり。
 余りの事の悲しさに二つ三つに引き裂き、かしこへがばと捨てさせ給い、生きているからいけないのだと御守刀を召し寄せ自害せんとし給えば、乳母の女房参り御守刀を奪い取り申す。
 御道理にて御座候、三条壬生の御所(実家大納言あきとき卿)よりも、必ず御迎えの参り候べし、命を全うし給えと、とかくなだめて奉り、返事をせぬ物ならば無作法な別府にてどんな企みをするかわからないと、乳母の女房が側よりも返事をする。
 三年(目からの再婚が認められている)の後の新枕、我に限らぬ事なれども、相撲草(おおばこ)も取り取りに引けばや靡く習いなり。
 結婚することはやすけれど、君のむ国へ討手に御向きの時、宇佐八幡宮に参り千部の経を書き読まんと大願を立て、七百余部は書き読みん今二百余部は書き読まず、この宿願成就の(写経の)後はどのようにでも従いましょうと書き留めて、これは御台所のお返事なりとて返す。
 使いは急ぎ立ち帰り別府殿に見せ奉る、別府開いて見奉り、あらめでたや、さては靡かせ給うべきや、宿願成就の間は如何程か有るべきと百年を暮す心地して明かし暮らし待ち居たり。
 その後御台所、数の女房たちを召し集めさせ給い、命あればこそかかる事をも聞くなれば、今も淵瀬に身を投げ姿形を見えなくしたいが、何かの縁でそよぐ心も善し悪しと君の面影の夢現に立ち添う時は又死したる人とは見え給わず、恋は祈りによって叶うものと聞く、会うまで命惜しきなり、大臣殿このまま御帰朝無きならば我も身を投げ空しくなるべし。
 投身自殺した時に御形見を山野の塵となさんより、僧に君の形見を奉じ供養していただこうとて、御手馴れの琵琶、琴、和琴、笙、ひちりき、草子の数を集め僧に奉ぜられる。
 四十二疋の名馬ども皆寺々へ引かれけり、三十二疋の鷹狩犬の絆を切って放されける、この程ありし鷹匠達をも思い思いに散らされけり、十二丁の鷹どもの足緒を解いてぞ放されける。

10 百合若の愛鷹緑丸の文使い
 十二丁のその中に緑丸と申して大鷹の有りけるが、君の名残を慕いてや立ち去る方もなかりけり。
 御台所は御覧じて、あれは君の秘蔵の緑丸なるが疲れに臨みてあればこそ羽を垂れひし伏しては居たるらめ、あれあれ女房達餌を与えて放し給えと仰せければ、承るとは申されけども、何れも皆女房たちの事なれば餌の与え方を知らずして飯を丸めて供える。
 この鷹嬉しげにこの飯をくわえ雲井遥かに飛び上がり羽打ち延べて飛びけるが大臣殿の御座有る玄海が島に飛び尽きん、飯をばとある岩の上に置き、我が身も傍なる岩に羽を休めてぞ居たりける。
 あらいたわしや、大臣殿は只水に映した影のように岩陰の住居を立ち出で、汀の方を見給えばこのほど見慣れぬ鷹一連羽を休めてぞ居たりける。
 大臣怪しく思し召し急ぎ立ち寄り見給えば、古の手馴れし緑丸なり、余りの事の嬉しさに急ぎ立ち寄り給いて、さて大臣がこの島に有とは何とて知て来たりけるぞ、げに鳥類は必ず五通(天眼通、天耳通、他心通、宿命通、神足通の超能力)有とは、これかとよ。
 さてもこれなる飯は御台所の御業かやこの飯を賜わんより、など言伝文は無きぞ、豊後に未だましますか、都へ帰り上りか、何時までも不変でないのが世の常か如何に如何にと宣えば心苦しき風情にて涙ばかりぞ浮かべける。
 大臣殿は御覧じて、今これ程の身と成りてこの飯服してあればとて、いくほど命の長らえん、鳥類なれども、あの鷹の見る所こそ恥ずかしけれ、食べないでおこうと思し召すが、さもあれ緑丸が万里の波を分け越したる志の切なきに、いでいでさらば服せんとて御手を掛けさせ給いければ、嬉しげにてこの鷹が羽を叩き爪を掻き、御膝の回りに平伏して物言わぬばかりの風情なリ。
 大臣殿は御覧じて、あら何の手段も無い緑丸、汝が見る如く木葉だにもなき島なれば思っていることを書くことが出来ない如何せんと仰せければ、この鷹嬉しげにて又雲井遥かに飛び上がる。
 大臣殿は御覧じてあら名残惜しやの緑丸と仰せければ、しばらくして緑丸いずくより楢の柏葉くわえて大臣殿に奉る。
 前漢の武帝に仕え命を受けて恟奴に赴き十九年間抑留され昭帝の時に帰還した「蘇武が故国の玉章」を雁の翼に言伝しても今こそ思い知られたれ、我も思いは劣らじと御指を食い切り木葉に物をぞ書きたる。
 ただの落ち葉なりければ、ただ歌一首書きつけて押し畳み丸めて鈴付に結いつけて、はや帰れよと有りしかば、嬉しげにてこの鷹が三日三夜と申すには豊後の御所に参りけり。

11 無残な緑丸の死
 まだ早朝の事なるに御台所は縁行道(経を誦えながら仏堂の周囲をめぐる)して御座ありしが緑丸を御覧じて、汝は虚空を翔ける者なれば至らぬ所世も有らじ、物言う者にて有るならば大臣殿の御行方をなどかは申さで有べきぞ、あら羨ましの緑丸やと仰せければ、この鷹嬉しげにて御前差してまいり鈴付を振り上げ居直りたり。
 御台不思議に思し召し詳しく見給えば木葉に血の付いたるあり、急ぎ取り上げ見給えば昔の人の伝言を歌としてかくばかり
  飛ぶ鳥の跡ばかりをば頼め君うはの空なる風の便りを
  (この鳥の運んできた筆跡だけを信用して下さい、何処から来たのかわからないような手紙ですが)
 かように詠ませ給いつつ、さてはこの世に大臣は未だ長らえ給うぞや、これこそ命の有るしるしなれ、紙無き方にてあればこそ木葉に物をば書かれたり、硯と墨筆なければこそ血にてものを書きいたれ。
 いざや硯を参らせ思いの程を詳細に書いてもらいましょうとて紫石硯、油煙の墨、紙五重に筆巻き添え御台を始め参り数々の女房達我劣らじと文を書く、取り集めたる巻物は無益な行為と思えたり。
 鈴付に結い付け、必ず今回は速く行くのだぞ緑丸と仰せければ、この鷹嬉しげにて又雲井遥かに飛び上がり羽打ち延べて飛びけるが、紫硯の習いにて潮の満干に従って時々重くなるほどに次第に引かれて下がりけり、今はと思い飛びけるが多くの文と紙どもに露含みて重くなりどんどん下へ引っ張られそのまま海に浸りて空しくなるぞ無残なる。
 島にまします大臣殿、鷹だにも今は通わねば何に慰み給うべきぞや、この鷹の又も参らぬは、もしも別府方へ漏れ聞こえ殺されてもあるやらんと、時々通う息だにも限りの色と見えさせ給う。 
 猶も命の捨てがたくて海松布、青海苔取らんとて、岩の宿を立ち出で汀の方を見給えば、波打ちかかる岩間に鳥の羽少し見ゆる。
 大臣怪しく思い急ぎ取り上げ見給えばこの程通いし御鷹なり、余りの事の悲しさに鷹を膝の上にかき乗せ、あら無残の有様やと詳しく見れば沈むのも当然、紫硯、油煙の墨、数々の文、これや女性の考えの浅はかな事、紙墨筆だに有るならばいかほども物を書くべきに硯を付けるのは何事ぞや、さてもこの鷹が鬼界島、高麗、契丹国へも行かずして又この島に揺られ来て再び物を思わする。
 必ず生を受ける者、魂と魄の二つの魂あり、魂は冥途に赴けば、魄は憂き世に有ると聞く、我も命のつづまりて今を限りの事なれば冥途の道の導をして連れて行けや緑丸、我をば誰に預けてさて何と成れと思うぞとて、この鷹に抱きつつ、彼の大臣の御嘆き御台所に見せたいと思われる。

12 御台所、宇佐八幡に願書奉納
 これは大臣殿島にて嘆き、豊後の国府に御座有る御台所の御嘆きは中々申すばかりもなし、せめて思いの余りにや宇佐の宮に参り給い、七日籠り願書を書いて籠めさせ給う。
 心から帰依している先祖の神々、もしも大臣殿目出度く喜びの帰朝をなさり再び御目に掛るならば、宇佐の造営申すべし、玉の宝殿磨き立て、黄金の扉を開き瑠璃の欄干張り巡らし、硨磲作りの擬宝珠磨き立て、庭との境に置く砂に黄金を混ぜ、壁には七宝をちりばめて、池には玉の橋をかけ、瑞垣は鸞鏡のように光り輝いて回廊と拝殿、四つの楼門の横木を玉のように磨き、屋根を軽やかに高く上げ神殿ひさしを広々とし瓔珞を結び下げ、華鬘の幡を分け紙銭幣帛獅子狛犬黄金をもって磨くべし。 
 大塔と鐘楼を如何にも高く雲の上に光を放って造るべし、四季の例祭、別の臨時祭礼花の奉仕を行い、九品の鳥居を高く立て極楽浄土を学ぶべし。
 極楽外に更に無し、諸神の所居浄土とする、神を信仰すると結果仏道に帰依することとなる方便是なり。
 神の国創世時、海底に現れた大日如来の梵字も今も絶えず新たなリ、神に御礼参りをすれば菩提の種を包むなり、そもそも神と申すは思いのままに姿を変える、正直の頭に神宿る、塵の中に交わり我等に縁を結べり、本願限りあるならば我をば漏らし給うなよ、敬って申すと書き止めてくるくるとひん巻いて神前に置き、七日七夜眠らず汚れない心で祈られる。

13 百合若、釣り人の船で生還
 誠に神の誓いにや、壱岐の浦の釣り人、釣りに沖へ出でたるが、南の風に放されて北の沖へ流れ行き大臣殿の御座有る玄海が島に吹き着くる。
 船人どもは島影に上がり大臣殿を見つけ申す、異様の生き物がいるとて、彼方此方に逃げ去って怖じて近づかず、大臣殿は御覧じて、あら口惜しや我が姿人間とは見えざりけるやとて御涙にむせび給えば。
ちっと心が剛に成り、汝は如何様なる生き者ぞと問えば、大臣嬉しく有のままに語らい、ひょっとして別府側の者であるかもしれないと思し召し、偽り仰せける。
 是は一年百合若大臣殿、む(蒙古)国へ討手に御向きの時、水夫に徴用されし者なりしが、不思議に船に乗り遅れこの島に捨てられて候、大臣殿御帰朝の後ははや三年になるかと覚えたり。
 しかるべくは御芳志に我を日本の地に着けてたべと仰せければ、船人どもこれを聞き、あら不便の次第やな、公務に従事する者にはつらい事が多い者や、他人事とは思われないので助けて戻ろうと思うが風の心を知らぬなり、我等前世の報いが良ければ順風が吹き次第船を出そう、しかしこの世の運が尽きてしまえば更に遠くへ流されるであろう、ただ果報を願え。
 大臣げにもと思し召し、潮をむすび手水を召され、あらうらめしや何とて日本の仏神は我をば捨て果て給うらん、観音経の名文に入於大海、仮使黒風、吹其船舫、飄堕羅刹、例え船舫、飄堕羅刹の国に赴くとも我一人が祈念によって本地の岸へ着けてたべと祈請申させ給えば、誠に神仏も不憫に思し召さるるか、八大竜神波風止めにわかに順風吹き来る。
 帆柱の滑車に八大竜神ことごとく面を並べ座られたり、船の舳先には不動明王の降魔の利剣を引っ提げて、金剛堅固の索の縄、悪魔を寄せじと守護せらるる、唅鏝二つの御眦、艫には広目天、増長天、伊舎那天、大光天と羅刹天、風天、水天、火天等雨風波を静めんため天上界の八大竜神や下界の竜神たちは邪心の毒を押さえ夜日三日と申すには、筑紫の博多に吹き着くる、有難しども中々に申すばかりは無かりけり。

14 百合若を預かる門脇翁の秘話
 船人申しけるは、これ程届けたる誠意に我に暫く宮使いして恩を送れと言いければ、大臣げにもと思し召し、馴れない業をし給いて恩を送らせ給いける。
 国内知れ渡る事なれば別府の臣が伝え聞く、壱岐の浦の釣人が変な者を拾い養い置くと伝え聞く、急ぎ連れて参れと御使い立つ、その頃靡かぬ草木もなし、やがて具してぞ参りける。
 別府立ち出でつくづく見て、あら興がる生き者かな鬼かと見れば鬼にてもなし、人かと見れば人にても無し、ただ餓鬼とやらんはこれかとよ、我にしばし預けよ、都に具して上り物笑いの種となさんとて押し止め門脇の翁に預けやがて扶持をぞ加えける。
 彼の門脇の翁と申すは年頃大臣殿に召し仕えし者なれども、御顔にも御足にもさながら苔の生し給い、御背も小さく色も黒く有りしに変わる御姿をいかでか見知り申すべき。
 されども情け深き夫婦にて、あら無残と痩せ衰えたる餓鬼やとて重ねて扶持をぞ加えける。
 ある夜の寝ざめに祖父が祖母に語りけるは、さても先祖伝来仕えてきた君、百合若大臣殿、む(蒙古)国へ討手に御向き有りて再びご帰朝無き間、その思いのみ深くしてむやみに年を取る事よ、さても御台所は国富の庁舎にましますよな。
 祖母これ由聞くよりも、さればこそとよ、その事よ、別府殿の御台に心を懸けさせ給い御手紙ありしかども更に靡かせ給わねば、無念至極に思し召し、此の二三日先程に満農が池に簀巻きで水中に投げ入れたと聞く、是につけても憂き命つれなく久に長らへ、かかる事をも聞くやとて泣きにける。
 大臣殿は物越しに聞し召し、あらどうしょうもない事や、今まで命の惜しかりつるも御台に会えると思う故、今は命も惜しからず、明けなば急ぎ尋ね行き満農が池に身を投げて来世までも夫婦として添い遂げたいと心に深く思いつめていた。
 その後、祖父の声として、縁起でもない、泣くなとこそ申しけれ、祖母この由聞くよりも、哀れげに世の中に心強気は男子なり祖父のようにつれないこそ主の別れも悲しまず、我等日頃の御情け只今のように思われて、いかに言えども泣こうぞと泣き居たり。
 祖父この由聞くよりも、さほど君を大事に思い申さば物語して聞かすべし、黙って聞け、恐ろしや彼の別府殿の後見の忠太は、翁の甥である、御台所の柴漬けさせ給わん事、祖父かねて承り如何せんと思い、いとし子の一人娘は御台所と同年代、御命に代わられるかと尋ねるに姫は斜めに喜んで御主の命に代わらんこそ幸いにて候へ、祖父余りの嬉しさに姫をば御台所と号して満農が池に沈め、姫が居た奥の寝室に御台所を隠し申された、形見はこれに有るぞとて祖母の手に渡しけれ。
 祖母は形見を取り持ちて、御台所を助け申すこと嘆きの中の喜びなれ、然りとは申せども人間に限らず生を受けぬる類の子を思わぬは無かりけり、三界一の尊い独尊釈迦牟尼如来だにも御子の羅醵羅尊者をば又密行と説き給う、金翅鳥は子を悲しみ修羅の悩みに嘴を立てる、夜の鶴は子を悲しみ連理の枝に宿らず、野牛仔牛を舐り野外の床に伏すと聞く、生き年生き生を受けぬる類の子を思わぬはなきものを、自分の分身に等しいたった一人の姫を主の命に替えし事恨みとは更に思わねど、あら惜しの姫やとて、大泣きし祖父も共に泣く時こそ大臣は聞し召し、今でも立ち出でて名乗ろうとしたが、ここは黙って好機を待つことにした。

15 百合若別府に復讐する
 かくてその年もうち暮れ新玉月にもなりければ、九州の役人等弓の頭を始め別府殿を祝う謝礼の公事。
 いたわしや大臣殿には御顔にも御足手にもさながら苔のむし給えば、苔丸と名付け申し矢を拾い集める役に指名した。
 大臣弓場に立たせ給い、ここにて運をきわめばやと思し召し、あそこなる殿の弓立ちの姿勢の悪さよ、ここなる殿の弓を持つ押し手が震うと散々に悪口し給う。
 別府この由聞くよりも、何時汝が弓を射習うて差し出口を言うのか、はがゆいならば一度射よ。
 大臣殿は聞し召し、射たる事は候はね共、余りに人々の射させ給えるが醜き程に申して候。
別府聞いて、それほど汝が射たことのない弓に差し出た生意気な口を利くのか、どうしても射ないというのなら、宇佐八幡も御覧あれ、人手にはまかせず直に自分が切り殺すであろう、とく射よと責めかかる。
 大臣殿は聞し召し、仰せにて候程に一矢射たくは候へども引くべき弓が候はず。
 別府聞いて、強き弓の所望か又弱き弓の所望か、同じくは強き弓の所望にて候。
 筑紫に聞こゆる強き弓を十張揃えて参らせ上ぐる、二三張押し重ねはらはらと弓折って、何れも弓が弱くして間に合わないと仰せければ、別府これを見て貴奴は曲者かな、その儀にあるならば、大臣殿に遊ばしたる鉄の弓矢を射させよとて、宇佐八幡の御宝殿に崇め置く鉄の弓矢を申し下ろし大臣殿に奉る。
 元々使い慣れたる弓なれば、庭の隅に植えられた松に押し当て、ゆらりと張って張具合を調べ、鉄の矢をつがい金剛力にて軽々と鉄弓を引いて、的には御目にかけられずし、歓楽して居たりける別府の臣に目をかけて、大音上げて仰せけるは、
 いかにや九国の在庁ら我をば誰とか思うらんいにしえ島に捨てられし百合若大臣が今、春草と萌え出でる、道理に従って私を正しく認めるか、それとも道に外れて別府を認めるか如何に如何にと有りしかば、(北九州で勢力を振るう)大友諸卿、松浦党一度にはらりと畏まり、君に従い奉る。
 別府も走り降り、降参なりとて手を合わせる、いかでか許し給うべき、松浦党に仰せ付け手を縛り上げ、懸りの松に結い付け自身立出で給いて。
 汝が舌のさえずりにて我に物を思わする、因果の程を見せんとて口の内へ御手を入れ舌を掴んで引き抜いてかしこへがばと投げ捨て、首をば七日七夜に挽首にし給えリ。
 上下万民押し並べて憎まぬ者はなかりけり、弟の別府の臣をも同じ如く罪科あるべかりしを島にて申す言葉の情け有のまま申す、されば汝をば流罪にせよとて、壱岐の浦へぞ流されける。

16 百合若の栄光
 その後、大臣殿国府の庁屋へ移らせ給う、御台この由聞し召しひとえに夢の心地して袂を顔に当てながら涙と共に出で給う、会わぬうちから涙が出るのも当然なり、会うての今の嬉しさに言葉も絶えて無かりけり、何の辛さに我が涙押ふる袖に余るらん、御台所は宇佐の宮の御宿願の由を御物語有ければ、大臣斜めに思し召し、立てさせ給う御願は数えられないほどの金銀珠玉をちりばめ給う。
 その後、大臣殿、壱岐の浦の釣り人に、尋ぬべき子細あり急ぎ参れと御使い立つ、如何なる憂き目にか会うべきと、只ひどく恐れた風情にて国府の庁屋へ参り庭上に平伏す。
 大臣殿は御覧じて、命の恩人何とて恐れをばなし給うぞ、それへそれへと仰せありて、広縁まで召し出され、嬉しい事も辛い事もどうして感じないことが有ろうかと御杯に差し添えて、壱岐と対馬両国を褒美に与えた。
 門脇の翁を召出させ給いて、筑紫九ケ国の荘政所(所領荘園の事務一切の取り仕切る機関)を賜び給う、亡くなった門脇の翁の娘のために満農が池のあたりに御寺を立ち給い一万町の寺領を寄進させ給いけるとかや。
 緑丸のために都の乾(西北)に神護寺と申し御寺を建て給いけり、鷹の為に建てたれば、さてこそ今の世までも高雄山(現京都市右京区梅ヶ畑)と申すなれ。
 大臣殿の御諚には、筑紫に住居をするならばもの憂き事もありなんと、御台所を引き具して都に上り給いけり。
網代を張った輿が十二挺、略式の輿は百余挺、大友諸卿、松浦党御伴を申さるる。
 昨日までは賤しくも苔丸と呼ばれ給いしが、今日はいつしか引き替えて七千余騎を引き具して都へ上り、父母に対面有て後、やがて参内申さるる。
 帝叡覧ましまして、如何に珍しや先度別府が上り討たれぬる由申せしを誠ぞと思いて勅使を下す事も無し。
 不思議の命長らへ二度参内する事、一眼の亀のたまさかに浮木に会う如く(めったにない幸運のたとえ)とて、日の本の征夷大将軍になさせ給うぞ有難き。さてこそ、天下泰平、国土安穏、寿命長遠なりとかや。

「幸若舞の歴史」


「幸若舞(年表)と徳川家康・織田信長」

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桃井直常(太平記の武将)1307-1367